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惟任退治記現代語訳-戦国時代記編

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村井貞勝は本能寺の門外すぐの場所に住んでいた。本能寺での騒ぎを耳にして初めは喧嘩かと思い、それを鎮めようと着の身着の儘外に走り出て様子を見てみたがその騒ぎは喧嘩によるものではなく、本能寺が明智光秀の軍勢二万に取り囲まれている騒ぎの音だった。村井貞勝はどうにか本能寺の中に入ろうと色々試みたが適わず、織田信忠の陣所となっていた妙覚寺まで急いで走り事態を信忠に伝えた。

信忠はすぐにでも本能寺に馳せ参じ父と共に戦い、最後は父と共に腹を切ると家臣たちに話したが、明智軍の包囲が厳重であったため、翼でもなければ本能寺の中に入ることはできそうになかった。まさにこれこそ咫尺千里しせきせんりの裏切りとも言えるものだった。
※咫尺千里:すぐ近くなのにものすごく遠くに感じること

信忠は妙覚寺は戦をするには不向きであるため、他に近くで戦えて最後は自刃できる場はないかと家臣に尋ねると、村井貞勝は誠仁親王(正親町天皇の息子)がおいでの二条御所が良いと言い、信忠を二条御所まで案内した。すると誠仁親王は輿に乗って内裏にお移りになり、信忠は五百人の兵と共に御所に入った。

明智軍に遮られたことにより、二条御所に馳せ参じることができた信長の馬廻はわずかに一千騎ほどで、信忠のもとにいたのは弟の織田又十郎信次、村井春長父子三人、団平八景春、菅屋九右衛門父子、福富平左衛門、猪子兵助、下石彦右衛門、野々村三十郎幸久、赤沢七郎右衛門、斎藤新五、津田九郎次郎信治、佐々川兵庫、毛利新助、塙伝三郎、桑名吉蔵、水野九蔵、桜木伝七、伊丹新三、小山田弥太郎、小胯与吉、春日源八ら歴々の侍たちであり、彼らは死を覚悟し明智の軍勢が攻め入るのを待ち構えていた。

明智光秀は、主君織田信長が自害し本能寺に火がかけられたのを見ると安心し、織田家の家督を継いでいた信忠の居場所を尋ねた。すると信忠は二条御所に立て篭もっているとのことだった。それを聞いた光秀は兵を休ませることなく二条御所に急行した。しかし二条御所ではすでに死を覚悟した侍たちが大手門を開き、弓・鉄砲隊に前面に構えさせ、他の兵たちも思い思いに武器を手に取り前後を守っていた。

明智軍の先駆けが馬具も整えないまま攻めかかると、矢と鉄砲が次々と放たれてきた。それにたじろぐ明智軍を見ると、信忠の兵は内から一気に攻め出し、押しては退いて、退いては押すの攻防を数時間続けながら戦った。明智軍は武具をしっかりと締め直し、まだ戦える兵に代わるがわる攻めさせた。一方信忠の兵は素肌に帷子だけをまとった軽装で勇ましく善戦を見せたのだが、明智軍は長太刀や長槍を揃えて攻撃してきたため、こちらで五十人、あちらで百人と次々と討ち倒され、遂には御殿のすぐ近くまで攻め入ってきた。

信忠と信次兄弟は腹巻をまとい、百人ばかりの近習は具足をまとい戦った。そして信忠はその中でも一番に打ち出て、十七〜八人の敵兵を討ち取っていった。また、近習たちも果敢に攻め出す信忠に負けじと、刀で火花を散らしながら戦い、敵を方々に蹴散らしていった。

その際明智孫十郎、松生三右衛門、加成清次ら明智軍屈指の侍たち数百人が一気に斬りかかってきた。信忠はそれを見るとその中に飛び込み、これまで稽古してきた兵法、秘伝の術、英傑一太刀の奥義を繰り出し、次々と敵兵を薙ぎ倒していった。すると孫十郎、三右衛門、清次の首は信忠により次々と刎ね落とされていった。そして近習たちも力の限り太刀を振り続け、御所に攻め込んできた明智軍をことごとく討ち果たしていった。

もう何も思い残すことなく最期の戦を戦い切り、父信長と共に逝こうと二条御所の四方に火を放ち、御所の中心まで退くと十文字に腹を掻き切った。他の精鋭たちも熊や鹿の毛皮で作った敷物を並べ、その上で信忠を追うように腹を切り、皆一斉に炎に包まれていった。信長は四十九歳、信忠は二十六歳であり、悼み惜しむべしと民の誰しもが涙を流した。

ところで、明智光秀と同郷で美濃出身の松野平介一忠は、その夜は京の都の外にいた。そして夜襲の報せを耳にし駆けつけたが間に合わず、到着した時に本能寺での戦はすでに終わっており、信長もすでに自害したと聞くと、諦めて妙顕寺まで走り、追腹を切ろうと覚悟を決めた。その時斉藤利三が一忠を明智側に勧誘したが、一忠は信長に恩義があると言いそれを断り自刃した。一忠は元々は医者であり、文武両道の優秀な男だった。普段から歌道もたしなみ、侍になったのちも学問を怠ることをしなかった。そして以下がその一忠の辞世の句である。

そのきはに 消ゑ残る身の 浮雲も 終には同じ 道の山風

手握活人三尺劔、即今截斷尽乾坤
(手に我の命を助けた約90cmの刀を持ち、今まさに天と地を斬り断つ)

このような句を残して腹を切ると臓腑を引き出しながら朽ち果てた。まさにこの時代では他に類を見ない無双の働き振りだった。人々は一忠ん最期を聞くと涙を流し袂を濡らしたものだった。

明智家

明智光秀はなぜ主君を討たなければならなかったのか?!

明智光秀はあの日なぜ本能寺で謀反を起こしたのだろうか。定説では信長に邪険にされノイローゼ気味だったとか、信長を恨んでいたとか、天下への野望を持っていたとか、様々なことが伝えられている。しかし筆者が支持したいのは明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』にて証拠をもって結論づけている、土岐氏再興への思いだ。

明智家は元来「土岐明智」とも称する土岐一族で、光秀が家紋として用いた桔梗の紋も、土岐桔梗紋と呼ばれる土岐氏の家紋だ。土岐氏とは室町時代に美濃を中心にし隆盛を誇った名家で、土岐氏最後の守護職となった頼芸(よりのり)は、斎藤道三の下克上によって美濃から追放され、これにより200年続いた土岐氏による美濃守護は終焉を迎えてしまう。そして大名としての土岐氏も事実上滅んだことになり、土岐一族は美濃から散り散り追われる形になってしまった。そのひとりが明智光秀だったというわけだ。

長曾我部元親が突然信長に対し強硬姿勢に出た理由

本能寺の変の直前、長曾我部元親はそれまでは友好的だった織田信長に対し、所領問題で抗戦的な態度を見せ始めていた。しかし両家が戦えば長曾我部の軍勢など、織田の軍勢の前では子ども同然だ。それは元親自身分かっていたはずだ。それでも元親が信長に敵対したのは、光秀の存在があったからこそだった。光秀であれば何とか信長を説得してくれるはずだと踏んでいたのだ。だがその目論見は外れ、信長は遂に長曾我部征伐軍を四国へと送ってしまう。

ではなぜ元親は光秀の存在を当てにしたのか?長曾我部と織田を結んだのは元々光秀の功績だったわけだが、ここにもやはり土岐氏が絡んでくるのだ。元親の正室は石谷光政の娘で、石谷氏(いしがい)もやはり美濃の土岐一族なのだ。そして元親の正室の兄が石谷頼辰という明智光秀の家臣であり、頼辰は斎藤家から石谷家に婿養子となった人物で、斎藤利三は実の弟に当たる。

