「第一次上田合戦」と一致するもの

真田信之は父弟の赦免を求めて徳川重臣に頭を下げ続けた

真田家に積年の恨みを持ち続けた徳川家康

関ヶ原の戦いで徳川率いる東軍を相手に戦った真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いそのものには参加していなかった。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。

関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は天文13年(1585年)の第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身は昔年の恨みから真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。だが徳川家の家臣たちの多くは関ヶ原の戦い後、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。

だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることはなかった。

父弟は救えなかったが13万石の藩主となった真田信之

父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。

『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかった。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす=殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていた。

信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信は初めから真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。

ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である自分も徳川家家臣とは言え切腹するのが筋、というのが信之の信念だった。

結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまう。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかは今となっては知る由もない。

徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな最低限の葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。

真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまったわけだが、しかし真田信之の奔走もあり、真田の家が取り潰される事態だけは避けることができた。そして真田信之はその後9万5000石の上田藩の祖となった。さらにはその後松代藩に転封し、13万石を得ることになった。

sanada.gif

関ヶ原の戦いで徳川家と戦った真田昌幸と真田信繁は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いには参加していないのである。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。


関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身、真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。一方徳川家の家臣たちの多くは、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。

だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることがなかったようだ。

父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。

『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかったようだ。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす:殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていたようだ。

信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信はもともと真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。

ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である信之も切腹するのが筋、というのが信之の気持ちだった。

結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまった。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかはわからない。

徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。

真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまった。
sanada.gif

NHK大河ドラマ『真田丸』で草刈正雄さんが好演する真田昌幸とは、一体どのような人物だったのだろうか。父親は真田幸隆で、昌幸に勝る謀将として知られた人物だ。昌幸は幸隆の三男として天文16年(1547年)に生まれた。そして7歳になると武田家への人質として甲斐に送られ、武田信玄の近侍となる。


信玄は昌幸の器量の良さを非常に気に入っていたようだ。だからこそ信玄は、三男であり昌幸が真田家を継ぐ身にないことを憂い、世継ぎが早世していた武田臣下の名門武藤家を継ぐように命じた。これが元亀2年(1571年)、昌幸が24歳の時だった。このため若き日の昌幸は武藤喜兵衛と名乗っていたのだ。

なお尾藤頼忠(のちの宇多頼忠)の娘、山之手殿(大河ドラマでは高畑淳子さん)を18歳の昌幸が娶ったのは永禄7年(1564年)であり、その後村松殿(木村佳乃さん)が誕生し、永禄9年には長男信幸(大泉洋さん)、永禄10年には幸村(堺雅人さん)が生まれている。つまり昌幸が武藤家の養子になったのは幸村が生まれ、兄信綱が真田家の家督を継いだ4年後のことだったというわけだ。

そこからさらに4年後の天正3年(1575年)、真田家を揺るがす大事件が起こってしまう。長篠の戦いだ。何とこの戦で昌幸の兄である信綱と昌輝が揃って討ち死にしてしまったのだ。この出来事により、昌幸は武藤喜兵衛から真田昌幸に戻り、真田家の家督を継ぐことになった。

天正6年(1578年)になると、御館の乱の混乱に乗じ上杉領だった沼田城を北条氏政が略奪した。この時上杉家と武田家は同盟を結んでおり、上杉景勝は武田家が沼田城を攻略することを容認する。この沼田城攻めを任されたのが真田昌幸だった。翌年には沼田城攻略のために名胡桃城を築城し、さらに翌年天正8年、調略により沼田城の無血開城に成功した。

大河ドラマでは沼田城がとにかく真田にとって重要な城であると描かれているが、沼田城はこのようにして真田の城になったのだった。ちなみに沼田城とは北関東に於ける交通の要衝であり、かつてより上杉氏、武田氏、北条氏によって奪い合いが続けられていた。

その重要拠点を真田昌幸と叔父の矢沢頼綱の尽力によって手に入れたわけだが、その沼田城を天正壬午の乱(天正10年)を鎮静させるため、徳川家康が北条氏政に対し、沼田城を攻め落としても良いと勝手に容認してしまったのだ。武田家滅亡後、真田家は徳川に味方していたのだが、これによって真田昌幸は徳川家康に対し不信感を抱き始める。

