「豊臣秀頼」と一致するもの

鉄砲隊の割合が多かった伊達隊の弱点と、それを利用して戦った真田幸村

大坂夏の陣で何らかの密約を交わしていた真田幸村と伊達政宗

慶長20年(1615年)5月6日、誉田(こんだ)の戦いで真田幸村(信繁)と伊達政宗は対峙した。誉田の戦いとは大坂夏の陣に於ける一戦で、誉田陵(こんだりょう・応神天皇が埋葬された古墳)周辺で繰り広げられた戦いのことだ。伊達政宗からすると道明寺の戦いで後藤又兵衛と戦った直後の真田隊との遭遇だった。道明寺の戦いでは伊達の鉄砲隊の前に又兵衛が壮絶な討ち死にを果たしている。

忍びからの情報で、伊達鉄砲隊の威力の凄まじさは幸村の耳にも入っていた。2800の後藤隊を壊滅させた1万の伊達隊はほとんど減っていない。まともに対峙をすれば3000の真田隊に勝ち目はなかった。この時の伊達隊は三分の一が鉄砲隊で、実はこれが強みであると同時に、一つの弱点にもなっていた。

火縄銃を連続して撃てるのは当時は最大でも20発程度だったらしく、それだけ打つと筒内に煤が溜まり、一度手入れをしなければ暴発の危険があった。幸村は、後藤隊と戦った際に伊達隊はすでにある程度鉄砲を消耗していたことを耳にしていた。そのため幸村は伊達隊にどんどん鉄砲を撃たせ、鉄砲を使えなくなるまで時間稼ぎをしたのだった。

鉄砲隊が主力だった伊達隊だけに、鉄砲が使えなくなると戦力が一気に低下してしまった。幸村にとっては敵将伊達政宗を討ち取る好機となった。だが幸村は後退する伊達隊を深追いすることはしなかった。その理由は、幸村が狙っていたのは徳川家康の首だけだったからだと伝えられている。だがそれ以上に、幸村と政宗の間に密約があった可能性があるのだ。

密約を交わしていた可能性がある真田幸村と伊達政宗

実は大坂夏の陣、徳川方として参戦していた伊達政宗は豊臣方への内通が疑われており、逆に豊臣方として戦っていた真田幸村は徳川への内通を疑われていた。その理由はかつて政宗に仕えていた家臣が出奔し、豊臣秀頼に仕えるようになっていたためだと伝えられている。しかもその家臣は一時は幸村の配下にも置かれていたようで、これにより幸村と政宗はいつでも連絡を取り合える状況にあった。この状況によりふたりは内通を疑われていたらしい。

いくつかの資料を読んでいると幸村と政宗は、家康の首を狙う密約を交わしていた可能性があるようだ。そのために誉田の戦いで政宗は真田隊を攻め切らず、幸村も後退した伊達隊を深追いすることはしなかった。何らかの密約があったからこそ、ふたりは本格的にぶつかり合うことを避けた可能性は否めない。

真田隊を中心にして豊臣方も善戦を繰り広げた。だが八尾・若江にて豊臣勢が壊滅させられたため、誉田で戦っていた豊臣勢は大阪城への撤退を余儀なくされる。この時に殿(しんがり)を務めたのは真田隊だったわけだが、全滅させられる可能性が高い殿であるにもかかわらず、伊達隊は真田隊を逆に追うことはしなかった。本来であれば殿隊は敵に背を向けながら戦うため、追う側とすれば簡単に壊滅させることができる。だが政宗はそうはしなかった。

真田幸村は大阪城に戻ると、次男と4人の娘たちを政宗の元へと送り届けた。そして実際政宗は幸村の子を引き取り保護している。ふたりの間に密約がなければ、このようなやり取りが行われることもなかったはずだ。どんな内容だったにせよ、幸村と政宗の間に何らかの密約があったことは、やはり間違いないのではないだろうか。ではその密約の内容とは?戦国時代に同盟を結ぶ理由は二つしかない。お互いの利害の一致と、家を守るためだ。

父昌幸の代から天敵だった徳川家康と、天下取りを狙った伊達政宗

真田幸村は父昌幸の代から天敵であった徳川家康を討ち、自らの名を後世に残すことを目的としこの戦いに挑んでいた。一方伊達政宗は未だ野心を捨て切れず、隙あらばと天下を虎視眈々と狙っていた。つまりこの戦いで家康が敗れれば、両者ともに大きな利益があったというわけだ。