石谷頼辰=斎藤利賢の実子であり後に石谷光政の養子になる。長曾我部元親の正妻の義理の兄に当たり、明智家の重臣である斎藤利三の実の兄。

つまり光秀は家臣頼辰と元親の関係から長曾我部家と懇意になり、長曾我部と織田のパイプ役となっていたのだ。そして光秀自身も、長曾我部と連携を図ることは明智家にとって大きなメリットがあると考えていたようだ。近畿を治める明智と四国を治める長曾我部が連携すれば、光秀の織田家での立場をより強固なものにできる。外様大名として肩身の狭い思いをしていた光秀にとり、長曾我部家と連携するメリットは非常に大きかった。

このような関係があったからこそ、元親は光秀の後ろ盾を当てにし、信長に対し強硬姿勢を取ってしまったのだった。だが光秀の懸命な説得も虚しく、信長は長曾我部征伐軍を四国に送り込んでしまった。これに慌てたのは光秀と元親だった。ふたりとも、まさか信長が本気で長曾我部を攻めるとは考えていなかったのだ。

土岐家縁戚の長曾我部滅亡を黙ってみてはいられなかった明智光秀

明智光秀の夢は土岐家の再興だ。そのためには長曾我部家の協力が不可欠となる。元親の正室が土岐氏の娘である以上、元親自身も土岐家の縁戚ということになる。いずれは両家が協力し、土岐家を再興させるつもりだったのだ。だが信長はその長曾我部を滅ぼすつもりで征伐軍を四国に送ってしまった。

もしここで長曾我部が滅亡してしまっては、光秀の土岐家再興の夢も潰えてしまう。そもそも土岐家の縁戚である長曾我部が攻められ、土岐明智である光秀が黙って見ていることなどできようはずもない。光秀は何とかしようと信長に取り入るわけだが、しかし信長はそんな光秀を相手にしようとさえしなかった。

さて、信長が徳川家康の接待役である光秀のやり方が気に入らず、役を解任し足蹴にしたという話はあまりにも有名だ。だがこのエピソードも明智憲三郎氏の歴史捜査によれば実際はそうではなく、光秀がしつこく長曾我部への恩赦を求めたため、信長が激昂し足蹴にしたらしいのだ。つまり光秀はそれほどまでに土岐家再興のためにも長曾我部を守りたかったのだ。

だが何をどうしても信長の長曾我部征伐軍を止めることはできなかった。あとはもう信長を討ってでも止めるしか術はない。光秀がそんな思いに駆られていたタイミングで、信長は本能寺にて家康を持て成すことになった。家康を待つ間、信長は僅かな護衛のみで本能寺で過ごしていた。この一瞬とも言える信長の隙を狙い、光秀は信長を討ったのだった。すべては長曾我部を守り、土岐家を再興させるために。

敵は本能寺にあり!

「敵は本能寺にあり!」、この言葉は光秀が突発的に口にしたものではない。幾重もの手回しをし、状況をしっかり整えた上で言い放った言葉だった。光秀はノイローゼでもうつ病でもなかった。夢実現のため、周到な準備をした上で謀反を企てたのだ。だが残念ながらその準備のいくつかが信長を討った後に上手く機能せず、謀反そのものは成功するも、信長を討った僅か11日後に光秀も山崎の戦いで討たれてしまった。

光秀は決して信長への恨みを晴らすために謀反を起こしたわけでも、ノイローゼで錯乱した状態で本能寺に攻め込んだわけでも、天下を横取りするためにクーデターを起こしたわけでもなかった。純粋に土岐家の再興と盟友である長曾我部元親を守るそのため、泣く泣く主信長を討ったのだった。

もしこの時光秀が信長を討たなければ、光秀は土岐縁戚である長曾我部を見捨てることになっていた。つまり信長を討とうと討つまいと、光秀はどちらにせよ自らの裏切りに苛まれたことになる。土岐縁戚である長曾我部を守るならば信長を討つしかなく、主に従うならば土岐家縁戚である長曾我部の滅亡を黙って見ているしかない。果たして誰がこの光秀の苦しい立場を責めることができよう。

明智光秀という人物は、決して主を討った極悪人ではないのだ。そして自らの野望のために主を討った謀反人でもない。確かに謀反を起こしはしたが、それは決して利己的な目的によるものではなかった。

明智光秀という人物の真実を知るためにも、ぜひ『本能寺の変 431年目の真実 』をお手に取ってもらいたい。一般的な歴史書のような堅苦しく読みにくい文章ではなく、まるで推理小説を読むような面白さとスピード感がある一冊となっている。筆者もこの本との出会いがなければ、この先もずっと織田信長や明智光秀を勘違いし続けていたかもしれない。たくさんの証拠を示しながら本能寺の変を紐解いている良書です。

明智家

本能寺の変が起きた際には鳥羽にいた明智光秀

本能寺の変を舞台にしたテレビドラマや映画を見ると、必ず明智光秀が本能寺の門の外で軍配を振っているようなシーンが描かれている。だがこの光秀の姿は事実ではなかった可能性があり、これに関しては長い間専門家たちも議論していると言う。

本能寺の変が起こったのは1582年で、それから87年後の1669年に書かれた『乙夜之書物(いつやのかきもの)』という古文書があるのだが、実はこの古文書に「光秀は鳥羽に控えたり」という記述があるのだ。この古文書は関屋政春によって書かれたもので、斎藤利宗が井上清左衛門に語った言葉として書かれている。

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惟任光秀(明智光秀)は信長から秀吉救援の命令を受け二万以上の軍勢を揃えたものの、備中には行かず、密かに謀反を企んでいた。この謀反は決してその場の思い付きなどではなく、長年積もりに積もった信長への恨みにより、この時が好機であると決断したものだった。そして五月二十八日(本能寺の変は六月二日)、光秀は愛宕山で連歌会を催した。その時光秀が読んだ発句(会全体の最初の句)がこれだった。

時は今 雨が下しる 五月哉
(ときはいま あめがしたしる さつきかな)

今になって思うと、この句こそが謀反の兆しだった。しかしこの時誰がそんな光秀の企みに気付いただろうか。

天正十年六月一日、夜半から先の二万の軍勢を率いて居城である丹波亀山城を出立し、京都四条西洞院(きょうとしじょうにしのとういん)にある信長の宿所、本能寺に押し寄せた。信長は光秀が謀反を起こすなど夢にも思っておらず、その日も夜がまだ深まる前、信忠(信長の嫡男)といつものように仲良く語り合っていた。

ここ何年かを振り返ってみると、思い残すことがないほど満ち足りた四十代だったことを喜び、これからも末永くその栄光が続くようにと、村井貞勝をはじめ近習(主君のそばに仕えるもの)・小姓(主君のそばで雑用をする少年)に至るまで優しい言葉をかけてくださった。そうしているうちに夜も更けていったため、信忠は暇を乞い自らの宿所である妙覚寺へと帰っていった。

信長も寝所へと入っていくと、美女たちを集めてそばに侍(はべ)らせた。だが現実はそのような夢のようにはいかない。信長がそうしている間にも光秀は、明智秀満、明智勝兵衛(三沢秀次)、明智光忠、明智孫十郎、斎藤利三を大将とした軍勢を四方に分けて本能寺を取り囲んでいた。

夜明け間近、光秀の軍勢は壁を壊し、門や木戸を破り、一気に本能寺へと乱入していった。信長の命運ももはや尽きていたのだろう。近頃は戦もめっきり減っていたため、信長はほとんど護衛をつけてはいなかった。有力武将たちは毛利攻めのために西国に遠征していたり、北条などを警戒するために東国に置かれているのみで、京付近の護衛は手薄になっていた。

