「長良川の戦い」と一致するもの

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斎藤道三と斎藤義龍父子の仲は、最終的には長良川で戦火を交えるほど険悪なものへとなっていく。この長良川での戦い以降、明智家は斎藤道三に味方していたものと思われている。だが反対に、明智家が土岐家を追放に追いやった道三に味方するはずはない、という見方をしている史家もいる。だが正確な資料が残されていない上では、明智家が実際にはどちらの味方をしたのかを断言することはできない。

明智家は本当は道三と義龍のどちらに味方したのか?!

『明智軍記』を参考にするならば、どうやら明智光安(光秀の叔父)が城主を務める明智城は道三側に付いていたようだ。ただし『明智軍記』は本能寺の変から100年以上経ったのちに書かれたものであるため、情報が正確ではない記述も多々ある。そのためこれを信頼し得る情報だとは言い切れないわけだが、しかし今回は『明智軍記』の記述も参考にしていきたい。

ここで明智家が斎藤道三に味方するはずがないという論理も合わせて見ておくと、斎藤道三は光秀が再興を夢見た土岐家を美濃から追いやった人物だった。その人物に味方するなど考えられない、という論理であるわけだが、筆者は個人的にはそうは思わない。戦国時代は力を持つ者こそが正義だった。つまり力がなければ、力を持つものに従うしかない。

さらに言えば斎藤道三の正室である小見の方は、光秀の叔母だったとされている。となれば、血縁者の側に味方するのは自然であったとも言える。光秀は家を何よりも大切に考えていた人物だ。それならば明智家の血縁者である小見の方を正室に迎えている道三に味方する方が自然に見え、『明智軍記』に書かれていることにも違和感を覚えることはない。

幼少期から光秀に一目置いていた斎藤道三

長良川の戦いが起こったこの頃、明智光秀はまだまだ土岐家の再興を現実的に考えられるような状況ではなかった。明智家は武家とは言え最下層とも言える家柄で、武家というよりは土豪に近い水準にまで成り下がっていた。このような状況では土岐家のことまで心配することなどとてもできなかったはずだ。

そもそも斎藤道三は明智光秀には幼少の頃から一目置いており、彦太郎(光秀の幼名)に対し「万人の将となる人相がある」と言ったとも記録されている。このような関係性があったことからも、道三と義龍が戦った際、明智家が道三に味方したと考えることに不自然さはないようにも思える。

斎藤義龍の父親は斎藤道三と土岐頼芸のどっちだったのか?!

斎藤義龍は長良川で父道三を討った後に明智城を攻め落とした。この戦いで明智光安が討ち死にし、光秀ら明智一族は越前へと亡命するしかなくなってしまった。ではなぜその亡命先が越前だったのか?明智光秀の父明智玄播頭(げんばのかみ)こと明智光隆の妻は、若狭の武田義統の妹だった。そしてこの武田家は越前朝倉家に従属していた。恐らくはこの武田家を通じ、当時は非常に裕福だった越前に仕官を求めたのではないだろうか。

ちなみに斎藤義龍には土岐頼芸の子であったという説もあるが、斎藤道三の子であったことが記された書状なども残されており、その信憑性は低いようだ。仮に義龍が本当に頼芸の子だったならば、光秀が義龍に味方することが自然にも思えるが、しかしそうしなかったということは、やはり義龍は道三の子だったのではないだろうか。

義龍は父道三を討った後、中国で同じようにやむなく父親を殺害した人物から名を取り范可(はんか)と名乗るようになった。また、父親殺しの汚名を避けるためか道三を討つ際は一色を名乗っていたようだ。これらのことを踏まえるならば、もし義龍が本当に頼芸の子で、道三の子ではないのだとすれば、范可という名も一色という名も名乗る必要はなかったはずだ。

道三は小見の方を娶った後に明智城を攻めたのか!?

このように総合的に考えていくと、斎藤義龍の父親はやはり斎藤道三で、義龍は弟たちに寵愛を示していた道三によって廃嫡される可能性があったために、土岐氏を美濃から追放した極悪人を討伐するという名目によって長良川の戦いへと発展していったと考えられる。そしてかつての主君に忠誠を誓っていた安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の美濃三人衆は道三に対し良い印象を持ってはおらず、長良川ではこの美濃最大の有力者たち3人が義龍側に付くことにより、道三はあっけない最期を迎えることになってしまう。