いくつかの資料、書籍でも書かれているように、ふたりはきっと家康を討つための密約を結び、そしてそれが上手くいかなかった時の手筈まで整えていたのだろう。だからこそこの大戦のさなか、幸村は5人の子どもたちをすんなりと政宗の元へ送り届けることができた。

だがこの大戦に関する作戦はまったく上手くいかなかった。豊臣方は所詮は浪人の寄せ集め集団であり、しかもその頂点に立っていた司令官は戦に関しては素人同然の淀殿だった。このような烏合の衆が戦上手の徳川軍に勝てる可能性など最初からなかったのだ。だからこそ幸村や又兵衛が善戦を見せても、別の場所ではすぐに豊臣勢は壊滅させられてしまい、幸村は大阪城に戻るしかなくなってしまった。つまり例えで幸村と政宗の共闘で家康を討つという作戦があったとしても、幸村が大阪城に戻らなければならなくなったこの時点でその作戦は破綻していたことになる。

伊達政宗のお陰で最後まで家康を悩ませ続けた真田幸村

先にも述べたように殿を務めた幸村を、政宗は追撃しなかった。政宗の娘婿である松平忠輝は、政宗に加勢し真田を追撃すると申し出たようだが、政宗はそれを断っている。もしかしたら命を落とす可能性が高い殿を務める幸村を、無事大阪城に戻すために政宗はあえて加勢を断ったのかもしれない。だが今となってはその真実は誰にも分からない。

大坂夏の陣では、徳川方は必ずしも一致団結していたわけではなかった。家康のやり方が気に入らない武将も多く存在しており、この戦いでも豊臣方に内通する機会を窺っていた武将も多かったと言う。だが豊臣方が想像以上に脆く崩れてしまったために、将たちは寝返る機会を失ってしまった。

豊臣方は大阪城まで撤退を強いられる状況になってしまったわけだが、前年の大阪冬の陣とはわけが違った。大阪城の防御は大坂冬の陣の停戦協定により根こそぎ取り壊されており、城の防御能力はないに等しかった。冬の陣で徳川方を苦しめた真田丸の存在も、この時にはもはや過去の話となっていた。

慶長20年(1615年)5月7日、つまり幸村と政宗が対峙した翌日、天王寺の戦いにて幸村は家康本隊を猛攻するも、3000の軍勢では徳川の大軍の前にすぐに力を失ってしまった。この時の真田軍の猛攻にはさすがの家康も死を覚悟したと伝えられている。真田幸村は最後の最後まで家康を苦しませた。かつては上田合戦で、前年は真田丸で、そして大坂夏の陣では天王寺の戦いでまた。

しかし数で圧倒された真田隊は善戦を見せるも松平忠直の部隊によってすぐに壊滅させられてしまい、幸村はそこで壮絶な討ち死にを果たしている。天王寺の戦いで力尽きるまで刀を振るい続けた幸村だが、それもやはり子どもたちが政宗によって保護されたからこそ、心置きなく戦えた結果だったのではないだろうか。

真田幸村のために口を閉し続けた伊達政宗

大阪冬の陣、夏の陣以前より真田家は徳川家の天敵であり、一方の伊達家は徳川に従属していた。つまり幸村と政宗は立場上では完全なる敵同士だった。だが同じ年齢であるふたりは、何かを切っ掛けにしお互いに興味を持ち、人知れず友情を育んでいたのかもしれない。

それが幸村の死後、政宗の口から語られることはなかったわけだがそれは当然だ。敵である幸村と密約をしていたことが公になれば、政宗もただでは済まされない。家康によって切腹を命じられたかもしれないし、伊達征伐軍を奥州に送られていたかもしれない。だからこそ政宗は固く口を閉ざしたわけだが、閉ざしたからこそ幸村との間に何らかの密約があったと想像する方が自然だとは言えないだろうか。

その真実は今となっては誰にも分からないわけだが、ふたりの英傑がこうして繋がっていたと考えることは、歴史好きにとっては果てしなく大きな浪漫とは言えないだろうか。

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慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍のあっけない勝利で終わってしまった。そして関ヶ原の戦いの前哨戦となった第二次上田合戦に於いては、西軍に属した真田昌幸・信繁(幸村)父子は勝利したにもかかわらず、その直後に西軍が敗れてしまったために家康からの処分を受ける羽目になってしまった。当初は処刑されるはずだったが、真田信之と本多忠勝の説得もあり、九度山への流罪で収まった。


