真田家に積年の恨みを持ち続けた徳川家康
関ヶ原の戦いで徳川率いる東軍を相手に戦った真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いそのものには参加していなかった。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。
関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は天文13年(1585年)の第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身は昔年の恨みから真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。だが徳川家の家臣たちの多くは関ヶ原の戦い後、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。
だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることはなかった。
父弟は救えなかったが13万石の藩主となった真田信之
父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。
『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかった。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす=殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていた。
信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信は初めから真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。
ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である自分も徳川家家臣とは言え切腹するのが筋、というのが信之の信念だった。
結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまう。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかは今となっては知る由もない。
徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな最低限の葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。
真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまったわけだが、しかし真田信之の奔走もあり、真田の家が取り潰される事態だけは避けることができた。そして真田信之はその後9万5000石の上田藩の祖となった。さらにはその後松代藩に転封し、13万石を得ることになった。
1600年9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍は、徳川家康率いる東軍に一瞬のうちに敗れてしまった。この戦いで真田昌幸・信繁父子は西軍に味方し、真田信幸は東軍に付いていた。東軍諸将の目に信幸は、父親を裏切ってまで家康に味方した功労者として写っていた。事実徳川家康も父親と袂を分かってまで東軍に味方したことを労っている。
関ヶ原の戦いが終わると論功行賞で信幸は沼田・上田領9万5000石の大名に処せられた。関ヶ原以前は2万7000石だったため、所領は一気に3倍以上に膨らんだことになる。そしてこの頃、真田信幸は諱を信之と改めた。定説としては家康に忠義を誓うために父昌幸の「幸」の字を捨てたと言われている。だが本当にそうだろうか。
確かに松代藩初代藩主信之と、二代目藩主真田信政は「幸」の字を使わなかった。だが三代目藩主からは真田幸道と「幸」の字がすぐに復活しているのである。もし信之が本当に家康への忠義のために「幸」の字を捨てたのであれば、信之系譜の真田家の子孫にも「幸」の字は使わせなかったはずだ。
江戸幕府に於いて徳川家康は神として崇められていた。三代目藩主の代と言えば、まだまだ家康の威光が強く残っていた頃だ。その頃に「幸」の字が復活しているということは、これはもしかしたら家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないのではないだろうか。
逆に、父真田昌幸に対し罪悪感を覚えていたからこそ「幸」の字を使い続けることができなかったのではないだろうか。真田昌幸は豊臣秀吉から表裏比興の者と呼ばれるほど智謀に長けた、まさに戦国時代を象徴するような人物だった。一方真田信之は非常に義理堅く信義に厚い武将として知られている。つまり信之は非常に誠実な人物だったのだ。