そして光秀の叔母である小見の方が道三の正室だった明智家としては、その小見の方を見捨てることなどできず、感情はどうあれ道三に味方するしかなかったのではないだろうか。ちなみに小見の方は天文元年(1532年)に道三(当時の名は長井規秀)に嫁いでいる。だが『細川家記』によれば、光秀の父である玄播頭は土岐家が道三に敗れた戦で道三に明智城を攻められ討ち死にしているらしいのだが、信憑性に関しては確かとは言えないらしい。

確かに明智家から小見の方を娶り、その後で明智城を攻め、なお小見の方を正室にし続けたとなると、やや辻褄が合わなくなる。となると光秀の父はもしかしたら、土岐家と斎藤道三による抗争とは無関係の戦で戦死したのではないだろうか。だとすれば辻褄も合う。

明智城を守る明智光安の苦悩

こうして考えていくと、やはり小見の方が道三に輿入れした天文元年以降、明智家は道三側とは一貫して良好な関係を維持していたのではないだろうか。そう考えなければ、圧倒的な兵力差がある中で明智家が義龍側ではなく、あえて道三側に味方した理由も、義龍が明智家を明智城から追いやった理由も説明がつかなくなる。

確かに斎藤道三はかつての主君である土岐家を美濃から追放した人物だ。しかし世は戦乱だったとしても、明智城を守る光秀の叔父光安としては、妹である小見の方を見捨てることなどできなかったのだろう。そう考えるともしかしたら長良川の戦い以降、明智家は明らかに道三に味方したわけではなく、立場を鮮明にせず自らに味方しなかったために業を煮やした義龍によって明智城を攻められたのかもしれない。だが今となってはその真実を知るすべはない。

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『麒麟がくる』の3回目放送「美濃の国」では、斎藤高政(のちの義龍)と明智十兵衛光秀の友情シーンが描かれた。これは恐らくはフィクションという枠に入るのだと思う。まず史実で、高政と十兵衛が共に学び育ったという記録は残されてはいない。そして後々の出来事を考えると、その後々の出来事のドラマを盛り上げるために、今高政と十兵衛を親友のように描いているのかもしれない、と筆者は感じた。

双六はモノポリーではなくバックギャモン?

さて、劇中では双六(すごろく)がよく登場する。医師の望月東庵は近所に住む少女と双六を楽しむのが好きだし、十兵衛は子どもの頃、帰蝶に双六で51戦51敗したという。この双六だが、現代では人生ゲームやモノポリーのようなものを想像するわけだが、戦国時代の双六はそのような形態ではなく、バックギャモンを双六と呼んでいた。

元々は中国に伝わる陣地取りゲームが日本に伝わり、同様にヨーロッパに伝わるとバックギャモンと呼ばれるようになったらしい。なので『麒麟がくる』の劇中で双六の話になったら、それはバックギャモンのことだと思っておくと良いかもしれない。

戦国時代は婚姻と離縁が繰り返されていた

さて、第2回放送では帰蝶の夫である土岐頼純が斎藤利政(のちの道三)によって毒殺された。帰蝶は織田信長の正室として後に濃姫(美濃の姫)と呼ばれ有名になっていくわけだが、どうやら信長に嫁ぐ前は土岐頼純に嫁いでいたと思われているらしい。それを示す決定的な資料が残されているわけではないようなのだが、断片的な資料を繋げていくと、「どうやら帰蝶は土岐頼純に嫁いでいたようだ」というのが史家の見解であるらしい。

ちなみに戦国時代は、婚姻と離縁(離婚)は度々繰り返されることがあった。武家にとっては離縁は決して珍しいことではなく、比較的簡単に行われていた。例えば戦国時代は家臣に力を持たせないように時々国替えと言って、治める土地を変更させられることがあったのだが、国替えが行われると離縁して妻は連れて行かず、国替えした土地でまた新たに妻を娶るということが普通に行われていた。

そして戦国時代の婚姻は単純に政略として利用されることがほとんどで、帰蝶の場合ももちろんそうだった。斎藤利政は土岐家に近付くために娘を頼純に嫁がせた。そして頼純には利用価値がないと見るや否や毒殺し、後年今度は帰蝶を尾張の織田信長に嫁がせている。ちなみにこのように婚姻と離縁が繰り返されていたため、キリスト教のパードレ(宣教師)たちは布教に苦心したようだ。なぜならカトリック法では離婚が禁止されているからだ。

