「長篠の戦い」と一致するもの

長篠の戦いに於いて織田徳川連合軍と武田騎馬隊が取った戦術

織田信長

長篠の戦いは近代戦争の先駆けとも言われていた。その理由は織田信長徳川家康の連合軍が日本初の鉄砲の三段撃ちによって武田騎馬隊を撃破したからだった。だがこれについては近年の史家の研究によって非常に疑わしいということが分かって来た。

そもそも語り継がれて来た長篠の戦いでの鉄砲の三段撃ちとは、まず馬防柵を張り巡らせ、織田徳川連合軍が有していた三千挺の鉄砲を、千人一組で三隊編成し、第一隊が撃ち終えたらすぐに後ろに回り今度は第二隊が前に出て撃ち、撃ち終えたらまた最後尾に回り、今度は第三隊が前に出て撃ち再び第一隊に戻るということを繰り返す戦い方のことだ。

これにより武田騎馬隊は一網打尽にされ、この大敗を切っ掛けに武田家は衰退して行ったと言われている。だがそもそも、鉄砲三千挺という数が疑わしいという事実が見えて来た。当時鉄砲というのはなかなか手に入れられる物ではなく、どの大名も鉄砲を確保するのにかなり苦心していた。織田信長自身も鉄砲の弾を作るための鉛や火薬を確保するために堺の支配を目指した程だ。

この三千挺という数字は『信長公記』が出典となっているのだが、実はこの信長公記でも、写本によって三千挺と書かれていたり、千挺と書かれたりしていることが分かった。そのため本当に三千挺だったのか、実は千挺だけだったのかということを断定することは現時点ではまだ難しいらしい。

そして火縄銃の特性として、弾と火薬を筒に詰めて火縄に火を灯すと、その火縄を火がジリジリと火薬まで伝っていき撃てるようになるという仕組みだった。そのため現代の拳銃のように、撃ちたい時にいつでも撃てるというわけでもなかった。この事実を踏まえると、千人一組となった狙撃手が一斉にほとんど同じタイミングで鉄砲を撃つことは不可能に近いことがよく分かる。

今史家の間で語られている話としては鉄砲隊は実は千人だけで、その千人の鉄砲隊に対し指揮官は五人で、一斉に撃ったと言うよりは、武田兵が近付いて来たら撃てる者からどんどん撃っていったというのが現実的であるようだ。

長篠の戦いで見せていた武田騎馬隊の本当の戦い方

そして武田軍は馬に乗ったまま馬防柵に突進して柵を壊そうとし、その騎馬隊が近付いて来ては鉄砲で仕留めたとも伝えられているが、実はこの当時の騎馬隊の一般的な戦い方は、騎馬隊はあくまでも馬に乗って速攻で敵前まで行くことが目的であり、戦う際は馬を降りて戦うことがほとんどだった。つまり馬に乗ったまま大槍を振り回して戦うというケースは非常に稀で、戦国時代当時にはあまり行われていない戦い方だった。

つまり真実としては、武田軍は馬に乗って馬防柵の前まで行き、馬を降りて馬防柵の破壊を試みたのだが、馬防柵を壊そうとした時には鉛の弾を撃ち込まれていた、という顛末だったようだ。

武田軍の戦い方としては、織田徳川連合軍が鉄砲に弾を込めている隙を突いて馬で一気に近付き、まずはとにかく馬防柵を壊すという作戦だったらしいのだが、残念ながら思いの外鉄砲の数が多く、馬防柵を破ることができなかったということらしい。そしてその鉄砲の数が三千挺だったのか、千挺だったのかはまだ確かなことは分かっていない。

まだまだ進んでいなかった兵農分離と当時の馬の姿

そして長篠の戦いが起こった天正3年(1575年)の時点で、織田軍と言えどまだ兵農分離はしっかりと行われてはいなかった。ある程度の兵農分離は進んでいたと言われているがまだまだそれは完全な物ではなく、長篠の戦いに参加した兵卒の大半は平時には農業を営んでいた。

そのため鉄砲の撃ち方は分かっていても、鉄砲の専門家のように大勢が撃つタイミングを合わせられるほどの技術はなかった。この当時の技術力も、史家たちが長篠の戦いに於ける三段撃ちの再検証が必要だという主張の論拠となっている。

