「関ヶ原の戦い」と一致するもの

真田信之は父弟の赦免を求めて徳川重臣に頭を下げ続けた

真田家に積年の恨みを持ち続けた徳川家康

関ヶ原の戦いで徳川率いる東軍を相手に戦った真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いそのものには参加していなかった。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。

関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は天文13年(1585年)の第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身は昔年の恨みから真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。だが徳川家の家臣たちの多くは関ヶ原の戦い後、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。

だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることはなかった。

父弟は救えなかったが13万石の藩主となった真田信之

父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。

『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかった。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす=殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていた。

信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信は初めから真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。

ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である自分も徳川家家臣とは言え切腹するのが筋、というのが信之の信念だった。

結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまう。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかは今となっては知る由もない。

徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな最低限の葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。

真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまったわけだが、しかし真田信之の奔走もあり、真田の家が取り潰される事態だけは避けることができた。そして真田信之はその後9万5000石の上田藩の祖となった。さらにはその後松代藩に転封し、13万石を得ることになった。

戦国時代にももちろん天皇の存在はあった。しかし現代ほど国の象徴的な存在ではなく、特に戦国時代は天皇の威信は薄れ、財政に苦しむ天皇も少なくなかった。中には即位の礼を行うための資金がなく、なかなか即位できなかった天皇もいたほどだ。今回の巻では、戦国時代の天皇を一覧にしていこうと思う。ちなみに今上天皇(平成)は第125代目となる。

第104代 後柏原天皇(ごかしわばら)
在位:明応9年10月25日〜大永6年4月7日(1500〜1526年)
父:後土御門天皇(第103代)
子:後奈良天皇(第105代)

明応9年に後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御され、37歳で践祚式(せんそしき:天皇の象徴である勾玉や宝剣を継承する儀式)を行なった。だがその後は財政難によってなかなか即位することができず、第11代将軍足利義澄が献金しようとするも管領である細川政元に反対されてしまう。その後足利将軍家や本願寺から献金を受け即位できたのは践祚から21年経った大永元年(1521年)だった。戦国時代はこのように、天皇の威信が最も失われていた時代だったのである。


第105代 後奈良天皇(ごなら)
在位:大永6年4月29日〜弘治3年9月5日(1526〜1557年)
父:後柏原天皇(第104代)
子:正親町天皇(第106代)

後柏原天皇が崩御するとすぐに践祚したが、しかし朝廷の財政難は続いていた。父である後柏原天皇同様、践祚してもなかなか即位することができず、大内家・北条家・今川家からの献金を受け即位できたのは天文5年(1536年)になってからだった。後奈良天皇は即位後に財政危機を乗り切るため、天皇の直筆を諸大名に売った。金銭さえ支払えば、大名たちは天皇に好きな文言を直筆してもらうことができた。このような天皇の行動も、天皇の権威を失墜させる原因となっていた。

だが後奈良天皇も父親同様、民の安寧を誰よりも願う天皇だった。そのため長尾景虎(後の上杉謙信)のように天皇への忠誠を誓う義将の存在もあった。長尾景虎は天文22年(1553年)に上洛し後奈良天皇に拝謁している。


第106代 正親町天皇(おおぎまち)
在位:弘治3年10月27日〜天正14年11月7日(1557〜1586年)
父:後奈良天皇(第105代)

正親町天皇はまさに戦国時代のど真ん中を生きた天皇だった。践祚(せんそ)したのは弘治3年(1557年)だったが、財政難は変わらず毛利元就らの献金により即位できたのは永禄3年(1560年:桶狭間の戦いが起きた年)だった。応仁の乱(応仁元年:1467年)以降朝廷を苦しめ続けた財政難だが、正親町天皇の代になると状況が一変する。織田信長が登場したためだ。信長は永禄11年(1568年)に上洛をすると、その後は第15代将軍足利義昭を援助しながら、朝廷への献金も熱心に行った。

しかし信長の場合は長尾景虎とは違い、天皇に忠誠心を持っていたわけではなかった。戦で都合が悪くなると天皇を担ぎ出し調停に持ち込むため、信長は天皇を味方にするためだけに資金援助を行っていた。長年苦しめられた石山本願寺との休戦も、天皇の勅命あってこそだった。

だが正親町天皇は徐々に信長のやり方に異論を挟むようになり、信長は正親町天皇を疎ましく感じるようになる。そこで信長が考えたことは、信長の養子となっていた第五皇子、誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位させることだった。だがこれに関しては信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたため実現することはなかった。だが107代天皇には誠仁親王の子、後陽成天皇が即位している。