光秀と高政の友情の行方

ネタバレになってしまうため、ここではまだ先々の史実に関しては書けないわけだが、明智十兵衛光秀と斎藤高政の友情は果たしてどのように描かれていくのだろうか。筆者個人の感想としては、光秀と高政が親友のような関係で描かれていることにはかなり意表を突かれた。斎藤利政は幼少期の光秀のことを知っているため(それを示す資料が残されている)、確かに利政の子である高政と光秀が幼馴染だった可能性はある。だがまさかこのように描かれるとは思わなかった。

果たして長良川の戦い以降、この友情がどのように描かれていくのだろうか。ここから史実通りに描いていくのか、それとも更なる驚きの描かれ方がなされていくのか。恐らくは桜が咲く頃にはその辺りのことが劇中に描かれていくのだと思うが、今からそれがどう描かれていくのか、筆者は大いに待ち遠しく思っているのである。

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これはあくまでも筆者個人が立てた明智光秀に関する仮説に過ぎず、実際のところどうだったのかということなど、今となっては誰も知ることはできない。しかし筆者は思うのである。明智光秀は、もしかしたら織田家に仕官した頃から本能寺の変を企てていたのではないだろうかと。

お家騒動が繰り返されていた美濃国

明智光秀という人物は、土岐家の再興に情熱を燃やしていた人物だとされている。ではそもそも光秀の時代、土岐家はどういう状況になっていたのか?簡単に説明をすると、土岐頼芸(よりあき、よりのり、よりよし、よりなり、など読み方多数)の頃、土岐家は家督相続にて内紛状態にあった。最終的には頼芸が家督を継ぐわけだが、しかし凋落しかけていた土岐家はこの内紛によって更に力を失っていた。そこを家臣であった斎藤道三に突かれて美濃を強奪され、頼芸は尾張に追われてしまった。いわゆる下剋上に遭ったというわけだ。

すると今度は土岐家を乗っ取った斎藤家にもお家騒動が勃発し、父道三と子の義龍が戦い、道三は長良川の戦いで戦死してしまう。そしてこの時道三側に与していた明智家は義龍によって明智城を落とされ、光秀は命からがら美濃を脱出するという憂き目に遭ってしまう。だが義龍の子、龍興の代になるとまもなく、斎藤家は織田信長によって滅ぼされてしまった。

仇討ちをしたくてもできる状況ではなかった当時の光秀

土岐家を滅亡に追いやった斎藤家のお家騒動により、光秀は多くの血縁者を失った。しかし仇を討つにももう斎藤家は存在しない。残ったのは道三の娘帰蝶を娶っていた織田信長だけだった。道三は土岐家にとっては憎んでも憎み切れない仇敵だったわけだが、土岐家や親族の仇を討とうにももう斎藤家は存在していない。ちなみに道三は頼芸を美濃から追放するだけではなく、尾張に亡命していた頼芸を織田信秀(信長の父)と結託することにより、今度は尾張からも追放してしまった。これではもう土岐家の怒りも収まろうはずはない。

つまり斎藤家だけではなく、土岐家にとっては織田家も同様に仇敵と呼べる存在だったのだ。だがこの頃の光秀には土岐家や親族の仇討ちをできるような力はまったくなかった。美濃を追われた後は越前朝倉氏に仕官したものの、その後5年は放浪の旅に出ており、妻の実家である妻木家からの経済援助を受けているような状態だった。とてもじゃないが美濃・尾張の二国を有する織田信長を討つことなど不可能だ。

仇敵のもとで力を蓄え続けた明智光秀

その後光秀は足利義昭の臣下として土岐家の仇敵である織田信長に近付いていく。そして信長と義昭が不仲になると、光秀は義昭ではなく、信長の臣下として知行を得るようになった。だがこの頃すでに、光秀の頭の中には土岐家の恨みを晴らすための考えが渦巻いていたのではないだろうか。もちろんこれを証明することは不可能であるわけだが、心理面を想像すると、決してありえない話ではないと思う。

光秀は有力大名となっていた信長から禄を得ながら力を蓄えた。それこそ身を粉にして働き、誰もが反対した比叡山の焼き討ちが行われた際も、光秀は率先して刀を振ったと言われている。その功績により光秀は、比叡山の僧侶が所有していた土地の多くを信長から与えられている。そしてその後も光秀は、信長からひっきりになしに命を受け続け、織田家の誰よりも信長に尽くし、流浪の身から織田家の実質ナンバー2になるほどの大出世を遂げていた。