ちなみに織田信長自身は鉄砲を初めて手にした頃から橋本一巴はしもといっぱからその使い方を学んでいた。それにより信長の鉄砲を撃つ技術は非常に高くなり、構造や製造過程についても深く理解をしていた。そして近い将来は戦で物を言うのは名刀ではなく鉄砲になると考えた信長は、早くから堺を治めてその原材料の確保を目指したというわけだ。

武田騎馬隊で活躍した馬たちの真の姿

武田騎馬隊

さて、一方馬で激突して馬防柵を破壊しようとしたと伝えられていた武田騎馬隊の馬についても触れておきたい。大河ドラマなどの歴史ドラマを見ると、騎馬隊は決まってサラブレッドのような大きくて見事な馬に乗っている。だが当時の日本にこのように大きな馬は存在していなかった。

戦国時代に活躍した馬の体高はせいぜい120センチ程度で、現代の男性の身長ならば腰よりも僅かに高いくらいだった。つまり現代で言うところの子どもが乗るような小さなポニーが、戦国時代の名馬と同じ大きさだったと言うわけだ。

そしてこのように小さな馬で激突したところで馬防柵はそう簡単には壊れないし、そもそも馬は臆病な動物であるため、いくら鞭を打たれたとしても柵に突っ込んで行くようなことは絶対にしない。ましてや当時馬はとても高価な動物だったため、武田軍の指揮官がそのように馬を無駄死にさせるような戦術を取ったとも考えにくい。

そのためいくつかの書物に記されているような、武田騎馬隊が馬ごと馬防柵に突っ込んで行ったというのも、後世の創作である可能性が非常に高いと史家の間では結論付けられている。

歴史ドラマでは今後も創作された内容を元にドラマティックに演出されていくのだとは思うが、しかし真実はそうではなかったということはここに書き残しておきたい。

武田勝頼は決して挑むべきではなかった長篠の戦い

織田信長や上杉謙信が恐れた武田勝頼

武田勝頼の最期は実に呆気ないものだった。父信玄の従甥であった小山田信茂の裏切りに遭い、最期は一説によれば100人にも満たない僅かな共の者と逃げ場を失い、天目山で自害したと伝えられている。勝頼のこの自害により、450年続いた甲斐武田氏は信玄亡き後あっという間に滅亡してしまった。だからと言って、武田勝頼は決して愚直な武将だったわけではない。

事実信玄の死後は強過ぎる大将と謳われるほどの戦いを見せていた。だが負け知らずであったがために勝頼のプライドはどんどん高くなってしまったようだ。本来は退くべき戦を退かずに挑んでしまった。勝者の奢りとも言うべきだろうか。重臣たちはしきりに退くことを提言したが、しかしここで退いてはは武田の名が廃るとばかりに、勝頼は無謀な戦いに挑んでしまう。それが長篠の戦いだった。

織田信長は上杉謙信に対し「勝頼は恐るべし武将」と書状を書き、謙信もそれに異論はなかったようだ。長篠の戦いは1万5000の武田勢に対し、織田徳川連合軍は3万8000だった。数の上では織田徳川連合軍が圧倒的に上回っている。しかし信長はそれでも勝利を確信することができなかった。

そのため佐久間信盛に武田に寝返った振りをするように命じた。勝頼はあろうことかこれを信じてしまい、戦いが始まれば織田方の重臣である佐久間信盛が内応することを前提に戦いに挑んでしまった。つまり武田勝頼は長篠では織田方に騙され、天目山では血族である小山田信茂に裏切られたことになる。武田勝頼は織田信長や上杉謙信が恐れる名将ではあったが、生きるか死ぬかの戦国時代に於いては人を信じ過ぎたことが仇となってしまった。

武田信玄は『孫子』を熟知する軍略家だった。しかし勝頼はこの時『孫子』を無視した状態で戦に挑んでしまう。もし勝頼がもっと織田方が整えていた準備を把握できていれば、武田軍に勝ち目がないことは火を見るよりも明らかだった。だが勝頼は最強の武田騎馬軍団を過信してしまい、信長の誘いに乗り沼地の多い設楽原(したらがはら)に陣を敷いてしまった。沼地ではいくら最強と言えど、騎馬軍団の威力半減してしまう。