ちなみに本能寺の変後、天下を掌握した羽柴秀吉は征夷大将軍になることを目指した。しかし征夷大将軍になるためには第15代将軍足利義昭の養子になる必要がある。これを義昭が拒んだため、秀吉は征夷大将軍になることができず、関白の職に就くことになった。また、羽柴秀吉に豊臣姓を与えたのは正親町天皇だった。


第107代 後陽成天皇(ごようぜい)
在位:天正14年11月7日〜慶長16年3月27日(1586〜1611年)
父:誠仁親王(正親町天皇の第5皇子で織田信長の養子)

豊臣政権と徳川政権にまたがって即位していた天皇で、関ヶ原の戦いの翌年までの在位となる。豊臣政権時代は織田政権時代同様、秀吉が朝庭に対し熱心に献金を行なっていた。そのため正親町天皇の頃に取り戻していた天皇の威信もまだ保たれていた。ちなみに秀吉が文禄の役慶長の役を戦った際、もし勝っていたら後陽成天皇を明国(中国)の皇帝にしようと考えていたようだ。

秀吉が死に天下が家康の手に渡ると、天皇の威信は再び失われていった。徳川家康は天皇を蔑ろにするような政治を行い、後陽成天皇もそれに対し不満を募らせていた。江戸幕府は1603年に徳川家康によって創設されたわけだが、それ以降天皇の威信はどんどん失われていった。後陽成天皇は元和3年(げんな:1617年)に崩御し火葬される。その後天皇はすべて土葬されているため、後陽成天皇は最後の火葬された天皇ということになる。
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明智光秀本能寺の変の一連の出来事の後、天海僧正として徳川家康に仕えたという説が唱えられている。しかしこの説の信憑性は低い。明智光秀といえば、当時は織田家・徳川家の人間の多くがその顔を知る有力大名だった。にも関わらず彼らが天海を見て、明智光秀だと誰も気付かなかったというのであれば、これは非常に不自然なことだと言える。また、天海は蘆名一族の武士の出ということもわかっており、土岐氏を源流とする明智光秀と同一人物であると考えることは難しい。

二度目の比叡山に登るも焼き討ちの憂き目に遭う

蘆名氏の祖は三浦義明という人物であり、そのことから蘆名一族は三浦介と名乗っていた。天海はこの一族の中に生まれており、さらに出自そのものは決して高貴ではなかったと伝えられている。つまりは会津の身分の低い武士の家に生まれた、ということだ。生まれたのは天文5年(1536年)だと言われている。そして遷化(せんげ:高僧が亡くなること)したのは寛永20年(1643)と言われており、これが真実だとすれば108年生きたということになる。人間50年と言われていた時代に於いて108年生きたのだから、これは現代で言えば160歳前後まで生きた、という感覚だ。

元亀元年頃(1570年)、35歳になった天海は、18歳の時以来二度目の比叡山に登り学びを得ようとしていた。だが翌年、織田信長が比叡山を焼き討ちにするという事件が起こり、天海は比叡山での居場所を失ってしまった。生き延びた僧の多くは武田信玄の庇護を受け、天海もその一人となる。

天海=光秀説の論拠となった数々の出来事

さて、なぜ天海は明智光秀と同一人物だと言われるようになったのだろうか。この説が周知されていった要因は、明智憲三郎氏の祖父が書かれた『光秀行状記』にあるようだ。この本によってその可能性が伝えられ、謎が多かった光秀と天海を同一視する説が広がっていったらしい。ちなみにその他にも光秀はやはり山崎の戦いでは死なず、関ヶ原の戦い後に溺死したという説も残されているという。だがこれらはあくまでも伝承であるため、信憑性という意味ではやはり低いということになる。

その他にも天海の光秀転生説の論拠となった出来事がいくつかあり、徳川家康と天海が初めて対面した際、家康は珍しく人払いをして天海と二人だけで二刻(現代の1時間)、まるで旧知の間柄のように話を弾ませたと伝えられており、これがまるで家康がかつて知った光秀と話しているようだ、という形で話が広まっていった。そして天海が造営を任された日光東照社(東照宮)には、多くの桔梗紋が使われている。桔梗紋と言えばまさに明智光秀の家紋であり、これも天海=光秀説の論拠の一つとなっている。また、華厳の滝などをよく見渡せる場所の地名を「明智平」と名付けたのも天海だとされている。

さらに言えば比叡山には慶長20年(1615)に寄進された灯籠があるのだが、そこには「願主光秀」と書かれている。これもやはり、光秀は山崎では死ななかったのではないかという推測の論拠となっている。そしてこれに関しては少し強引さも否めないのだが、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の「秀」と、第3代家光の「光」は明智光秀からその字を取ったのではないかとも推論されている。ちなみにその論拠となっているのは、家光と名付けたのが天海であるという直筆の資料が残っているためだ。確かに「光」という字については土岐一族で多く使われている字だが、「秀」に関しては当時は非常に多く使われていた。