信之のその人柄を思うならば、家康に忠義を示したというよりは、昌幸への罪悪感により「幸」の字を自身の諱から消したと考える方がしっくり行くような気がする。戦国時代で最も強い影響力を持っていたのは父親だった。子は父親に逆らうことは決して許されない時代であり、信之は真田家を守るためとは言え、その掟を破ったことになる。
その罪悪感から「幸」の字を捨て、さらには命を賭してまで父昌幸と弟信繁の赦免を大坂の陣が始まるまで求め続けたのではないだろうか。そして父と弟が九度山に幽閉されていた頃も、決して援助を絶やすことはしなかったという。
家康が時に残酷な智謀を用いることは信之もよく知っているはずだった。それでも信之は父と弟と運命を共にすることはせず、真田の家を守るために家康に味方をするという決断を下した。信義に厚い信之の人柄を思うならば、この決断はまさに断腸の思いであったはずだ。父の落胆ぶりにも心を痛めたことだろう。
真実に関しては今となっては知りようもない。だが三代目藩主から早々に「幸」の字が復活している事実を見つめれば、これは決して家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないと思えるようになる。もし本当に家康に対する忠義により「幸」の字を捨てたのであれば、松代藩を預かっている限り真田家で「幸」の字を使うことはなかったはずだ。
しかし大坂の陣を前にし、信之が心を千切る思いで捨てた「幸」の字を信繁が拾った。まる兄信之の心の痛みを背負い預かるかのように信繁最期の戦いとなった大阪の陣、信繁は真田幸村と名乗り徳川家康と戦ったのだった。敵味方となっても、家が二つに分裂しても、最後は心で真田家は一つに戻ったのである。
小野お通という人物は長い間架空の人物だとされていた。戦国時代の才女として名高い女性だったわけだが、お通という人物が実在したことを示す物証が何一つ見つかっていなかったからだ。しかし昭和に入って間もない頃、真田信之がお通が宛てた書状が発見され、初めてその実在が確認された。
実は小野お通という人物はふたり存在している。一人目は真田信之と昵懇の間柄だった初代お通。そしてもう一人は初代お通の娘であり、真田信之の次男信政の側室となった二代目お通だ。今回は一般的に良く知られる、初代お通について書き進めていきたい。なお2016年大河ドラマ『真田丸』では八木亜希子さんがお通を演じるようだ。
お通は1568年生まれという説が有力とされている。真田信之が1566年生まれであるため、ほとんど同世代ということになる。お通と信之が出会ったのは、信之が父昌幸に従い上洛した時だったと言われている。つまり1587年3月あたりだと推測され、この時信之は21歳、お通は19歳だった。
お通という人物は詩歌、書画、管弦、茶道、舞踊などに精通していたと伝えられている。当初信之はそのような文化道の教えを請うため、お通の元に通っていたようだ。だがそこから徐々にふたりの間には他者が入り込めない絆が生まれていく。
様々な文化道に精通していたお通は、淀殿(茶々、秀吉の側室)、北政所(秀吉の正室)に仕えていたという説も伝わる。正確なところは詳細な資料が残されていないため不明ではあるが、真田が上洛し秀吉に謁見した際にふたりが出会ったのだとすれば、淀殿や北政所に仕えていたという説はあながち史実からそう遠くはないのではないだろうか。
お通を信之の側室だと伝える説もあるが、晩年は離れ離れで暮らしたふたりの生活を考えれば、側室という間柄ではなかったのではないだろうか。どちらかと言えば愛人関係に近く、信之にとっては何でも話せる親友がお通だったと考えた方が自然であるように感じられる。
その根拠は、晩年信之がお通に宛てて認めた手紙の内容だ。1622年11月18日、信之はお通宛に手紙を認めている。その内容は世間話に始まり、身の回りの世話をしてくれる器量が良く美しい女性(若い側室)を2〜3人紹介して欲しい、という内容にまで至っている。この時信之は56歳、お通は54歳。
もしお通が信之の側室であったならば、お通は信之の国替え後であっても近くにいただろう。だが上田藩から松代藩へと国替えとなった後、お通が信之に従った形跡は見られず、そもそもお通はずっと上方にいた可能性も高い。そして信之が認めた手紙には「こうけん殿が存命なら」という記述があるが、こうけんという人物がお通の夫だった可能性が高いようだ。となるとやはり、夫がいる女性が側室になるという可能性は消すべきだろう。
思いの丈を素直に書き過ぎたせいだろうか、信之は手紙の最後に「読んだらこの手紙は燃やして欲しい」と書き加え文を締めている。だが信之の孫である真田信就を先祖に持つ家で、この手紙は昭和に入り発見された。ということはお通はこの手紙を燃やさずに大切に保管していたということになる。
戦国時代の女性に関する資料は、よほどの女性でなければほとんど残っていないことが普通だ。お通も同様であり、お通の実在を示すものもこの手紙のみとなる。だが信之が気取ることなく心の内をすべて打ち明けている文面を見る限り、信之とお通がよほど親密な間柄だったことが良くわかるのである。
関ヶ原の戦いで徳川家と戦った真田昌幸と真田信繁は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いには参加していないのである。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。