信長の三男である織田信孝も四国の長曾我部討伐の遠征で渡海するため、丹羽長秀、蜂谷頼隆を従え泉堺の津に留まっていた。その他の武将たちも毛利攻めの準備をするためそれぞれの国に戻っていたために、信長は手薄な警護のみで在京していたのだった。

たまたま京付近に滞在していた家臣もいたにはいたのだが、思い思いに都を楽しみ、信長の救援に駆け付けられる状態ではなかった。つまり信長の警護に当たっていたのは小姓百人程度でしかなかった。

信長は夜討ちの報せを受けて森蘭丸に問うと、彼は光秀が謀反を起こしたと告げた。恩を仇で返すということに前例がないわけではない。生きている者はいつかは死にゆく。これは道理であって今さら驚くようなことでもない。

信長は急いで弓を取ると縁側に出て向かってくる敵兵五、六人を射抜き、十文字の槍を手に何人かをなぎ倒し、門外まで追い、追い払った時にはいくつかの傷を負い、寺内へと引き返していった。

森蘭丸(森成利、本来は蘭丸ではなく乱丸。信長が男色だったと捏造するため、秀吉が男色を匂わせる「蘭」という漢字を使わせた)、森坊丸、森力丸の兄弟をはじめ、高橋虎松、大塚又一郎、菅屋角蔵(十四歳)、薄田金五郎(すすきだきんごろう)、落合小八郎らの小姓たちは、最期まで信長のそばを離れず付き従った。彼らは真っ先に駆け出し、名乗るや否や一歩も引かずに戦い続けたが、最後は全員が枕を並べて討ち死にをしていった。

彼らに続いたのは中尾源太郎、狩野又九郎、湯浅甚助(桶狭間の戦い活躍)、馬乗勝介(うまのりしょうすけ、厩から飛び出してきて戦ったらしい)、一雲斎針阿弥(いちうんさいしんあみ、奉行的立場の側近)ら七十から八十人だった。彼らも思い思いに戦いしばらくは防戦に努めたものの、二万の軍勢に攻められことごとく討たれていった。

信長は日ごろ寵愛していた美女たちを刺し殺し御殿に火をかけると、切腹をし果てていった。

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令和の時代となった今なお、明智光秀という人物を天下の裏切り者と呼ぶ史家は多い。しかし筆者は20年ほど前からそのようには感じていなかった。当時20歳前後だった筆者は、その頃多くの明智光秀に関する本を読んでいたのだが、裏切り者というレッテルの陰に隠れながらも、いくつかの明智光秀の人柄を表す言い伝えを目にした。それを踏まえて明智光秀という人物を考え、裏切り者というレッテルの方にこそ違和感を感じたことを今でもよく覚えている。

明智光秀を逆賊にしたい史家たちの言い分

明智光秀を逆賊に仕立てたい史家の言い分としては、美濃から亡命した明智家を救ってくれた朝倉家を裏切り足利家に仕え、そうかと思えば突然織田家に鞍替えしたという話を持ち出しながら、簡単に人を裏切る人物であると断罪していることが多い。だが本当にそうだろうか。この明智光秀の足跡は、今で言うところの「ヘッドハンティングと転職」とはどう違うのだろうか。筆者には同じものにしか見えない。

転職をした人間は裏切り者であるという考え方は、非常に単一的であり思い込み以外の何物でもないと思う。これが仮に、朝倉家を攻めるために足利家に寝返ったり、足利家を攻めるために織田家に寝返ったというのなら話は別だ。しかし光秀が足利将軍家に仕えていた際に、将軍家と朝倉家が敵対していた事実はない。また、足利家から織田家へと転籍した際も、まだ足利義昭と織田信長の間に目立った大きな火種はなかった。

このように冷静に見ていけば、これは光秀が主家を次々と裏切ったというよりは、功績によりヘッドハンティングされ、立身出世していったと見た方が自然ではないだろうか。もちろん後々、足利家・朝倉家と織田家の間には修復しがたい溝が生じていくわけだが、しかし光秀が転籍した時点ではそうではなかった。だからこその転籍を裏切りと表現することに筆者は大きな違和感を覚えてしまう。

浮かび上がるのは領民に愛された光秀の姿

明智光秀にはその良き人柄を表す言い伝えが多く残っている。まず、とにかく妻熙子を生涯大切にしたと伝えられている。もし自らの欲のためだけに主家を裏切り次々と転籍をしていったのであれば、例えば斎藤道三や松永久秀のように金や権力に憑りつかれていたような人物だったはずだ。だが光秀は生涯を妻を大切にし、さらには領民のことも深く愛した。

実際光秀が治めていた地方には光秀の善政に関する言い伝えが多く残されているようで、本能寺の変後に敗死した光秀を祀る石碑なども多数残されている。もし光秀が本当にただの裏切り者だっとすれば、石碑がそのように多く作られただろうか?いや、そんなことはない。光秀は領民に対し善政を行っていたからこそ彼らに愛され、逆賊として敗死した後でさえこのように愛されたのだ。もし光秀がただの欲深い城持ちというだけだったなら、領民たちも誰も敗死した光秀のためになけなしの銭をはたいて供養塔など祀らなかったはずだ。
(明智光秀に関するガイドブックなどをお読みいただければ、多数ある光秀の首塚の場所を調べることができます)

明智光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか?

戦国の世という時代背景を鑑みても、若き日の明智光秀は苦労人だったと言える。美濃の内乱に巻き込まれて国を追われ、かなりの年齢になるまでは武家でありながらも極貧の生活を送っていたようで、叔父明智光安や妻の実家である妻木家からの経済的援助なくして家族を養うことはできなかった。妻熙子には多大な苦労をかけ、それを負い目にも感じていただろう。その光秀が妻のため家族のためにととにかく必死に働き、少しでも多くの禄(給料)を得るために転職を重ねていったことは、逆に美談としては見えないだろうか。

(一次資料にも残されているように)時に体を壊しながらも死に物狂いで働いた光秀はどんどん出世していき、時の権力者である織田信長軍団の実質ナンバー2にまで伸し上がった。ようやく家族に楽をさせてあげられるようにもなり、光秀の思いも一入だったのではないだろうか。

果たしてそのような人物であった明智光秀が、自らの野望のためだけに織田信長を討つという盲動に出るだろうか。果たして本能寺の変という出来事を、明智光秀の裏切りという言葉だけで片付けてしまっていいのだろうか。少なくとも筆者はそうは思わない。領民にも慕われ、そして誰よりも家族を愛した光秀なのだ。自らの野望のために本能寺の変を起こしたのではないはずだ。やはり一説にあるように、光秀は何かを守るために本能寺の変を起こしたのだろう。

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明智光秀は過度のストレスによりノイローゼに陥り、半ば錯乱状態であるかのように思いつきで信長を討った、という説もある。だが筆者はこの説にはあまり信憑性を感じることはできない。そもそも仮に光秀がそんな状態であったならば、斎藤利三や明智秀満と言った側近たちが気付いていないはずがない。もし光秀がノイローゼで側近たちがそれに気付いていたのであれば、普通に考えれば明智家を守るため、命を賭してでも光秀の盲動を防いでいたはずだ。逆に光秀の異常を察知できないような家臣を、側近と呼ぶことなどできるだろうか。

愛宕百韻はあくまでも戦勝祈願のための連歌会だった

あくまでも筆者個人としては、光秀は多少の心労は抱えていたとしても、ノイローゼではなかったと思っている。その論拠となるのは、光秀は頻繁に茶会や歌会を催しているし、戦が小休止している時にはちょっとした旅行に出かけ、旅先から友人に向けて書状を送り、幸せのお裾分けまでしているのだ。つまり光秀はただ辛い戦さの日々を過ごしていただけではなく、茶や連歌、旅を楽しむという余裕も心には持っていたのだ。