不自然な点も多い天海=光秀説

さて、このように天海は光秀が成りすました人物だと言われることもあるわけだが、天海という人物は徳川家康の側に仕えつつも、戦国時代の他の僧侶のように政治に意見をすることはまったくなかったと伝えられている。天海は天台宗の権益拡大に生涯を捧げた人物であり、人柄という面では明智光秀とはまったく違う形で伝えられている人物だ。確かに天海=光秀の論拠路なる話は多数あるわけだが、しかし同一人物として考えるには、その生い立ちには不自然な点が多いことは否めない。

だが可能性として、比叡山が焼き討ちにされる以前より、天海と光秀の間に何らかの面識があった可能性はあるのかもしれない。信長は堕落した僧侶たちを駆逐するために比叡山を焼き討ちにしたわけだが、光秀は天海は決して堕落した僧侶ではないと以前より知っていて、もしかしたら天海は殺すべき僧侶ではないと考えた光秀が天海を比叡山から逃がしたという出来事があったのかもしれない。それを恩に感じていた天海がその後光秀に報いたことで、上述したような論拠が増えていったのかもしれない。だがこれに関しての真実はもはや誰にも知ることはできず、推論の域を出ることも決してない。

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細川ガラシャという人は、戦国時代の最も敬虔なキリシタンとしてその名を知られている。しかしガラシャというのは洗礼名であり、実際にガラシャと呼ばれていたわけではない。実際の名は細川玉(珠)と言い、当時玉というのは非常に貴重なものを意味し、それをラテン語に直した言葉がグラティアで、ガラシャという洗礼名はここから取られたと言う。そして当時ガラシャの周囲にはスペイン語を話す宣教師がいたようで、スペイン語の発音グラァシァが訛りガラシャとなっていったようだ。

生涯たった一度しか教会に行けなかったガラシャ

細川玉でもなく、明智玉でもなく、ガラシャという洗礼名で名を残すほど敬虔なキリシタンであったガラシャだが、しかし教会に足を運んだのは37年の生涯のうちたった一度だけだった。それは天正15年(1587年)のイースターの祝日の正午頃だった。夫である細川忠興が九州に遠征した際、ガラシャは侍女たちと結託し、屋敷の者たちの目を盗み抜け出し、初めて大坂のカトリック教会へと足を運んだ。ガラシャが教会を訪れたのは後にも先にもただこの一度だけだった。

ガラシャがキリシタンの存在を知ったのは忠興との会話からだった。忠興は親交のあるキリシタン大名高山右近から、よくキリシタンに関する話を聞かされていた。そして忠興がその話をガラシャに聞かせているうちに、ガラシャの中のキリシタンへの関心がどんどん膨らんでいく。その強い関心が、屋敷を抜け出して教会に足を運ぶという大胆な行動を彼女に取らせたのだった。

教会でガラシャに対応したのはセスペデス司祭と高井コスメ

ガラシャは数人の侍女と教会を訪れ、名も身分も明かさずに教示を求めた。その時教会にいたのはグレゴリオ・デ・セスペデスという司祭だけだったが、どうやら彼はまだ日本語が堪能ではなかったらしく、高井コスメという人物が戻るまでガラシャには待ってもらい、コスメにガラシャへの説明を任せたらしい。コスメはこの時のガラシャを「ここまで理解力があり、ここまで日本の各宗派のことを詳しく知っている女性には今まで会ったことがない」と後に評している。ガラシャは戦国時代を代表する美女としても知られるが、それだけではなく、頭も切れる人物だったと記録されている。

ガラシャはこれまで抱いていた疑問のすべてをコスメにぶつけた。そしてコスメの話によりキリシタンへの理解をさらに深めると、ガラシャはその場で洗礼を受けたいと強く願い出る。しかしセスペデスがそれを許さなかった。その理由は、名を名乗らぬ目の前の女性はいかにも貴婦人であり、その身分がわからないうちは豊臣秀吉の側室である可能性を否めなかったからだ。天正15年と言えば秀吉がバテレン追放令を出した年で、教会としては秀吉の機嫌を損ねる行為だけは絶対に避ける必要があった。その危険を冒さないためにも、セスペデスは身分がわからないうちは洗礼を与えるべきではないと考えた。

そして何かと理由をつけて洗礼は次に教会に訪れた時にするのが一番だとコスメがガラシャを説得している最中に、ガラシャの不在に気付いた細川家の人間が教会まで探しに来て、ガラシャはそのまま輿に乗せられ連れ戻されてしまった。この時セスペデスは密かに、部下に輿の後とつけさせていた。するとその輿は細川屋敷へと入っていき、セスペデスはその報告を受けて初めて彼女が細川忠興の夫人だったと知ることになる。