関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を
第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は
第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身、真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。一方徳川家の家臣たちの多くは、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。
だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることがなかったようだ。
父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。
『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかったようだ。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす:殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていたようだ。
信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信はもともと真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。
ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である信之も切腹するのが筋、というのが信之の気持ちだった。
結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまった。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかはわからない。
徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。
真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまった。
真田家と言えば幸隆、昌幸、信繁(幸村)ばかりが注目されるが、実はもう一人隠れた名将の存在がある。それは信繁の兄である真田信幸だ。真田信幸は信濃の上田藩、松代藩それぞれの初代藩主となり、真田の名を後世にまで残し続けた武将だった。関ヶ原の戦いでは父、弟と袂を別つ覚悟を決め東軍に味方した。だがこの判断が真田の名を残す結果に繋がった。
武勇伝では弟である真田信繁ほど目立った逸話は残されていない。だが真田信幸は実は、父や弟を凌ぐほどの槍働きをした武将なのである。それは天正10年(1582年)8月、つまり
本能寺の変から2ヵ月後のことだった。
本能寺の変により激動していた信濃に於いて、いよいよ北条が真田の沼田城奪取に本腰を入れた。北条はまず5000人の兵を率いて手子丸城を攻めた。手子丸城を守っていた大戸真楽斎(おおとしんらくさい)は奮闘するものの数の上で北条に圧倒され、最後は手子丸城に籠城し、自刃し果ててしまった。結局わずか3日で手子丸城は北条の手に落ちてしまった。
この時17歳の真田信幸は岩櫃城を任されていた。北条はこのまま沼田を攻めるか、その前に岩櫃城を攻めるかを悩んでいた。
すると信幸はその考えている隙を突くような見事な判断力と攻めを見せたのである。北条5000に対し信幸の軍勢は800でしかなかった。まともに戦ったのでは勝ち目はない。
信幸は唐沢玄蕃に自らの鎧を着させ出陣させた。すると北条方は唐沢玄蕃を真田信幸だと勘違いし追い駆けていく。そして追い駆けていくその横腹を狙うかのように、隠れていた信幸本隊が北条勢に攻めかかった。陣形の真横から突かれたことにより北条勢は統制を失ってしまう。
しかも信幸と勘違いし唐沢玄蕃を追い駆けて行った北条勢は戻って来られない状況になり、北条5000の大群は散り散りになってしまった。すると信幸は知り尽くした手子丸城の穴を突き手勢を手子丸城内に侵入させ、放火をさせながら「味方に裏切り者が出た!」と吹聴して回らせた。
これにより手子丸城内の北条勢はパニックに陥り、同士討ちをしてしまうほどの始末となった。北条勢の統率はまったくなくなってしまい、逃亡する者も続出した。
この時真田勢の中に、信幸と同じ年齢の一場茂右衛門という若武者がいた。彼は皆に混じって戦おうとはせず、戸口の前にずっと立っていた。そして戸を開けて北条勢が手子丸城から出てきたところを狙い、次々と斬り捨てていった。一人で17人の首を討ち取ったという。
5000の北条勢は総崩れとなってしまった。しかも相手はたった800の軍勢であり、この戦いで北条勢が破れることなど誰も想像していなかった。だが真田信幸はわずか800の軍勢のみで5000の北条勢と戦い勝利し、しかも奪われていた手子丸城をすぐに奪還して見せたのだった。この活躍には父昌幸も大いに感服したようで、信幸に対し太刀や脇差し与えたという。