もし本当にノイローゼだったら、歌会で丸一日一緒にいる友人たちの誰かは異変を感じ取っていたはずだが、しかし歌会はどれも滞りなく行われていたようだ。唯一誰かが異変を感じたとすれば、それは本能寺の変の三日目に愛宕山の威徳院西坊(いとくいんにしのぼう)で行われたとされる(三日前は晴れ、雨の日に催されたのなら七日前、という説もある)、いわゆる愛宕百韻と呼ばれる歌会でだろう。光秀はこの時の発句(最初の一句目)として「時は今 天(あめ)が下(した)しる 五月(さつき)哉(かな)」と読んでいる。この句を少し説明すると、時=土岐、天が下=天下、しる=統べる、という意味となり、意訳すると「土岐家が天下を統べる時がやってきた」と解釈することもできなくはない。だが実際に光秀が読んだのは「時は今 雨が下なる 五月哉」だそうです。つまり「統べる」という意味合いは含まれてはおらず、「統べる(しる)」という表現は『惟任退治記』という秀吉が書かせた軍記物で広められた出鱈目だったようです。

ということもあり、上述した句の意味は後付けされたもので、実際には普通に「季節は今は五月、よく雨が降りますね」という梅雨の情景を歌った句でしかなかったようだ。さらに言えば明智憲三郎氏が指摘する通り、「五月哉」と読みつつ六月に信長を討ったことにも違和感がある。そして光秀がこの発句を読むために、わざわざ本能寺の変の三日前にこの歌会を催したとされる説もあるが、そもそも戦国時代当時、歌会というのは戦勝祈願の意味合いが強かった。その証拠にあらゆる出陣の直前に連歌会が催されている。ちなみにこの時の光秀には信長から、中国地方の毛利氏を攻めている羽柴秀吉の救援に向かえという命令が下されており、まさに中国地方に向けて出陣する直前だった。つまりこのタイミングで連歌会が催されたことは、戦国時代の背景を考えればごく普通のことだったと言える。

光秀の妹の死が信長と光秀を仲違いさせたという説

光秀が精神的に追い込まれていたという説を追うと、やはり出てくる話は光秀の妹に関することだ。実は光秀の妹は信長の側室となっていた。この妹の存在によって信長と光秀の関係は良好に保たれていたと言われている。だが彼女は本能寺の変が起こる前年の8月に死去してしまう。妹の死によって信長と光秀の間には緩衝材のような存在がなくなり、それによって二人が衝突し始める、と考える専門家の方もいるようだが、果たして国を代表するレベルの二人がそのような理由だけで仲違いするものだろうか。しかも光秀は妹の死後も変わらず信長のために激務をこなし続けている。そんな光秀を、果たして側室だった光秀の妹の死を境に急に信長が嫌うようになるだろうか。流石にそんな子供染みたことはしないと思うし、そうしたと考える方が不自然だと思う。

さらにもう一点付け加えておきたいこととして、光秀の妹の死があったとしても、信長と光秀が従兄弟同士ということに変わりはない。信長の正室である帰蝶(濃姫)は光秀とは血の繋がった従兄妹であり、つまりは信長と光秀は義理の従兄弟同士ということになる。この関係がある限りは、光秀の妹の死によって状況が大きく変わることはなかったと筆者には感じられる。

誰にも気付かれなかった光秀のノイローゼ

さて、そもそもノイローゼになっている人というのは、周りから見てもすぐにそれとわかる。ノイローゼだという確信は持てなかったとしても、普通の状態ではない、ということは誰にでも察することができる。それがノイローゼという状態だ。冒頭にも述べた通り本当に光秀がノイローゼだったのならば側近は必ず気付いているだろうし、細川藤孝や吉田兼見といった気心の知れた友人や、連歌仲間たちが気付いたことを日記などに記していたはずだ。そして誰かが気付けば、それは必ず信長の耳にも入ったはずだ。だが誰も光秀の精神状態を心配するような素振りは見せていない。

となるとやはりノイローゼ説は、軍記物(江戸時代に流行った当時の歴史エンタテインメント小説)に書かれたあることないことを鵜呑みにした方が、創作である可能性が高い記述を状況証拠として採用してしまい、「本当にそんな状況だったら普通ならノイローゼになってしまう!」という印象論によって書いたことではなかったのだろうか。そもそも本当に光秀がノイローゼだったならば、深い知見によってアドリブで百句、千句と繋げていく連歌を中心人物としてこなすことなどできなかったはずだ。連歌会に集う人物たちは皆深い知見を持ち、とにかく頭の良い頭脳派の人たちばかりだったのだ。ノイローゼだった人が、そんな彼らと連歌で対等にやり合えたとは到底思えない。以上のようなことから、光秀はノイローゼなどではなかったと、これを筆者個人の意見としてこの巻を締めくくりたい。

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明智光秀が引き起こした本能寺の変によって運命を狂わされた人物は数知れない。しかしその中でも、最も辛い目に遭った一人が細川ガラシャだと言えるかも知れない。細川ガラシャは明智光秀の娘で信長の命令、そして両家の意向によって細川藤孝の嫡男、細川忠興に嫁いだ。戦国時代、この細川ガラシャほど数奇な運命を生きた女性は少ない。

本能寺の変後にガラシャと離縁した細川家

本能寺で主君織田信長を討った後、明智光秀は盟友である細川藤孝に救援を求めた。光秀と藤孝は旧知の仲であり、光秀が最も当てにしていたのが藤孝だった。しかし藤孝は主君を討った光秀に与することはせず、この謀反を知るや否や家督を忠興に譲り、自らは出家して細川幽斎と名を変えた。

そして同じ頃、謀反人の娘となってしまった細川ガラシャは細川家から離縁という形を取られてしまった。だがガラシャが明智家に戻されるという最悪の事態には至らなかった。仮に明智に戻されていたとしたら、光秀の正室や親族同様、坂本城で自刃する運命となっていただろう。だが細川家はガラシャをそのまま明智家に戻すことはしなかった。

二人の世話役を付けられて味土野に送られたガラシャ

細川家は形式上ガラシャとは離縁という形を取ったわけだが、明智家の居城だった坂本城に戻さなかったのなら、その後ガラシャはどこにいったのだろうか?離縁される前は丹後の細川家居城である宮津城で暮らしていたのだが、離縁後は味土野という土地に送られている。味土野とは、現在の京都府京丹後市弥栄町の山の中にある土地で、今もガラシャの時代同様に何もない人里離れた場所となっている。ガラシャはその味土野で約二年間暮らした。

この時ガラシャは、一色宗右衛門と小侍従(侍女)の二人を付けられたのだが、小侍従の名前が記されている記録は存在しないようだ。一説では清原マリアがその小侍従だったという説もあるが、どうやらそれは間違いらしい。この小侍従は細川忠興の命令によって松本因幡に嫁いでいる。清原マリアは貞節を誓いガラシャに代洗を授けた人物であるため、結婚することはできない。そのために辻褄が合わなくなってしまう。どうやらこの小侍従は単に細川家の侍女というだけの人物だったようだ。

本能寺の変から二年後に忠興との再婚が許されたガラシャ

ではなぜガラシャは味土野という何もない山奥に送られてしまったのか。どうやら明智光秀は丹後国に多少の領土を持っていたようで、専門家の研究によればそれが味土野であった可能性が高いらしい。確かにこの説には筋が通る。謀反人の娘ガラシャと離縁をしつつ、そのガラシャを細川領に置いていたとすれば、当時であれば何らかの疑いを持たれても不思議ではない。だが明智領に追放したとなれば、これは細川家が明智家には与していないという大きな意思表示になる。だが宮津城を挟み、坂本城とは反対方向の味土野に追放したというのは、細川家がガラシャに示せた最大限の優しさだったのかも知れない。