清原マリアによって洗礼を与えられガラシャとなった細川玉

ガラシャは同年、細川家の17人と共に洗礼を受けた。この時洗礼を与えたのは、セスペデスの上司に当たるオルガンティーノという司祭から、洗礼を与える手順を指導された清原マリアという、ガラシャの側で尽くした細川家の侍女だった。本来であれば洗礼は司祭にしか行うことができないのだが、この時は忠興によってガラシャが屋敷に監禁状態にされていた事情もあり、細川屋敷に住みすでに洗礼を受けていたマリアが教会から派遣されるという形で、司祭の代わりにガラシャたちに代洗という形で洗礼を授けていった。

前述した通り天正15年は秀吉によってバテレン追放令が出され、司祭たちは次々と大阪を去っていくことになる。ガラシャは彼らが大阪を去る前に洗礼を受けることを強く望んだが、しかしだからと言ってオルガンティーノやセスペデスが細川屋敷に行くことも簡単ではなかった。そこでガラシャは長持ちの中に隠れて教会に行くという危険を犯そうとしたが、あまりにも危険な行動だと感じた司祭たちがそれを制止したと言う。

しかし清原マリアによってガラシャたちは屋敷から出ることなく無事洗礼を受けることができた。そしてこの日から慶長5年(1600年)までの13年間を、玉はガラシャとして、キリシタンとして生きることになっていく。しかしキリシタンになったことで彼女の運命はさらに過酷なものとなり、関ヶ原の戦いを直前に控え、ガラシャは壮絶な最期を迎えることになっていく。

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明智光秀の正室の名は煕子(ひろこ)と伝えられているが、この名前は正確に伝えられてきた名前ではなく、『氷点』などで知られる故三浦綾子さんが書かれた『細川ガラシャ夫人』という1975年に発表された小説以来、煕子という名で周知されていったようだ。それ以前はお牧の方や、伏屋姫と呼ばれていたようだが、これらに関しても正確な名であるという資料は残されていない。ただはっきりしているのは、妻木範煕の娘ということだけで、三浦綾子さんはこの父親の名から煕子と設定されたようだ。

幼馴染みだった明智光秀と煕子

光秀が生まれた当時の明智家は決して大きな力は持ち合わせておらず、美濃の小土豪に過ぎなかった。光秀自身も明智家の居館で生まれることはなかったようで、高木家の居城だった美濃の多羅城で生まれている。そして幼少期は妻木家の庇護を受けながら成長したようだ。だが幼少期の彦太郎ことのちの明智光秀は周囲からの評価は非常に高く、斎藤道三をして「万人の将となる人相」をしていたと言う。

そのようなこともあり彦太郎は妻木家からある程度安定した生活を送れるだけの庇護を受けながら育ち、自然な流れとして、元服した明智十兵衛光秀は幼馴染みでもあった妻木範煕の娘、煕子(便宜上そう呼ぶことにする)を娶った。弘治2年(1556年)に斎藤義龍によって明智城を落とされ越前に落ちた際煕子は身籠っていたというから、二人の婚姻は少なくとも1556年以前ということになるわけだが、正確な日付を知ることのできる資料はまだ発見されてはいないようだ。ただ、弘治2年に光秀はすでに29歳だったと言われていることから、婚姻関係を結んだのは一般的にはその10年以上前のことだと思われる。

黒髪を売って光秀を支えたと伝えられる煕子

光秀が越前の朝倉氏に出仕していた頃、光秀は歌会を催すための資金繰りに悩んでいた。その際に煕子が黒髪を売ってお金の工面をしたというエピソードが伝えられているが、これは後年の創作である可能性が非常に高い。まず妻木氏はこの当時、小土豪だった明智家を保護できるだけの力を持っていた。それだけ力を持った家の娘が仮にお金を工面するために黒髪を売ったとなれば、光秀としては妻木家の面汚しとなってしまう。あくまでも筆者の想像ではあるが、恐らくは黒髪を売ったのではなく、売ろうとしただけではなかっただろうか。そしてそうせざるを得ない窮状を父に相談し、実際には煕子の父親である妻木範煕(広忠と同一人物である可能性もある)が支援したと考える方が自然に感じられる。

通常女性が黒髪を切ったり剃髪するのは出家した時だ。しかし煕子は出家などしていないため、仮に出家していないのに髪を切り法師頭巾などを被っていれば、これは戦国時代では非常に不自然な光景として映ってしまう。そのため煕子の実家がそうなることを決して許さなかったはずだ。もちろん実際に髪を売ってお金を工面したのかもしれないが、しかし時代と、妻木家と光秀の力関係を鑑みるならば、煕子の実家が支援したと考える方が自然ではないだろうか。

