「竹中半兵衛」と一致するもの

櫓から小便をかけられても怒る素振りさえ見せなかった竹中半兵衛

竹中半兵衛

永禄7年(1564年)2月6日の夜、織田信長が4年攻めても落とせなかった美濃・稲葉山城を、竹中半兵衛重治が僅か16人の手勢のみで鮮やかに落として見せた。稲葉山城は天然の要塞とも呼ばれ、これまでどれだけの大軍で攻められても落ちなかった難攻不落の城として有名だった。果たしてこの城を、竹中半兵衛はどのような手を使って僅か16人で落として見せたのか?

そもそも竹中半兵衛は斎藤家の家臣だった。だが斎藤家の他の熱血的な武将たちとは違い、半兵衛はいつも飄々とし、何を考えているのか分からないような人物だった。だがそれは生気がなかったからではなく、斎藤家が近い将来滅びるであろうことが半兵衛には分かっていたからこその姿だった。愚将の主斎藤龍興を守るために熱を帯びることなど、半兵衛にとっては無駄以外の何物でもなかったのだ。

龍興は、祖父道三の頃から仕えている斎藤家の重臣たちをことごとく遠ざけ、自分の言うことをよく聞く者だけを側に置き重用するようになった。そして龍興がことあるごとに半兵衛を馬鹿にするため、龍興の側近たちもそれを真似て半兵衛をからかうようになった。斎藤飛騨守秀成に関しては、菩提山城へ戻って行く半兵衛に対し櫓から小便をかける蛮行を見せたほどで、これは永禄7年、半兵衛が新年の挨拶をするために稲葉山城の龍興の元に出向いた帰り際の出来事だった。

小便をかけられてもなお半兵衛は無表情のまま、不気味なほど冷静な目礼だけをし稲葉山城を去っていく。小便をかけられれば、普通の武士であれば抜刀し怒りを露わにするのが当然だ。だが半兵衛は表情一つ変えない。この半兵衛の姿に逆に恐怖感を覚えたのは斎藤飛騨守の方だった。慌てて龍興の元へ行くと、半兵衛に復讐されるかもしれないと助けを求め、また、半兵衛には逆心があるのではないかという疑心まで龍興に植え付けようとした。

後日、龍興は半兵衛を稲葉山城に呼び出し、逆心の疑いをかけられていることを伝えた。そして半兵衛はそのつもりはないと証明するため、弟である竹中久作重矩(きゅうさくしげのり)を人質として差し出した。だがこの人質こそが、半兵衛が仕掛けた稲葉山城乗っ取り作戦の初動だった。半兵衛は人質として稲葉山城に送られる重矩に対し、2月になったら仮病を患えと命じていた。

逆心を疑われて差し出した弟に仮病を使わせた竹中半兵衛

重矩はその通り、2月になると腹痛で苦しむ振りをした。その痛がりようは尋常ではなく、医者にも痛みの原因が分からない。しかし当然である、仮病なのだから。これは命に関わる重病に違いないと思った龍興は、菩提山城の半兵衛に報せを走らせた。そして半兵衛はまず弟の病を主に詫び、すぐに見舞いに向かうつもりだと返した。

そして2月2日、半兵衛は16日の共を連れ稲葉山城に入った。半兵衛たちはまったくの軽装で、持っていたのは幾つか長持だけだった。これには見舞いの品や、龍興への手土産が入っていると言い城内に持ち込んだ。だが実際に入っていたのは16人分の武具だった。

2月6日になると竹中半兵衛と16人の家臣たちは、長持に隠し持っていた武具を次々纏っていく。この日は夜風が冷たい静かな夜だったらしい。半兵衛は城内を散歩しながら、ようやく二の丸付近で探していた人物を見つけ出した。そう、斎藤飛騨守秀成だ。

遭遇するなりまた威丈高に物言う飛騨守を、半兵衛は一瞬のうちに切り捨てたと伝えられている。実はこの夜の夜警が斎藤飛騨守であることを、半兵衛はあらかじめ知っていた。この2月、斎藤飛騨守は1〜6日の夜警を担当していた。だからこそ半兵衛は夜警最終日であるこの日に稲葉山城を乗っ取ることにしたのだった。

斎藤飛騨守を切り捨てると、半兵衛は家臣たちに「竹中の兵が大勢城内に攻め込んできた」と城内で吹聴させて回った。すると城内は大混乱に陥り、着の身着のまま城を逃げ出す者が続出し、城を守ろうとする者はほとんどいなくなった。斎藤龍興も側近である長井新八郎と新五郎兄弟に支えられ、状況を把握できないまま城を捨て逃げ出すという有様だった。

織田信長と舅安藤伊賀守を感服させた19歳の竹中半兵衛

龍興が城を捨てたことでこのクーデターは完了し、稲葉山城は竹中半兵衛の手中に落ちた。なおこの時、半兵衛の舅である安藤伊賀守範俊がもしもの時のため城下で待機していたようだ。数日前に事を起こすことはすでに本人から伝えられていたが、舅はまさか婿がこの乗っ取りを成功させるとは夢にも思っていなかった。だが16人の手勢のみで一夜にして城を落として見せたことで、範俊はあらためて「この男に娘を嫁がせて正解だった」と思うのだった。

