「備中高松城」と一致するもの

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河屋城を落とすと、秀吉は備中高松城(岡山市・清水宗治が城主)に軍勢を集結させた。城の周囲を見渡すと三方が深い沼地になっており、人や馬が通れる場所はまったくなかった。そして残る一方は幾重にも大堀が構えらえており、ここは毛利家が何年もかけて普請(ふしん:築城に関する土木工事)してきた難攻不落の要塞だった。例え日本中の勢力を集めた大軍で攻めたとしても、落とせそうにはなかった。

そのため秀吉は熟考し、水攻めをすることにした。城の周囲2~3里(8~12km)に山のような堤を築き、堤の裏には木材を使って水をせき止めるための柵を作り、大河や小川の河上を辿って開鑿(かいさく:土地を切り開いて道路や運河を作ること)し、岩石を崩し、谷ノ口や水田の用水、溜水に至るまでことごとくせき止めたため、高松城の周囲はたちまち湖のようになってしまった。

そして新しく築いた堤の上に攻撃用の付城(つけじろ)をいくつか作り、さらには大きな船で連隊を組み、「乙の丸」という曲輪(城壁や堀などで仕切られた城の区画)に攻め込み、曲輪を隔てていた壁代わりの建物を次々と取り壊していった。それにより「甲の丸」という曲輪と一つに繋がってしまった。

敵兵は水深を見ながら竹や葦を糸で組み、板を並べて住まいを作ろうとした。その波に漂う陣小屋は、小舟のようにゆらゆらと揺れていた。それはまさに籠の中の鳥や、網の中の魚のような悲しい気分を味わっているようだった。

これとは別に秀吉は、1万少々の軍勢を城から5町10町(500m~1km)隔てて陣取らせ、後方の備えをさせた。すると毛利輝元、小早川隆景、吉川元春は、何とかこの高松城を救わねばと考えた。そして備中表(おもて)にて決死の覚悟で戦おうと、10ヵ国から8万余りの兵を集め、備中高山(こうざん:総社市の高山城)に続く釈迦が峰、不動岳に陣取った。彼らと秀吉との距離は1km程度しかなかったが、その間には大河があったため、すぐに攻め込むことはできず、数日の間は手をこまねいていた。

秀吉は毛利の大軍を攻めるかどうか決めかねていた。攻めれば打ち破る自信はあったが、中国地方の平定について信長に意見を伺ったところ、軽々しい戦はしないようにとのお達しが、使者とともに堀秀政、中川清秀、高山右近、池田元助(池田恒興の嫡男)らが加えられ遣わされた。

そして信長は信忠(信長の嫡男)を伴い京に入った。そして惟任日向守光秀(これとうひゅうがのかみ:明智光秀)を援軍として備中に送り、すぐに着陣し秀吉と相談しながら事に当たるようにと命じた。そしてその戦況によっては信長自らも出陣を厭わない旨をも伝えた。

惟任退治記全文掲載

ishida.gif忍城の水攻めに失敗した石田三成だが、実はこの当初、三成を悪く言う者はいなかった。徳川四天王のひとりである榊原康政も、三成と共に忍城を攻めた浅野長吉への書状で「お手柄」と書いているほどだ。やはり三成の戦下手という評価は江戸時代に恣意的に作られたものだと考えるべきだ。

備中高松城を水攻めした際に作られた堤は東南4キロに渡って築かれた。つまり備中高松城を水攻めにするには4キロの堤を作れば良かったわけであり、水攻めをするに適した弱点を持った城だった。一方の忍城を水攻めにした際約1ヵ月かけて作られた堤は28キロにも及んだ。備中高松城攻めで築いた堤の実に7倍の長さだ。これだけの堤を作るためには人員や資金ばかりではなく、大量資材や、人員のための大量の食料まで必要になる。それを手際よく用意したのが他でもない、石田三成なのだ。

土木工事も滞りなく進んだと言い、この三成の活躍を間近で見ていたのが大谷吉継、真田昌幸、真田信繁(幸村)、直江兼続、佐竹義宣、長束正家、多賀谷重経らだった。そして面白いのは彼らは皆、関ヶ原の戦いで三成に味方しているという点だ。もし忍城の水攻めの失敗が三成の戦下手や不手際によるものであれば、名だたる名将たちが果たして天下分け目の関ヶ原で三成に味方しただろうか。

