細川ガラシャ


37年の生涯でたった一度しか教会に行けなかった細川ガラシャ

分類 伴天連 / 細川家
この巻の主な内容

  • 生涯たった一度しか教会に行けなかったガラシャ
  • 教会でガラシャに対応したのはセスペデス司祭と高井コスメ
  • 清原マリアによって洗礼を与えられガラシャとなった細川玉


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細川ガラシャという人は、戦国時代の最も敬虔なキリシタンとしてその名を知られている。しかしガラシャというのは洗礼名であり、実際にガラシャと呼ばれていたわけではない。実際の名は細川玉(珠)と言い、当時玉というのは非常に貴重なものを意味し、それをラテン語に直した言葉がグラティアで、ガラシャという洗礼名はここから取られたと言う。そして当時ガラシャの周囲にはスペイン語を話す宣教師がいたようで、スペイン語の発音グラァシァが訛りガラシャとなっていったようだ。

生涯たった一度しか教会に行けなかったガラシャ

細川玉でもなく、明智玉でもなく、ガラシャという洗礼名で名を残すほど敬虔なキリシタンであったガラシャだが、しかし教会に足を運んだのは37年の生涯のうちたった一度だけだった。それは天正15年(1587年)のイースターの祝日の正午頃だった。夫である細川忠興が九州に遠征した際、ガラシャは侍女たちと結託し、屋敷の者たちの目を盗み抜け出し、初めて大坂のカトリック教会へと足を運んだ。ガラシャが教会を訪れたのは後にも先にもただこの一度だけだった。

ガラシャがキリシタンの存在を知ったのは忠興との会話からだった。忠興は親交のあるキリシタン大名高山右近から、よくキリシタンに関する話を聞かされていた。そして忠興がその話をガラシャに聞かせているうちに、ガラシャの中のキリシタンへの関心がどんどん膨らんでいく。その強い関心が、屋敷を抜け出して教会に足を運ぶという大胆な行動を彼女に取らせたのだった。

教会でガラシャに対応したのはセスペデス司祭と高井コスメ

ガラシャは数人の侍女と教会を訪れ、名も身分も明かさずに教示を求めた。その時教会にいたのはグレゴリオ・デ・セスペデスという司祭だけだったが、どうやら彼はまだ日本語が堪能ではなかったらしく、高井コスメという人物が戻るまでガラシャには待ってもらい、コスメにガラシャへの説明を任せたらしい。コスメはこの時のガラシャを「ここまで理解力があり、ここまで日本の各宗派のことを詳しく知っている女性には今まで会ったことがない」と後に評している。ガラシャは戦国時代を代表する美女としても知られるが、それだけではなく、頭も切れる人物だったと記録されている。

ガラシャはこれまで抱いていた疑問のすべてをコスメにぶつけた。そしてコスメの話によりキリシタンへの理解をさらに深めると、ガラシャはその場で洗礼を受けたいと強く願い出る。しかしセスペデスがそれを許さなかった。その理由は、名を名乗らぬ目の前の女性はいかにも貴婦人であり、その身分がわからないうちは豊臣秀吉の側室である可能性を否めなかったからだ。天正15年と言えば秀吉がバテレン追放令を出した年で、教会としては秀吉の機嫌を損ねる行為だけは絶対に避ける必要があった。その危険を冒さないためにも、セスペデスは身分がわからないうちは洗礼を与えるべきではないと考えた。

そして何かと理由をつけて洗礼は次に教会に訪れた時にするのが一番だとコスメがガラシャを説得している最中に、ガラシャの不在に気付いた細川家の人間が教会まで探しに来て、ガラシャはそのまま輿に乗せられ連れ戻されてしまった。この時セスペデスは密かに、部下に輿の後とつけさせていた。するとその輿は細川屋敷へと入っていき、セスペデスはその報告を受けて初めて彼女が細川忠興の夫人だったと知ることになる。

清原マリアによって洗礼を与えられガラシャとなった細川玉

ガラシャは同年、細川家の17人と共に洗礼を受けた。この時洗礼を与えたのは、セスペデスの上司に当たるオルガンティーノという司祭から、洗礼を与える手順を指導された清原マリアという、ガラシャの側で尽くした細川家の侍女だった。本来であれば洗礼は司祭にしか行うことができないのだが、この時は忠興によってガラシャが屋敷に監禁状態にされていた事情もあり、細川屋敷に住みすでに洗礼を受けていたマリアが教会から派遣されるという形で、司祭の代わりにガラシャたちに代洗という形で洗礼を授けていった。

前述した通り天正15年は秀吉によってバテレン追放令が出され、司祭たちは次々と大阪を去っていくことになる。ガラシャは彼らが大阪を去る前に洗礼を受けることを強く望んだが、しかしだからと言ってオルガンティーノやセスペデスが細川屋敷に行くことも簡単ではなかった。そこでガラシャは長持ちの中に隠れて教会に行くという危険を犯そうとしたが、あまりにも危険な行動だと感じた司祭たちがそれを制止したと言う。

しかし清原マリアによってガラシャたちは屋敷から出ることなく無事洗礼を受けることができた。そしてこの日から慶長5年(1600年)までの13年間を、玉はガラシャとして、キリシタンとして生きることになっていく。しかしキリシタンになったことで彼女の運命はさらに過酷なものとなり、関ヶ原の戦いを直前に控え、ガラシャは壮絶な最期を迎えることになっていく。



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