半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件は、瞬く間に美濃周辺へと広がっていった。これに最も驚いたのは尾張の織田信長だ。信長は4年かけて稲葉山城を攻めていたが、未だ落とせる気配さえ見えていなかった。それを竹中半兵衛という19歳の若者が、たった16人の手勢だけで一夜にして落としてしまったのだ。

信長はすぐに半兵衛に使者を送った。そして稲葉山城を織田に明け渡せば、美濃国の半分を与えるという好条件を提示した。だが半兵衛にその提案を受けるつもりはない。そもそも半兵衛は謀反を起こしたのではなく、愚将の主斎藤龍興を諌めるために城を乗っ取っただけなのだ。それを信長に明け渡し、逆臣の汚名を背負うつもりは半兵衛にはさらさらなかった。

しかし半兵衛は信長に対しすぐに回答しようとしない。その理由は信長の使者が頻繁に半兵衛を訪ねているという噂を、龍興の耳に入れるためだ。その噂を聞きつけると龍興は案の定慌て、自ら半兵衛に頭を下げて城の返還を求めた。すると半兵衛は、今回の稲葉山城乗っ取りに関わったすべての者の責任を問わないということを条件に、あっさりと城を明け渡した。そして自らは家督を弟重矩に譲り、自らは晴耕雨読の隠遁生活へと入ったのだった。

この出来事以来、竹中半兵衛は「今楠木(現代の楠木正成)」と称されるようになった。

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麒麟がくる第7回目「帰蝶の願い」では、斎藤利政(のちの道三)の娘である帰蝶の織田家への輿入れが決まるまでのことが描かれた。内容としては帰蝶が織田家へ輿入れしていくこと以外のことは、ほぼフィクションとなるのだろう。

戦国の姫に人権はなかった?!

例えば劇中では帰蝶は明智十兵衛光秀に想いを寄せているように描かれている。この設定ももちろんフィクションの域を出ないわけだが、ドラマを盛り上げるためには非常に重要な設定なのだと思う。そして十兵衛に想いを寄せているが故に、帰蝶は十兵衛に「尾張に行くべきではない」と言ってもらいたがっているが、これは戦国の世では実際にはほとんど起こりえないことだと言える。

戦国時代の女性にはほとんど人権はなかった。例えば3月8日は国際女性デーで、世界中で女性の人権やフェミニズムについて語られるわけだが、戦国時代の日本に於いて女性は政略の駒でしかなかった。そして女性に異論を申し立てる権利などなく、主命で輿入れが決まればそれに従う他選択肢はなかった。明智光秀自身後々は、自らの娘たちを臣下に嫁がせることにより、軍団の結束を高めようとしている。もちろん細川ガラシャも同様に。

恋愛結婚がほとんどなかった戦国時代

珍しいケースとして織田信忠と松姫のような純愛も存在していたわけだが、戦国の武家に於いて恋愛結婚が成し遂げられることはほとんど考えられなかったと言える。織田信長にしても最愛の妹であるお市の方を政略結婚によって浅井長政に嫁がせている。

劇中では斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じているが、実際には頭領が決めたことに有無を言うことは許されないため、利政の判断に帰蝶が異論を唱えることは、史実であるならば非常に考えにくい。だがここはドラマであるため、やはり帰蝶が十兵衛に想いを寄せていた、という設定の方が見ていてドラマにのめり込める。ちなみに戦国時代を描いた歴史小説の中には、実際にはありえない恋愛模様が描かれていることも少なくない。例えば同じ美濃の物語で言えば、竹中半兵衛重治とお市の方が実は密かに想いを寄せ合っていた、という設定で描かれた小説もあった。

武家というよりは土豪に近かった道三時代の明智家

さて、もう一点。美濃の国主である斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じるわけだが、史実的にはこの頃の明智家は武家というよりも、土豪に近い存在だった。そのため劇中のように明智光安と十兵衛が頻繁に稲葉山城に赴くことはなかったと思われる。それどころか美濃三人衆(西美濃三人衆)と呼ばれたうちの一人、稲葉一鉄と話す機会さえほとんどなかったのではないだろうか。史実的にこの頃の明智家はそれほど微々たる存在だった。

ちなみに美濃三人衆とは稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の三人のことで、一番力を持っていたのが氏家卜全だったと言われている。そして安藤守就は竹中半兵衛の舅で、稲葉一鉄は「頑固一徹」の言葉の由来になった程の頑固者だったようだ。その頑固さに関しては史実通り描かれていると感じたのは、筆者だけではなかったと思う。

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戦国時代を語るにあたり必ず登場するのが軍師の存在だ。竹中半兵衛、黒田官兵衛、直江兼続、山本勘助、立花道雪ら戦国時代にはその他にも名だたる軍師たちの存在が多く見て取れる。だが戦国時代そのものにはどうやら軍師という役職は存在していなかったようだ。


江戸時代後期や明治時代になると歴史小説が読まれるようになり、それらの小説により軍師という言葉は一般的になった。そしてそれらの小説に軍師という言葉が登場するきっかけとなったのは、江戸時代以降の軍学者たちによる研究結果だった。学者たちは大名に様々な知恵を提供する役割を担った人物のことを軍師と呼ぶようになり、それが小説の世界へと広がって行き、一般的にもよく知られる言葉となっていった。