九度山とは高野山の表玄関に当たる場所となる。九度山への流罪ということは、言い換えれば事実上は出家の有無は問わず、高野山で出家したのと同等となる。出家した身となれば、特別な赦しを得て還俗しなければ武士に戻ることはできない。つまり真田父子は高野山に入れられたことにより、事実上武士ではなくなったということなのだ。

なお高野山という場所は女人禁制であるのだが、九度山であれば妻子を伴って入山することができる。九度山とは、空海の母が息子を訪ねたものの高野山には女人は入れずに滞在した場所で、空海が月に九度、母親を訪ねるために山を下りたことから名付けられたという。そのために九度山は妻子を連れて入ることができ、女人高野とも呼ばれるようになった。

信繁は妻である竹林院と子を伴って入山したのだが、しかし昌幸は山手殿を連れて行くことはなかった。山手殿は信之の元に留まらせた。どうやら昌幸は状況が変われば、つまり家康が少しでも失脚するようなことがあれば、すぐにでも下山して再び家康と一戦交えるつもりであったらしい。

だが九度山への流罪になったことで、そう簡単に家康に刃向かうことはできなくなってしまう。その理由は単純に経済的問題だ。九度山に入るということは武士としての収入を失うということになり、九度山での真田父子の生活はかなり困窮していたようだ。

「借金が多く暮らしが立ち行かないため、残りの20両を早く送って欲しい」という昌幸の国元への手紙や、「恥ずかしながらこの壺に焼酎を目一杯詰めて目張りして送って欲しい」という信繁の手紙が現存しており、その手紙はまさに九度山での生活の困窮ぶりを如実に表している。

そして九度山での生活を支えたのは「真田紐 」の存在だ。この紐は九度山で真田父子が発明したとも言われているが、その真意は定かではない。とにかくこの真田紐を竹林院ら女性たちが作り、そして家臣の男手たちが大坂や京の都で売り歩き、なんとか生計を立てていた。このように九度山での真田父子の経済力はほとんど地に落ちており、とてもじゃないが家康に刃向かう力など残ってはいなかった。

なお真田父子には監視役もつけられたのだが、それは紀州藩(のちの和歌山藩)の藩主である浅野幸長(よしなが)が担った。だが幸長は真田父子に敬意を示したのか、多少のことには目を瞑り、また屋敷を立てる際などには資金援助なども行った。もし監視役が浅野幸長でなければ、真田父子はもっと苦しい生活を強いられていたかもしれない。

九度山に蟄居させられている際、昌幸は日々軍略を考え続け、信繁は新しい兵器の開発に勤しんでいた。大筒の模型を作る信繁を見て、また戦場に戻るつもりなのだと竹林院は泣いて過ごしていたと伝えられている。だがそんな生活が10年近く続くと、昌幸の体にも異変が起こってきた。

昌幸は信之(この頃はまだ信幸)に対し、気弱なことを書く手紙を送るようになる。病が昌幸の体を蝕み始めていたのだ。信繁は日々弱っていく父の姿を目の当たりにし、父を勇気付けるためにも自分だけは戦意を失わずに居続けようと気丈になる。その気丈さが上述の竹林院の涙に繋がるわけだが、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65年の生涯を閉じてしまう。

だがその3年後、真田信繁にようやく再起するための好機が訪れる。大坂冬の陣だ。豊臣秀頼に九度山を下りて大坂城に参陣して欲しいと要望されたわけだが、しかし未だ家康存命のため簡単に下山することはできない。だが蟄居中に信繁が良くしていた山の住人たちが、信繁一行の下山に力を貸してくれた。そのため浅野幸長の監視も掻い潜ることができた。

