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酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人を俗に徳川四天王と呼ぶ。だがこの4人年齢が実にバラバラなのである。その中でも井伊直政は最も若く、酒井忠次とは親子以上の歳の差があった。それでも井伊直政が徳川四天王に名を連ねたということは、物凄い速度で出世していったということになる。


酒井忠次・・・大永7年(1527年)生まれ
本多忠勝・・・天文17年(1548年)生まれ
榊原康政・・・天文17年生まれ
井伊直政・・・永禄4年(1561年)生まれ

酒井忠次と井伊直政は34歳差、本多忠勝・榊原康政と井伊直政は13歳となる。ちなみに直政を除く3人はみな三河出身で、つまりは家康と同郷となる。まだ新興大名だった頃から家康を支えていた3人だった。一方直政は遠江出身で、家康に出仕したのは天正3年(1575年)、直政が15歳の時からだった。この時はわずかに300石の知行だった。

それから7年後、本能寺の変が起こる天正10年(1582年)には4万石にまで加増されている。そして関ヶ原の戦いでの功績として石田三成の居城であった佐和山城を与えられた時には、18万石の有力大名となっていた。まさにトントン拍子で出世して行ったと言える。

この出世に対し一説では徳川家康が男色家であり、直政を寵愛していたためだと言われている。だがこれは真実とは言えない。多くの史家たちが言うように、家康に男色の気はなかったのである。これは織田信長が森蘭丸を寵愛したことになぞらえられていると考えられるが、実は織田信長も男色家として森蘭丸を寵愛していたわけではなかった。

信長が蘭丸を寵愛したというのは、信長の死後に秀吉が吹聴した作り話だった。森蘭丸という漢字も秀吉が勝手に変えてしまったものであり、実際の漢字は森乱丸だった。 当時、蘭という言葉には女性らしい男子という意味合いがあったらしく、信長を男色家としてしまうために、秀吉はあえて蘭丸と書かせていたようだ。秀吉の場合、男色家の信長より、自分の方が天下人に相応しいとアピールするために、このような捏ち上げをしている。

話を井伊直政に戻すと、直政の父親は直親であり、直親の祖父は井伊直平だ。この井伊直平という人物は、実は築山殿の母方の祖父なのだ。築山殿とはもちろん、徳川家康の正室だ。築山殿は直政が家康に仕えた4年後に殺されてしまうのだが、正室の血縁者ということで家康も直政を重用するようになった。

そしてもう一つ家康が直政を重用した理由がある。直政の父、井伊直親は謀反の嫌疑をかけられ謀殺されてしまったわけだが、その原因は直親と徳川家康が遠江について話し合ったことにあった。もちろん謀反の相談ではなかったわけだが、それを謀反だと讒言され、直親は今川氏真の命により殺害されてしまう。

このような経緯もあり、家康は直親の子である直政を重用するようになった。井伊直虎の死後、まだ万千代と名乗っていた22歳の直政に「井伊を名乗るようにと」命じたのも家康だった。

井伊直政の驚異的なスピード出世の陰には直政自身の高い能力に加え、築山殿の血縁者、直親の死に家康が関係していた、という要因があったようだ。そして最終的には近江佐和山藩初代藩主にまで昇り詰め、慶長7年(1602年)2月1日、関ヶ原で追った怪我が原因で41歳という若さで亡くなっている。

幼き頃から今川から命を狙われ、14歳でようやく井伊谷に戻ることができ、15歳で家康に出仕してからはスピード出世し、そして関ヶ原から1年半後に亡くなってしまった。まさに井伊直政は太く短く生きた戦国の名将と言えるだろう。
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のちに徳川四天王と呼ばれることになる井伊直政は、22歳まで元服をしなかった。元服は早ければ13歳、一般的には15〜16歳で行うものであり、22歳での元服は異例の遅さだったと言える。ではなぜ井伊直政は22歳まで元服をしなかったのか?実はこれは直政の優しさに理由が隠されていた。


井伊直政の父は井伊直親であり、幼い日の直親、つまり亀之丞と井伊直虎は幼馴染であり、かつての許嫁だった。だが紆余曲折あり、結局亀之丞と直虎が結婚することはなかった。そして直親となった亀之丞は讒言により謀反の疑いをかけられて謀殺されてしまう。その後直親の子である虎松、つまりのちの井伊直政は、父同様に命を狙われないように名を変えて鳳来寺で匿われていた。

直親が殺害されてからの十数年の間、井伊家を守っていたのは女城主直虎だった。その直虎は虎松が14歳になり井伊家に戻ってくる形になると、虎松の養母となる。虎松はその後徳川家康に目をかけられ万千代と名乗り、目覚ましい活躍をしていく。その間も井伊家の居城である井伊谷城を守り続けたのは直虎だった。

一時は今川により、井伊家は滅亡の危機を迎えたこともあった。それを強い信念で乗り越え、直虎は井伊家を再興させようと命を賭していた。そのことを虎松はよく知っていたし、鳳来寺から井伊家に戻ってからもその直虎の姿を目の当たりにしていた。つまり虎松は、自分が井伊家に戻って来られたのは直虎の努力あってこそだったとよくわかっていたのだ。

22歳を迎えるまでもなく、もちろん虎松には何度も元服する機会があった。だが虎松は頑なに元服することを拒み続けた。虎松が元服をすると、当然名は井伊直政となる。そして井伊直政が誕生するということは直親の死以来、ついに井伊宗家を継ぐ男子が登場することを意味し、井伊直虎の女城主としての役割もそこで終わることになる。

虎松は直虎が経験してきた苦労をよく理解していた。そのため直虎が存命であるうちは、直虎こそが井伊家の頭領であるべきだと考えていた。だから虎松は22歳になるまで元服しなかったのである。

だが天正10年(1582年)8月26日、井伊直虎は50歳前後という年齢でこの世を去ってしまった。50歳前後と書くのは、直虎が生まれた年が不明であるためだ。史家の研究により、ただい50歳くらいだったと推定されており、有力なのは井伊直親よりも2歳上だったという説だ。仮に直親よりも2歳上だったとすれば、直虎は享年49ということになり、同年6月2日に本能寺の変で討たれている織田信長と同じ歳ということになる。

直虎がこの世を去ってから3ヵ月後の11月、万千代と名を改め家康の元で活躍していた虎松は、ようやく22歳で元服し井伊直政と名乗り、正式に井伊家を継ぐことになった。戦場では赤鬼と呼ばれ恐れられた井伊直政ではあるが、戦場を離れれば母思いの心優しい青年だったのである。

直政にとって井伊直虎は実の母親ではなく、あくまでも養母だった。しかし直虎と父直親が許嫁だったことを知る直政としては、直虎は実の母同然の存在だったようだ。そして直虎のこれまでの苦労を知るだけに、その母にいつまでも井伊家頭領でいてもらいたく、普通では考えられない22歳で元服する形になったのだった。

なお井伊直虎の墓は井伊谷城にほど近い龍潭寺にあり、法名は「妙雲院殿月泉祐圓大姉(みょううんいんでんげつせんゆうえんだいし)」とされている。