歴史ドラマではたまに軍師のことを「軍師殿」と呼ぶシーンが描かれているが、どうやら実際にそのように呼ばれることはなかったようだ。例えば直江兼続のように守護職を持っている人物の場合は「山城守(やましろのかみ)」や「山城」と呼ばれていた。一方竹中半兵衛のように役職に関心のない人物は「半兵衛殿」「竹中殿」と呼ばれていた。

ここでは便宜上「軍師」という言葉を使うが、室町時代から戦国時代初期にかけての軍師は、占い師的な要素が強かった。例えば奇門遁甲などを駆使し方角や運勢を読み、運を味方に付け戦に勝つ手助けを行なっていた。いわゆる陰陽師のような存在だ。

そのため特に戦国時代初期の軍師は、実際には陰陽師ではないが、陰陽師をルーツにするような僧侶などの修験者(しゅげんじゃ)が務めることも多かった。例えば今川義元を支えた太原雪斎(たいげんせっさい)や、大友家を支えた角隈石宗(つのくませきそう)のような存在だ。だが戦国時代が中期に突入すると『孫子』などの軍学に精通した人物が軍師として重用されるようになる。羽柴秀吉を支えた竹中半兵衛や黒田官兵衛のような存在だ。

これが戦国時代も末期に差し掛かり戦が減って行くと、軍学を得意とする軍師の役割も減って行く。その代わりに台頭してくるのが吏僚型の軍師だ。石田三成や大谷吉継のような存在だ。彼らは戦のことももちろん学んでいるが、それ以上に兵站(兵糧)の確保や金銭の管理に大きな力を発揮した。特に石田三成は近江商人で有名な土地で生まれ育ったため算術を得意としており、豊臣秀吉が仕掛けた朝鮮出兵などでは後方支援として大きな役割を果たした。

ちなみに日本最初の軍師は吉備真備(きびのまきび)という人物だ。奈良時代(700年代)の学者で、中国の軍学を学ぶことによって戦術面に貢献するようになり、藤原仲麻呂が起こした乱を巧みに鎮圧したことでも知られる人物だ。その後鎌倉時代から南北朝時代に入って行くと、今度は楠木正成という軍師が登場する。楠木正成は、戦国時代で言えば真田昌幸のようなゲリラ戦法を得意とする軍師だった。

強い忠誠心を持っていたことから、戦国時代にはヒーローとして崇められ、例えば竹中半兵衛などは「昔楠木、今竹中」「今楠木」となどと呼ばれ、その高い手腕が賞賛されていた。

軍師とは野球チームで言えばヘッドコーチ、内閣で言えば官房長官のような役割になるのだろう。決してトップになることはないが常にトップの傍らでトップを支え、成り行きを良い方向へと向かわせる役割を果たす。

ちなみに軍師は『孫子』などに精通している必要があるが、現代でMBAを取得する際の必須科目にも『孫子』は加えられている。その孫子(孫武)自身も紀元前500年代に活躍した中国の軍師(軍事思想家)だった。
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戦国時代の軍師の存在、意味とは一体どのようなものだったのか。軍師という言葉は歴史ドラマなどでもよく耳にすることがあるが、実際にはどのような役割を担っていたのか。この巻では軍師の役割について詳しく解説してきたいと思います。


まず軍師を英語で言うと「Tactician(タクティシャン)」となり、戦術家という意味になります。つまり軍師を一言で説明するならば、戦術を練る人、ということになります。いわゆる参謀という存在であり、プロ野球チームならば監督が大名ならばヘッドコーチが軍師、総理大臣が大名ならば官房長官が軍師という感じになるでしょうか。

最終的な決断を下すのはもちろん大名や大将の役割です。その大名や大将に対し選択肢を提供するのが軍師の役目でした。例えば城を攻めるならばシンプルな攻城、兵糧攻め、水攻め、火攻めなどなど、どのような戦術を用いれば最も効果的に、かつ効率的に城を落とすことができるのか、それを大名が決断するための情報を提供するのが軍師の役割です。

そのため軍師は圧倒的な情報量を持っている必要がありました。例えば真田信繁(幸村)は情報を集めるために猿飛佐助や霧隠才蔵などの忍者を抱えていたと伝えられています。またその父真田昌幸は、根津のノノウ(歩き巫女)に情報収集をさせていたという説もあります。

軍師は大名や大将から何かを相談されても、その場ですぐに答えられるように圧倒的な情報量と知識が求められていました。知識といえばもちろん『孫子』を始めとする中国の書物への造詣もです。

軍師という存在が目立つようになったのは、戦国時代からだと言います。戦国時代の前期までは軍師は、主に禅僧の役割でした。中国の学問に精通した禅僧が大名の側に控え、知識を提供していたというのが戦国軍師の元々の姿です。その後徐々に自ら勉学に励む竹中半兵衛のような武将が登場し、大名とともに戦う武将型軍師が多くなっていきました。

ちなみに禅僧型軍師として有名なのは織田信長に仕えた沢彦(たくげん、岐阜を名付けた禅僧)などがいます。沢彦などはまさに典型的な禅僧型軍師であり、戦場にまで赴くことはありませんでした。逆に今川義元に仕えた禅僧型軍師である太原雪斎は自ら鎧をまとい戦場にまで赴く勇猛な禅僧でした。

