五千の北条勢を八百の手勢で撃退した17歳の真田信幸

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真田家と言えば幸隆、昌幸、信繁(幸村)ばかりが注目されるが、実はもう一人隠れた名将の存在がある。それは信繁の兄である真田信幸だ。真田信幸は信濃の上田藩、松代藩それぞれの初代藩主となり、真田の名を後世にまで残し続けた武将だった。関ヶ原の戦いでは父、弟と袂を別つ覚悟を決め東軍に味方した。だがこの判断が真田の名を残す結果に繋がった。


武勇伝では弟である真田信繁ほど目立った逸話は残されていない。だが真田信幸は実は、父や弟を凌ぐほどの槍働きをした武将なのである。それは天正10年(1582年)8月、つまり本能寺の変から2ヵ月後のことだった。

本能寺の変により激動していた信濃に於いて、いよいよ北条が真田の沼田城奪取に本腰を入れた。北条はまず5000人の兵を率いて手子丸城を攻めた。手子丸城を守っていた大戸真楽斎(おおとしんらくさい)は奮闘するものの数の上で北条に圧倒され、最後は手子丸城に籠城し、自刃し果ててしまった。結局わずか3日で手子丸城は北条の手に落ちてしまった。

この時17歳の真田信幸は岩櫃城を任されていた。北条はこのまま沼田を攻めるか、その前に岩櫃城を攻めるかを悩んでいた。
すると信幸はその考えている隙を突くような見事な判断力と攻めを見せたのである。北条5000に対し信幸の軍勢は800でしかなかった。まともに戦ったのでは勝ち目はない。

信幸は唐沢玄蕃に自らの鎧を着させ出陣させた。すると北条方は唐沢玄蕃を真田信幸だと勘違いし追い駆けていく。そして追い駆けていくその横腹を狙うかのように、隠れていた信幸本隊が北条勢に攻めかかった。陣形の真横から突かれたことにより北条勢は統制を失ってしまう。

しかも信幸と勘違いし唐沢玄蕃を追い駆けて行った北条勢は戻って来られない状況になり、北条5000の大群は散り散りになってしまった。すると信幸は知り尽くした手子丸城の穴を突き手勢を手子丸城内に侵入させ、放火をさせながら「味方に裏切り者が出た!」と吹聴して回らせた。

これにより手子丸城内の北条勢はパニックに陥り、同士討ちをしてしまうほどの始末となった。北条勢の統率はまったくなくなってしまい、逃亡する者も続出した。

この時真田勢の中に、信幸と同じ年齢の一場茂右衛門という若武者がいた。彼は皆に混じって戦おうとはせず、戸口の前にずっと立っていた。そして戸を開けて北条勢が手子丸城から出てきたところを狙い、次々と斬り捨てていった。一人で17人の首を討ち取ったという。

5000の北条勢は総崩れとなってしまった。しかも相手はたった800の軍勢であり、この戦いで北条勢が破れることなど誰も想像していなかった。だが真田信幸はわずか800の軍勢のみで5000の北条勢と戦い勝利し、しかも奪われていた手子丸城をすぐに奪還して見せたのだった。この活躍には父昌幸も大いに感服したようで、信幸に対し太刀や脇差し与えたという。

なおこの戦いで北条勢として戦った富永主膳は、のちに徳川政権の奉行衆となった。そして信幸と味方同士になると、この時の手子丸城の戦いでの信幸の奮闘振りを皆に対し語って聞かせたらしい。敵だった富永主膳から見ても、この戦いでの真田信幸の采配は見事だったようだ。

真田家の中ではあまり目立たない信幸ではあるが、このように5000人の敵をわずか800人で撃退し城を奪還するなどの槍働きも見せていた。軍略家として優れていたのは父や弟だけではなかった。信幸もまた、17歳の頃から優れた軍略家としての姿を見せていたのである。
  • 真田家で優れていたのは幸隆、昌幸、信繁だけではなく、信幸もいた!
  • 17歳の真田信幸は、800の兵のみで5000の北条勢を撃退した!
  • 結局最後まで真田の名を守ったのは他でもない、真田信幸だった!

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