一方の織田徳川連合軍が沼地の先に用意していたのは馬防柵だった。騎馬隊が侵攻できないように木でフェンスを作り、その隙間から鉄砲を撃てるようにしていた。この戦略により武田騎馬軍団は一網打尽にされてしまう。

天正3年(1575年)5月21日、早朝に始まった死闘は8時間にも及んだという。だが武田軍に勝機はなく、この戦いで土屋昌次、山縣昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・信輝兄弟(ふたりとも真田昌幸の兄)が討ち死にし、撤退時に殿(しんがり)を務めた馬場信春も、勝頼が無事に撤退したことを知ると討ち死にしてしまった。たった一度の戦でこれだけ名のある武将たちが次々命を失った戦も珍しい。

この敗戦により武田家は一気に衰退していき、天正10年(1582年)3月11日、天目山の戦いで勝頼が自害したことにより、名家武田氏は歴史からその名を葬られてしまった。

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いよいよ始まった2020年大河ドラマ『麒麟がくる』。初回放送はまず冒頭で明智荘(あけちのしょう)に野盗が現れ田畑を荒らし、鉄砲の威力を見せつけるというシーンから始まる。そして光秀は鉄砲を持ち帰り、名医を美濃に連れ帰ることを条件に、国主斎藤利政(のちの斎藤道三)に京・堺への旅の許しを請い、ひとり旅立っていく。

当時の比叡山の僧侶は土倉と呼ばれる高利貸しだった

光秀は美濃から琵琶湖までは馬で行き、琵琶湖を商船のような船で横断していく。この時代、琵琶湖は西と東を結ぶ交通の要衝であり、琵琶湖を制す者が京を制すとも言われていた。その理由は単純で、歩けば険しい山道を何日もかけて行かなければならないが、船なら大荷物であってもあっという間に京まで移動できるからだった。そのため後年の織田信長は琵琶湖周辺に安土城、坂本城、長浜城、大溝城という4つの城を築き琵琶湖を死守に努めた。

そして光秀は比叡山を経て堺に向かうのだが、比叡山では僧兵たちが通行料として15文(もん)徴収していた。そしてそれを払えなければ暴力をふるうというシーンが描かれている。これは史実だと言える。当時の比叡山は一部の僧侶を除き堕落し切っていた。比叡山の僧侶が営む土倉(どそう)と呼ばれる高利貸しは利息50%にもなり、返済が滞ると僧兵が暴力的に取り立てたり、娘を奴隷業者に売るためにさらっていくこともあったと言う。

ちなみに15文というのは現代の金額では1,000~1,500円程度である。信長が焼き討ちにするまでの比叡山はまさに腐り切っており、禁忌とされている魚肉や酒を口にしたり、女人禁制であるにも関わらず、色欲に溺れる僧侶ばかりだった。今でいう悪徳金融業者同様となるわけだが、しかし現代の悪徳業者以上に悪徳だったようだ。

比叡山延暦寺を焼き討ちにした信長が魔王のように描かれることも多いが、しかし実際には比叡山は元亀元年(1570年)だけではなく、1435年と1499年にも焼かれている。とにかくこの時代の比叡山延暦寺は聖職者とは程遠く、どちらかと言えばヤクザのような振る舞いをしていた。そのため今回劇中で描かれている比叡山の僧兵の横暴過ぎる振る舞いは、史実にかなり近いと言えよう。

まだ高額で1挺手に入れることさえ難しかった火縄銃

この初回放送が、一体何年の設定になっているのか筆者にはわからない。だが光秀がまだ若かった頃は、劇中の松永久秀の言葉通り鉄砲は非常に高価な品で、1挺手に入れることさえもまだ難しかった。そして安全性もまだ確かではなく、暴発して大火傷を負ってしまうことも珍しくはなかった。劇中では三淵藤英(みつぶちふじひで)が試し打ちをしているが、これだけ高い身分の人物が試し打ちをしているということは、安全性が完全に確かめられた1挺であるか、それとも火縄銃の危険性をまったく知らない無知であるかのどちらかだろう。

火縄銃はまず筒に弾と火薬を入れて棒でしっかりと押し込み、撃鉄の部分にも火薬を置き、火縄に付けた火を用いることで火薬を爆発させて発射させていた。そのためどんなに頑張っても30秒に1発しか撃つことはできなかったという。劇中で三淵藤英は「戦では使い物にならない」と語っているがまさにその通りで、1挺だけ持っていても戦で活用することは難しい代物だった。

