「真田信繁」と一致するもの

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慶長5年(1600)年9月15日午前に開戦し、あっという間に東軍勝利に終わった関ヶ原の戦い。真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍に味方し、信繁の兄である信之は東軍に味方した。何と親子が敵味方に分かれて戦う形になったのだが、これはどちらが勝っても負けても真田の家が滅ばないようにと、昌幸があえてこのような状況を選んだとも伝えられている。

真田昌幸は過去、幾度となく東軍大将の徳川家康を苦しめてきた。そのため家康は昌幸のことを目の敵にしている。そして昌幸自身も、家康に煮え湯を飲まされた経験があり積年の鬱憤を晴らしたいと考えていた。そのため昌幸に東軍に味方するという選択肢はほとんどなかった。

しかし信之に関しては事情が異なる。信之は家康に対しそれほど負の感情は持っていなかったとされている。そして徳川四天王である本多忠勝の娘、小松姫を正室に迎えているという事情もあり、信之は家康率いる東軍に味方することになった。この時信之は再三東軍に味方するようにと昌幸を説得したようだが、しかし昌幸が首を縦に振ることは最後までなかった。

だが個人的な恨みだけで敵味方を決める真田昌幸ではない。勝機ありと見たからこそ、昌幸は西軍に味方したのである。それは関ヶ原から遡ること10年、天正18年(1590年)の忍城の戦いで石田三成の器量の良さを目の当たりにし、この人物の用意周到さがあれば必ず家康に勝てると踏んだからこそ、昌幸は西軍に味方していたのだ。

そうでなければ表裏比興の者と秀吉に言わしめた真田昌幸が、個人的な恨みだけで家康の的に回るはずがない。より高い確率で真田の家を守れると考えたからこそ、昌幸は西軍に味方したのだ。そして昌幸の働きは見事だった。父家康の恨みを晴らすべく徳川秀忠が4万近い大軍を率いて上田城に攻めてきたのだが、昌幸は関ヶ原の前哨戦となったこの戦いに見事勝利した。

この戦いが第二次上田合戦と呼ばれる物だが、実は信之も義弟本多忠政と共に上田城攻めに従っていた。そして父昌幸に開城するようにと説得を試みたが、この時もやはり昌幸が首を縦に振ることはなかった。

さて、信之の妻が本多忠勝の娘であれば、信繁の妻は大谷吉継の娘だった。大谷吉継とは、石田三成と共に関ヶ原の戦いを仕掛けた人物であり、三成の盟友でもあった名将だ。大谷吉継が義父である限り、信繁としては西軍に味方するしかなかった。また、真田昌幸の正室山手殿は石田三成の妻とは姉妹だった。

信繁はこの時、上田城の支城である砥石城を守っていた。この砥石城攻めを任されたのが兄信之だったわけだが、信繁は兄が攻めて来たと知るとすぐに砥石城を捨て、上田城に入ってしまった。信繁には、兄が疑われていることがわかっていた。今は東軍に付いているものの、信之はいつ裏切って父昌幸の元に走るかわからないと思われていたのだ。その疑いを晴らすためにも信繁はあえて兄と戦うことは避け、信之が真田攻めをやり切り徳川を裏切らなかったと秀忠らに思わせようとしたようだ。

砥石城はこのようにした落ちたものの、上田城は昌幸・信繁父子の抗戦により最後まで落ちることはなく、第二次上田合戦もまた、第一次同様に真田勝利で終わったのだった。だが本戦となった関ヶ原では西軍石田三成が、東軍徳川家康に敗れてしまう。これによって真田昌幸・信繁父子は賊軍として扱われてしまうのだった。

関ヶ原後、家康は昌幸・信繁父子を処刑しようとした。だが信之や本多忠勝の説得により、九度山(高野山)への流罪で決着した。この時真田昌幸は信之に対し「さてもさても口惜しきかな。内府(だいふ・徳川家康)をこそ、このように(九度山流罪)してやろうと思ったのに」と語ったと『真田御武功記』に残されている。これは関ヶ原の戦いが終わってしばらくしたのち、信之がふと口にしたことを書き残したものであるようだ。