そして天正13年(1584年)、昌幸は上杉と結び、家康と手を切った。こうして第一次上田合戦へと突入していくのである。

sanada.gif

第一次上田合戦以降、真田家と徳川家の間には険悪なムードが漂い続けていた。まさに一触即発といった状況で、家康としては状況さえ許せばすぐにでも真田を潰してしまいたい思いだった。自ら真田のために築いた上田城で、自ら真田に大敗を喫してしまったのも家康としては内心忸怩たる思いだったはずだ。


この頃の真田は上杉家の庇護を受けており、弁丸(のちの真田信繁、通称幸村)が人質として送られていた。第一次上田合戦では母山之手殿を海津城に代わりの人質として送ることにより一時的な帰国と、上田合戦への参加を許されはしたが、あくまでも弁丸は上杉家の人質という立場だった。

真田昌幸は徳川対策を考え始める。もちろん上杉の傘下に入ったことがその一つではあるのだが、同時に羽柴秀吉とも交渉を進めていたようだ。一説では秀吉と交渉をすることは、上杉側から許可をもらっていたと言う。義の上杉に対し、義を立てて接した昌幸と思いきや、これもやはり昌幸一流の芝居だった。

昌幸の交渉が実り、秀吉が真田と徳川の仲裁をしてくれることが決まった。その条件として秀吉は真田昌幸に人質を求めたわけだが、その人質として昌幸は弁丸を送ろうとする。だが弁丸はもちろんまだ上杉家の人質だ。一人の人間がふたつの家の人質になることはできない。では昌幸は一体どのようにしたのか?

天正14年(1586年)6月、上杉景勝は羽柴秀吉の軍門に下り上洛することになった。昌幸はこの隙を突き春日山城から勝手に弁丸を奪還してしまったのだった。上杉景勝はさすがに怒りを露わにするが、しかし弁丸が再び送られた先は羽柴秀吉の元であり、これにより真田家は羽柴家の臣下となっていた。つまり上杉が真田を攻撃するということは、上杉が羽柴を攻めるのに等しい行為であり、これは当然謀反となってしまう。そのため景勝は真田に対し何も行動を起こすことができなかったのだ。

真田昌幸はそこまで予測し、弁丸の奪還を実行した。秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれたのもこの辺りの出来事が所以となっているのだろう。だが結果的には第一次上田合戦の翌年、秀吉の仲裁により真田家と徳川家の和睦が成立した。上杉家はこの和睦を実現させるために利用された形となったわけだが、昌幸は最初からその腹づもりだったようだ。

真田と徳川の全面戦争になれば、さすがの謀将真田昌幸にも勝ち目はない。国力に差があり過ぎるのだ。つまり徳川との火種をいつまでも燻らせていては、いつか徳川に真田が滅ぼされると昌幸は考えていた。昌幸の目的はあくまでも真田の家の存続だ。真田の家と真田の郷を守ることに命を賭している。そして真田を守れるのであれば手段など問わないのが昌幸のやり方だった。

この一連の流れにより真田は上杉とも険悪になってしまうのだが、しかしこれは後々解消されていくようだ。恐らく景勝自身、真田はそうまでしなければ家を守ることができなかったと考えるようになり、そして許したのだろう。だからこそ関ヶ原の戦いで真田と上杉は同じ西軍として石田三成に味方し、徳川家康を敵に回し戦ったのだろう。

sanada.gif

真田と徳川による第一次上田合戦が始まったのは天正13年(1585年)8月2日だった。戦いが始まる前、真田昌幸は上田城下に千鳥掛けを仕掛けていた。千鳥掛けとは柵を斜めに並べ配置し、まるで迷路のように敵の行く手を阻む防衛線のことだ。この千鳥掛けを仕掛けた上で、昌幸は徳川勢を上田城内に誘き寄せた。


この時上田城を攻めたのは鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉で、彼らの下には信濃勢や甲州勢など武田の旧臣たちが付けられ、総勢7000の軍勢となっていた。対する上田城に籠る真田勢は2000程度で、数の上では真田勢が圧倒的不利な状況だった。だが7000という大所帯が徳川勢を逆に不利に追い込んでしまう。昌幸が仕掛けた千鳥掛けにまんまとはまってしまったのだ。

徳川勢は誘き寄せられるまま上田城内に侵入していくと、本城まで間近の二の曲輪で千鳥掛けによる迷路に迷い込んでしまった。進むことも戻ることもできず兵は右往左往している。徳川勢はやむなく一度城外に戻り体勢を整えることにした。この時徳川勢は放火してから城下に出ようともしたらしいが、結局味方への損害も鑑みられ火は放たれなかった。だが千鳥掛けを縫うように退いて行く徳川勢の動きを謀将真田昌幸が見逃すはずはなかった。