光秀に深く愛され続けた煕子

煕子は天正4年(1576年)に病死したと伝えられているが、しかしこれについても真実であるかは確信することはできない。『西教寺塔頭実成坊過去帳』に記されているこの情報の信憑性は低くはないと思うわけだが、一方『川角太閤記』では本能寺の変後、明智秀満が光秀の妻子を介錯した後に自刃とも書かれており、情報が一致しない。ちなみに『川角太閤記』とは川角三郎右衛門が江戸時代初期に、当時を知る武士たちに直接話を聞くことによってまとめた、本能寺の変から関ヶ原の戦いまでの豊臣秀吉、豊臣家の伝記とされている。江戸時代初期という、まだ本能寺の変を知る人物が多く生きる時代に書かれているため、他の軍記物とは異なり信憑性はあるように感じられる。

天正4年に病死したのか、それとも天正10年に秀満により介錯されたのか、どちらが真実なのかは今となってはわからない。しかしただ一つ間違いなく言えることは、煕子は光秀によって深く愛されていたということだ。煕子が病に伏せれば手厚く看病をしたり、吉田兼見に診療を依頼したりした。そして病により顔に痣のようなものが残ってしまっても、光秀はまったく気にすることなく煕子を大切にしたという。その光秀にも側室がいたという言い伝えもあるようだが、一般的には煕子が存命中は側室は持たなかったという説が広く伝えられている。この言い伝えからすると、秀満が介錯した光秀の妻は後妻という可能性もあるわけだが、筆者はまだそこまで調べ切ることができていない。もしこれに関する資料をどこかで読むことができれば、またここで書き伝えたいと思う。

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明智光秀という人物は、実は羽柴秀吉と大差のない状況から立身出世した人物だった。羽柴秀吉は農民から出世街道に乗って行ったため、家臣は0というところから武士人生をスタートさせている。もちろん明智光秀の場合は農民ではなく小土豪だったわけだが、武士としての親族はいたものの、家臣と呼べるほどの家臣の存在は秀吉同様にほとんど0に近いところからの始まりだった。そこで今回は、明智光秀の身近に存在していた人物たちを備忘録的に記録しておきたい。

血縁者

明智光隆
光秀の父親。別名・明智光綱、明智玄蕃頭(げんばのかみ)
天文11〜14年(1542〜1545年)に土岐一族が斎藤道三の下剋上に遭った際に戦死。

明智光安
光隆の弟で、光秀にとっては叔父。光隆死去後は、光安が光秀の後見人を務めた。妹が斎藤道三の継室(小見の方・おみのかた)だったこともあり、斎藤義龍が父道三を討った戦で道三側に与し、稲葉一鉄らと戦い戦死している。

小見の方
光隆・光安の妹で、光秀にとっては叔母。小見の方と斎藤道三の間に生まれた帰蝶(濃姫)は織田信長の正室となっている。つまり織田信長は光秀にとっては義理の従兄弟だった。

煕子
光秀の正室。妻木範煕の娘。光秀がまだ立身出世を果たす前、煕子が黒髪を売って光秀を財政的に支えたと言う逸話が残されているが、これは後世の創作である可能性が高い。実際には妻木範煕が光秀を経済的に支えていた。

明智光忠
光秀の父・光隆の弟である明智光久の子。光秀にとっては血の繋がった従兄弟。光忠は、光秀が最も信頼した家臣の一人で、光秀の娘を娶っている。

明智光久
光隆の弟で、光秀にとっては叔父。光忠の父。斎藤道三に与したことで明智城を斎藤義龍に攻められた際、自らは最後の最後まで籠城して戦い、光秀たちを脱出させた。しかし光久自身はその戦いの最中に戦死。

明智光慶
明智光秀の嫡男。本能寺の変後については諸説あり定かではない。坂本城で討ち死にしたという説や、僧として生き続けたという説がある。

細川ガラシャ
洗礼を受ける前は玉、もしくは珠。明智光秀の娘であり、光秀の盟友細川藤孝の嫡男忠興に嫁いだ。関ヶ原の戦い直前、石田三成の人質となった際にそれを嫌い命を絶った。

光秀の次男(名前不詳)
名前は明らかにはなっていないが、筒井順慶の養子になっていたらしい。

非血縁者

斎藤利三
明智光秀が最も信頼を寄せた家臣。斎藤道三の血縁者というわけではなく、美濃の守護代だった別の斎藤家の血筋。母親が光秀の叔母だったという説もある。利三の兄である石谷頼辰(いしがいよりとき)の義理の妹が長宗我部元親の正室だった。利三はかつて稲葉一鉄や織田信長の与力となっていたが、それぞれと何らかの衝突があり、最終的に光秀の臣下に加わった。最期は山崎の合戦後に明智半左衛門によって捕縛され、六条河原で処刑された。