なおこの戦いで北条勢として戦った富永主膳は、のちに徳川政権の奉行衆となった。そして信幸と味方同士になると、この時の手子丸城の戦いでの信幸の奮闘振りを皆に対し語って聞かせたらしい。敵だった富永主膳から見ても、この戦いでの真田信幸の采配は見事だったようだ。
真田家の中ではあまり目立たない信幸ではあるが、このように5000人の敵をわずか800人で撃退し城を奪還するなどの槍働きも見せていた。軍略家として優れていたのは父や弟だけではなかった。信幸もまた、17歳の頃から優れた軍略家としての姿を見せていたのである。
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍のあっけない勝利で終わってしまった。そして関ヶ原の戦いの前哨戦となった第二次上田合戦に於いては、西軍に属した真田昌幸・信繁(幸村)父子は勝利したにもかかわらず、その直後に西軍が敗れてしまったために家康からの処分を受ける羽目になってしまった。当初は処刑されるはずだったが、真田信之と本多忠勝の説得もあり、九度山への流罪で収まった。
九度山とは高野山の表玄関に当たる場所となる。九度山への流罪ということは、言い換えれば事実上は出家の有無は問わず、高野山で出家したのと同等となる。出家した身となれば、特別な赦しを得て還俗しなければ武士に戻ることはできない。つまり真田父子は高野山に入れられたことにより、事実上武士ではなくなったということなのだ。
なお高野山という場所は女人禁制であるのだが、九度山であれば妻子を伴って入山することができる。九度山とは、空海の母が息子を訪ねたものの高野山には女人は入れずに滞在した場所で、空海が月に九度、母親を訪ねるために山を下りたことから名付けられたという。そのために九度山は妻子を連れて入ることができ、女人高野とも呼ばれるようになった。
信繁は妻である竹林院と子を伴って入山したのだが、しかし昌幸は山手殿を連れて行くことはなかった。山手殿は信之の元に留まらせた。どうやら昌幸は状況が変われば、つまり家康が少しでも失脚するようなことがあれば、すぐにでも下山して再び家康と一戦交えるつもりであったらしい。
だが九度山への流罪になったことで、そう簡単に家康に刃向かうことはできなくなってしまう。その理由は単純に経済的問題だ。九度山に入るということは武士としての収入を失うということになり、九度山での真田父子の生活はかなり困窮していたようだ。
「借金が多く暮らしが立ち行かないため、残りの20両を早く送って欲しい」という昌幸の国元への手紙や、「恥ずかしながらこの壺に焼酎を目一杯詰めて目張りして送って欲しい」という信繁の手紙が現存しており、その手紙はまさに九度山での生活の困窮ぶりを如実に表している。
そして九度山での生活を支えたのは「
真田紐
」の存在だ。この紐は九度山で真田父子が発明したとも言われているが、その真意は定かではない。とにかくこの真田紐を竹林院ら女性たちが作り、そして家臣の男手たちが大坂や京の都で売り歩き、なんとか生計を立てていた。このように九度山での真田父子の経済力はほとんど地に落ちており、とてもじゃないが家康に刃向かう力など残ってはいなかった。
なお真田父子には監視役もつけられたのだが、それは紀州藩(のちの和歌山藩)の藩主である浅野幸長(よしなが)が担った。だが幸長は真田父子に敬意を示したのか、多少のことには目を瞑り、また屋敷を立てる際などには資金援助なども行った。もし監視役が浅野幸長でなければ、真田父子はもっと苦しい生活を強いられていたかもしれない。
九度山に蟄居させられている際、昌幸は日々軍略を考え続け、信繁は新しい兵器の開発に勤しんでいた。大筒の模型を作る信繁を見て、また戦場に戻るつもりなのだと竹林院は泣いて過ごしていたと伝えられている。だがそんな生活が10年近く続くと、昌幸の体にも異変が起こってきた。
昌幸は信之(この頃はまだ信幸)に対し、気弱なことを書く手紙を送るようになる。病が昌幸の体を蝕み始めていたのだ。信繁は日々弱っていく父の姿を目の当たりにし、父を勇気付けるためにも自分だけは戦意を失わずに居続けようと気丈になる。その気丈さが上述の竹林院の涙に繋がるわけだが、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65年の生涯を閉じてしまう。
だがその3年後、真田信繁にようやく再起するための好機が訪れる。
大坂冬の陣だ。豊臣秀頼に九度山を下りて大坂城に参陣して欲しいと要望されたわけだが、しかし未だ家康存命のため簡単に下山することはできない。だが蟄居中に信繁が良くしていた山の住人たちが、信繁一行の下山に力を貸してくれた。そのため浅野幸長の監視も掻い潜ることができた。
なお山の住人たちの多くは信繁に心を寄せており、共に戦うために一緒に大坂城に入った者も多かったと言う。昌幸もあと少し長く生きていられればもう一度戦うことができたのだが、再起の好機を待ち切ることができず先立ってしまった。その昌幸の無念を晴らすためにも、信繁は意を決して大坂城に入ったのであった。
