「斎藤道三」と一致するもの

明智家

明智光秀はなぜ主君を討たなければならなかったのか?!

明智光秀はあの日なぜ本能寺で謀反を起こしたのだろうか。定説では信長に邪険にされノイローゼ気味だったとか、信長を恨んでいたとか、天下への野望を持っていたとか、様々なことが伝えられている。しかし筆者が支持したいのは明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』にて証拠をもって結論づけている、土岐氏再興への思いだ。

明智家は元来「土岐明智」とも称する土岐一族で、光秀が家紋として用いた桔梗の紋も、土岐桔梗紋と呼ばれる土岐氏の家紋だ。土岐氏とは室町時代に美濃を中心にし隆盛を誇った名家で、土岐氏最後の守護職となった頼芸(よりのり)は、斎藤道三の下克上によって美濃から追放され、これにより200年続いた土岐氏による美濃守護は終焉を迎えてしまう。そして大名としての土岐氏も事実上滅んだことになり、土岐一族は美濃から散り散り追われる形になってしまった。そのひとりが明智光秀だったというわけだ。

長曾我部元親が突然信長に対し強硬姿勢に出た理由

本能寺の変の直前、長曾我部元親はそれまでは友好的だった織田信長に対し、所領問題で抗戦的な態度を見せ始めていた。しかし両家が戦えば長曾我部の軍勢など、織田の軍勢の前では子ども同然だ。それは元親自身分かっていたはずだ。それでも元親が信長に敵対したのは、光秀の存在があったからこそだった。光秀であれば何とか信長を説得してくれるはずだと踏んでいたのだ。だがその目論見は外れ、信長は遂に長曾我部征伐軍を四国へと送ってしまう。

ではなぜ元親は光秀の存在を当てにしたのか?長曾我部と織田を結んだのは元々光秀の功績だったわけだが、ここにもやはり土岐氏が絡んでくるのだ。元親の正室は石谷光政の娘で、石谷氏(いしがい)もやはり美濃の土岐一族なのだ。そして元親の正室の兄が石谷頼辰という明智光秀の家臣であり、頼辰は斎藤家から石谷家に婿養子となった人物で、斎藤利三は実の弟に当たる。

石谷頼辰=斎藤利賢の実子であり後に石谷光政の養子になる。長曾我部元親の正妻の義理の兄に当たり、明智家の重臣である斎藤利三の実の兄。

つまり光秀は家臣頼辰と元親の関係から長曾我部家と懇意になり、長曾我部と織田のパイプ役となっていたのだ。そして光秀自身も、長曾我部と連携を図ることは明智家にとって大きなメリットがあると考えていたようだ。近畿を治める明智と四国を治める長曾我部が連携すれば、光秀の織田家での立場をより強固なものにできる。外様大名として肩身の狭い思いをしていた光秀にとり、長曾我部家と連携するメリットは非常に大きかった。

このような関係があったからこそ、元親は光秀の後ろ盾を当てにし、信長に対し強硬姿勢を取ってしまったのだった。だが光秀の懸命な説得も虚しく、信長は長曾我部征伐軍を四国に送り込んでしまった。これに慌てたのは光秀と元親だった。ふたりとも、まさか信長が本気で長曾我部を攻めるとは考えていなかったのだ。

土岐家縁戚の長曾我部滅亡を黙ってみてはいられなかった明智光秀

明智光秀の夢は土岐家の再興だ。そのためには長曾我部家の協力が不可欠となる。元親の正室が土岐氏の娘である以上、元親自身も土岐家の縁戚ということになる。いずれは両家が協力し、土岐家を再興させるつもりだったのだ。だが信長はその長曾我部を滅ぼすつもりで征伐軍を四国に送ってしまった。

もしここで長曾我部が滅亡してしまっては、光秀の土岐家再興の夢も潰えてしまう。そもそも土岐家の縁戚である長曾我部が攻められ、土岐明智である光秀が黙って見ていることなどできようはずもない。光秀は何とかしようと信長に取り入るわけだが、しかし信長はそんな光秀を相手にしようとさえしなかった。

さて、信長が徳川家康の接待役である光秀のやり方が気に入らず、役を解任し足蹴にしたという話はあまりにも有名だ。だがこのエピソードも明智憲三郎氏の歴史捜査によれば実際はそうではなく、光秀がしつこく長曾我部への恩赦を求めたため、信長が激昂し足蹴にしたらしいのだ。つまり光秀はそれほどまでに土岐家再興のためにも長曾我部を守りたかったのだ。

だが何をどうしても信長の長曾我部征伐軍を止めることはできなかった。あとはもう信長を討ってでも止めるしか術はない。光秀がそんな思いに駆られていたタイミングで、信長は本能寺にて家康を持て成すことになった。家康を待つ間、信長は僅かな護衛のみで本能寺で過ごしていた。この一瞬とも言える信長の隙を狙い、光秀は信長を討ったのだった。すべては長曾我部を守り、土岐家を再興させるために。

敵は本能寺にあり!