徳川勢が上田城から出ようとするその背中を昌幸は急襲した。するともう徳川勢は大混乱に陥る。後ろからは真田勢が追い打ちをかけてくるし、出て行こうとする城下町には真田自ら放火し、徳川勢は退くことも進むこともできなくなってしまった。それでも何とか城門まで退くと、今度は上から岩や大木、火の着いた松明が徳川勢に向け次々と投げ込まれた。徳川勢は「卑怯だ!」と皆喚くが真田勢は意に介さない。もはや人対人の戦ではなく、ゲリラ戦の様相となり、どんどん岩などを投げ込んで行った。だが真田昌幸の謀略はこれだけではなかった。

昌幸は百姓たちを城下町周辺に忍ばせておき、紙で急拵えした真田の旗を掲げさせた。これ見た徳川勢はさらに大混乱に陥り、完全に包囲されたと錯覚してしまった。徳川勢がここから体勢を整えることなど、もうほとんど不可能に近かった。大久保忠教は上田城から退く際に、やはり火を放っておくべきだったと後悔したと言う。

だが真田の攻撃はまだまだ終わらない。命辛々上田城を出た徳川勢を待っていたのは、砥石城から援軍に駆けつけた昌幸の長男、真田信幸の部隊だった。もはや徳川勢にできることと言えば逃げることだけだ。部隊はそれぞれ壊滅状態で、軍としてはまるで機能していない。それでも何とか信幸の部隊を振り切った徳川勢だったが、神川まで落ち延びるとさらなる悲劇が待っていた。

この戦いが始まる前まで、上田は連日の大雨に見舞われており、川はどこも増水していたのだ。そんな増水している神川を渡っている最中に、鉄砲水が徳川勢を襲ったのだった。これにより徳川勢には多くの溺死者が出てしまう。最終的に7000の兵のうち1300人が命を失ってしまったと伝えられている。だがこの1300という数は、真田信幸が家臣に送った書状に書かれていたものであり、かなり誇張され書かれたものだと思われる。

一方徳川方の『三河物語』には300人の損害と書かれており、これもやはりかなり少なめに書かれている。ちょうど中間をとるならば、実際には800人前後の損害だったのではないだろうか。それでも兵の内11%が戦死してしまったのだから、これは非常に大きな損害だったと言える。しかも相手はたかだか2000の真田勢だったのだからなおさらだ。なお真田勢の被害は40人程度だったと伝えられている。

ちなみに第一次上田合戦には、上杉家に人質として送られていた昌幸の次男弁丸(真田信繁、通称幸村)も参戦していたようだ。小説やテレビドラマなどの物語では、上杉景勝が義を以って信繁を信じ、人質として再び戻ってくることを条件にし、ほとんど無条件での参戦を許していることが多いだ。だが近年の歴史家たちの研究によれば、信繁が参戦する代わりに、母親である山之手殿(昌幸正室)が一時的に海津城に人質に出されていたことがわかってきたようだ。つまり上杉景勝は戦国時代随一の義将ではあったが、決してお人好しではなかったということだ。

さて、上田城の攻防後も徳川は真田に味方した丸子城の岡部長盛を攻めるなど、20日間ほど小競り合いを繰り返した。だがその最中に重臣石川数正が出奔し、羽柴秀吉側に寝返ってしまった。これにより徳川家康は、真田昌幸を相手にしている場合ではなくなってしまい、8月28日になると上田城攻めから完全撤退していった。これにより第一次上田合戦は、完全なる真田昌幸の勝利でを幕を閉じたのである。

NHK大河ドラマ『真田丸』第13話 決戦の史実

sanada.gif天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼が天門山の戦いに敗れ自刃したことにより武田家が滅亡すると、その武田の旧領を他家や国衆たちが奪い合った。これを「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」というわけだが、ここで最も大きくぶつかり合ったのが徳川家康と北条氏政・氏直父子だった。この時真田昌幸は徳川家康に味方をし、策を巡らすことにより北条軍を撃退している。だが徳川と北条の戦いも、家康と氏政が和睦を結んだことにより唐突に終結してしまった。