慶長5年(1600)年9月15日午前に開戦し、あっという間に東軍勝利に終わった関ヶ原の戦い。真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍に味方し、信繁の兄である信之は東軍に味方した。何と親子が敵味方に分かれて戦う形になったのだが、これはどちらが勝っても負けても真田の家が滅ばないようにと、昌幸があえてこのような状況を選んだとも伝えられている。
真田昌幸は過去、幾度となく東軍大将の徳川家康を苦しめてきた。そのため家康は昌幸のことを目の敵にしている。そして昌幸自身も、家康に煮え湯を飲まされた経験があり積年の鬱憤を晴らしたいと考えていた。そのため昌幸に東軍に味方するという選択肢はほとんどなかった。
しかし信之に関しては事情が異なる。信之は家康に対しそれほど負の感情は持っていなかったとされている。そして徳川四天王である本多忠勝の娘、小松姫を正室に迎えているという事情もあり、信之は家康率いる東軍に味方することになった。この時信之は再三東軍に味方するようにと昌幸を説得したようだが、しかし昌幸が首を縦に振ることは最後までなかった。
だが個人的な恨みだけで敵味方を決める真田昌幸ではない。勝機ありと見たからこそ、昌幸は西軍に味方したのである。それは関ヶ原から遡ること10年、天正18年(1590年)の
忍城の戦いで石田三成の器量の良さを目の当たりにし、この人物の用意周到さがあれば必ず家康に勝てると踏んだからこそ、昌幸は西軍に味方していたのだ。
そうでなければ表裏比興の者と秀吉に言わしめた真田昌幸が、個人的な恨みだけで家康の的に回るはずがない。より高い確率で真田の家を守れると考えたからこそ、昌幸は西軍に味方したのだ。そして昌幸の働きは見事だった。父家康の恨みを晴らすべく徳川秀忠が4万近い大軍を率いて上田城に攻めてきたのだが、昌幸は関ヶ原の前哨戦となったこの戦いに見事勝利した。
この戦いが第二次上田合戦と呼ばれる物だが、実は信之も義弟本多忠政と共に上田城攻めに従っていた。そして父昌幸に開城するようにと説得を試みたが、この時もやはり昌幸が首を縦に振ることはなかった。
さて、信之の妻が本多忠勝の娘であれば、信繁の妻は大谷吉継の娘だった。大谷吉継とは、石田三成と共に関ヶ原の戦いを仕掛けた人物であり、三成の盟友でもあった名将だ。大谷吉継が義父である限り、信繁としては西軍に味方するしかなかった。また、真田昌幸の正室山手殿は石田三成の妻とは姉妹だった。
信繁はこの時、上田城の支城である砥石城を守っていた。この砥石城攻めを任されたのが兄信之だったわけだが、信繁は兄が攻めて来たと知るとすぐに砥石城を捨て、上田城に入ってしまった。信繁には、兄が疑われていることがわかっていた。今は東軍に付いているものの、信之はいつ裏切って父昌幸の元に走るかわからないと思われていたのだ。その疑いを晴らすためにも信繁はあえて兄と戦うことは避け、信之が真田攻めをやり切り徳川を裏切らなかったと秀忠らに思わせようとしたようだ。
砥石城はこのようにした落ちたものの、上田城は昌幸・信繁父子の抗戦により最後まで落ちることはなく、第二次上田合戦もまた、
第一次同様に真田勝利で終わったのだった。だが本戦となった関ヶ原では西軍石田三成が、東軍徳川家康に敗れてしまう。これによって真田昌幸・信繁父子は賊軍として扱われてしまうのだった。
関ヶ原後、家康は昌幸・信繁父子を処刑しようとした。だが信之や本多忠勝の説得により、九度山(高野山)への流罪で決着した。この時真田昌幸は信之に対し「さてもさても口惜しきかな。内府(だいふ・徳川家康)をこそ、このように(九度山流罪)してやろうと思ったのに」と語ったと『真田御武功記』に残されている。これは関ヶ原の戦いが終わってしばらくしたのち、信之がふと口にしたことを書き残したものであるようだ。
九度山での生活は侘しいものだった。流罪から10年ほど経つと昌幸は病気がちになり、67歳でその生涯に幕を下ろしてしまう。だが昌幸の意志は信繁が受け継いだ。昌幸の死から3年後に起こった大坂冬の陣で、信繁は真田丸で善戦し、再び徳川勢を大いに苦しめる戦いを見せるのだった。
慶長19年11月(1614年)、大坂冬の陣が勃発した。この直前、真田信繁(幸村)は関ヶ原の戦いで西軍に味方したことにより、徳川家康から九度山(高野山)への蟄居を命じられていた。実に10年以上にも及ぶ九度山生活だったわけだが、しかし家康の本音は、自らを大いに苦しませてくれた真田昌幸・信繁父子の処刑だった。
家康はふたりの処刑を強く望んでいたようだが、関ヶ原の戦いでは昌幸・信繁とは袂を分かち東軍に味方した真田信之(信繁の兄)、そして信之の舅である本多忠勝(徳川四天王)の説得により処刑は考え直し、高野山への配流という形で決着させた。昌幸は九度山からも再起を図ろうと苦心したが、しかし1611年、65年の生涯を九度山で閉じてしまう。
父昌幸を亡くした3年後、信繁の元に大坂城に入って欲しいという要請が届いた。つまり大坂冬の陣が始まるにあたり、豊臣側に味方して欲しいという参陣要請だ。この要請を信繁は快諾し、再び徳川を敵に回し戦う覚悟を固めた。父昌幸の無念を晴らすためにも。
NHK大河ドラマでも描かれる真田丸とは、この大坂冬の陣に登場する防衛線のことなのだが、そもそも信繁はなぜ真田丸を作らなければならなかったのか?そしてなぜ寡兵でその真田丸に篭り戦わなければならなかったのか?