軍師というのはとにかく、大名や大将が欲しいと思った情報を瞬時に提供できる人物だったようです。そしてそれを可能にするためにも情報網を広げ、武芸だけではなく勉学にも勤しむ忙しい毎日を送っていたと言います。竹中半兵衛や黒田官兵衛らは、夜寝る時間を惜しんで本を読んでいたようです。そして『孫子』なども簡単に諳んじられたと言います。

なお戦国時代の武士はだいたい夜8時には寝て、朝4時には起きていたようです。この8時間の睡眠時間を削ってでも勉学や情報収集に努めたのが軍師という存在だったのです。言ってみれば軍師というのは大名にとって、歩く百科事典だったというわけです。

また、戦場での戦術を練るのが得意だった竹中半兵衛や黒田官兵衛などに対し、吏僚型軍師も戦国時代の後期から登場します。それが石田三成や長塚正家ら、算術が得意な人物たちです。そしてその中間的な存在が大谷吉継でした。大谷吉継は戦術にも算術にも長けていたと言われています。

このように戦国時代の軍師には禅僧型、武将型、吏僚型などなど、他にも幾つものタイプがありました。そしてそのタイプは時代と共にニーズが移り変わっていきます。例えば豊臣秀吉の場合、乱世であった頃は竹中半兵衛や黒田官兵衛を重用しましたが、戦が減ってくると黒田官兵衛とは距離を置き、石田三成ら吏僚型軍師を重用するようになりました。

軍師の役割を見直してみると、軍師と呼ばれた人物は非常に忙しい毎日を送っていたようです。なお戦国時代には軍師という言葉はあまり使われていなかったとも言われています。軍師とは江戸時代後期や明治時代から主に使われるようになった言葉であるようで、戦国時代には明確な「軍師」という役職があったわけでは実はないようです。
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石田三成という人物は本当に誤解されやすい人だ。その理由の一つとして実直すぎるという点を挙げられる。そして実直すぎる故に融通が利かなく、あまり他人を信用しないという性格だったようだ。そしてその性格による対応のせいで、慶長の役では豊臣恩顧の武断派との溝がさらに広まってしまった。


慶長の役とは慶長2年(1597年)に始まった秀吉二度目の唐入りのことで、この朝鮮との戦は慶長3年に豊臣秀吉が死去したことにより終結した。その際、石田三成は国内に留まり、自らが信頼を寄せる軍目付(いくさめつけ)7人を朝鮮に派遣し、戦況や戦功の状況を調査させた。

その7人とは太田一吉(三成家臣)、垣見一直(三成家臣)、熊谷直盛(三成の娘婿)、竹中重利(竹中半兵衛の義弟)、早川長政、福原長堯(ながたか、三成の妹婿)、毛利高政という人選だった。このように三成は軍目付として、自らが信用している人物だけを選んだ。だがこの人選が武断派の不興を買ってしまう。

加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興らは、軍目付として三成の臣下以外からも選ぶようにと迫ったが、三成はそれを受け入れなかった。その理由は武断派の息がかかった者を選べば、事実を誇張して報告される恐れがあったためだ。それを防ぎ、事実を正確に把握するために三成は自らが信頼している人物のみを軍目付として選んだ。

この7人の報告を受け、最終報告するのは三成の役目だったわけだが、武断派たちはそこで三成が讒言し、自らの武功を過小評価されたのではないかと猜疑したようだ。だが三成は過小評価して報告をしたわけでも、讒言したわけでもなかった。ただ事実をありのままに秀吉の報告したに過ぎなかったのである。決して私情を交えて報告するようなことはしなかった。

武断派たちは三成の思いなどまったく理解しようとはしなかった。文禄の役などでは特に、日本軍は海路を確保することができなかった。そのため兵糧を日本から朝鮮に送ることもできず、送ったとしても輸送船はあっという間に沈められてしまった。それにより朝鮮の日本軍は食糧危機に陥った。それでも武断派は戦いを続けようとしたのだが、三成は兵を無駄に死なせることを嫌い、退却を強く進言したのだった。

慶長の役では慶長3年8月18日に秀吉が死去し、朝鮮攻めが頓挫すると、三成は帰国してきた武将たちを博多で出迎えた。そして「伏見で秀頼公に御目通りされたら一度国に戻り休み、来年また上洛あれ。その折には茶の湯でも楽しもうではないか」と心からの労いの言葉をかけたようだが、加藤清正は「治部少は茶を振舞われるがよかろう。我らは異国で7年も戦い、米一粒、茶も酒もないため稗粥(ひえがゆ)ででも持て成そう」と怒鳴りつけたと伝えられている。

しかし振り返り見れば、兵糧が尽きかけようとしても戦を続けたのは清正ら武断派であり、兵を守るため撤退させようと苦心したのが三成だった。武断派たちはそんなことは決して理解しようとはせず、理不尽にも三成に当たり散らしたのだった。

秀吉の死は、三成にとっては心が千切れるような出来事だったに違いない。自分を武将に仕立ててくれた恩人であり、三成は秀吉の構想を実現させるべき身を粉にして働いてきた。三成にとっては秀吉こそが正義だったのである。慶長の役は8月以降、撤退は12月まで及んだのだが、三成は兵たちが無事帰国できるように、その間も奉行として涙を見せず働き続けた。