天下人となる目前だった織田信長を討った光秀

斎藤家が滅んでしまった今、斎藤家に対し仇討ちを仕掛けることはできない。だが斎藤家同様に土岐家の仇敵となっていた織田家は全盛期を迎えていた。本能寺の変が起こる頃の信長は、天下布武の旗印のもと天下統一を目前に控えていた。その織田を討てば土岐家だけではなく、斎藤家によって殺されていった多くの親族たちも浮かばれる、光秀がそう考えていたとしても不思議ではないのではないだろうか。

もしかしたら光秀は信長の臣下になって以来、虎視眈々と仇討ちの機会を狙っていたのかもしれない。そしてそれを可能にするためには、とにかく信長から疑いをかけられるようなことの一切を避けなければならない。だからこそ光秀は、どんな無理難題を信長から突きつけられても平静を装い続けたのではないだろうか。さらには光秀は家臣全員に対し「織田家の宿老や馬廻衆とすれ違う際は脇によって必ず道を譲るように」という触れも出すほど、織田家との関係維持に神経質になっていた。流石の織田家臣団も、ここまで徹底する者は他にはいなかったようだ。

「是非に及ばず」という言葉の裏を読む

そして天正10年(1582年)6月2日、ついにその機会が光秀のもとに巡ってきた。信長は京の本能寺に宿泊し、護衛もほとんど付けていない状態だった。そして光秀の本拠地である坂本城は京の目と鼻の先にある。信長としては、万が一の事態が起こっても明智隊がすぐに救援に駆けつけられるという安心感もあったのだろう。だがこの本能寺が襲われた時に見えたのは桔梗紋だった。

もしかしたら信長は心のどこかで、織田・斎藤両家は土岐家の仇敵であり、それは光秀も当然忘れてはいないであろうことを理解していたのかもしれない。もちろんそんな話が二人の間でなされたことはないだろうが、しかし桔梗紋を見れば光秀が土岐氏源流の家柄にあることは一目でわかることだ。だからこそ信長は本能寺で桔梗紋を目の当たりにした際も、「是非に及ばず」という、まるで光秀のこれまでの異常なまでの忠臣振りがようやく腑に落ちたとでも言うような最期の言葉を残したのかもしれない。

計画性がまったくなかった本能寺の変

本能寺の変はほとんど思いつきのような討ち入りだった。計画性がまったくない討ち入りであり、その証拠に光秀が信長を討った後、光秀の盟友であるはずの細川藤孝、筒井順慶がまったく光秀に味方しようとはしていない。光秀に大きな借りができたはずの長宗我部元親でさえも、光秀の救援に向かう素振りは一切見せてはいない。このような状況証拠からも、光秀は天下が欲しかったのではなく、あくまでも土岐家と親族の仇討ちを果たすべくこの機会を利用したのではないかと筆者には感じられる。

仮に光秀が天下を欲しがったのならば、光秀の緻密な性格からすればもっと下準備をしていたはずだ。例えば長宗我部家と手を組み、さらには細川家と筒井家のどちからでも光秀に与してくれていれば、光秀が秀吉に討たれることもなかったはずだ。単純に長宗我部元親が少しでも牽制姿勢を見せていれば、秀吉は四国に背を向けることなどできなくなり、とても中国大返しを実行できるような状況でもなくなる。だが誰一人、光秀の味方をする大名は現れなかった。さらに言えば光秀がもし天下を狙っているのだとすれば、織田家の宿敵である毛利家とも手を結ぶことができたはずだ。だがこれに関してもそのような交渉が行われた形跡は一切残っていない。

一族の誉れのためにとった光秀の行動が一転逆賊のそれに

こうして考えていくとやはり、光秀の目的は天下ではなく仇討ちだったのではないだろうか、という印象の方が強くなっていく。ちなみに光秀は悪人ではない。斎藤道三や松永久秀のように、平気な顔で闇を歩けるような人柄ではなかった。民からも臣下からも慕われた大名で、その証拠に民が光秀を祀った首塚がいたるところに残されている。仮に慕われていなければ、誰が光秀の魂を各所で祀ろうなどと考えるだろうか。

今回の巻はあくまでも筆者個人の心理的推察に過ぎないわけだが、しかしまったくあり得ない話でもないと思う。だが皮肉なことに一族の誉れのために取った光秀の行動は逆賊のそれだと判断されてしまい、後世の明智一族はまったく別の姓を名乗ったり、明田(あけた)という姓を名乗ることによって、逆賊としての汚名から逃れようとした。だが仮に成功していたとしたら、明智光秀は主家の再興を成し遂げた英雄として語り継がれていたのだろう。

saito.gif斎藤道三は11歳で京の妙覚寺で僧侶となり、法蓮房と名乗った。だがその後還俗して松波庄五郎と名乗り、油屋だった奈良屋又兵衛の娘を娶り、山崎屋という称号で油売り商人となった。しかもただの商人ではなく、一文銭の穴を通して油を注ぎ、一滴でも溢れたら代金は取らないという手法で売り歩いていた。これが美濃で評判となり、庄五郎は財を成していく。