大坂城には10万人にも及ぶ兵が集まったのだが、しかしこれは烏合の衆と呼ばざるを得ないものだった。絶対的な大将がいるわけではなく、豊臣勢を率いたのは21歳と若く経験も浅い豊臣秀頼で、しかも実権を握っていたのは淀殿だったとも言われている。そのため軍勢にはまとまりがまったくなく、戦略に関しても特に真田信繁と大野治長の間で意見が割れていた。
信繁と後藤又兵衛は出撃論を展開していたが、大野治長は籠城して徳川軍を疲弊させてから戦おうと主張した。信繁・又兵衛案には多くの武将が賛同したようだが、結局は淀殿と親しかった治長の主張が通ってしまう。だが信繁は出撃することで勝機が生まれるという確かな勝算を持っており、何とか大阪城の外で戦う道を模索した。
実は真田丸は、最初から信繁が作り上げたものではなかった。信繁が大坂城に入った頃にはすでに形が出来上がっており、入城後に普請を引き継いだ信繁が改良を加え真田丸として完成させたものだった。そして従来は大坂城に隣接する丸馬出しとして認識されていたが、しかし近年の史家の研究によれば、実は大坂城から200メートル以上も離れた場所に作られた独立砦だった可能性が高いらしい。
つまり大坂城への敵兵の侵入を防ぐのではなく、敵兵をすべて引き寄せ大坂城に近づけさせないための役割を真田丸は持っていたと言うのだ。これに関しては『翁物語』にも記されており、幸村の甥である真田信吉が信繁の陣中見舞いをした際「城より遥かに離れ予想だにしない場所に砦を構えたのは、城中に対するお気遣いあってのことなのでしょう」と信吉が信繁に対し語ったとされている。この信吉の言葉を信じるならば、やはり真田丸は大坂城からはかなり離れた場所に作られた砦だったのだろう。
200メートルも離れていては、当然火縄銃や弓などで援護を受けることはできない。信繁はまさに孤立無援状態で真田丸に篭り、徳川勢を撃退したようだ。以前、父昌幸が上田城で家康を苦しめた時のように。
大坂冬の陣、真田丸の前には前田利常(利家の息子)、藤堂高虎、伊達政宗ら、錚々たる武将たちが15軍団以上対陣した。しかし信繁は彼らを一切大坂城に近づけることなく、大坂城唯一の弱点と言われていた南方を最後まで守り抜いた。家康は総勢20万とも言われる兵力で大坂城を攻めたわけだが、その被害は甚大だった。そして徳川方の戦死者の8割は真田丸攻防戦によるものだったと伝えられている。
上田合戦では二度も家康を苦しめ、大坂冬の陣でも信繁は大いに徳川勢を苦しめた。この結果を見るならば関ヶ原の戦い直後、家康が昌幸・信繁父子を処刑したかったという気持ちもよくわかる。ふたりを生かしておけば、また自らを苦しめることになると家康はきっとわかっていたのだろう。
NHK大河ドラマ『真田丸』の主人公でもある真田幸村とは、一体どのような人物だったのだろうか。歴史ファンの間で幸村の人気は非常に高いわけだが、しかしそれほど多くの武功を立てた人物ではない。確かに徳川との戦いで強さを見せてきたわけだが、その多くの戦を父真田昌幸と共に戦っている。つまり幸村のみの采配で戦った戦はほとんどないのだ。
幸村の出生にはいくつか説がある。永禄10年(1567年)出生説、元亀元年(1570年)2月2日出生説、元亀2年出生説だ。いくつかある説の中で、幸村の行動を照らし合わせていくと元亀元年出生説が歴史研究家たちの間では最も現実的となるようだ。