明智秀満
別名は左馬之助光春。光秀の娘婿。元の名は三宅弥平次で、光秀の娘を娶った後、明智秀満と改名した。美濃の塗師の家に生まれた人物という説の信憑性が高いらしい。実はこの妻、元々は荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたのだが、村重が信長に反旗を翻した際、村重が光秀の心中を慮り、光秀の元に返していた。その後秀満に嫁いだ。秀満は本能寺の変後の坂本城で自らの妻、そして煕子ら光秀の親族が捕縛され辱めを受けないように刺殺した後、自刃。

織田信澄
光秀の臣下だったわけではないが、光秀の娘が信長の命により信澄に嫁いでいた。織田信澄とは、織田信長の弟信行の子。信行は家督を争った際、信長に討たれている。光秀の娘を娶っており、居城も坂本城に近かったことがあり、本能寺の変の首謀者の一人として疑われ、織田信孝・丹羽長秀軍により釈明する間も無く討たれてしまう。

溝尾庄兵衛尉(しょうべえのじょう)
別名は三沢秀次との説あり。山崎の合戦後、負傷したことにより自刃を余儀なくされた光秀を介錯し、その後坂本城まで戻り自らも自刃。光秀が信長に仕える以前から光秀に仕えていた古参。

藤田伝五
藤田伝五も、光秀が信長に使える前から光秀に仕えていた。しかし山崎の合戦で負傷し、その翌日に自刃。

可児才蔵
美濃出身で「槍の才蔵」として知られた槍の名手。福島正則に与する以前、光秀の臣下になっていた時期があったらしい。

明智半左衛門
元の名は猪飼野秀貞(いかいのひでさだ)と言う近江出身者で、光秀の臣下になった際に明智半左衛門と名乗るようになったが、本能寺の変では光秀に与することなく、斎藤利三を捕縛し、羽柴秀吉に差し出している。

明智孫十郎
本能寺の変の際、織田信忠が立て籠もる二条城を攻めた際に戦死。

明智掃部(かもん)
詳細は不明だが『天王寺屋会記』に光秀の家臣としてその名が登場する。

明智千代丸
光秀が八上城を攻めた際、最後の最後まで波多野家に忠義を尽くし戦死した小畠国明の遺児。光秀は国明の忠義を称し、まだ幼かった国明の子に明智姓を与えた。

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1600年9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍は、徳川家康率いる東軍に一瞬のうちに敗れてしまった。この戦いで真田昌幸・信繁父子は西軍に味方し、真田信幸は東軍に付いていた。東軍諸将の目に信幸は、父親を裏切ってまで家康に味方した功労者として写っていた。事実徳川家康も父親と袂を分かってまで東軍に味方したことを労っている。


関ヶ原の戦いが終わると論功行賞で信幸は沼田・上田領9万5000石の大名に処せられた。関ヶ原以前は2万7000石だったため、所領は一気に3倍以上に膨らんだことになる。そしてこの頃、真田信幸は諱を信之と改めた。定説としては家康に忠義を誓うために父昌幸の「幸」の字を捨てたと言われている。だが本当にそうだろうか。

確かに松代藩初代藩主信之と、二代目藩主真田信政は「幸」の字を使わなかった。だが三代目藩主からは真田幸道と「幸」の字がすぐに復活しているのである。もし信之が本当に家康への忠義のために「幸」の字を捨てたのであれば、信之系譜の真田家の子孫にも「幸」の字は使わせなかったはずだ。

江戸幕府に於いて徳川家康は神として崇められていた。三代目藩主の代と言えば、まだまだ家康の威光が強く残っていた頃だ。その頃に「幸」の字が復活しているということは、これはもしかしたら家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないのではないだろうか。

逆に、父真田昌幸に対し罪悪感を覚えていたからこそ「幸」の字を使い続けることができなかったのではないだろうか。真田昌幸は豊臣秀吉から表裏比興の者と呼ばれるほど智謀に長けた、まさに戦国時代を象徴するような人物だった。一方真田信之は非常に義理堅く信義に厚い武将として知られている。つまり信之は非常に誠実な人物だったのだ。

信之のその人柄を思うならば、家康に忠義を示したというよりは、昌幸への罪悪感により「幸」の字を自身の諱から消したと考える方がしっくり行くような気がする。戦国時代で最も強い影響力を持っていたのは父親だった。子は父親に逆らうことは決して許されない時代であり、信之は真田家を守るためとは言え、その掟を破ったことになる。