だがある日、当時美濃の国主だった土岐氏の家臣、矢野という名の武士に「その技術は素晴らしいが所詮商人のものだ。だがそれを武芸に繋げられれば、立派な武士になれるだろう」と称えられ、庄五郎は武芸の道に進むことを決意する。その後土岐氏臣下である長井長弘の家臣になり、土岐頼芸の信頼を得ていく。

その後は長弘を殺害することで長井氏を名乗り、さらには斎藤利良が病死すると斎藤氏を名乗り稲葉山城に入り、城の大改築などを行う。さらには土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺し土岐氏を混乱状態に陥れ、最終的には国主であった土岐頼芸を美濃から追放し、斎藤利政(のちの道三)は美濃一国を乗っ取ってしまった。このように乗っ取りに乗っ取りを重ね、最終的には国そのものまで乗っ取ってしまったために、斎藤道三はマムシと呼ばれるようになったのである。

そのマムシ斎藤道三は嫡男である義龍に家督を譲った後でも、義龍のことを良いようには思っていなかった。逆に義龍の弟たちのことは高く評価し、義龍を廃嫡にし、弟に家督を譲るという噂まで流れていたほどだ。さらには三女である濃姫(帰蝶・明智光秀のいとこ)を織田信長に嫁がせ、「義龍率いる斎藤氏は近い将来織田の軍門に下るだろう」という趣旨の言葉まで発している。これによって道三と義龍の関係は日に日に険悪になっていく。

濃姫を嫁がせた頃の織田信長は、尾張の大うつけと呼ばれ周囲も呆れるような存在だった。だが道三は織田信長がうつけの振りをしているのを見抜き、あえて濃姫を大うつけに嫁がせたのだった。織田信長の才覚を見抜いた道三の眼力は素晴らしいものだが、しかしなぜか義龍の才覚を認めることは最期の時までできなかった。

義龍が廃嫡にされるという噂が本格的に広がり始めると、義龍は病を装い弟二人を呼び出し殺害してしまう。そして父道三をも討とうと企てる。冬の間は美濃の深雪により休戦状態が続いたが、弘治2年(1556年)4月、雪が溶けると両軍動き出した。

4月18日、道三は鶴山に布陣し、織田信長の援軍を待った。義龍軍は17,500人という大軍勢となったが、しかし道三軍は2,700人ほどしか動員することができなかった。それは何故なのか?理由は道三が美濃を手中に収めた時の経緯が関係していた。道三は下剋上により長井、斎藤の家を乗っ取り、さらには土岐頼満を毒殺したところで土岐頼芸を美濃から追放し、美濃を手に入れていた。斎藤道三の力量は買っていたとしても、この一連の乗っ取りを快く思っている家臣はほとんどいなかったのだ。

そのため安藤守就(竹中半兵衛の舅)、稲葉一鉄(頑固一徹の由来の人物)、氏家卜全(3人の中では最大勢力)という西美濃三人衆まで義龍側に味方する事態となってしまった。軍勢にこれだけの差が生じてしまっては、織田信長の援軍が到着したところで焼け石に水だと考えたのだろう。義龍が長良川南岸に布陣すると、道三は信長を待たずして長良川北岸に移動し義龍軍と対峙した。

緒戦こそ善戦した道三ではあったが、全面対決となると兵力の差は歴然だった。道三軍はあっという間に押されてしまい、道三の首は小牧源太によって落とされてしまった。

数々の乗っ取りによって美濃を手に入れたマムシの道三だったが、最期は息子との骨肉相食む争いを繰り広げすべてを失ってしまった。そして長良川の戦いで義龍の見事な采配振りを目にし、道三は自分の義龍を見る目が間違っていたことに気付き後悔したと伝えられている。

因果応報とでも云うべきか、それとも業(ごう)、カルマとでも言うべきか。災いはすべて道三の身に返ってきてしまった。ちなみに道三が追放した土岐氏は、明智光秀が本能寺の変を起こしてまで再興しようとした、あの土岐氏だ。つまり明智光秀にとって叔父斎藤道三は、土岐氏を滅ぼした仇敵であり、織田信長はその仇敵の娘婿だったというわけなのである。