細川家が盟友明智光秀に与することがなかったことに関し、後に信長の後継者となる秀吉から高く評価されている。そのためガラシャは本能寺の変から二年後、秀吉により細川忠興との再婚が許されている。そして無事、再び宮津の地を踏むことができ、子供たちとの再会も果たした。永禄6年(1563年)に越前で生まれたガラシャは、本能寺の変が起こった時はまだ19歳だった。19歳の娘が背負うにはあまりにも重い運命だ。だがガラシャの数値な運命はこれだけには止まらなかった。

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斎藤利三(としみつ)と言えば、明智家に於いては重臣中の重臣とも呼べる臣下だった。春日局の父親としても知られる利三だが、同じ美濃国の斎藤姓でも斎藤道三とは血縁関係にはない。元々の美濃守護代であった斎藤家の血筋で、父親は斎藤利賢(としかた)、母親は蜷川氏の娘、光秀の叔母、光秀の妹もしくは姉と諸説ある。今回はこの斎藤利三という人物の人柄に迫っていきたい。

頑固者の稲葉一鉄と何らかの衝突があった斎藤利三

斎藤利三という人物は、少々問題児だったようだ。元々は稲葉一鉄の与力だったようだが、その一鉄とは何らかの理由で衝突があったようだ。そして『当代記』という『信長公記』を元に編纂された資料には、信長から勘当されているとも記されている。それぞれどのような問題があったのかは詳しく記されてはいないが、しかし何らかのいざこざがあったことは確かなようだ。

ちなみに稲葉一鉄という人物は美濃三人衆(安藤守就、氏家卜全)の一人で、美濃国内では非常に有力な人物だった。そして「頑固一徹」という言葉はこの稲葉一鉄が由来となっている。恐らくは利三は、その頑固者の一鉄の考え方に同調できなかったのだろう。だが問題はこれだけでは済まなかった。

斎藤利三が原因で何度も信長に殴られた光秀

稲葉一鉄の元を去り、明智光秀に与した斎藤利三だったが、この状況を一鉄は気に入らなかった。確かに利三は一鉄の娘を娶っていたのだから、一鉄が怒りを感じたことも理解はできる。『明智軍記』や『稲葉家譜』の記述からは、光秀に有能な家臣を奪われたと一鉄は感じていたようだと読み取ることができる。そしてさらに、那波直治が利三を追うように光秀の傘下に加わろうとした。再び光秀に家臣を奪われたと感じた一鉄は信長にこれを報告し、信長は光秀を呼びつけ、直治だけは一鉄の元に返すように命じたようだ。

この時に信長が人前で光秀を叱り飛ばし、さらには2〜3回殴ったことで辱めを受け、それを逆恨みして光秀が本能寺の変を起こしたと主張する歴史学者もいるが、筆者はそうは思わない。本能寺の変当時、天下統一を目前にした信長と光秀は現代で言えば総理大臣と副総理のような立場にあった。それだけの立場にあった光秀が、果たしてそんなことを理由に主君を討つだろうか。そもそも信長が光秀を何度も殴ったという話は、どうやら後世の創作である可能性も高い。

本能寺の変は斎藤利三がけしかけた事件だった?!

さて、斎藤利三には頼辰(よりとき)という兄がいた。しかしこの兄は石谷家の養子となり、石谷頼辰と名を改めている。この頼辰の妻の妹が長曾我部元親の正室となっており、その繋がりがあったために明智光秀は、織田家と長曾我部家の取次として交渉役を任されていた。しかし実際に交渉に当たっていたのは光秀ではなく、斎藤利三だったようだ。

そしてこの繋がりがあったために、縁戚となっていた長曾我部家を滅ぼそうとしていた信長を止めるため、斎藤利三が光秀に対して本能寺の変を嗾けたという説もまことしやかに語られている。だがこの説も説得力には乏しいように感じられる。織田家と長曾我部家の問題は、信長の家臣の家臣が物を言っていいような次元の話題ではない。もちろん交渉役を務めていたのは利三であったわけだが、しかし交渉役と言っても実際には信長の意思を元親に伝え、元親の意思を信長に伝えるというのが主な役目であり、利三が個人的に意見を言えるような状況ではなかったはずだ。

確かに利三の感情論としては、利三と元親は義理の兄弟であったため、信長の長曾我部討伐を聞いた際は利三も心苦しかったはずだ。だが元々の元凶は元親にもあった。本能寺の変が起こる前年、長宗我部元親は織田家と交渉をしながらも、織田家の宿敵である毛利と同盟を結んでいたのだ。これはつまり元親の織田家に対する裏切り行為であり、これが元凶となって信長が長曾我部討伐を企てたとしても、利三には納得できたことのはずだった。このような理由から、筆者は利三が本能寺の変を嗾けたという説には信憑性がないと感じている。

光秀はまず、利三ら5人だけに本能寺への討ち入りを打ち明けた

斎藤利三は、明智光秀にとってはまさに忠臣だ。明智秀満と共に、光秀が最も信頼を寄せたのが斎藤利三だった。であれば、当然光秀の明智家を守りたいという強い意思や、土岐家再興に対する情熱も知っていたはずだ。それを知った上でもし利三が本当に本能寺の変を嗾けていたのだとすれば、利三を忠臣と呼ぶことなどできなくなる。なぜなら本能寺の変を起こせば土岐家再興どころか、明智家がそのまま滅ぶ恐れもあったからだ。そして実際に明智家は滅んでしまった。忠臣であれば、そのような進言は絶対にしなかったはずだ。

さて、本能寺の変の直前、光秀は5人の信頼できる家臣だけを集めて本能寺への討ち入り計画を最初に打ち明けたようだ。その5人とは斎藤利三、明智秀満、溝尾庄兵衛尉、藤田伝五、明智光忠のようだ。しかしここで疑問が浮かんでくる。光秀も含めこの5人はすべて本能寺の変で戦死、もしくは処刑されている。なのに何故後世に書かれた軍記物などで、光秀がこの5人だけに打ち明けたということがハッキリと書かれているのだろうか。とてもこの5人が死ぬ間際にそれを誰かに打ち明けたとも思えない。

本能寺の変は利三が嗾けたという説を上述したが、しかし『備前老人物語』は、それが真実であるのかはわからないが、利三と秀満は最後まで討ち入りには反対していたと伝えている。これらのことを色々と考えると、結局は真実を伝えているものはほとんど皆無に等しく、書かれている多くのことは後世の創作であったり、噂話をそのまま真実として記しただけであることがよくわかる。特に軍記物は今でいう歴史小説と同じ類もので、ベストセラーを狙って面白おかしく書かれている物であり、その記述を資料として信頼することはできない。

利三処刑後も途絶えなかった斎藤利三の血脈

さて、本能寺の変で信長を討った後、斎藤利三は山崎の戦いで先鋒として羽柴軍と戦った。しかし傷を負い、その傷が原因で病にも侵されかけ力を失った利三は、ついには堅田で捕縛されてしまう。ちなみにこの時利三を捕縛し秀吉に差し出したのは明智半左衛門という味方のはずだった人物だった。明智半左衛門は光秀を裏切ったが、しかし半左衛門の父親である猪飼昇貞(いかいのぶさだ)は最後まで光秀に忠義を尽くし、本能寺の変で戦死している。