だがその後が問題だった。和睦が締結した後には必ず国分けという、大名同士の境界線を設定する作業があるのだが、この国分けが、真田家にとって不都合なものとなってしまったのだ。多くの小説やNHK大河ドラマ『真田丸』では、真田が所有していた沼田領を家康が勝手に北条に譲ってしまったように描かれている。だがこれは事実ではない。恐らく物語を面白くするために原作者たちが脚色したのだろう。

事実としては、真田家にとって不都合なのは変わりないわけだが、北条が武力を以ってして沼田領が含まれる上野(こうずけ)を制圧することを家康が認めるという内容の和睦だったようだ。つまり家康が勝手に沼田領を北条に譲渡し、その上で真田に沼田を明け渡すように言ったわけではないのだ。

この和睦内容により、北条はすぐに沼田攻めを開始した。この攻撃により真田は中山城を奪われてしまったが、それでも沼田城代を務めていた矢沢頼綱(真田幸隆の弟で、昌幸の叔父)の奮闘により何とか沼田城は死守することができた。この後も北条の攻撃は続くのだが、それにより沼田城が落ちることはなかった。

天正11年になると、真田の本拠である小県郡で、国衆が蜂起するという出来事が起こってしまう。真田昌幸はその鎮圧に苦労し、家康にも援軍を求めている。そしてその流れで昌幸はどさくさに紛れて上杉景勝を刺激しようと企てる。この時の真田は徳川に従っていたため、真田が上杉領に侵攻すれば、上杉は徳川を攻めることになってしまう。

事実上杉の徳川への牽制が入るわけだが、上杉に攻め込まれないようにと昌幸は上田に城を築くことを家康に提言する。上田は、上杉領である虚空蔵山城(こくぞうさんじょう)の目と鼻の先だ。だが真田家の力だけでは簡単に城を築くことはできない。そのため昌幸は、上田に城を築くことが上杉を抑えるためにも、徳川にとっての得策であると家康を説得し、上田城を家康に作らせることに成功した。

だが同じ頃、城の請取を求めに沼田城に入った北条の使者を矢沢頼綱が斬り捨ててしまうという事件が起こった。実はこれは昌幸の策略だった。矢沢頼綱に北条の使者を斬らせ、それを手土産に叔父矢沢頼綱を単独で上杉に寝返らせた。この時代で使者を切り捨てるということは、相手に対し宣戦布告をしたことになる。つまり昌幸は沼田城を守るために上杉の義を利用しようとしたのだ。上杉は助けを求める者は必ず助ける。それを昌幸が逆手に取ったのだった。

これにより困ったのは家康だ。北条に対しては切り取り次第北条領にして良いと密約を結んだ沼田領の援軍として、上杉がやってくることになったのだ。これでは北条も簡単に沼田城を攻めることはできなくなるし、上杉が動けば北条は本領を手薄にはできなくなる。当然家康自身も徳川に従う形となっている真田をここで攻めるわけにはいかない。形式上上杉に寝返ったのは矢沢頼綱だけなのだから。

この状況に困った家康は小県群の国衆である室賀正武を上手く言いくるめ、昌幸の暗殺を企てる。だがこの暗殺を事前に察知していた昌幸は室賀を返り討ちにしたことで、逆に室賀の所領を奪い取り勢力を増すことに成功した。家康としては暗殺の失敗によりますます状況が悪化してしまったというわけだ。

上田城は、沼田城の件の侘びのつもりで家康が築城を許したと伝えられている。つまり家康側からすれば「徳川で上田城を作り進呈するから、沼田は北条に譲ってくれ」という思惑だ。だが真田昌幸は上田城をありがたく頂戴したあげく、沼田城の引き渡しは拒否し続けたのだった。

この一連の騒動により、真田と徳川の関係は日に日に悪化していく。そもそも昌幸は、天正壬午の乱で真田が徳川に味方した直後に、家康が沼田領攻めを北条に対し容認したことで、家康への不信感を募らせ徳川から離れる時期を早々から図っていた。そしてその時期は天正13年6月にやってくる。昌幸は徳川と絶縁し、次男である弁丸(のちの真田信繁)を人質として送ることにより、上杉に従属していった。

ここで真田と徳川は正式に敵対関係となり、徳川が真田昌幸の居城となっていた上田城に侵攻し、第一次上田合戦が始まっていくのである。それにしても自分で作って真田昌幸に与えた城を自分で攻めることになるとは、家康からすれば実に皮肉な出来事となってしまった。

sanada.gifNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公でもある真田幸村とは、一体どのような人物だったのだろうか。歴史ファンの間で幸村の人気は非常に高いわけだが、しかしそれほど多くの武功を立てた人物ではない。確かに徳川との戦いで強さを見せてきたわけだが、その多くの戦を父真田昌幸と共に戦っている。つまり幸村のみの采配で戦った戦はほとんどないのだ。