大谷吉継や直江兼続のように、三成と親しかった者が味方するのならばまだわかる。しかし秀吉に表裏非興の者とまで言わせた謀将真田昌幸が、戦下手の三成に果たして味方などするだろうか。いや、しないはずだ。真田父子はこの時に三成の手際の良さや、水攻めはすべきではないという三成の冷静な判断に接していたからこそ、関ヶ原では西軍の勝利を予測し三成に味方したはずだ。そうでなければ家を守るためには手段を選ばなかった真田昌幸が三成に味方する理由はない。

忍城内では実は離反の動きも少なくなかったと言う。そのような状態であれば力攻めをすればあっという間に城は落ちたはずだ。その情報も掴んでいたからこそ水攻めにより無駄な労力や無駄な出費をすることなく、忍城を力攻めにすべきだと三成は秀吉に進言したようだ。

結果的に忍城の戦いは天正18年6月17日から始まり、7月5日に小田原城が落ち、成田氏長がそのことを忍城に伝え開城を説得し、城を守っていた成田長親(のぼうのモデル)らが説得に応じ、7月16日に開城された。

忍城水攻めの失敗により三成を責めるべきではない。三成は秀吉に命じられた無理難題を実現させ、たった1ヵ月で28キロにも及ぶ堤を完成させたのだ。三成の手際の良さと政治力がなければ決してなしえなかっただろう。それなのに三成は水攻め失敗の事実を歪曲され、戦下手として周知されるようになってしまった。

なおこの堤は「石田堤」と呼ばれ、現在では行田市から鴻巣市にかけて250メートルだけ現存している。忍城水攻めでは、三成は本来であれば賞賛されるべき功績を残しているのだ。そして秀吉自身この水攻めの段取りは三成にしかできないと思ったからこそ、「水攻めについては全面的に任せた」という書状を三成に送っているのである。


ishida.gif石田三成は戦下手としてよく知られているが、実際はそんなことはなかった。石田三成の戦下手を強調する戦として忍城(おしじょう)の戦いと関ヶ原の戦いが挙げられるわけだが、特に忍城の戦いでの失敗が三成の戦下手を有名にしてしまった。だがそう語っているのは徳川幕府が開かれたあと、江戸時代に書かれた書物なのだ。

石田三成と徳川家康は天敵同士だった。江戸時代に徳川幕府に取り入ろうとする者の多くが、三成批判を展開していた。中には三成の故郷である近江の石田村までわざわざ出向き、石田家の墓を破壊する者までいたと言う。つまり江戸時代に書かれた石田三成に関する事柄は信じてはいけないということだ。

さて、忍城の戦いというのは一般的にはそれほど有名な戦ではないが、映画『のぼうの城』と言えばピンと来る方が多いのではないだろうか。この戦は豊臣秀吉が北条氏を滅亡させた小田原征伐の一環だったわけだが、小田原城の支城であった忍城への攻撃を秀吉から任されたのが石田三成だった。ちなみに忍城とは現在の埼玉県行田市にある、関東七名城のひとつだ。

この忍城攻めを三成は、秀吉が備中高松城を攻めた時のように水攻めを行った。堤を築き周囲を水浸しにし、城を浸水させ開城を迫る戦い方だ。だが備中高松城攻めの時のように水攻めは上手くはいかなかった。堤が決壊してしまい、本来は城を攻めるはずの水が石田陣営に流れ込んでしまったのだ。この失敗により三成は戦下手であるとのちに語られるようになる。

だが事実は違う。繰り返すが三成の戦下手を流布させたのは江戸時代の語り部たちだ。実は三成は忍城は水攻めにすべきではないと秀吉に進言していた。その理由は忍城の周辺は元々湿地帯で、過去洪水が起こっても城に被害が及ぶことはほとんどなかった。なぜなら忍城は湿地帯の中心にある孤島のような丘に築かれており、例え洪水が起こったとしても城が沈むことはないのだ。実際に忍城を見てそれがわかったからこそ、三成は水攻めはすべきではないと進言したのだ。

実は三成は共に忍城を攻めた浅野長吉(秀吉の死後に長政に改名)に対し「力攻めをすべきだが、諸将は水攻めと決めかかっており戦意を失っている」という趣旨の書状を天正18年(1590年)6月12日に送っている。さらにその後7月3日には秀吉が長吉に対し「とにかく水攻めをし、水攻め以外で攻めた将は処罰す」という書状を送っている。秀吉は三成に対しても6月20日に書状を送り、堤の図面などを提出させ自ら指揮を執る姿勢を見せている。