父親は言わずと知れた真田昌幸で、兄は真田信之、母は山之手殿。幼名は弁丸で、後に真田源次郎信繁、通称真田幸村となる。この真田幸村の名前が歴史上に最初に登場するのは天正壬午(じんご)の乱となる。天正壬午の乱とは、織田信長が本能寺の変で討たれた直後に起こった出来事のことだ。この時武田の旧領はは滝川一益が治めていたのだが、本能寺の変が起こると清洲会議に出席するため、元の領主に返還し自領に戻って行った。
この武田の旧領を徳川、北条、上杉、真田で奪い合うわけだが、これが主に天正壬午の乱と言われている。そしてこの時幸村がどのように登場するかと言えば、まずは本能寺の変の前、武田が滅亡した際だ。天正10年3月3日、本能寺の変が起こるちょうど3ヵ月前。武田勝頼は普請したばかりで完成も間近だった新府城に火を放ち、城が敵の手に落ちないようにし、岩殿城へと落ち延びようとした。
この時幸村は兄信之、母山之手殿らと共に真田の本領である岩櫃(いわびつ)城への帰還を許された。だがその道のりは落ち武者狩りと絶えず遭遇し続ける過酷なものだったようだ。これが幸村の名前が歴史上に最初に登場した場面となるわけだが、この直後、天正壬午の乱に突入すると再び名前が登場してくる。
しかしこの時も戦で活躍したという記述ではなく、祖母と共に滝川一益の人質になったという記録だ。元亀元年出生説であればこの時幸村は12歳で、永禄10年説だったとしても15歳という年齢だ。NHK大河ドラマではこの幸村を堺雅人さんが演じているわけだが、さすがに年齢設定に無理があるのでは、と某は見ていて感じてしまった。
滝川一益が無事信濃を脱出すると、人質であった幸村たちは木曽福島城の木曽義昌に引き渡され、その後9月に真田本領に無事返されている。若き日の幸村はとにかく人質生活が多かった。この後も天正13年(1585年)には上杉景勝の人質とされ、天正15年には豊臣秀吉の人質とされている。
人質となった幸村だが、他の人質とはまるで違っていた。上杉景勝はすぐに幸村の力量に気づき、人質としてではなく1000貫の知行を与え、臣下として迎え入れた。そして元服を迎えた頃に送られた豊臣家では、後に豊臣姓を賜るほど秀吉に気に入られている。幸村は人質でありながらも、臣下としても仕え力を与えられた珍しい武将だったのだ。
これが若き日の幸村の日々であり、戦に主力として参加したという記録はほとんどない。恐らく最初に大きな戦に加わるのは天正13年の第一次上田合戦となるのだろう。この時幸村はすでに上杉の人質だったわけだが、景勝は幸村の参陣を許した。これは異例中の異例だ。通常では人質を返すということはどのような状況でもほとんど考えられない。だが義将上杉景勝は、真田幸村の義を信じたのだろう。上田での戦で父昌幸の手助けをしに帰ることを許した。
ただこの参陣に関しても、歴史学的には「可能性があった」という話に留まり、実際に参陣していたのかどうかはまだ明確にはなっていないようだ。しかし上杉景勝という人物を見ていくと、幸村の参陣を認めた可能性は高いように感じられる。
ちなみに幸村は、第一次上田合戦で真田が上杉に援軍を求めるために送られた人質だった。にも関わらず景勝が本当に幸村の参陣を許したのだとすれば、これほど男気溢れる武将もそうはいないのではないだろうか。非常に無口であったためあまりスポットライトが当たらない武将ではあるが、上杉景勝の度量は謙信にも劣ってはいなかったように感じられる。
今回は若き日の幸村をダイジェストで記して行ったが、今後は上田合戦などをまた細かく書いていきたいと思う。