だが後年、遊学によって鉄砲に関する知識を学んだ光秀は、織田軍団の一員として二段撃ち、三段撃ちという戦法を編み出し、戦で鉄砲を最大限活用することに成功している。長篠の戦いなどはまさにその顕著な例だと言える。

崩壊寸前だった足利幕府と京の都

京に着くと、光秀はその荒廃した様に驚く。とても都と呼べるような有様ではなく、この惨状は織田信長が上洛するまで続くことになる。上洛を果たすと、信長は惜しみなく京の復興に金銭を費やしていく。そしてそれにより朝廷の信頼を得ていく。だが光秀が若かりし頃の京は、まさに劇中のような惨状に近いものだったと推測されている。

足利幕府も崩壊寸前で、幕府に力がなくなったことにより各国の守護大名たちも力を失い、美濃においては守護大名だった土岐氏がのちの斎藤道三である斎藤利政に追放されている。そして隣国尾張の織田信秀(信長の父)は、守護代を追放した斎藤氏を悪と評し、成敗の名目で幾度となく美濃に攻め込んでいく。

とにかくこの時代の京は、足利家と三好家の対立が激しく、頻繁に町が破壊されてしまうという状況だった。直しても直しても切りがなく、町人にとっては諦めて何とかそこで生きるか、京を捨てるかの二択だった。とても都と呼べるような、現代の京都と結びつくような美しい町並みなど存在せず、まさに廃墟に近い状況だったとされている。

「光秀、西へ」のまとめ

ドラマであるため、今後フィクションだと思われるストーリーも多く絡んでくるのだろうが、初回放送に関して言えば、フィクションだと思われるのは堺で明智光秀、松永久秀、三淵藤英が一堂に出会ったり、望月東庵(もちづきとうあん)医師や菊丸ら架空の人物が登場してきたことくらいではないだろうか。

次回「道三の罠」では織田家と斎藤家が激突したり、海道一の弓取り(東海道一の国持大名という意味)と呼ばれた今川義元の姿も登場してくるようだ。名のある戦国大名が続々登場してくるようなので、来週の放送も心待ちにしたい。

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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の最大の相違点のひとつに、キリスト教を認めたか否かということがある。秀吉は天正15年(1587年)にバテレン追放令を出し、徳川家康も慶長17年(1612年)に禁教令を出し教会の取り壊しを進めた。ではなぜ織田信長だけがキリスト教を手厚く持て成したのだろうか?!


考えらえることとしてはまず、織田信長自身が南蛮文化に強い興味を抱いていたという点が挙げられる。晩年の信長は日本的な甲冑ではなく、ヨーロッパで使われているような鎧やマントをまとっていたし、葡萄酒も好んで飲んでいたと伝えられている。南蛮の珍品は、すべてキリスト教の宣教師によって日本に持ち込まれた。そのような珍品を手に入れたいという思いもあり、キリスト教の布教を認めていたのだろう。

さらに信長は比叡山を焼き討ちにしたことでもわかるように、一部の堕落した僧侶を憎んでいた。そのような僧侶を一掃し、キリスト教という新たなものを利用することにより、日の本全体を新しく作り変えようとしていた可能性もある。事実信長という人物は、日の本を新たに作り直したいという強い思いを抱いていたため、そのためにキリスト教を利用しようと考えていた可能性は高い。

だがそれ以上に信長が目指したのは、南蛮貿易による莫大な利益を得ることだ。当時の南蛮貿易はキリスト教宣教師の専売特許だった。南蛮貿易と布教活動はセットで考えられており、南蛮貿易によって利益を得るためには、宣教師たちと良好な関係を築かなければならない。

信長が目指したのは、堺などの商人たちに南蛮貿易で大きな利益を得させ、その商人たちから莫大な税金を取るという形だった。そのため信長自身で貿易を行ったという形跡は見当たらない。信長はあくまでも珍品を集めるだけで、実際には堺の商人たちに海を渡らせて、海外との貿易を盛んにしていこうと考えていたようだ。