九度山での生活は侘しいものだった。流罪から10年ほど経つと昌幸は病気がちになり、67歳でその生涯に幕を下ろしてしまう。だが昌幸の意志は信繁が受け継いだ。昌幸の死から3年後に起こった大坂冬の陣で、信繁は真田丸で善戦し、再び徳川勢を大いに苦しめる戦いを見せるのだった。
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慶長19年11月(1614年)、大坂冬の陣が勃発した。この直前、真田信繁(幸村)は関ヶ原の戦いで西軍に味方したことにより、徳川家康から九度山(高野山)への蟄居を命じられていた。実に10年以上にも及ぶ九度山生活だったわけだが、しかし家康の本音は、自らを大いに苦しませてくれた真田昌幸・信繁父子の処刑だった。


家康はふたりの処刑を強く望んでいたようだが、関ヶ原の戦いでは昌幸・信繁とは袂を分かち東軍に味方した真田信之(信繁の兄)、そして信之の舅である本多忠勝(徳川四天王)の説得により処刑は考え直し、高野山への配流という形で決着させた。昌幸は九度山からも再起を図ろうと苦心したが、しかし1611年、65年の生涯を九度山で閉じてしまう。

父昌幸を亡くした3年後、信繁の元に大坂城に入って欲しいという要請が届いた。つまり大坂冬の陣が始まるにあたり、豊臣側に味方して欲しいという参陣要請だ。この要請を信繁は快諾し、再び徳川を敵に回し戦う覚悟を固めた。父昌幸の無念を晴らすためにも。

NHK大河ドラマでも描かれる真田丸とは、この大坂冬の陣に登場する防衛線のことなのだが、そもそも信繁はなぜ真田丸を作らなければならなかったのか?そしてなぜ寡兵でその真田丸に篭り戦わなければならなかったのか?

大坂城には10万人にも及ぶ兵が集まったのだが、しかしこれは烏合の衆と呼ばざるを得ないものだった。絶対的な大将がいるわけではなく、豊臣勢を率いたのは21歳と若く経験も浅い豊臣秀頼で、しかも実権を握っていたのは淀殿だったとも言われている。そのため軍勢にはまとまりがまったくなく、戦略に関しても特に真田信繁と大野治長の間で意見が割れていた。

信繁と後藤又兵衛は出撃論を展開していたが、大野治長は籠城して徳川軍を疲弊させてから戦おうと主張した。信繁・又兵衛案には多くの武将が賛同したようだが、結局は淀殿と親しかった治長の主張が通ってしまう。だが信繁は出撃することで勝機が生まれるという確かな勝算を持っており、何とか大阪城の外で戦う道を模索した。

実は真田丸は、最初から信繁が作り上げたものではなかった。信繁が大坂城に入った頃にはすでに形が出来上がっており、入城後に普請を引き継いだ信繁が改良を加え真田丸として完成させたものだった。そして従来は大坂城に隣接する丸馬出しとして認識されていたが、しかし近年の史家の研究によれば、実は大坂城から200メートル以上も離れた場所に作られた独立砦だった可能性が高いらしい。

つまり大坂城への敵兵の侵入を防ぐのではなく、敵兵をすべて引き寄せ大坂城に近づけさせないための役割を真田丸は持っていたと言うのだ。これに関しては『翁物語』にも記されており、幸村の甥である真田信吉が信繁の陣中見舞いをした際「城より遥かに離れ予想だにしない場所に砦を構えたのは、城中に対するお気遣いあってのことなのでしょう」と信吉が信繁に対し語ったとされている。この信吉の言葉を信じるならば、やはり真田丸は大坂城からはかなり離れた場所に作られた砦だったのだろう。

200メートルも離れていては、当然火縄銃や弓などで援護を受けることはできない。信繁はまさに孤立無援状態で真田丸に篭り、徳川勢を撃退したようだ。以前、父昌幸が上田城で家康を苦しめた時のように。