石田三成という人物は、自らにかかる疑念に対し弁明することはほとんどしなかった。そのため誤解が解かれることもなく、誤解がさらなる誤解を生んでしまうことも多々あった。そして江戸時代になると徳川家康の敵として、さらに有る事無い事酷く書かれることになってしまう。

秀吉の生前は秀吉のミスをカバーし続け、そのミスも自らが罪を被り、秀吉のカリスマ性が失われないように対応し続けた。そのような事実も武断派たちは決して知らなかったはずだし、知ろうともしなったのだろう。現代の歴史ドラマでも石田三成は未だ悪役として描かれることが多い。だが実際の石田三成は信じた正義を貫き通した、豊臣家最大の義将だったのである。
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織田信長という人物は時に、冷酷非道な人物として語れることがある。それはやはり比叡山を焼き討ちにし女子供問わず殺させたり、浅井父子・朝倉義景の髑髏(しゃれこうべ)に金箔を塗って飾らせたり、自らを裏切った荒木村重の一族を皆殺しにしたりと、このような行動を取ってきたことに影響している。だが本当の信長は、実は愛情深い男だったのだ。


織田信長には、正室である濃姫以上に愛していた女性がいた。吉乃(きつの)という人物だ。吉乃は元々は土田御前(信長の母)の甥である土屋弥平次に嫁いでいたが、弥平次が弘治2年(1556年)に戦死し、19歳という若さで未亡人になってしまった。そして吉乃が未亡人になった頃にその存在を知った信長の恋心はどんどん膨らんで行く。ちなみに吉乃という名前は後世の創作で、実名は定かではない。

さて、信長自身は天文18年(1549年)2月24日に斎藤道三の娘、濃姫と結婚している。濃姫に関しては若くして亡くなった説や、本能寺の変で信長と共に戦い死んだという説など、諸説存在している。若くして亡くなったとしても、それでも信長は濃姫の目を盗んでは吉乃に会いに行く日々を続けていた。時期としては桶狭間の戦いが起こる前の数年間だ。

吉乃は馬借(ばしゃく・馬を使った運送業)をしていた生駒家宗の長女だったのだが、弥平次が死んでからは生駒家に戻っていた。そして信長は当時の居城であった清須城から10キロ離れた生駒家まで馬を駆けて通っていたと言う。若き日の信長は毎日馬で山野を駆け巡り地形を頭に叩き込んでいたのだが、そのついでに生駒家に通う日々だったのかもしれない。

吉乃はその後、信長の側室として迎えられた。そして嫡男信忠、信雄、徳姫を産むのだが、吉乃は元来体が弱かった。それもあり出産をするごとに体力を失っていき、病に伏せるようになってしまう。信長は吉乃のために名医を呼び、金に糸目をつけず吉乃のために薬を手に入れた。そして少し元気な日には吉乃の体を支えながら屋敷内を一緒に歩いたと言う。

時には吉乃を支えながら歩き家臣団がいるところまで連れて行き、吉乃を家臣たちに紹介することもあったようだ。普段は激烈な信長の姿ばかりを見ている家臣たちは、その信長の優しい姿を見てさぞや驚いたのではないだろうか。

信長は吉乃のために輿まで用意すると言った。当時輿と言えば、身分の高い女性だけが乗ることを許された乗り物だった。それを馬借の娘であり、側室という身分でしかなかった女性が乗ることなど、普通ではまず考えられることではない。つまり信長はそれほどまでに吉乃に愛情を示していたということなのだ。

だが吉乃の病状が良くなることはなく、永禄9年(1566年)5月13日、29歳という若さで他界してしまう。この頃の信長は戦に明け暮れ、吉乃に会いに行けることも減っていた。時期は信長が稲葉山城を手に入れる直前だ。

この頃の信長は稲葉山城を攻めるため、稲葉山城にほど近い小牧山城に居城を移していたのだが、吉乃はそこから西4キロほど離れた久昌寺で荼毘に付された。

吉乃を弔った久昌寺の僧侶は「信長公は妻女(吉乃)を哀慕し小牧山城の櫓に登り、(吉乃が眠る)遥か西方を望んで涙を流していた」と書き残している。

織田信長は決して冷徹なだけの人物ではなかった。愛した女性に対しては深い愛情を示し、無償の愛を贈ることのできる男だったのだ。信長にこれほど愛され、吉乃はきっと幸せな最期を迎えたのではないだろうか。そして吉乃が最初に産んだ子、織田信忠もまた愛情深い人物に育っていく。詳しくはこちらの巻を参照していただきたい。

吉乃を亡くした数年後、信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井父子・朝倉義景の髑髏を金箔で飾り、荒木村重一族を皆殺しにするわけだが、もしかしたら吉乃を失った深い悲しみを誤魔化すために愛情とは真逆の行動を取り続けたのかもしれない。

なぜそう思うかと言えば、吉乃が存命していた頃の信長は寛大な対応を見せることも多かったからだ。相続争いの際には柴田勝家らを許した。後には稲葉山城を奪取していた竹中半兵衛に信長は再三好条件での開城を要求したのだが、半兵衛はそれを断り続けた。その半兵衛を数年後、半兵衛の思うような形で織田の寄人になることを許している。