半左衛門によって捕縛された利三は六条河原で打ち首にされた。『言経卿記』によれば、斎藤利三は当初から本能寺の変を起こした主要人物として見られていたようだ。さて、このようにして斎藤利三はその生涯を閉じたわけだが、しかし利三の血脈はここで途切れることはなかった。結果的には斎藤利三と稲葉一鉄は喧嘩別れのような形になっていたが、しかしその後利三の娘福が稲葉一鉄の孫(養子)に当たる稲葉正成の後妻となり、その後は江戸幕府第三代将軍家光の乳母となり、さらには江姫(浅井長政と市姫の三女)のもとで大奥を取り仕切るようになっていく。もちろん彼女こそがかの春日局だ。同じ本能寺の変の当事者の子孫であったにも関わらず、明智光秀の子孫に対する扱いとは雲泥の差があったようだ。

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これはあくまでも筆者個人が立てた明智光秀に関する仮説に過ぎず、実際のところどうだったのかということなど、今となっては誰も知ることはできない。しかし筆者は思うのである。明智光秀は、もしかしたら織田家に仕官した頃から本能寺の変を企てていたのではないだろうかと。

お家騒動が繰り返されていた美濃国

明智光秀という人物は、土岐家の再興に情熱を燃やしていた人物だとされている。ではそもそも光秀の時代、土岐家はどういう状況になっていたのか?簡単に説明をすると、土岐頼芸(よりあき、よりのり、よりよし、よりなり、など読み方多数)の頃、土岐家は家督相続にて内紛状態にあった。最終的には頼芸が家督を継ぐわけだが、しかし凋落しかけていた土岐家はこの内紛によって更に力を失っていた。そこを家臣であった斎藤道三に突かれて美濃を強奪され、頼芸は尾張に追われてしまった。いわゆる下剋上に遭ったというわけだ。

すると今度は土岐家を乗っ取った斎藤家にもお家騒動が勃発し、父道三と子の義龍が戦い、道三は長良川の戦いで戦死してしまう。そしてこの時道三側に与していた明智家は義龍によって明智城を落とされ、光秀は命からがら美濃を脱出するという憂き目に遭ってしまう。だが義龍の子、龍興の代になるとまもなく、斎藤家は織田信長によって滅ぼされてしまった。

仇討ちをしたくてもできる状況ではなかった当時の光秀

土岐家を滅亡に追いやった斎藤家のお家騒動により、光秀は多くの血縁者を失った。しかし仇を討つにももう斎藤家は存在しない。残ったのは道三の娘帰蝶を娶っていた織田信長だけだった。道三は土岐家にとっては憎んでも憎み切れない仇敵だったわけだが、土岐家や親族の仇を討とうにももう斎藤家は存在していない。ちなみに道三は頼芸を美濃から追放するだけではなく、尾張に亡命していた頼芸を織田信秀(信長の父)と結託することにより、今度は尾張からも追放してしまった。これではもう土岐家の怒りも収まろうはずはない。

つまり斎藤家だけではなく、土岐家にとっては織田家も同様に仇敵と呼べる存在だったのだ。だがこの頃の光秀には土岐家や親族の仇討ちをできるような力はまったくなかった。美濃を追われた後は越前朝倉氏に仕官したものの、その後5年は放浪の旅に出ており、妻の実家である妻木家からの経済援助を受けているような状態だった。とてもじゃないが美濃・尾張の二国を有する織田信長を討つことなど不可能だ。

仇敵のもとで力を蓄え続けた明智光秀

その後光秀は足利義昭の臣下として土岐家の仇敵である織田信長に近付いていく。そして信長と義昭が不仲になると、光秀は義昭ではなく、信長の臣下として知行を得るようになった。だがこの頃すでに、光秀の頭の中には土岐家の恨みを晴らすための考えが渦巻いていたのではないだろうか。もちろんこれを証明することは不可能であるわけだが、心理面を想像すると、決してありえない話ではないと思う。

光秀は有力大名となっていた信長から禄を得ながら力を蓄えた。それこそ身を粉にして働き、誰もが反対した比叡山の焼き討ちが行われた際も、光秀は率先して刀を振ったと言われている。その功績により光秀は、比叡山の僧侶が所有していた土地の多くを信長から与えられている。そしてその後も光秀は、信長からひっきりになしに命を受け続け、織田家の誰よりも信長に尽くし、流浪の身から織田家の実質ナンバー2になるほどの大出世を遂げていた。

天下人となる目前だった織田信長を討った光秀

斎藤家が滅んでしまった今、斎藤家に対し仇討ちを仕掛けることはできない。だが斎藤家同様に土岐家の仇敵となっていた織田家は全盛期を迎えていた。本能寺の変が起こる頃の信長は、天下布武の旗印のもと天下統一を目前に控えていた。その織田を討てば土岐家だけではなく、斎藤家によって殺されていった多くの親族たちも浮かばれる、光秀がそう考えていたとしても不思議ではないのではないだろうか。

もしかしたら光秀は信長の臣下になって以来、虎視眈々と仇討ちの機会を狙っていたのかもしれない。そしてそれを可能にするためには、とにかく信長から疑いをかけられるようなことの一切を避けなければならない。だからこそ光秀は、どんな無理難題を信長から突きつけられても平静を装い続けたのではないだろうか。さらには光秀は家臣全員に対し「織田家の宿老や馬廻衆とすれ違う際は脇によって必ず道を譲るように」という触れも出すほど、織田家との関係維持に神経質になっていた。流石の織田家臣団も、ここまで徹底する者は他にはいなかったようだ。

「是非に及ばず」という言葉の裏を読む

そして天正10年(1582年)6月2日、ついにその機会が光秀のもとに巡ってきた。信長は京の本能寺に宿泊し、護衛もほとんど付けていない状態だった。そして光秀の本拠地である坂本城は京の目と鼻の先にある。信長としては、万が一の事態が起こっても明智隊がすぐに救援に駆けつけられるという安心感もあったのだろう。だがこの本能寺が襲われた時に見えたのは桔梗紋だった。

もしかしたら信長は心のどこかで、織田・斎藤両家は土岐家の仇敵であり、それは光秀も当然忘れてはいないであろうことを理解していたのかもしれない。もちろんそんな話が二人の間でなされたことはないだろうが、しかし桔梗紋を見れば光秀が土岐氏源流の家柄にあることは一目でわかることだ。だからこそ信長は本能寺で桔梗紋を目の当たりにした際も、「是非に及ばず」という、まるで光秀のこれまでの異常なまでの忠臣振りがようやく腑に落ちたとでも言うような最期の言葉を残したのかもしれない。

計画性がまったくなかった本能寺の変

本能寺の変はほとんど思いつきのような討ち入りだった。計画性がまったくない討ち入りであり、その証拠に光秀が信長を討った後、光秀の盟友であるはずの細川藤孝、筒井順慶がまったく光秀に味方しようとはしていない。光秀に大きな借りができたはずの長宗我部元親でさえも、光秀の救援に向かう素振りは一切見せてはいない。このような状況証拠からも、光秀は天下が欲しかったのではなく、あくまでも土岐家と親族の仇討ちを果たすべくこの機会を利用したのではないかと筆者には感じられる。

仮に光秀が天下を欲しがったのならば、光秀の緻密な性格からすればもっと下準備をしていたはずだ。例えば長宗我部家と手を組み、さらには細川家と筒井家のどちからでも光秀に与してくれていれば、光秀が秀吉に討たれることもなかったはずだ。単純に長宗我部元親が少しでも牽制姿勢を見せていれば、秀吉は四国に背を向けることなどできなくなり、とても中国大返しを実行できるような状況でもなくなる。だが誰一人、光秀の味方をする大名は現れなかった。さらに言えば光秀がもし天下を狙っているのだとすれば、織田家の宿敵である毛利家とも手を結ぶことができたはずだ。だがこれに関してもそのような交渉が行われた形跡は一切残っていない。