なお山の住人たちの多くは信繁に心を寄せており、共に戦うために一緒に大坂城に入った者も多かったと言う。昌幸もあと少し長く生きていられればもう一度戦うことができたのだが、再起の好機を待ち切ることができず先立ってしまった。その昌幸の無念を晴らすためにも、信繁は意を決して大坂城に入ったのであった。
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関ヶ原の戦いで西軍を裏切った大名の代表格としていつも語られるのは、小早川秀秋だ。だがなぜ小早川秀秋は豊臣秀吉の正室、高台院(寧々、北政所)の甥でありながら西軍豊臣秀頼ではなく、東軍徳川家康に味方したのだろうか?実は秀秋を東軍に寝返らせるための調略を行ったのも、黒田長政だったのである。まさに黒田長政は東軍勝利の大立役者なのだ。


小早川秀秋は最後の最後まで悩み続けたと言う。西軍に味方すべきか、それとも東軍に寝返るか。当初は黒田長政に対し、東軍に味方するようなことを話していた。だがそれをなかなか実行に移そうとしない。それどころか関ヶ原の前哨戦として行われた伏見城の戦いでは、西軍の副将として東軍伏見城攻めに参戦している。

黒田長政は解せなかった。東軍に味方をするようなことを言っておきながら、小早川秀秋は未だ西軍として東軍に攻撃を仕掛けている。本当に家康に味方するつもりがあるのか、長政は秀秋を問い質そうとした。だが秀秋はなかなか態度をはっきりさせなかった。本来であれば豊臣恩顧の大名として西軍で戦うのが筋だ。しかし東軍に味方する大きな理由もあったのである。

その前に秀秋は、唐入り(慶長の役)では戦目付の報告により秀吉の怒りを買い減俸させれていた。その戦目付が三成派であり、秀秋は三成に対してはそれほど良い感情は持っていなかったと伝えられている。しかしそれでも一時は西軍として戦っているのだから、黒田長政や福島正則、加藤清正らに比べればそれほど三成のことを嫌ってはいなかったのかもしれない。

秀秋は迷いに迷った。ただ、東軍に味方すると言いながら西軍に付かなければならない事情もあった。関ヶ原の戦いを前にして大坂城は西軍の大軍で溢れており、仮に秀秋が早い段階で東軍に寝返ったとしたら、あっという間に西軍に討たれてしまう危険があったのだ。そのために最後の最後まで態度をはっきりさせられなかった、と考えることもできる。

だが黒田長政は悠長に待っていることなどできなかった。関ヶ原の戦いが開戦される半月ほど前の8月28日、黒田長政は浅野幸長(よしなが)と連名で小早川秀秋に書状を送っている。その内容は、浅野幸長の母親が北政所の妹であるため、秀秋にも東軍に味方して欲しい、と求めるものだった。ではなぜ長政はこのような書状を送ったのか?

実は小早川秀秋は豊臣秀吉の養子であり、幼い頃は北政所に育てられていた。つまり北政所は秀秋にとって養母であり、母親同然の存在だったのだ。黒田長政は秀秋よりも14歳上なのだが、実は長政にとっても北政所は母親同然なのである。

幼少期にまだ松寿丸と名乗っていた頃、長政は人質として織田家に送られていた。そしてその人質の面倒を見ていたのが羽柴秀吉の妻寧々、つまり若き日の北政所だったのである。子を産めなかった北政所は、長政のことを我が子同然に可愛がった。人質として扱うことなど決してなく、父官兵衛の裏切りが疑われた際に長政の処刑が信長から命じられると、最も悲しんだのが北政所だった。そして竹中半兵衛により長政の命が救われ最も喜んだのも北政所だった。

その北政所は淀殿(茶々)と反りが合わず、秀吉死後は自然と家康側に傾倒していた。長政は、秀秋にとっても母同然である北政所が東軍にいるのだから、秀秋も当然東軍に味方すべきであると、と説得を繰り返したのだった。この長政の説得もあり、秀秋は関ヶ原の戦い当日になりようやく西軍を離脱することになる。

福島正則の西軍への寝返りを阻止したのも、西軍総大将毛利輝元に出撃させなかったのも、小早川秀秋を東軍に寝返らせたのも、すべては黒田長政の調略によってのものだった。黒田長政は歴史上、父黒田官兵衛ほど目立つ存在ではない。実際黒田官兵衛を特集した書籍、雑誌ならいくらでもあるが、黒田長政を特集したものはほとんど存在しない。