だが吉乃を失ったあとはこのような寛大な対応が減り、黒田官兵衛に裏切りの疑惑がかけられると人質松寿丸の処刑をかんたんに命じてしまうような姿も見せている。今となっては信長の心境などわかるはずもないが、しかし吉乃を失った悲しみはとても一言で言い表せるものではなかったのだろう。もしかしたら吉乃の死が信長を魔王に変えてしまったのかもしれない。
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竹中半兵衛と牛に関する逸話は別の巻にてすでに紹介した。今回は半兵衛の馬にまつわる名言をご紹介したい。竹中半兵衛は僅か16人の手勢で稲葉山城を陥落させて以来、その名は日本全国に知れ渡っていた。まさに日の本一の知将であり、竹中半兵衛を幕下に加えたいと考える大名は一人や二人ではなかった。


それだけの名軍師であるにもかかわらず、半兵衛はいつも貧相な馬に乗って戦場に赴いていた。竹中半兵衛ほどの武将であれば、名のある名馬に乗っていても違和感はない。周りももっと良い馬に乗ってはどうかと話していたようだ。それでも半兵衛は、逆に身分にそぐわない駄馬に跨り続けた。それは何故なのか?!

竹中半兵衛の頭の中は常に戦場にあった。何を取っても戦場に立っていることを想定し物事を考えている。馬にしてもそうだった。もし名のあるような名馬に乗ってしまっては、その馬を失いたくないあまりに勝機を失ってしまうこともある。半兵衛が最も嫌ったのがそれだった。

しかし乗っているのが駄馬であれば、勝機となればすぐにでも馬を捨てて戦場を駆け回ることができる。仮にその馬に槍を刺されても、逃げ出されてしまっても、駄馬などいくらでも手に入る。そう思えるからこそ勝機を握り損なうことなく、好敵に対し瞬時に槍刀を向けていくことができる。

だがもし名馬に乗っていたらどうだろうか。もし場所を考えず馬を乗り捨てたら、従者は馬に追いつけるだろうか?馬を敵に盗られないだろうか?などと余計なことを考えてしまい、好機で瞬時の判断が鈍ってしまう。

大大名ならいくらでも名馬は手に入る。戦場で名馬を失ってしまっても、また次の名馬に乗ることができる。だが城代や、その家臣という程度では名馬などそうそう手に入れることはできない。そのため戦場で名馬に乗ることは戦う上で足手まといになると半兵衛は語っている。

この逸話は江戸時代に書かれた『常山記談(じょうざんきだん)』に収録されているのだが、半兵衛は10両持って馬を買いに行ったなら、5両の馬を買うように勧めている。その理由は戦場で馬を失ったら、残りの5両を使ってまた馬を買えるからだ。このように考えていれば、戦場で馬を理由に勝機を失うこともなくなる。さらに半兵衛はこのことは馬だけではなく、他のことにも当てはまると言葉を締めている。

竹中半兵衛は牛に乗って考えたり、身分にそぐわない駄馬に乗ったり、身形は普通であっても行動に関してはやや傾(かぶ)いていたようだ。だが人とは違う行動、物の見方を普段からしていたからこそ、半兵衛は時に奇想天外な戦術によって味方を勝利に導くことができたのかもしれない。
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関ヶ原の戦いで西軍を裏切った大名の代表格としていつも語られるのは、小早川秀秋だ。だがなぜ小早川秀秋は豊臣秀吉の正室、高台院(寧々、北政所)の甥でありながら西軍豊臣秀頼ではなく、東軍徳川家康に味方したのだろうか?実は秀秋を東軍に寝返らせるための調略を行ったのも、黒田長政だったのである。まさに黒田長政は東軍勝利の大立役者なのだ。


小早川秀秋は最後の最後まで悩み続けたと言う。西軍に味方すべきか、それとも東軍に寝返るか。当初は黒田長政に対し、東軍に味方するようなことを話していた。だがそれをなかなか実行に移そうとしない。それどころか関ヶ原の前哨戦として行われた伏見城の戦いでは、西軍の副将として東軍伏見城攻めに参戦している。

黒田長政は解せなかった。東軍に味方をするようなことを言っておきながら、小早川秀秋は未だ西軍として東軍に攻撃を仕掛けている。本当に家康に味方するつもりがあるのか、長政は秀秋を問い質そうとした。だが秀秋はなかなか態度をはっきりさせなかった。本来であれば豊臣恩顧の大名として西軍で戦うのが筋だ。しかし東軍に味方する大きな理由もあったのである。

その前に秀秋は、唐入り(慶長の役)では戦目付の報告により秀吉の怒りを買い減俸させれていた。その戦目付が三成派であり、秀秋は三成に対してはそれほど良い感情は持っていなかったと伝えられている。しかしそれでも一時は西軍として戦っているのだから、黒田長政や福島正則、加藤清正らに比べればそれほど三成のことを嫌ってはいなかったのかもしれない。

秀秋は迷いに迷った。ただ、東軍に味方すると言いながら西軍に付かなければならない事情もあった。関ヶ原の戦いを前にして大坂城は西軍の大軍で溢れており、仮に秀秋が早い段階で東軍に寝返ったとしたら、あっという間に西軍に討たれてしまう危険があったのだ。そのために最後の最後まで態度をはっきりさせられなかった、と考えることもできる。

だが黒田長政は悠長に待っていることなどできなかった。関ヶ原の戦いが開戦される半月ほど前の8月28日、黒田長政は浅野幸長(よしなが)と連名で小早川秀秋に書状を送っている。その内容は、浅野幸長の母親が北政所の妹であるため、秀秋にも東軍に味方して欲しい、と求めるものだった。ではなぜ長政はこのような書状を送ったのか?