幸村の出生にはいくつか説がある。永禄10年(1567年)出生説、元亀元年(1570年)2月2日出生説、元亀2年出生説だ。いくつかある説の中で、幸村の行動を照らし合わせていくと元亀元年出生説が歴史研究家たちの間では最も現実的となるようだ。

父親は言わずと知れた真田昌幸で、兄は真田信之、母は山之手殿。幼名は弁丸で、後に真田源次郎信繁、通称真田幸村となる。この真田幸村の名前が歴史上に最初に登場するのは天正壬午(じんご)の乱となる。天正壬午の乱とは、織田信長が本能寺の変で討たれた直後に起こった出来事のことだ。この時武田の旧領はは滝川一益が治めていたのだが、本能寺の変が起こると清洲会議に出席するため、元の領主に返還し自領に戻って行った。

この武田の旧領を徳川、北条、上杉、真田で奪い合うわけだが、これが主に天正壬午の乱と言われている。そしてこの時幸村がどのように登場するかと言えば、まずは本能寺の変の前、武田が滅亡した際だ。天正10年3月3日、本能寺の変が起こるちょうど3ヵ月前。武田勝頼は普請したばかりで完成も間近だった新府城に火を放ち、城が敵の手に落ちないようにし、岩殿城へと落ち延びようとした。

この時幸村は兄信之、母山之手殿らと共に真田の本領である岩櫃(いわびつ)城への帰還を許された。だがその道のりは落ち武者狩りと絶えず遭遇し続ける過酷なものだったようだ。これが幸村の名前が歴史上に最初に登場した場面となるわけだが、この直後、天正壬午の乱に突入すると再び名前が登場してくる。

しかしこの時も戦で活躍したという記述ではなく、祖母と共に滝川一益の人質になったという記録だ。元亀元年出生説であればこの時幸村は12歳で、永禄10年説だったとしても15歳という年齢だ。NHK大河ドラマではこの幸村を堺雅人さんが演じているわけだが、さすがに年齢設定に無理があるのでは、と某は見ていて感じてしまった。

滝川一益が無事信濃を脱出すると、人質であった幸村たちは木曽福島城の木曽義昌に引き渡され、その後9月に真田本領に無事返されている。若き日の幸村はとにかく人質生活が多かった。この後も天正13年(1585年)には上杉景勝の人質とされ、天正15年には豊臣秀吉の人質とされている。

人質となった幸村だが、他の人質とはまるで違っていた。上杉景勝はすぐに幸村の力量に気づき、人質としてではなく1000貫の知行を与え、臣下として迎え入れた。そして元服を迎えた頃に送られた豊臣家では、後に豊臣姓を賜るほど秀吉に気に入られている。幸村は人質でありながらも、臣下としても仕え力を与えられた珍しい武将だったのだ。

これが若き日の幸村の日々であり、戦に主力として参加したという記録はほとんどない。恐らく最初に大きな戦に加わるのは天正13年の第一次上田合戦となるのだろう。この時幸村はすでに上杉の人質だったわけだが、景勝は幸村の参陣を許した。これは異例中の異例だ。通常では人質を返すということはどのような状況でもほとんど考えられない。だが義将上杉景勝は、真田幸村の義を信じたのだろう。上田での戦で父昌幸の手助けをしに帰ることを許した。

ただこの参陣に関しても、歴史学的には「可能性があった」という話に留まり、実際に参陣していたのかどうかはまだ明確にはなっていないようだ。しかし上杉景勝という人物を見ていくと、幸村の参陣を認めた可能性は高いように感じられる。

ちなみに幸村は、第一次上田合戦で真田が上杉に援軍を求めるために送られた人質だった。にも関わらず景勝が本当に幸村の参陣を許したのだとすれば、これほど男気溢れる武将もそうはいないのではないだろうか。非常に無口であったためあまりスポットライトが当たらない武将ではあるが、上杉景勝の度量は謙信にも劣ってはいなかったように感じられる。

今回は若き日の幸村をダイジェストで記して行ったが、今後は上田合戦などをまた細かく書いていきたいと思う。