その罪悪感から「幸」の字を捨て、さらには命を賭してまで父昌幸と弟信繁の赦免を大坂の陣が始まるまで求め続けたのではないだろうか。そして父と弟が九度山に幽閉されていた頃も、決して援助を絶やすことはしなかったという。

家康が時に残酷な智謀を用いることは信之もよく知っているはずだった。それでも信之は父と弟と運命を共にすることはせず、真田の家を守るために家康に味方をするという決断を下した。信義に厚い信之の人柄を思うならば、この決断はまさに断腸の思いであったはずだ。父の落胆ぶりにも心を痛めたことだろう。

真実に関しては今となっては知りようもない。だが三代目藩主から早々に「幸」の字が復活している事実を見つめれば、これは決して家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないと思えるようになる。もし本当に家康に対する忠義により「幸」の字を捨てたのであれば、松代藩を預かっている限り真田家で「幸」の字を使うことはなかったはずだ。

しかし大坂の陣を前にし、信之が心を千切る思いで捨てた「幸」の字を信繁が拾った。まる兄信之の心の痛みを背負い預かるかのように信繁最期の戦いとなった大阪の陣、信繁は真田幸村と名乗り徳川家康と戦ったのだった。敵味方となっても、家が二つに分裂しても、最後は心で真田家は一つに戻ったのである。
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関ヶ原の戦いの直前、真田家は二つに分裂することになる。世に言う『犬伏の別れ』となるわけだが、真田昌幸・信繁父子は上杉景勝に味方し、真田信幸は徳川家康に味方することとなった。さて、二つに分裂したと上述したが、しかし実際には分裂してしまったわけではなかった。実は犬伏の別れの前から、真田家は二つに分かれていたのである。


関ヶ原の戦い直前の時点で、真田昌幸は上田城、真田信幸は沼田城を居城とし、それぞれ独立した大名としての立ち位置となっていた。沼田城は一時北条家の城となっていたが、小田原征伐により北条が滅ぶと沼田は徳川の城となった。この時の真田家は徳川家の与力とされていたのだが、北条家滅亡後、沼田城は徳川家康によって真田信幸に与えられ、この時から信幸は正式に徳川家付属の大名となったのである。関ヶ原の戦い10年前の出来事だった。

通説では、関ヶ原の戦いで東軍・西軍のどちらが勝利しても真田家が存続するよう、昌幸があえて真田家を東西に振り分けた、と語られているものもある。だがこれは史実とは異なる。関ヶ原の戦い時点で、真田昌幸と真田信幸は父子という間柄ではあるものの、それぞれ独立した別個の大名家だった。つまりこの時の昌幸には、信幸の行動をコントロールする権限はなかったのである。

だが信幸はしきりに父昌幸に、徳川家に味方するようにと説得を繰り返した。この交渉は第二次上田合戦が開戦するまで続けられたが、昌幸の家康嫌いは半端ではなかった。最後の最後まで首を縦に振ることはなく、恩義を感じていた上杉景勝に味方する道を選んだ。元はと言えば上杉景勝の助力がなければ、沼田城はもっと早くに真田の手から離れてしまっていた。沼田を守るために力を貸してくれた景勝に対し、昌幸は味方すると決意していたのだ。

ちなみに縁戚関係が犬伏の別れに繋がったとする説もある。真田昌幸の正室と西軍石田三成の正室は姉妹であり、真田信繁の正室は西軍大谷吉継の娘だった。そして真田信幸の正室は東軍本多忠勝の娘。これにより真田家が東西に別れたとする説もあるが、戦国時代で最も優先されるのは家を守ることであり、婚姻のほとんどは家を強くするための政略結婚だった。

そのためもし婚姻関係が家を守るために足枷となるようであれば、離縁させることも日常茶飯事だった。つまり婚姻関係だけでどちらの味方に付くか判断することは、当時一般的にはなかったことだ。ただし人質を取られている場合は話は別だ。人質を取られていてはそちらに味方するしかなくなってしまう。

真田昌幸からすれば上杉景勝は沼田を守るために力を貸してくれた盟友。家康が上杉討伐に出かけた隙を突き、上杉と共に南北から家康を挟み撃ちにしたいと考えていた。こうして家康を討つことこそが、真田家を守る最善の策だと考えていた。

一方の真田信幸は、家康は沼田城を与えてくれ、自分を独立大名として取り立ててくれた恩義ある大大名だった。しかも秀吉の死後、最も力を持っている人物が家康であり、家康に歯向かえば他家など簡単に潰せてしまうほどだった。上杉家にしても、もし徳川家と単独で戦えば、当時の上杉家には徳川に勝つ力などなかった。だからこそ信幸は家康に味方することによって真田家を守ろうとしたのである。