実は小早川秀秋は豊臣秀吉の養子であり、幼い頃は北政所に育てられていた。つまり北政所は秀秋にとって養母であり、母親同然の存在だったのだ。黒田長政は秀秋よりも14歳上なのだが、実は長政にとっても北政所は母親同然なのである。

幼少期にまだ松寿丸と名乗っていた頃、長政は人質として織田家に送られていた。そしてその人質の面倒を見ていたのが羽柴秀吉の妻寧々、つまり若き日の北政所だったのである。子を産めなかった北政所は、長政のことを我が子同然に可愛がった。人質として扱うことなど決してなく、父官兵衛の裏切りが疑われた際に長政の処刑が信長から命じられると、最も悲しんだのが北政所だった。そして竹中半兵衛により長政の命が救われ最も喜んだのも北政所だった。

その北政所は淀殿(茶々)と反りが合わず、秀吉死後は自然と家康側に傾倒していた。長政は、秀秋にとっても母同然である北政所が東軍にいるのだから、秀秋も当然東軍に味方すべきであると、と説得を繰り返したのだった。この長政の説得もあり、秀秋は関ヶ原の戦い当日になりようやく西軍を離脱することになる。

福島正則の西軍への寝返りを阻止したのも、西軍総大将毛利輝元に出撃させなかったのも、小早川秀秋を東軍に寝返らせたのも、すべては黒田長政の調略によってのものだった。黒田長政は歴史上、父黒田官兵衛ほど目立つ存在ではない。実際黒田官兵衛を特集した書籍、雑誌ならいくらでもあるが、黒田長政を特集したものはほとんど存在しない。

だが関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いたというこの功績は、父官兵衛のかつての活躍を凌ぐ働きだったとも言える。なお幼馴染である竹中半兵衛の子、重門とは関ヶ原の戦いでは隣り合って布陣したと伝えられている。
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慶長5年(1600年)9月15日に開戦された関ヶ原の戦い、一般的には東軍徳川家康が勝つべくして勝ったと理解されている。だが決して楽な戦いではなく、実は開戦する以前の前哨戦に於いては家康は賊軍に成り下がる可能性すらあった。いや、事実賊軍として見做され、一時は身動きが取れない状況にも陥っていた。だがこの危機を救ったのが黒田長政、つまり黒田官兵衛の息子だったのだ。


そもそも家康は、自ら蟄居させていた石田三成が挙兵するとは想像だにしていなかったようだ。家康に並び五大老の筆頭だった前田利家が亡くなると歯止めが利かなくなり、豊臣家のいわゆる武断派たちが三成を襲撃してしまう。その仲裁役を担った際、家康は三成に蟄居を命じていた。これにより家康は、三成を政治的には事実上葬ったつもりでいた。だがその三成が大谷吉継の協力を得て挙兵するという噂が湧き起こる。

この時奉行衆は家康に対し、三成と吉継が不穏な動きをしているため牽制して欲しいという要望を送った。だが三成は奉行衆たちを説得し、実は家康が太閤秀吉の遺言にいくつも背いているという事実をわからせた。それにより奉行衆は態度を変え、家康を太閤秀吉に対する反逆者と見做したのだった。

家康は上杉討伐のため7月21日に会津に向かったのだが、その時点で家康の耳に入っていたのは三成と吉継の結託だけだったようだ。家康からすれば、三成と吉継が結託したところで兵力は徳川家の1/10にしか過ぎず、気にする程度の規模ではなかった。だが家康が会津へ出立すると、三成の説得により奉行衆や多くの大名たちが態度を変え、反家康軍として集結してしまう。

道中、家康は多くの不穏な報せを受けた。とてもじゃないが会津に遠征していられるような状況ではなくなり、7月25日に遠征に帯同していた武将たちを集める。いわゆる小山評定(おやまひょうじょう)だ。小山評定では主に上杉景勝と石田三成の、どちらを先に討つかということが話し合われた。その結果三成を先に討つことが決定する。

その後家康はひとまず江戸城に戻るのだが、しばらく江戸城から出立できない状況が続いた。つまり奉行衆たちにより賊軍とされてしまったことで、親家康の大名たちの多くが西軍になびく可能性があったのだ。それは親家康の筆頭とも呼べる福島正則にしても同様だった。

その理由は家康が会津へ向かったことにより、豊臣秀頼が西軍の手に渡ってしまったためだった。秀吉亡き後、まだ幼い豊臣秀頼が淀殿の後見により豊臣家を継いでおり、実際にはまだ豊臣政権が続いていた。だが奉行衆が、家康が太閤秀吉の遺言に背いていると糾弾したことにより、家康は完全に賊軍に貶められてしまう。それによって親家康大名たちがこぞって西軍になびく可能性があり、家康は下手に江戸城を出られなくなってしまった。

だがこの危機を救ったのが黒田長政だった。長政だけは最初から最後まで親家康を貫き、奉行衆が糾弾した後も家康のために動き続けた。まず小山評定で福島正則をけしかけ、反三成で結託するように仕向けた黒幕が黒田長政だった。長政の働きもあり、小山評定の時点では大きな離脱者が出ることはなく、それどころか打倒三成で一致団結することになった。