だが関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いたというこの功績は、父官兵衛のかつての活躍を凌ぐ働きだったとも言える。なお幼馴染である竹中半兵衛の子、重門とは関ヶ原の戦いでは隣り合って布陣したと伝えられている。
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慶長5年(1600年)9月15日に開戦された関ヶ原の戦い、一般的には東軍徳川家康が勝つべくして勝ったと理解されている。だが決して楽な戦いではなく、実は開戦する以前の前哨戦に於いては家康は賊軍に成り下がる可能性すらあった。いや、事実賊軍として見做され、一時は身動きが取れない状況にも陥っていた。だがこの危機を救ったのが黒田長政、つまり黒田官兵衛の息子だったのだ。


そもそも家康は、自ら蟄居させていた石田三成が挙兵するとは想像だにしていなかったようだ。家康に並び五大老の筆頭だった前田利家が亡くなると歯止めが利かなくなり、豊臣家のいわゆる武断派たちが三成を襲撃してしまう。その仲裁役を担った際、家康は三成に蟄居を命じていた。これにより家康は、三成を政治的には事実上葬ったつもりでいた。だがその三成が大谷吉継の協力を得て挙兵するという噂が湧き起こる。

この時奉行衆は家康に対し、三成と吉継が不穏な動きをしているため牽制して欲しいという要望を送った。だが三成は奉行衆たちを説得し、実は家康が太閤秀吉の遺言にいくつも背いているという事実をわからせた。それにより奉行衆は態度を変え、家康を太閤秀吉に対する反逆者と見做したのだった。

家康は上杉討伐のため7月21日に会津に向かったのだが、その時点で家康の耳に入っていたのは三成と吉継の結託だけだったようだ。家康からすれば、三成と吉継が結託したところで兵力は徳川家の1/10にしか過ぎず、気にする程度の規模ではなかった。だが家康が会津へ出立すると、三成の説得により奉行衆や多くの大名たちが態度を変え、反家康軍として集結してしまう。

道中、家康は多くの不穏な報せを受けた。とてもじゃないが会津に遠征していられるような状況ではなくなり、7月25日に遠征に帯同していた武将たちを集める。いわゆる小山評定(おやまひょうじょう)だ。小山評定では主に上杉景勝と石田三成の、どちらを先に討つかということが話し合われた。その結果三成を先に討つことが決定する。

その後家康はひとまず江戸城に戻るのだが、しばらく江戸城から出立できない状況が続いた。つまり奉行衆たちにより賊軍とされてしまったことで、親家康の大名たちの多くが西軍になびく可能性があったのだ。それは親家康の筆頭とも呼べる福島正則にしても同様だった。

その理由は家康が会津へ向かったことにより、豊臣秀頼が西軍の手に渡ってしまったためだった。秀吉亡き後、まだ幼い豊臣秀頼が淀殿の後見により豊臣家を継いでおり、実際にはまだ豊臣政権が続いていた。だが奉行衆が、家康が太閤秀吉の遺言に背いていると糾弾したことにより、家康は完全に賊軍に貶められてしまう。それによって親家康大名たちがこぞって西軍になびく可能性があり、家康は下手に江戸城を出られなくなってしまった。

だがこの危機を救ったのが黒田長政だった。長政だけは最初から最後まで親家康を貫き、奉行衆が糾弾した後も家康のために動き続けた。まず小山評定で福島正則をけしかけ、反三成で結託するように仕向けた黒幕が黒田長政だった。長政の働きもあり、小山評定の時点では大きな離脱者が出ることはなく、それどころか打倒三成で一致団結することになった。

さらにその後、長政は吉川広家の調略に尽力する。吉川広家と言えば毛利両川の吉川家、吉川元春の息子だ。そして吉川家が支える毛利家当主である輝元は、西軍の総大将の座に就いている。だが吉川広家は、輝元は安国寺恵瓊にそそのかされ知らぬうちに総大将に担ぎ上げられていた、と家康に申し開きをする。

毛利家の政治面を担当していたのが安国寺恵瓊で、軍事面を担当していたのが吉川広家だったのだが、しかしこのふたりは犬猿の仲だったようだ。特に広家が恵瓊のことを毛嫌いしていた。そのため恵瓊側では毛利を西軍に味方させようとし、広家側では家康に味方させようとしていた。

だが申し開きをしても広家はなかなか態度を明確にしなかった。つまり家康に味方するとなかなか明言しなかったのだ。その広家を時には嘘も交えて調略したのが黒田長政だった。最終的に長政はこの調略に成功し、関ヶ原の戦いで毛利軍を出撃させないことに成功する。