これが犬伏の別れを生み出してしまった真相だ。通説のように昌幸と信幸が喧嘩別れしたわけでも、婚姻関係に縛られたわけでもない。それぞれ独立する大名となっていた真田昌幸と真田信幸父子が、真田家を守るための最善策をぶつけ合い、結果的に折り合いがつかず真田家は二通りの道を取ることになってしまったのである。
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関ヶ原の戦いで徳川家と戦った真田昌幸と真田信繁は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いには参加していないのである。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。


関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身、真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。一方徳川家の家臣たちの多くは、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。

だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることがなかったようだ。

父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。

『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかったようだ。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす:殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていたようだ。

信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信はもともと真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。

ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である信之も切腹するのが筋、というのが信之の気持ちだった。

結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまった。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかはわからない。

徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。

真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまった。
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真田家と言えば幸隆、昌幸、信繁(幸村)ばかりが注目されるが、実はもう一人隠れた名将の存在がある。それは信繁の兄である真田信幸だ。真田信幸は信濃の上田藩、松代藩それぞれの初代藩主となり、真田の名を後世にまで残し続けた武将だった。関ヶ原の戦いでは父、弟と袂を別つ覚悟を決め東軍に味方した。だがこの判断が真田の名を残す結果に繋がった。


武勇伝では弟である真田信繁ほど目立った逸話は残されていない。だが真田信幸は実は、父や弟を凌ぐほどの槍働きをした武将なのである。それは天正10年(1582年)8月、つまり本能寺の変から2ヵ月後のことだった。

本能寺の変により激動していた信濃に於いて、いよいよ北条が真田の沼田城奪取に本腰を入れた。北条はまず5000人の兵を率いて手子丸城を攻めた。手子丸城を守っていた大戸真楽斎(おおとしんらくさい)は奮闘するものの数の上で北条に圧倒され、最後は手子丸城に籠城し、自刃し果ててしまった。結局わずか3日で手子丸城は北条の手に落ちてしまった。

この時17歳の真田信幸は岩櫃城を任されていた。北条はこのまま沼田を攻めるか、その前に岩櫃城を攻めるかを悩んでいた。
すると信幸はその考えている隙を突くような見事な判断力と攻めを見せたのである。北条5000に対し信幸の軍勢は800でしかなかった。まともに戦ったのでは勝ち目はない。

信幸は唐沢玄蕃に自らの鎧を着させ出陣させた。すると北条方は唐沢玄蕃を真田信幸だと勘違いし追い駆けていく。そして追い駆けていくその横腹を狙うかのように、隠れていた信幸本隊が北条勢に攻めかかった。陣形の真横から突かれたことにより北条勢は統制を失ってしまう。

しかも信幸と勘違いし唐沢玄蕃を追い駆けて行った北条勢は戻って来られない状況になり、北条5000の大群は散り散りになってしまった。すると信幸は知り尽くした手子丸城の穴を突き手勢を手子丸城内に侵入させ、放火をさせながら「味方に裏切り者が出た!」と吹聴して回らせた。

これにより手子丸城内の北条勢はパニックに陥り、同士討ちをしてしまうほどの始末となった。北条勢の統率はまったくなくなってしまい、逃亡する者も続出した。

この時真田勢の中に、信幸と同じ年齢の一場茂右衛門という若武者がいた。彼は皆に混じって戦おうとはせず、戸口の前にずっと立っていた。そして戸を開けて北条勢が手子丸城から出てきたところを狙い、次々と斬り捨てていった。一人で17人の首を討ち取ったという。

5000の北条勢は総崩れとなってしまった。しかも相手はたった800の軍勢であり、この戦いで北条勢が破れることなど誰も想像していなかった。だが真田信幸はわずか800の軍勢のみで5000の北条勢と戦い勝利し、しかも奪われていた手子丸城をすぐに奪還して見せたのだった。この活躍には父昌幸も大いに感服したようで、信幸に対し太刀や脇差し与えたという。

なおこの戦いで北条勢として戦った富永主膳は、のちに徳川政権の奉行衆となった。そして信幸と味方同士になると、この時の手子丸城の戦いでの信幸の奮闘振りを皆に対し語って聞かせたらしい。敵だった富永主膳から見ても、この戦いでの真田信幸の采配は見事だったようだ。

真田家の中ではあまり目立たない信幸ではあるが、このように5000人の敵をわずか800人で撃退し城を奪還するなどの槍働きも見せていた。軍略家として優れていたのは父や弟だけではなかった。信幸もまた、17歳の頃から優れた軍略家としての姿を見せていたのである。