ちなみに豊臣秀吉が文禄の役、慶長の役で朝鮮に出兵した際、石田三成は上述したような信長と同じ考えを持っていた。朝鮮や明を支配下にするよりは、友好関係を結んで貿易を盛んに行なっていくことが国益に繋がると考えていた。だが秀吉は三成の考えを汲むことはせず、朝鮮や明と敵対する道を選んでしまう。

さて、それでは秀吉と家康はなぜバテレン追放令を出したのか。その理由は宣教師たちが秀吉や家康の支配下にされることを嫌ったからだった。特に後発組の宣教師たちが支配下に入ることを毛嫌いし、秀吉や徳川幕府の怒りを買ってしまう。逆に古参の宣教師たちは日本文化をよく理解していたため、後発の宣教師たちを説得しようと試みたようだが上手くはいかなかった。

さらに突っ込んだ話をすれば、鉄砲などの火器も貿易によって日本に入ってきた。信長は最新の武器を南蛮貿易によって手に入れようとも考えていたようだ。鉄砲の威力は長篠の戦いですでに証明されており、戦上手の信長としては重火器を使った戦いをさらに進化させたいと考えていたのだろう。

このように信長にとってのキリスト教とは単に宗教問題ではなく、その主旨は実は貿易による利益を得ることにあった。宗教そのものに深い関心がなかったからこそ、織田信長はいわゆるキリシタン大名になることもなかったのかもしれない。
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NHK大河ドラマ『真田丸』で草刈正雄さんが好演する真田昌幸とは、一体どのような人物だったのだろうか。父親は真田幸隆で、昌幸に勝る謀将として知られた人物だ。昌幸は幸隆の三男として天文16年(1547年)に生まれた。そして7歳になると武田家への人質として甲斐に送られ、武田信玄の近侍となる。


信玄は昌幸の器量の良さを非常に気に入っていたようだ。だからこそ信玄は、三男であり昌幸が真田家を継ぐ身にないことを憂い、世継ぎが早世していた武田臣下の名門武藤家を継ぐように命じた。これが元亀2年(1571年)、昌幸が24歳の時だった。このため若き日の昌幸は武藤喜兵衛と名乗っていたのだ。

なお尾藤頼忠(のちの宇多頼忠)の娘、山之手殿(大河ドラマでは高畑淳子さん)を18歳の昌幸が娶ったのは永禄7年(1564年)であり、その後村松殿(木村佳乃さん)が誕生し、永禄9年には長男信幸(大泉洋さん)、永禄10年には幸村(堺雅人さん)が生まれている。つまり昌幸が武藤家の養子になったのは幸村が生まれ、兄信綱が真田家の家督を継いだ4年後のことだったというわけだ。

そこからさらに4年後の天正3年(1575年)、真田家を揺るがす大事件が起こってしまう。長篠の戦いだ。何とこの戦で昌幸の兄である信綱と昌輝が揃って討ち死にしてしまったのだ。この出来事により、昌幸は武藤喜兵衛から真田昌幸に戻り、真田家の家督を継ぐことになった。

天正6年(1578年)になると、御館の乱の混乱に乗じ上杉領だった沼田城を北条氏政が略奪した。この時上杉家と武田家は同盟を結んでおり、上杉景勝は武田家が沼田城を攻略することを容認する。この沼田城攻めを任されたのが真田昌幸だった。翌年には沼田城攻略のために名胡桃城を築城し、さらに翌年天正8年、調略により沼田城の無血開城に成功した。

大河ドラマでは沼田城がとにかく真田にとって重要な城であると描かれているが、沼田城はこのようにして真田の城になったのだった。ちなみに沼田城とは北関東に於ける交通の要衝であり、かつてより上杉氏、武田氏、北条氏によって奪い合いが続けられていた。

その重要拠点を真田昌幸と叔父の矢沢頼綱の尽力によって手に入れたわけだが、その沼田城を天正壬午の乱(天正10年)を鎮静させるため、徳川家康が北条氏政に対し、沼田城を攻め落としても良いと勝手に容認してしまったのだ。武田家滅亡後、真田家は徳川に味方していたのだが、これによって真田昌幸は徳川家康に対し不信感を抱き始める。

そして天正13年(1584年)、昌幸は上杉と結び、家康と手を切った。こうして第一次上田合戦へと突入していくのである。