「敵は本能寺にあり!」、この言葉は光秀が突発的に口にしたものではない。幾重もの手回しをし、状況をしっかり整えた上で言い放った言葉だった。光秀はノイローゼでもうつ病でもなかった。夢実現のため、周到な準備をした上で謀反を企てたのだ。だが残念ながらその準備のいくつかが信長を討った後に上手く機能せず、謀反そのものは成功するも、信長を討った僅か11日後に光秀も山崎の戦いで討たれてしまった。

光秀は決して信長への恨みを晴らすために謀反を起こしたわけでも、ノイローゼで錯乱した状態で本能寺に攻め込んだわけでも、天下を横取りするためにクーデターを起こしたわけでもなかった。純粋に土岐家の再興と盟友である長曾我部元親を守るそのため、泣く泣く主信長を討ったのだった。

もしこの時光秀が信長を討たなければ、光秀は土岐縁戚である長曾我部を見捨てることになっていた。つまり信長を討とうと討つまいと、光秀はどちらにせよ自らの裏切りに苛まれたことになる。土岐縁戚である長曾我部を守るならば信長を討つしかなく、主に従うならば土岐家縁戚である長曾我部の滅亡を黙って見ているしかない。果たして誰がこの光秀の苦しい立場を責めることができよう。

明智光秀という人物は、決して主を討った極悪人ではないのだ。そして自らの野望のために主を討った謀反人でもない。確かに謀反を起こしはしたが、それは決して利己的な目的によるものではなかった。

明智光秀という人物の真実を知るためにも、ぜひ『本能寺の変 431年目の真実 』をお手に取ってもらいたい。一般的な歴史書のような堅苦しく読みにくい文章ではなく、まるで推理小説を読むような面白さとスピード感がある一冊となっている。筆者もこの本との出会いがなければ、この先もずっと織田信長や明智光秀を勘違いし続けていたかもしれない。たくさんの証拠を示しながら本能寺の変を紐解いている良書です。

吉乃の菩提寺である久昌寺が廃寺に

吉乃の墓がある久昌寺が老朽化により取り壊しに

織田信長には斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)という正妻がいた。しかし信長が女性として本当に愛したのは帰蝶ではなく、吉乃(きつの)という女性だった。
※ 吉乃という名前は後世に便宜上付けられた名前で、本名は明らかにはなっていない。

吉乃は若くして未亡人となってしまうのだが、その後信長の側室として嫡男信忠、信雄、徳姫を産んだ。だが生来体が弱かった吉乃は29歳という若さで亡くなってしまう。その吉乃が眠っているのが愛知県江南市にある久昌寺(きゅうしょうじ)という、1384年に建立された寺だった。

しかしこの久昌寺の廃寺が2021年に決定されてしまった。その理由は老朽化した本堂を立て替える費用を捻出できない、というものだった。時代の流れとしてこれは仕方のないことではあるが、しかし時代の流れに乗れば廃寺を防ぐこともできたかもしれない。

例えば法隆寺などはクラウドファンディングで多額の寄付金を集めることができた。久昌寺も信長の名の力を借りれば、法隆寺ほどの額じゃないにしても、本堂を立て替えるくらいの寄付金は集められたかもしれない。吉乃のためであれば、信長も喜んで名を貸してくれたことだろう。

19代目で最後の久昌寺当主となってしまった生駒英夫氏は50代手前でまだ若いわけで、檀家だけに頼るやり方を見直していれば、もう少し違う結果にもなったかもしれなかった。だが唯一の救いは、吉乃のお墓は維持されるということだ。

解体は令和4年(2022年)5月から始まり、令和3年には公園として整備されるようだ。だがその公園には吉乃のお墓が残されるため、信長も少しは安心したのではないだろうか。

永禄9年(1566年)5月13日に吉乃を失うと、信長は当時の居城であった小牧山城の天守閣に登っては西の空を眺めていた。そう、久昌寺は小牧山城の西に位置していたのだ。信長はそこから西の空を眺めながら、吉乃を想いよく一人涙を流していたと伝えられている。

魔王のようだったとも伝えられている織田信長だが、実はそのイメージとは裏腹に愛情深い男でもあった。ドラマや映画では帰蝶との関係が描かれることがほとんどだが、もしいつか、信長と吉乃が互いに愛し合う姿が描かれた作品が誕生したなら、筆者はぜひともその作品を通して信長の素の姿を見てみたい。

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斎藤道三と斎藤義龍父子の仲は、最終的には長良川で戦火を交えるほど険悪なものへとなっていく。この長良川での戦い以降、明智家は斎藤道三に味方していたものと思われている。だが反対に、明智家が土岐家を追放に追いやった道三に味方するはずはない、という見方をしている史家もいる。だが正確な資料が残されていない上では、明智家が実際にはどちらの味方をしたのかを断言することはできない。

明智家は本当は道三と義龍のどちらに味方したのか?!