大坂冬の陣、真田丸の前には前田利常(利家の息子)、藤堂高虎、伊達政宗ら、錚々たる武将たちが15軍団以上対陣した。しかし信繁は彼らを一切大坂城に近づけることなく、大坂城唯一の弱点と言われていた南方を最後まで守り抜いた。家康は総勢20万とも言われる兵力で大坂城を攻めたわけだが、その被害は甚大だった。そして徳川方の戦死者の8割は真田丸攻防戦によるものだったと伝えられている。

上田合戦では二度も家康を苦しめ、大坂冬の陣でも信繁は大いに徳川勢を苦しめた。この結果を見るならば関ヶ原の戦い直後、家康が昌幸・信繁父子を処刑したかったという気持ちもよくわかる。ふたりを生かしておけば、また自らを苦しめることになると家康はきっとわかっていたのだろう。
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戦国時代に使われていた名前は、生涯のうちで何度も変わることも多かった。例えば豊臣秀吉などは、若い頃は木下藤吉郎、その後木下藤吉郎秀吉、羽柴秀吉と変わり、最後は天皇から苗字を賜り豊臣秀吉と名乗った。今回は戦国時代の名前、呼び方について少し書き留めておきたい。

諱は時の権力者から一字もらうことが多い

戦国武将たちがまず与えられる名前は幼名(ようみょう)だ。幼名とはその名の通り生まれてすぐ付けられる名前のことで、織田信長であれば幼少期は吉法師、真田信繁であれば弁丸と名乗っていた。13歳を過ぎると男子は元服していくのだが、元服をするまではこの幼名を名乗ることになる。

元服をすませると諱(いみな)と、烏帽子親(えぼしおや)によって仮名(けみょう)が与えられる。「真田」が苗字、「源次郎」が仮名、「信繁」が諱、ということになり、諱は時の権力者などから一字もらうことが多い。信繁の場合は武田信玄から一字もらった形だ。

織田信長のことを「信長様」と呼ぶことは非常に失礼なことだった

官位を持っていない武将の場合、仮名で呼ばれることが一般的で、諱で呼ばれることはほとんどない。特に位の高い相手を諱で呼ぶことは失礼に当たり、「信長様」と呼ぶことはまずない。信長は晩年右大臣に就いていたのだが、その役職から信長は「右府(うふ)様」と呼ばれていた。

なお諱というのは元々は、生前の徳行によって死後に贈られる称号のことで、諡(おくりな)とも言われる。漢字も本来は「忌み名」と書くことから、相手を諱で呼ぶことはほとんどなかった。真田源次郎信繁は「源次郎」、竹中半兵衛重治であれば「半兵衛」、黒田官兵衛孝高であれば「官兵衛」と仮名で呼ばれていた。ちなみに信長の仮名は三郎だ。

テレビではわかりやすいように諱で呼ばせている?!

例えば石田三成はテレビドラマなどでは「治部少(じぶのしょう)」や「治部殿」と官途(かんど)で呼ばれているが、やはり諱で呼ばれることはななく、官職が与えられる前は仮名である「佐吉」と呼ばれていた。

テレビドラマでは時々、諱で「信長様」「秀吉様」と呼ぶ場面が見られるが、実際にそう呼ばれることはなかった。ドラマの場合は視聴者にわかりやすいように、あえて諱で呼ばせているのだろう。だが大河ドラマなど、最近のドラマでは比較的官途が使われていることが多いように感じられる。例えば徳川家康のことも「内府(だいふ)殿」と呼ばせることが多い。

家康を内府(ないふ)殿と呼ぶのは実は間違い!?

なお治部少(じぶのしょう)というのは明での読み方となる。日本語では「おさむるつかさ」と読むようで、戦国時代当時は役職を唐名(とうみょう)で読むことが一般的だった。現代に於いては、最高経営責任者のことをCEOと英語で呼ぶようなものだ。また、徳川家康のことを内府(ないふ)と呼んでいるドラマもあるが、これは恐らくは間違いだと思う。内府(ないふ)というのは明治憲法下での呼び方であり、戦国時代では内府(だいふ)と唐名で呼ぶのが正解だ。

羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち、その経緯を記した軍記物(現代で言うところの歴史小説)を書かせた際、題名は『惟任退治記』だった。この頃の明智光秀は、惟任日向守光秀と名乗っていた。惟任とは天皇から与えられる氏(うじ)であり、源、平、藤原、橘、豊臣などと同じ部類のものとなる。主君信長を討った光秀のことさえも諱では呼ばず、氏で呼んでいることから、やはり当時は諱で呼ぶことが相当憚られていたのだろう。ちなみに光秀の仮名は十兵衛だった。

最後に付け加えておくと、この諱によって引き起こされた事件があった。方広寺鐘銘事件だ。この事件がきっかけで大坂冬の陣が勃発したわけだが、この時は豊臣方が鐘に「家康」と諱を使ったことを理由にし、家康は大坂城を攻める口実としている。

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石田三成の一般的なイメージは決して良いものではない。NHK大河ドラマ『真田丸』では山本耕史さんが演じているのだが、やはり感情のない黒幕的な匂いが漂っている。だが石田三成という人物は決して人情味がなかったわけではない。確かに誤解される性格ではあったようだが、当時の石田三成を知る者たちからは、人情味のある熱い人物と見られていたようだ。


石田三成は関ヶ原の戦いで西軍の中心人物であったわけだが、小早川秀秋らの寝返りにより、徳川家康率いる東軍に敗れてしまった。この関ヶ原の戦い自体も大義は三成側にあった。太閤秀吉の遺言を健気に守り続けようとする三成と、豊臣から政権を奪い取ろうとする家康。黒幕という意味では家康の方がよほど黒幕だった。

家康は秀吉恩顧の一部大名たちと三成の対決姿勢を演出し、見事にそれを利用した。つまり本来は豊臣側に付かなければならない福島正則や黒田長政が、三成を嫌っているという理由で家康に味方してしまった。一方の三成は黒幕どころか純粋だった。西軍に味方してくれた諸将たちすべての陣を自ら回り、戦略を細かに伝え、そして礼を尽くしたという。

だが結果的に西軍は敗れてしまい、三成は賊軍というレッテルを貼られてしまう。島左近の奮闘もあり関ヶ原から何とか脱出した三成は、生まれ故郷である近江古橋村へと向かうのだが、その途中にある浅井郡谷口村の石田氏に一時匿ってもらった。この石田氏はこの時の礼として三成から石田姓、家紋、短刀を譲られたという。

その後三成は何とか古橋村までたどり着き、そこでは与次郎太夫という人物に匿われた。この時三成は腹痛を起こしており歩くのもやっとの状態だったようだ。せっかく古橋村までたどり着いた三成だったが、すぐに追っ手に追いつかれてしまった。そこで三成が考えたことは、このままここにいては与次郎太夫に迷惑をかけてしまうということだった。

三成は与次郎太夫の屋敷を出る際、与次郎太夫に対し「追っ手が来たら自分の居所を伝えてくれ」と頼んだ。つまりこれは与次郎太夫が三成の味方をしたことを伏せ、咎めを受けないようにするための三成の心遣いだったのだ。最初与次郎太夫はそれを拒んだが、三成の強い意志により涙を流し承知した。

そして時を経ず、古橋山中にある洞窟に隠れていた三成は田中吉政の家臣によって捕縛されてしまう。

もし三成が本当に心のない人物であったなら、自分の命が狙われているようなこんな時に谷口村の石田氏や、古橋村の与次郎太夫に対しここまで気を回せただろうか。本当に心ない人物であったなら、与次郎太夫が後々どうなろうと逃げた先を追っ手に伝えるなと言ったはずだ。だが三成はそうではない。自分の命よりも、与次郎太夫に下されるかもしれない咎めの回避を優先してすべてを判断した。

勘違いされやすい性格ではあったのかもしれない。だが石田三成という人物の行動を追っていくと、こんなに義に厚く、こんなに人情味溢れる人物はそうそういないということを知ることができる。『真田丸』では今後石田三成がどのように描かれていくのか現段階ではわからない。だが真田信繁(幸村)と石田三成の関係は深いため、今後石田三成も重点的に描かれていくのだろう。だとしても、さらなる誤解を招くような描き方はして欲しくないと筆者としては願うばかりだ。