もし黒田長政の活躍がなければ西軍総大将である毛利輝元は当然出撃し、西軍からの離脱者も最小限に抑えられていたはずだ。そしてほとんど互角の兵力差の中、遠征軍を率いる東軍家康と、城を盾に戦える西軍とでは実は西軍に分があった。仮に黒田長政の調略がなければ、関ヶ原の戦いは西軍勝利で終わっていた可能性も高い。

長政の調略がなければ福島正則は豊臣秀頼を奉じる西軍に寝返っていた可能性もあり、さらには毛利輝元が出撃してくる可能性もあった。もしこのどちらかでも史実と逆の事実になっていれば、西軍が勝利していた可能性が高い。そう考えると関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いたのは黒田長政の手腕によるところが大きいのである。

さすがは黒田官兵衛の息子であり、幼少時は竹中半兵衛に命を救われ教えを受けた武将だけのことはある。福島正則に対しても、吉川広家に対しても冷静に戦局を見極め、最適なポイントを突いていく能力を持っていた。黒田長政はいわゆる武断派に属されることも多いが、槍働きだけではなく、このような知略にも富んだ名将だったのである。
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慶長19年11月(1614年)、大坂冬の陣が勃発した。この直前、真田信繁(幸村)は関ヶ原の戦いで西軍に味方したことにより、徳川家康から九度山(高野山)への蟄居を命じられていた。実に10年以上にも及ぶ九度山生活だったわけだが、しかし家康の本音は、自らを大いに苦しませてくれた真田昌幸・信繁父子の処刑だった。


家康はふたりの処刑を強く望んでいたようだが、関ヶ原の戦いでは昌幸・信繁とは袂を分かち東軍に味方した真田信之(信繁の兄)、そして信之の舅である本多忠勝(徳川四天王)の説得により処刑は考え直し、高野山への配流という形で決着させた。昌幸は九度山からも再起を図ろうと苦心したが、しかし1611年、65年の生涯を九度山で閉じてしまう。

父昌幸を亡くした3年後、信繁の元に大坂城に入って欲しいという要請が届いた。つまり大坂冬の陣が始まるにあたり、豊臣側に味方して欲しいという参陣要請だ。この要請を信繁は快諾し、再び徳川を敵に回し戦う覚悟を固めた。父昌幸の無念を晴らすためにも。

NHK大河ドラマでも描かれる真田丸とは、この大坂冬の陣に登場する防衛線のことなのだが、そもそも信繁はなぜ真田丸を作らなければならなかったのか?そしてなぜ寡兵でその真田丸に篭り戦わなければならなかったのか?

大坂城には10万人にも及ぶ兵が集まったのだが、しかしこれは烏合の衆と呼ばざるを得ないものだった。絶対的な大将がいるわけではなく、豊臣勢を率いたのは21歳と若く経験も浅い豊臣秀頼で、しかも実権を握っていたのは淀殿だったとも言われている。そのため軍勢にはまとまりがまったくなく、戦略に関しても特に真田信繁と大野治長の間で意見が割れていた。

信繁と後藤又兵衛は出撃論を展開していたが、大野治長は籠城して徳川軍を疲弊させてから戦おうと主張した。信繁・又兵衛案には多くの武将が賛同したようだが、結局は淀殿と親しかった治長の主張が通ってしまう。だが信繁は出撃することで勝機が生まれるという確かな勝算を持っており、何とか大阪城の外で戦う道を模索した。

実は真田丸は、最初から信繁が作り上げたものではなかった。信繁が大坂城に入った頃にはすでに形が出来上がっており、入城後に普請を引き継いだ信繁が改良を加え真田丸として完成させたものだった。そして従来は大坂城に隣接する丸馬出しとして認識されていたが、しかし近年の史家の研究によれば、実は大坂城から200メートル以上も離れた場所に作られた独立砦だった可能性が高いらしい。

つまり大坂城への敵兵の侵入を防ぐのではなく、敵兵をすべて引き寄せ大坂城に近づけさせないための役割を真田丸は持っていたと言うのだ。これに関しては『翁物語』にも記されており、幸村の甥である真田信吉が信繁の陣中見舞いをした際「城より遥かに離れ予想だにしない場所に砦を構えたのは、城中に対するお気遣いあってのことなのでしょう」と信吉が信繁に対し語ったとされている。この信吉の言葉を信じるならば、やはり真田丸は大坂城からはかなり離れた場所に作られた砦だったのだろう。