さらにその後、長政は吉川広家の調略に尽力する。吉川広家と言えば毛利両川の吉川家、吉川元春の息子だ。そして吉川家が支える毛利家当主である輝元は、西軍の総大将の座に就いている。だが吉川広家は、輝元は安国寺恵瓊にそそのかされ知らぬうちに総大将に担ぎ上げられていた、と家康に申し開きをする。

毛利家の政治面を担当していたのが安国寺恵瓊で、軍事面を担当していたのが吉川広家だったのだが、しかしこのふたりは犬猿の仲だったようだ。特に広家が恵瓊のことを毛嫌いしていた。そのため恵瓊側では毛利を西軍に味方させようとし、広家側では家康に味方させようとしていた。

だが申し開きをしても広家はなかなか態度を明確にしなかった。つまり家康に味方するとなかなか明言しなかったのだ。その広家を時には嘘も交えて調略したのが黒田長政だった。最終的に長政はこの調略に成功し、関ヶ原の戦いで毛利軍を出撃させないことに成功する。

もし黒田長政の活躍がなければ西軍総大将である毛利輝元は当然出撃し、西軍からの離脱者も最小限に抑えられていたはずだ。そしてほとんど互角の兵力差の中、遠征軍を率いる東軍家康と、城を盾に戦える西軍とでは実は西軍に分があった。仮に黒田長政の調略がなければ、関ヶ原の戦いは西軍勝利で終わっていた可能性も高い。

長政の調略がなければ福島正則は豊臣秀頼を奉じる西軍に寝返っていた可能性もあり、さらには毛利輝元が出撃してくる可能性もあった。もしこのどちらかでも史実と逆の事実になっていれば、西軍が勝利していた可能性が高い。そう考えると関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いたのは黒田長政の手腕によるところが大きいのである。

さすがは黒田官兵衛の息子であり、幼少時は竹中半兵衛に命を救われ教えを受けた武将だけのことはある。福島正則に対しても、吉川広家に対しても冷静に戦局を見極め、最適なポイントを突いていく能力を持っていた。黒田長政はいわゆる武断派に属されることも多いが、槍働きだけではなく、このような知略にも富んだ名将だったのである。
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武田信玄は「風林火山」の旗印でも有名な戦国大名であるわけだが、この風林火山とは『孫子』という兵法書に書かれている一節だ。疾きこと風の如し、静かなること林の如し、侵略すること火の如し、動かざること山の如し、という意味となる。戦国時代に『孫子』を愛読した武将は多い。例えば戦わずして勝つことにこだわった竹中半兵衛も『孫子』を学んだひとりだ。


孫子とは簡単に訳すと孫先生という意味になる。つまり『孫子』とは孫先生が書いた兵法書ということだ。だが近年の史家の研究によると、どうやら『孫子』は孫先生、つまり孫武がひとりで書いたものではないらしいのだ。もちろん多くは孫武自身が書いたものとされているが、しかし部分的に文の表現が違うということがわかってきたようなのだ。

となると『孫子』とは、ある意味ではキリスト教の福音書のような存在とも言えるのかもしれない。つまり孫武の弟子たちが孫武から学んだことを、後世になって少しずつ『孫子』に書き加え、長い年月をかけて完成したものが現代に伝わる『孫子』だという可能性があるらしい。確固たる証拠が見つかっているわけではなく、あくまでも史家の文体などの研究結果によるものだが、信憑性は確かに感じられる。

話は少し変わり、ビジネススクールなどで取得できるMBA(Master of Business Administration)という資格がある。日本語で言うと経営学の修士号ということになり、つまりは経営の専門家として認定してもらえる資格となる。現代名の通っている世界的な経営者の多くがこの修士号を取得している。まさにビジネス界の最先端に立つために必要な資格だ。

このMBAを取得するための必須科目に、実は『孫子』が含まれているのだ。『孫子』をビジネスに活かすための書籍やコミックが書店にはたくさん並んでいるわけだが、その理由がここにあるのだ。経営学の専門家になるためには『孫子』を学ぶことが義務付けられている。

『孫子』は紀元前4〜5世紀に書かれたものだとされている。つまり『孫子』とは書かれてから2500年経った今も色褪せていないということになり、その歴史はキリスト教よりも長い。

武田信玄は戦略家として優れた才気を持っていたわけだが、それを身につけるために学んだ教科書が『孫子』だった。現代で言えばソフトバンクを率いる世界的な経営者、孫正義氏もまた、『孫子』を学んだひとりだ。

戦国時代では武田信玄をはじめとし竹中半兵衛、黒田官兵衛、真田幸村などなど、長年かけて『孫子』を学んだとされる武将は多い。武田信玄は最強騎馬軍団を編成し、竹中半兵衛と黒田官兵衛は豊臣秀吉を天下人にした。そして真田幸村は幾度となく徳川家康を苦しめた。

筆者自身『孫子』は長年愛読しており、恐らく過去20冊以上の『孫子』に関する本を読んできたと思う。最後に筆者オススメの読みやすい『孫子』を一冊紹介しておくので、もし興味がある方はお手に取ってみてください。文章も読みやすく、内容もわかりやすく、『孫子』初心者でも楽しめる一冊だと思います。

筆者オススメの『孫子』