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第一次上田合戦以降、真田家と徳川家の間には険悪なムードが漂い続けていた。まさに一触即発といった状況で、家康としては状況さえ許せばすぐにでも真田を潰してしまいたい思いだった。自ら真田のために築いた上田城で、自ら真田に大敗を喫してしまったのも家康としては内心忸怩たる思いだったはずだ。


この頃の真田は上杉家の庇護を受けており、弁丸(のちの真田信繁、通称幸村)が人質として送られていた。第一次上田合戦では母山之手殿を海津城に代わりの人質として送ることにより一時的な帰国と、上田合戦への参加を許されはしたが、あくまでも弁丸は上杉家の人質という立場だった。

真田昌幸は徳川対策を考え始める。もちろん上杉の傘下に入ったことがその一つではあるのだが、同時に羽柴秀吉とも交渉を進めていたようだ。一説では秀吉と交渉をすることは、上杉側から許可をもらっていたと言う。義の上杉に対し、義を立てて接した昌幸と思いきや、これもやはり昌幸一流の芝居だった。

昌幸の交渉が実り、秀吉が真田と徳川の仲裁をしてくれることが決まった。その条件として秀吉は真田昌幸に人質を求めたわけだが、その人質として昌幸は弁丸を送ろうとする。だが弁丸はもちろんまだ上杉家の人質だ。一人の人間がふたつの家の人質になることはできない。では昌幸は一体どのようにしたのか?

天正14年(1586年)6月、上杉景勝は羽柴秀吉の軍門に下り上洛することになった。昌幸はこの隙を突き春日山城から勝手に弁丸を奪還してしまったのだった。上杉景勝はさすがに怒りを露わにするが、しかし弁丸が再び送られた先は羽柴秀吉の元であり、これにより真田家は羽柴家の臣下となっていた。つまり上杉が真田を攻撃するということは、上杉が羽柴を攻めるのに等しい行為であり、これは当然謀反となってしまう。そのため景勝は真田に対し何も行動を起こすことができなかったのだ。

真田昌幸はそこまで予測し、弁丸の奪還を実行した。秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれたのもこの辺りの出来事が所以となっているのだろう。だが結果的には第一次上田合戦の翌年、秀吉の仲裁により真田家と徳川家の和睦が成立した。上杉家はこの和睦を実現させるために利用された形となったわけだが、昌幸は最初からその腹づもりだったようだ。

真田と徳川の全面戦争になれば、さすがの謀将真田昌幸にも勝ち目はない。国力に差があり過ぎるのだ。つまり徳川との火種をいつまでも燻らせていては、いつか徳川に真田が滅ぼされると昌幸は考えていた。昌幸の目的はあくまでも真田の家の存続だ。真田の家と真田の郷を守ることに命を賭している。そして真田を守れるのであれば手段など問わないのが昌幸のやり方だった。

この一連の流れにより真田は上杉とも険悪になってしまうのだが、しかしこれは後々解消されていくようだ。恐らく景勝自身、真田はそうまでしなければ家を守ることができなかったと考えるようになり、そして許したのだろう。だからこそ関ヶ原の戦いで真田と上杉は同じ西軍として石田三成に味方し、徳川家康を敵に回し戦ったのだろう。

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真田と徳川による第一次上田合戦が始まったのは天正13年(1585年)8月2日だった。戦いが始まる前、真田昌幸は上田城下に千鳥掛けを仕掛けていた。千鳥掛けとは柵を斜めに並べ配置し、まるで迷路のように敵の行く手を阻む防衛線のことだ。この千鳥掛けを仕掛けた上で、昌幸は徳川勢を上田城内に誘き寄せた。


この時上田城を攻めたのは鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉で、彼らの下には信濃勢や甲州勢など武田の旧臣たちが付けられ、総勢7000の軍勢となっていた。対する上田城に籠る真田勢は2000程度で、数の上では真田勢が圧倒的不利な状況だった。だが7000という大所帯が徳川勢を逆に不利に追い込んでしまう。昌幸が仕掛けた千鳥掛けにまんまとはまってしまったのだ。