200メートルも離れていては、当然火縄銃や弓などで援護を受けることはできない。信繁はまさに孤立無援状態で真田丸に篭り、徳川勢を撃退したようだ。以前、父昌幸が上田城で家康を苦しめた時のように。

大坂冬の陣、真田丸の前には前田利常(利家の息子)、藤堂高虎、伊達政宗ら、錚々たる武将たちが15軍団以上対陣した。しかし信繁は彼らを一切大坂城に近づけることなく、大坂城唯一の弱点と言われていた南方を最後まで守り抜いた。家康は総勢20万とも言われる兵力で大坂城を攻めたわけだが、その被害は甚大だった。そして徳川方の戦死者の8割は真田丸攻防戦によるものだったと伝えられている。

上田合戦では二度も家康を苦しめ、大坂冬の陣でも信繁は大いに徳川勢を苦しめた。この結果を見るならば関ヶ原の戦い直後、家康が昌幸・信繁父子を処刑したかったという気持ちもよくわかる。ふたりを生かしておけば、また自らを苦しめることになると家康はきっとわかっていたのだろう。
ishida.gif豊臣秀吉には姉の子、豊臣秀次という甥がいた。秀吉が53歳の時にようやく誕生した男の子、鶴松が僅か2歳で病死してしまうと、秀次は豊臣家の家督と関白職を秀吉から譲り受けた。名実ともに豊臣家の二代目となったわけだ。

秀次は実力に乏しい武将として語られることも多いが、事実はそうではない。生前は数々の武功を挙げているし、習い事にも熱心に取り組み、文武両道の実力派の武将だった。だからこそ豊臣家臣団たちも秀次に気に入られようと尽くしている。中には自らの娘を側室として送った家臣もいたらしい。果たして秀次が本当に無能であったならば、豊臣家臣団がそこまで秀次詣を行っていただろうか。

だがそんな秀次は関白職を賜った天正19年(1591年)から僅かに4年後の文禄4年(1595年)7月15日に切腹を命じられている。理由は諸説あるが、筆者が最も信憑性を感じているのは千利休の切腹と同様の理由だ。そして利休同様、秀次をも切腹に追い込んだ黒幕が、石田三成だと言い伝えられている。だがこれも徳川幕府時代に事実を歪曲されてしまったものだ。三成は利休の切腹も、秀次の切腹も主導していない。

今回は秀次切腹に関して書き進めていくわけだが、ルイス・フロイスの手記によれば、秀次が関白を継いだ2年後に秀吉と淀殿に拾丸(ひろいまる、のちの豊臣秀頼)という待望の男の子が誕生すると、秀次と秀吉の関係はどんどん悪化していったらしい。秀吉はもう自分では子供を作れないと感じていたからこそ甥である秀次に豊臣の家督を譲っていた。だがその僅か2年後に淀殿が男の子を生んだのだった。これにより秀吉は、秀次に家督を譲ったことを後悔し始める。

そして秀次を廃嫡にする理由を探し始めるわけだが、秀吉はその相談も「何か良い手はないか」と三成に持ちかけていたはずだ。恐らくそれによって三成黒幕説が煙を立て始めたのだろう。だが三成は義将だ。いくら秀吉からの相談だったとは言え、秀次を理不尽に廃嫡にする方法など簡単に進言するはずがない。

そんな中秀次は何人かの武将たちとよく鷹狩りに出かけていた。それを知り秀吉は、秀次が反秀吉武将たちと鷹狩りと称し謀反を企てていると断罪したのである。もちろん事実無根であり完全なる捏ち上げた。もちろん三成が流した噂でもない。にも関わらず秀吉は、そうまでしても秀次を廃嫡し、拾丸に家督を譲りたかったのだ。

だがさすがに謀反疑惑はあまりにも根拠がなさすぎるし、周囲もこの噂を鵜呑みにすることはなかった。つまりそれだけ秀次は周囲から慕われてもいたのだ。そして石田三成たち奉行衆の説得もあり、秀次自身が逆心はないという起請文(きしょうもん)を認めたためこの問題はこれで終わっている。