つまり忍城水攻めは三成は反対していたのだが、秀吉が水攻めにこだわったことにより行われた攻城だったのだ。三成は始めから力攻めをして一気に方をつけべきだと言い続けていたのだ。なぜなら石田勢2万3千に対し、忍城の守勢は3千程度だったからだ。

ではなぜ秀吉はこの時水攻めにこだわったのか?それは諸大名に対するパフォーマンスだったと考えられている。水攻めというのは大量の人員と莫大な費用がかかる。秀吉はそんな水攻めを行うことにより動員力と財力を見せつけ、諸大名の反抗心を減退させようとしたのだ。要するに水攻めが成功しようが失敗しようが関係なかったのだ。秀吉は動員力と財力を見せつけられればそれで良かったのである。


toyotomi.gif天正10年(1582年)6月2日、本能寺で主織田信長が討たれたことを知ると、羽柴秀吉は逆臣明智光秀を討つために中国大返しを敢行した。この時秀吉は備中高松城の毛利氏を攻めていたのだが、本能寺での事件を知るや否や毛利との和睦を締結し、急ぎ明智攻めへと転戦していった。

だが明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』を読むと、秀吉が本能寺で事件が起こることをあらかじめ知っていたであろう証拠が並べられている。その内容はどれも納得がいくものばかりで、こうして証拠を並べられると疑う余地もない。

そもそも織田と毛利はそれほど険悪な状態ではなかったようだ。毛利に天下を狙う意志はなく、領地安堵のみを望んでいた。そのため毛利から積極的に戦を仕掛けることもなく、定説で言われているような一触即発状態ではなかった。そして和睦そのものも本能寺の変が起こる以前より下交渉を行われており、羽柴方の黒田官兵衛と毛利方の安国寺恵瓊との間ではほとんど合意に至っていたらしい。

テレビドラマや小説ではドラマティックに仕立てるため、本能寺の変が起こった後に急いで和睦交渉を行ったように描かれることがほとんどだが、しかし事実はそうではなかったようだ。下交渉が行われていたために和睦がすぐに締結し、秀吉は明智討伐へと向かうことができた。

中国大返しは、通常では考えられないようなスピードで備中高松城から姫路城まで戻ったと伝えられている。備中高松城を撤収したのは6月6日14時頃で、姫路城に着いたのは翌7日で、体勢を整えて姫路を発ったのは9日とされている。明智憲三郎氏の研究によれば、備中高松城から姫路城までは通常4日、早くても3日はかかるらしい。だが秀吉が書かせた『惟任退治記』では1日か1日半程度で姫路まで着いたと書かれている。

ではなぜ秀吉は早くても3日かかる道のりを、1日で進んだと書かせたのだろうか?それは本能寺で何かが起こることを知っていたことを、知られないためだ。秀吉が本能寺の変が起きたことを知ったのは3日夜で、そこから和睦を開始し姫路城に向かったのは6日14時頃と伝えられている。しかし6月7日に姫路に着くためには、現実的には遅くとも6月4日は備中高松城を出ていなければならないと明智憲三郎氏は言う。

つまり2日の夜に信長が討たれ、3日の夜に秀吉がそれを知り、4日には和睦を済ませ備中高松城を出たという真実が知れ渡れば、秀吉が本能寺で何かが起こることをあらかじめ知っていたと疑われる可能性が高いのだ。その事実を隠蔽するために秀吉は真実よりも2日以上遅い、6月6日14時に備中高松城を発ったと書かせたのだ。これが中国大返しの真実であり、史実は決して『惟任退治記』に書かれているように1日で姫路城に着いたわけではなかったのだ。

秀吉という男とは、現代でいうメディア操作に長けた人物だった。かんたんに言えば様々な噂を流すことにより、自らを誇張するのが得意だった。そして時を経るほどその誇張が真実として定着するようになり、秀吉伝説が作られていくことになる。中国大返しも不都合な真実を隠すために誇張し書かせたものであり、決して真実ではなかったのだ。

もしかしたら今後も歴史研究が進むことにより、『本能寺の変 431年目の真実 』のように証拠を並べ立て新たな真実が明らかにされることが増えてくるのかもしれない。そうなれば今まで常識として伝えられていた戦国時代の多くの出来事が、実は作り話だったなんてことになるのかもしれない。