徳川勢は誘き寄せられるまま上田城内に侵入していくと、本城まで間近の二の曲輪で千鳥掛けによる迷路に迷い込んでしまった。進むことも戻ることもできず兵は右往左往している。徳川勢はやむなく一度城外に戻り体勢を整えることにした。この時徳川勢は放火してから城下に出ようともしたらしいが、結局味方への損害も鑑みられ火は放たれなかった。だが千鳥掛けを縫うように退いて行く徳川勢の動きを謀将真田昌幸が見逃すはずはなかった。

徳川勢が上田城から出ようとするその背中を昌幸は急襲した。するともう徳川勢は大混乱に陥る。後ろからは真田勢が追い打ちをかけてくるし、出て行こうとする城下町には真田自ら放火し、徳川勢は退くことも進むこともできなくなってしまった。それでも何とか城門まで退くと、今度は上から岩や大木、火の着いた松明が徳川勢に向け次々と投げ込まれた。徳川勢は「卑怯だ!」と皆喚くが真田勢は意に介さない。もはや人対人の戦ではなく、ゲリラ戦の様相となり、どんどん岩などを投げ込んで行った。だが真田昌幸の謀略はこれだけではなかった。

昌幸は百姓たちを城下町周辺に忍ばせておき、紙で急拵えした真田の旗を掲げさせた。これ見た徳川勢はさらに大混乱に陥り、完全に包囲されたと錯覚してしまった。徳川勢がここから体勢を整えることなど、もうほとんど不可能に近かった。大久保忠教は上田城から退く際に、やはり火を放っておくべきだったと後悔したと言う。

だが真田の攻撃はまだまだ終わらない。命辛々上田城を出た徳川勢を待っていたのは、砥石城から援軍に駆けつけた昌幸の長男、真田信幸の部隊だった。もはや徳川勢にできることと言えば逃げることだけだ。部隊はそれぞれ壊滅状態で、軍としてはまるで機能していない。それでも何とか信幸の部隊を振り切った徳川勢だったが、神川まで落ち延びるとさらなる悲劇が待っていた。

この戦いが始まる前まで、上田は連日の大雨に見舞われており、川はどこも増水していたのだ。そんな増水している神川を渡っている最中に、鉄砲水が徳川勢を襲ったのだった。これにより徳川勢には多くの溺死者が出てしまう。最終的に7000の兵のうち1300人が命を失ってしまったと伝えられている。だがこの1300という数は、真田信幸が家臣に送った書状に書かれていたものであり、かなり誇張され書かれたものだと思われる。

一方徳川方の『三河物語』には300人の損害と書かれており、これもやはりかなり少なめに書かれている。ちょうど中間をとるならば、実際には800人前後の損害だったのではないだろうか。それでも兵の内11%が戦死してしまったのだから、これは非常に大きな損害だったと言える。しかも相手はたかだか2000の真田勢だったのだからなおさらだ。なお真田勢の被害は40人程度だったと伝えられている。

ちなみに第一次上田合戦には、上杉家に人質として送られていた昌幸の次男弁丸(真田信繁、通称幸村)も参戦していたようだ。小説やテレビドラマなどの物語では、上杉景勝が義を以って信繁を信じ、人質として再び戻ってくることを条件にし、ほとんど無条件での参戦を許していることが多いだ。だが近年の歴史家たちの研究によれば、信繁が参戦する代わりに、母親である山之手殿(昌幸正室)が一時的に海津城に人質に出されていたことがわかってきたようだ。つまり上杉景勝は戦国時代随一の義将ではあったが、決してお人好しではなかったということだ。

さて、上田城の攻防後も徳川は真田に味方した丸子城の岡部長盛を攻めるなど、20日間ほど小競り合いを繰り返した。だがその最中に重臣石川数正が出奔し、羽柴秀吉側に寝返ってしまった。これにより徳川家康は、真田昌幸を相手にしている場合ではなくなってしまい、8月28日になると上田城攻めから完全撤退していった。これにより第一次上田合戦は、完全なる真田昌幸の勝利でを幕を閉じたのである。