しかしこの後も秀次は次々に疑惑をかけられ、その度に秀吉の命を受けた三成が疑惑の真意を問い質すことを繰り返していた。するとそのうち秀次も呆れ果てたのか、三成の詰問にすぐに応じなくなる。このようなやり取りも、三成黒幕論が恣意的に助長されている場合がある。


tokugawa.gif諱(いみな)という言葉をご存知だろうか。これは身分の高い者の実名のことで、存命中は実名では呼ばないことが戦国時代以前の礼儀だった。戦国時代後期になるとこの風習もやや廃れ始めてはいたようだが、しかし実際にはまだ高位な者を諱で呼ぶことは憚られていた。

例えば内大臣になっていた徳川家康のことを「家康殿」「家康様」と呼ぶのは失礼に当たり、この頃人々は家康のことを「内府殿」「内府様」と呼んでいた。内府(だいふ)とは内大臣の唐名(中国での呼び方)のことだ。現代では例えば最高経営責任者のことを英語でCEOと呼ぶが、戦国時代では役職を唐名で呼ぶのが一般的だった。

そんな時代背景がある中での慶長19年(1614年)の夏、慶長4年(1599年)から豊臣秀頼が復興作業を続けていた方広寺が完成しようとしていた。復興作業中は流し込んだ銅が漏れたことにより火災が起こってしまったりもしたが、しかしようやく完成というところまでこぎつけた。そして総仕上げとして梵鐘(ぼんしょう)が吊り下げられるわけだが、その梵鐘に刻まれた銘文を目にし、家康が文句を言い出したのである。

梵鐘銘文の一部には「国家安康」「君臣豊楽」と書かれていた。先述の諱の風習からすると、当初家康は将軍職は秀忠に譲っていたとは言え、大御所として幕府の実権を握った実際には武家最高位という立場だった。その大御所のことを諱で呼び、しかもその文字を逆さまにしたことは呪い以外のなにものでもない、との言いがかりだった。

だが銘文を作った文英清韓という臨済宗の僧侶は、単に敬意を込めて家康の名を織り込んだと話している。だが家康は清韓の人物調査を命じているほど、粗探しに躍起になっている。と言うのはこの時、家康はとにかく豊臣の力を少しでも削ぎたかったのだ。必ずしも豊臣を滅ぼすつもりはなかったようだが、極力豊臣の影響力は小さくしておきたいという思いは強かったらしい。

そのような思惑もあり、家康はこの銘文を好機と捉えた。「家康の諱を逆さにし呪詛するばかりか、「君臣豊楽」と豊臣を君主として世を楽しむとまで書いてある」。そう言った家康の言葉は傍目にはまさに言いがかりでしかなかった。

家康はこの出来事を豊臣の幕府への逆心だと宣言し、豊臣秀頼に対し以下のいずれかを選ぶように迫った。
  1. 大阪城を退去し、伊勢もしくは大和への転封
  2. 淀殿を人質として江戸に送る
  3. 秀頼が駿府、もしくは江戸に参勤する
どの要求も決して豊臣を滅ぼすような内容ではなく、むしろ豊臣を臣下に組み込もうとしたと言える。しかし秀頼と淀殿はこの要求をすべて突っぱねてしまった。もしこの要求のどれか一つでも受諾していれば、大名家豊臣が滅亡することもなかった。しかし一度は天下を治めた豊臣が家康の臣下になることなど、到底プライドが許さなかったのである。

この時徳川方と豊臣方の取次役は片桐且元が勤めていたのだが、豊臣方は且元が徳川方に付いていると考え暗殺を企てた。それを察知した且元はすぐに大阪城を逃げ出して助かったわけだが、しかし戦国時代に於いて取次役を殺害するという行為は宣戦布告と見なされていた。

つまり豊臣方は要求を突っぱねるどころか、宣戦布告までしてきたと家康は捉えたのである。これによって引き起こされたのが真田丸でも有名な大坂冬の陣だった。つまり大坂冬の陣とは、悪意なきたった一つの梵鐘に家康が言いがかりをつけたことから始まっていった戦なのである。

家康が梵鐘に正式に言いがかりをつけたのは慶長19年7月26日のことで、大坂冬の陣が始まったのはその僅か4ヵ月後の11月19日だった。