一族の誉れのためにとった光秀の行動が一転逆賊のそれに

こうして考えていくとやはり、光秀の目的は天下ではなく仇討ちだったのではないだろうか、という印象の方が強くなっていく。ちなみに光秀は悪人ではない。斎藤道三や松永久秀のように、平気な顔で闇を歩けるような人柄ではなかった。民からも臣下からも慕われた大名で、その証拠に民が光秀を祀った首塚がいたるところに残されている。仮に慕われていなければ、誰が光秀の魂を各所で祀ろうなどと考えるだろうか。

今回の巻はあくまでも筆者個人の心理的推察に過ぎないわけだが、しかしまったくあり得ない話でもないと思う。だが皮肉なことに一族の誉れのために取った光秀の行動は逆賊のそれだと判断されてしまい、後世の明智一族はまったく別の姓を名乗ったり、明田(あけた)という姓を名乗ることによって、逆賊としての汚名から逃れようとした。だが仮に成功していたとしたら、明智光秀は主家の再興を成し遂げた英雄として語り継がれていたのだろう。

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明智光秀は長曾我部家を救うために本能寺の変を起こした、という説もあるが、これは違うと思う。本能寺の変の少し前まで明智光秀は、織田家と長曾我部家の取次役を務めていた。この任を与えられた理由は、光秀の重臣である斎藤利三の兄、石谷頼辰(いしがいよりとき)の義理の妹が、長曾我部元親の正室だったためだ。

明智光秀の顔に泥を塗った長曾我部元親

織田家と長曾我部家の両家は友好的だった時期もあったのだが、それが次第に険悪になっていく。信長としては潰そうと思えば潰せてしまう程度の長曾我部家にできるだけ良くしてきたという意識があったようだが、しかし両家の間でなかなか思うように事が進まないことに苛立ち始めていた。その最中、本能寺の変の前年となる天正9年(1581年)8月、長曾我部元親が、織田家との共通の敵であったはずの毛利家と同盟を結ぶという大事件が起こってしまった。

信長は当然これに激怒したはずだ。信長は、元親の嫡男である信親の名に自らの名の一部を与えているほど長曾我部家を買っていた。つまり元親の毛利家への急接近は、信長に対する裏切り行為に他ならない。この行為は取次役を務めていた光秀の顔に泥を塗るも同然の行為だったと言える。ここまで侮辱されてなお、斎藤利三の縁者という理由だけで光秀が長曾我部家のために本能寺の変を起こしたとは考えにくい。

光秀に合流する姿勢を一切見せなかった元親

さて、本能寺の変が起こる時期、織田家と長曾我部家の間には辻褄が合わない出来事が起こっている。本能寺の変の当日、信長の三男である神戸信孝と丹羽長秀隊が長曾我部家討伐のために出陣している。だがそこから遡ること10日、長曾我部元親は信長に対し、一定の条件を提示しながらも、信長が提示した国分案に同意する書状を認めているのだ。元親は信長に対し恭順の意を示していたにも関わらず、信長は四国に派兵しようとしていた。恐らくは、このような事実を踏まえて、光秀が長曾我部家を救おうとしたという説が出されたのではないだろうか。

だが自らの家を守るためならともかく、自分の顔に泥を塗った長曾我部家を救うために、果たして光秀が主君を討つなどありうることだろうか。筆者個人としてはないと思う。更に言うならば本能寺の変後、長宗我部家は明智光秀に合流する姿勢を一切見せていない。仮に光秀が長曾我部家を守るために本能寺の変を起こしたのであれば、それを元親が知らないはずはないし、もしそれを把握していたのであれば、元親は中国大返しをして見せた羽柴秀吉の背後を突いていたはずだ。だが元親は一切そのような素振りは見せていない。

本能寺の変がなければ滅んでいた長曾我部家

仮に本能寺の変が起こっていなければ、長曾我部家は神戸信孝・丹羽長秀隊によってあっという間に殲滅させられていただろう。織田家と長曾我部家にはそれだけの力の差があった。だが結果的には本能寺の変が起こったことにより、元親は命拾いしたのだった。ちなみに本能寺の変が起こる前の時期に、光秀と元親が交わした密書などは一切残されていない。明智家・長曾我部家の両家共に残っていないのだから、ふたりの間に書状のやり取りはなかったのだろう。となるとやはり、光秀が長曾我部家を救うために本能寺の変を起こした、という説には無理が生じてくる。

明智光秀という人物は、自らの源流である土岐家の再興にこだわりを見せていたことで知られる。いつかは土岐家を再興させたい、それが光秀の最たる望みだったようだ。その望みがあるにも関わらず、他家のために自らの家を滅ぼすようなことは決してしないはずだ。するとすればやはり、自らの家を守るためではないだろうか。そう思うからこそ筆者は、光秀は長曾我部家を守るために本能寺の変を起こしたのではないと感じているのである。

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天正10年(1582)年6月2日、本能寺の変はなぜ起こってしまったのか?!誰が黒幕だったかということでも様々な論争が行われているが、黒幕がいたようには感じられない。本能寺の変について書いた他の巻でも書いたことではあるが、これは織田信長の将来構想に対する家臣たちの不安の産物だったと考えられる。


筆者はこれまで多数の本能寺の変に関する書物を拝読してきた。その中でも多くのことを証拠を用いてスッキリさせてくれたのが明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実 』という一冊だった。この中で筆者が最も衝撃的だったのが、信長が手勢僅か100人程度で本能寺に滞在していた理由だった。

さて、信長と家康と言えば兄弟同然の間柄として有名だ。信長は家康のことを弟のように可愛がり、家康も信長のことを兄のように慕っていた。これが通説であるわけだが、事実そうだったと思う。本心はさておき、信長と家康の仲を悪く書いた当時の書物はないようだ。

信長が本能寺に滞在していた通説は、本能寺で家康を接待するためだったと言われている。だが明智憲三郎氏の歴史調査によると、事実はそうではなかったようだ。確かに家康を接待するために信長はわざわざ本能寺に家康を呼び寄せた。しかし事実は決して接待するためではなかったと言う。

この時、明智光秀は手勢を控えて本能寺の近くに控えていた。通説のうちにはノイローゼ気味だった光秀が、突発的に本能寺を襲撃したと書かれたものもあるが、これらの考察はすべて推察でしかなく、何の根拠も示されてはいない。だが明智憲三郎氏の著書は違う。証拠をいくつも並べ立てた上で、信長が家康を本能寺に呼び寄せたのは、家康を暗殺するためだと証明して見せている。他の本能寺の関連本とは異なり、証拠が示されているだけにとにかく説得力があるのだ。

信長は、家康に警戒されないように100人程度の手勢だけで本能寺に滞在していた。つまり油断していたわけではなく、家康を警戒させないための芝居だったと言うわけだ。だが信長の誤算は、光秀を信じ過ぎたことだった。これは金ヶ崎撤退戦と同様だ。金ヶ崎撤退戦でも信長は義弟浅井長政を信じ過ぎ、危うく命を落とすところだった。

一度目は何とか命拾いした。だが二度目は浅井長政よりも遥かに智謀に優れ、経験豊富な明智光秀が相手だった。光秀は影で家康と密約を結んでいたと言う。光秀は、本能寺に入った家康一行を暗殺するために本能寺近くで待機していた。だが光秀は家康と手を結ぶことにより、これを家康暗殺ではなく、信長暗殺に計画を仕立て直してしまったのだ。詳しくはぜひ明智憲三郎氏の著書を読んでもらえたらと思う。

つまり本能寺で本来討たれる相手は徳川家康だったのだ。信長は家康のことを高く買っていた。それだけに自身亡き後、家康が子孫たちの脅威になると考えたようだ。その後家康が豊臣家から天下を奪い取ってしまうように。それを未然に防ぐため、信長は早いうちに家康を屠ってしまおうと考えたらしい。