NHK大河ドラマ『真田丸』第13話 決戦の史実

sanada.gif天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼が天門山の戦いに敗れ自刃したことにより武田家が滅亡すると、その武田の旧領を他家や国衆たちが奪い合った。これを「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」というわけだが、ここで最も大きくぶつかり合ったのが徳川家康と北条氏政・氏直父子だった。この時真田昌幸は徳川家康に味方をし、策を巡らすことにより北条軍を撃退している。だが徳川と北条の戦いも、家康と氏政が和睦を結んだことにより唐突に終結してしまった。

だがその後が問題だった。和睦が締結した後には必ず国分けという、大名同士の境界線を設定する作業があるのだが、この国分けが、真田家にとって不都合なものとなってしまったのだ。多くの小説やNHK大河ドラマ『真田丸』では、真田が所有していた沼田領を家康が勝手に北条に譲ってしまったように描かれている。だがこれは事実ではない。恐らく物語を面白くするために原作者たちが脚色したのだろう。

事実としては、真田家にとって不都合なのは変わりないわけだが、北条が武力を以ってして沼田領が含まれる上野(こうずけ)を制圧することを家康が認めるという内容の和睦だったようだ。つまり家康が勝手に沼田領を北条に譲渡し、その上で真田に沼田を明け渡すように言ったわけではないのだ。

この和睦内容により、北条はすぐに沼田攻めを開始した。この攻撃により真田は中山城を奪われてしまったが、それでも沼田城代を務めていた矢沢頼綱(真田幸隆の弟で、昌幸の叔父)の奮闘により何とか沼田城は死守することができた。この後も北条の攻撃は続くのだが、それにより沼田城が落ちることはなかった。

天正11年になると、真田の本拠である小県郡で、国衆が蜂起するという出来事が起こってしまう。真田昌幸はその鎮圧に苦労し、家康にも援軍を求めている。そしてその流れで昌幸はどさくさに紛れて上杉景勝を刺激しようと企てる。この時の真田は徳川に従っていたため、真田が上杉領に侵攻すれば、上杉は徳川を攻めることになってしまう。

事実上杉の徳川への牽制が入るわけだが、上杉に攻め込まれないようにと昌幸は上田に城を築くことを家康に提言する。上田は、上杉領である虚空蔵山城(こくぞうさんじょう)の目と鼻の先だ。だが真田家の力だけでは簡単に城を築くことはできない。そのため昌幸は、上田に城を築くことが上杉を抑えるためにも、徳川にとっての得策であると家康を説得し、上田城を家康に作らせることに成功した。

だが同じ頃、城の請取を求めに沼田城に入った北条の使者を矢沢頼綱が斬り捨ててしまうという事件が起こった。実はこれは昌幸の策略だった。矢沢頼綱に北条の使者を斬らせ、それを手土産に叔父矢沢頼綱を単独で上杉に寝返らせた。この時代で使者を切り捨てるということは、相手に対し宣戦布告をしたことになる。つまり昌幸は沼田城を守るために上杉の義を利用しようとしたのだ。上杉は助けを求める者は必ず助ける。それを昌幸が逆手に取ったのだった。

これにより困ったのは家康だ。北条に対しては切り取り次第北条領にして良いと密約を結んだ沼田領の援軍として、上杉がやってくることになったのだ。これでは北条も簡単に沼田城を攻めることはできなくなるし、上杉が動けば北条は本領を手薄にはできなくなる。当然家康自身も徳川に従う形となっている真田をここで攻めるわけにはいかない。形式上上杉に寝返ったのは矢沢頼綱だけなのだから。

この状況に困った家康は小県群の国衆である室賀正武を上手く言いくるめ、昌幸の暗殺を企てる。だがこの暗殺を事前に察知していた昌幸は室賀を返り討ちにしたことで、逆に室賀の所領を奪い取り勢力を増すことに成功した。家康としては暗殺の失敗によりますます状況が悪化してしまったというわけだ。

上田城は、沼田城の件の侘びのつもりで家康が築城を許したと伝えられている。つまり家康側からすれば「徳川で上田城を作り進呈するから、沼田は北条に譲ってくれ」という思惑だ。だが真田昌幸は上田城をありがたく頂戴したあげく、沼田城の引き渡しは拒否し続けたのだった。

この一連の騒動により、真田と徳川の関係は日に日に悪化していく。そもそも昌幸は、天正壬午の乱で真田が徳川に味方した直後に、家康が沼田領攻めを北条に対し容認したことで、家康への不信感を募らせ徳川から離れる時期を早々から図っていた。そしてその時期は天正13年6月にやってくる。昌幸は徳川と絶縁し、次男である弁丸(のちの真田信繁)を人質として送ることにより、上杉に従属していった。

ここで真田と徳川は正式に敵対関係となり、徳川が真田昌幸の居城となっていた上田城に侵攻し、第一次上田合戦が始まっていくのである。それにしても自分で作って真田昌幸に与えた城を自分で攻めることになるとは、家康からすれば実に皮肉な出来事となってしまった。

ishida.gif忍城の水攻めに失敗した石田三成だが、実はこの当初、三成を悪く言う者はいなかった。徳川四天王のひとりである榊原康政も、三成と共に忍城を攻めた浅野長吉への書状で「お手柄」と書いているほどだ。やはり三成の戦下手という評価は江戸時代に恣意的に作られたものだと考えるべきだ。

備中高松城を水攻めした際に作られた堤は東南4キロに渡って築かれた。つまり備中高松城を水攻めにするには4キロの堤を作れば良かったわけであり、水攻めをするに適した弱点を持った城だった。一方の忍城を水攻めにした際約1ヵ月かけて作られた堤は28キロにも及んだ。備中高松城攻めで築いた堤の実に7倍の長さだ。これだけの堤を作るためには人員や資金ばかりではなく、大量資材や、人員のための大量の食料まで必要になる。それを手際よく用意したのが他でもない、石田三成なのだ。

土木工事も滞りなく進んだと言い、この三成の活躍を間近で見ていたのが大谷吉継、真田昌幸、真田信繁(幸村)、直江兼続、佐竹義宣、長束正家、多賀谷重経らだった。そして面白いのは彼らは皆、関ヶ原の戦いで三成に味方しているという点だ。もし忍城の水攻めの失敗が三成の戦下手や不手際によるものであれば、名だたる名将たちが果たして天下分け目の関ヶ原で三成に味方しただろうか。

大谷吉継や直江兼続のように、三成と親しかった者が味方するのならばまだわかる。しかし秀吉に表裏非興の者とまで言わせた謀将真田昌幸が、戦下手の三成に果たして味方などするだろうか。いや、しないはずだ。真田父子はこの時に三成の手際の良さや、水攻めはすべきではないという三成の冷静な判断に接していたからこそ、関ヶ原では西軍の勝利を予測し三成に味方したはずだ。そうでなければ家を守るためには手段を選ばなかった真田昌幸が三成に味方する理由はない。

忍城内では実は離反の動きも少なくなかったと言う。そのような状態であれば力攻めをすればあっという間に城は落ちたはずだ。その情報も掴んでいたからこそ水攻めにより無駄な労力や無駄な出費をすることなく、忍城を力攻めにすべきだと三成は秀吉に進言したようだ。

結果的に忍城の戦いは天正18年6月17日から始まり、7月5日に小田原城が落ち、成田氏長がそのことを忍城に伝え開城を説得し、城を守っていた成田長親(のぼうのモデル)らが説得に応じ、7月16日に開城された。

忍城水攻めの失敗により三成を責めるべきではない。三成は秀吉に命じられた無理難題を実現させ、たった1ヵ月で28キロにも及ぶ堤を完成させたのだ。三成の手際の良さと政治力がなければ決してなしえなかっただろう。それなのに三成は水攻め失敗の事実を歪曲され、戦下手として周知されるようになってしまった。

なおこの堤は「石田堤」と呼ばれ、現在では行田市から鴻巣市にかけて250メートルだけ現存している。忍城水攻めでは、三成は本来であれば賞賛されるべき功績を残しているのだ。そして秀吉自身この水攻めの段取りは三成にしかできないと思ったからこそ、「水攻めについては全面的に任せた」という書状を三成に送っているのである。