話をまとめるとこうだ。信長は、家康を暗殺するために本能寺に呼び寄せ、光秀に暗殺を命じていた。だが光秀は家康と手を結んでしまい、家康ではなく主君信長を討ち果たしてしまったというわけだ。

戦国時代に武将たちが最も重視していたのは、いかにして家を守るかということだった。家を守るためなら身内であっても討ち果たすことなど日常茶飯事だった。信長が家康の暗殺を企てたのも織田家を守るためなら、光秀が信長を討ったのも明智家(土岐家)を守るためだった。そして家康が光秀の企てに力を貸したのもやはり、徳川家を守るためには光秀と手を結んだ方が上策だと考えたからだった。

明智憲三郎氏の著書を拝読しながら改めて本能寺の変を考えていくと、これは決して偶発的に起こったクーデターなどではなく、起こるべくして起こった出来事だったということがよくわかるのである。
oda.gif本能寺の変が起こる少し以前、一説では2〜3年前とも言われているが、織田家臣団の心は信長から少しずつ離れていこうとしていた。怒涛の1570年代は指揮官としての信長に誰もが付いて行こうとしていたが、信長があることを口にし出すと、家臣団の心配はどんどん膨らんでいったようだ。

そのあることとは「唐入り(からいり)」だ。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが記した『1582年日本年報追加』と『日本史』に「日本六十六ヵ国を平定した暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、その領土を子息や家臣たちに分け与える」と信長が明言したと書かれている。つまり秀吉が実行に移した唐入りは、実は信長が考えていたことだったというわけだ。

だが家臣団にとって唐入りは不安要素でしかなかった。例え広大な領地を与えられたとしても言葉が通じず、食べ物などの文化もまるでわからない地に移封されれば、それは異国に死にに行くのと同然だった。戦国時代には現代では普通に使われているインターナショナルという言葉など存在していない。そもそも外国がどれくらい存在しているのかも当時の日本人はまるで知らなかったのだ。

『孫子』などを読んでいたため、唐(明)のことはよく知っていた。その当時も唐から渡って来た文化の数多くが日本に根付いていたし、中国や朝鮮から渡って来た茶器も多かったという。そういう意味で唐は親しみのある外国ではあったが、それでも言葉が通じないということは誰しもが知っていることだった。

唐入りに参加したとしても、唐に移封されることだけは避けたい、それが家臣団の正直なところだった。そして『本能寺の変 431年目の真実 』を書いた明智憲三郎氏は、これこそが明智光秀が本能寺の変を起こした真の動機だったと言い切る。

政権が長期に渡る場合、将来的には移封されることが一つの前提として考えられていた。例えば本能寺の変を起こす直前、明智光秀は丹波に地盤を築き上げていた。そして明智家をこの地にて磐石なものとしていき、いつかは土岐氏の再興を、と考えていた。だが信長からすれば謀反を防ぐためにも家臣に力を与え過ぎるわけにはいかない。そのため地盤を固める前に移封させ、また地盤を新たに固め直させることを繰り返させ、家臣が必要以上の力を蓄えられない状況を作らなければならなかった。

家臣からすればそれも日本国内なら何とかなる。だが異国となれば話は別だ。言葉が通じなければ善政も何もなく、年貢を納めさせることもままならなくなる。そんな地に行っても家を繁栄させられるどころか、逆に潰してしまう危険性の方が高かった。だからこそ織田家臣団は信長の唐入りに戦々恐々としていたのだ。

そしてその唐入りを阻止しようと実際に行動を起こした人物がいた。明智光秀だ。光秀は信長の腹心だけあり、信長がこのまま日本を平定してしまえば唐入りが避けられない状況になることをよく理解していた。そうなれば織田家で最も力を持っている家臣のひとりである光秀には、真っ先に移封を命じられる危険性があった。

つまり本能寺の変とは唐への移封を阻止し、家を守るため、そして力を蓄えいつかは土岐氏の再興を実現させるため、明智家にとっては必要なことだったのだ。少なくとも明智家を守るためにはそれが最善であると光秀は考えその機会を窺っていたわけだが、そんな折に信長自身が本能寺でほとんど護衛も付けずに滞在するという隙を与えてくれた。

信長は唐入りを目指したことにより光秀に討たれ、実際に唐入りした秀吉は政権を家康に奪われてしまった。そう考えると下手な欲は出さず、とにかく日本という国を平和にすることのみ考えていれば、信長も秀吉ももしかしたら家を滅ぼすことはなかったのかもしれない。

oda.gif天正10年(1582年)6月2日夜、織田信長は京の本能寺で徳川家康が到着するのを寝所で寛ぎながら待っていた。明智憲三郎氏の研究によれば、この時信長は明智光秀と協力し、本能寺で徳川家康を暗殺するつもりでいたようだ。

そのため家康に勘付かれないように、信長自身身構えないという自作自演が必要だったのだ。だからこそ信長にしては本能寺の警護が異常なまでに手薄だった。そんな状況下で信長は家康の到着を待っていたわけだが、そこに突然夜襲の報せが届く。

森乱丸が「明智謀反」を告げると、信長は「是非に及ばず」と呟いた。この言葉の意味は「そうであろうな」というニュアンスだろうか。謀反人が明智光秀だと聞き、「それ以外考えられないな」というニュアンスで出た言葉だったと思う。

金ヶ崎撤退戦で義弟浅井長政を信じ切ったが故に命を落としそうになった信長だが、ここでまた同じ過ちを繰り返してしまう。明智光秀という腹心を信じすぎたが故に、家康を討つはずの作戦を光秀に乗っ取られ、家康を討つはずだった軍勢により自らを討たせてしまった。

織田信長という人物は時に、意外なほど人を信じ切ってしまうことがある。もし信長がいつも通り決して人を信じ切ることをしていなければ、明智の軍勢とは別働隊として、万が一のため密かにバックアップ要員を立てていたはずだ。だが信長は光秀を信じ切ったことにより、ほとんど丸腰の状態で光秀に大きな隙を与えてしまった。

明智謀反の報せを聞いた信長は口に指を当てると「余は余自ら死を招いたな」と最期の言葉を呟いた。この最期の言葉を伝え聞いたのは、信長に仕えていた黒人小姓の彌介だった。彌介は「すぐに逃げろと二条城の信忠に伝えよ」という言伝を受け、本能寺を脱出し、二条城まで走った。

その一連を伝え聞いたイスパニア(スペイン)商人のアビラ・ヒロンが『日本王国記』に記した。日本国内の文献には一切書かれていないことらしいのだが、イスパニア人が書いた『日本王国記』にだけは信長最期の言葉が記されている。これは本能寺の変後に南蛮寺(教会)に逃げ込んだ彌介、もしくは彌介の言葉を伝え聞いた者から聞き、ヒロンが書き記したことであるようだ。

「余は余自ら死を招いたな」と呟いた信長。もしかしたら「家康の暗殺を企てた天罰か」とも思いながら、自ら招いた死を恨んだのかもしれない。

ちなみに本能寺の焼け跡からは信長の遺体は見つからなかったと言うが、事実は違う。信長は自刃し炎に包まれた。そして多くの味方戦死者たちとともに亡骸は焼かれてしまったのだ。つまり信長の遺体が本能寺で見つからなかった、ということではなく、数多の遺骨が転がる本能寺で信長の遺骨を見分けることはできなかった、というのが事実だ。

以前某も本能寺の信長公の墓を訪ねたことがある。だが京都の街並みにポツンと取り残されたような質素さで、とてもあの織田信長公の墓だとは思えなかった。そしてその目と鼻の先にある息子信忠のいた二条城。現代に残されている本能寺跡は、そこで歴史が動いたとは思えないほどの存在感しか残されてはいなかった。