『明智軍記』を参考にするならば、どうやら明智光安(光秀の叔父)が城主を務める明智城は道三側に付いていたようだ。ただし『明智軍記』は本能寺の変から100年以上経ったのちに書かれたものであるため、情報が正確ではない記述も多々ある。そのためこれを信頼し得る情報だとは言い切れないわけだが、しかし今回は『明智軍記』の記述も参考にしていきたい。

ここで明智家が斎藤道三に味方するはずがないという論理も合わせて見ておくと、斎藤道三は光秀が再興を夢見た土岐家を美濃から追いやった人物だった。その人物に味方するなど考えられない、という論理であるわけだが、筆者は個人的にはそうは思わない。戦国時代は力を持つ者こそが正義だった。つまり力がなければ、力を持つものに従うしかない。

さらに言えば斎藤道三の正室である小見の方は、光秀の叔母だったとされている。となれば、血縁者の側に味方するのは自然であったとも言える。光秀は家を何よりも大切に考えていた人物だ。それならば明智家の血縁者である小見の方を正室に迎えている道三に味方する方が自然に見え、『明智軍記』に書かれていることにも違和感を覚えることはない。

幼少期から光秀に一目置いていた斎藤道三

長良川の戦いが起こったこの頃、明智光秀はまだまだ土岐家の再興を現実的に考えられるような状況ではなかった。明智家は武家とは言え最下層とも言える家柄で、武家というよりは土豪に近い水準にまで成り下がっていた。このような状況では土岐家のことまで心配することなどとてもできなかったはずだ。

そもそも斎藤道三は明智光秀には幼少の頃から一目置いており、彦太郎(光秀の幼名)に対し「万人の将となる人相がある」と言ったとも記録されている。このような関係性があったことからも、道三と義龍が戦った際、明智家が道三に味方したと考えることに不自然さはないようにも思える。

斎藤義龍の父親は斎藤道三と土岐頼芸のどっちだったのか?!

斎藤義龍は長良川で父道三を討った後に明智城を攻め落とした。この戦いで明智光安が討ち死にし、光秀ら明智一族は越前へと亡命するしかなくなってしまった。ではなぜその亡命先が越前だったのか?明智光秀の父明智玄播頭(げんばのかみ)こと明智光隆の妻は、若狭の武田義統の妹だった。そしてこの武田家は越前朝倉家に従属していた。恐らくはこの武田家を通じ、当時は非常に裕福だった越前に仕官を求めたのではないだろうか。

ちなみに斎藤義龍には土岐頼芸の子であったという説もあるが、斎藤道三の子であったことが記された書状なども残されており、その信憑性は低いようだ。仮に義龍が本当に頼芸の子だったならば、光秀が義龍に味方することが自然にも思えるが、しかしそうしなかったということは、やはり義龍は道三の子だったのではないだろうか。

義龍は父道三を討った後、中国で同じようにやむなく父親を殺害した人物から名を取り范可(はんか)と名乗るようになった。また、父親殺しの汚名を避けるためか道三を討つ際は一色を名乗っていたようだ。これらのことを踏まえるならば、もし義龍が本当に頼芸の子で、道三の子ではないのだとすれば、范可という名も一色という名も名乗る必要はなかったはずだ。

道三は小見の方を娶った後に明智城を攻めたのか!?

このように総合的に考えていくと、斎藤義龍の父親はやはり斎藤道三で、義龍は弟たちに寵愛を示していた道三によって廃嫡される可能性があったために、土岐氏を美濃から追放した極悪人を討伐するという名目によって長良川の戦いへと発展していったと考えられる。そしてかつての主君に忠誠を誓っていた安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の美濃三人衆は道三に対し良い印象を持ってはおらず、長良川ではこの美濃最大の有力者たち3人が義龍側に付くことにより、道三はあっけない最期を迎えることになってしまう。

そして光秀の叔母である小見の方が道三の正室だった明智家としては、その小見の方を見捨てることなどできず、感情はどうあれ道三に味方するしかなかったのではないだろうか。ちなみに小見の方は天文元年(1532年)に道三(当時の名は長井規秀)に嫁いでいる。だが『細川家記』によれば、光秀の父である玄播頭は土岐家が道三に敗れた戦で道三に明智城を攻められ討ち死にしているらしいのだが、信憑性に関しては確かとは言えないらしい。

確かに明智家から小見の方を娶り、その後で明智城を攻め、なお小見の方を正室にし続けたとなると、やや辻褄が合わなくなる。となると光秀の父はもしかしたら、土岐家と斎藤道三による抗争とは無関係の戦で戦死したのではないだろうか。だとすれば辻褄も合う。

明智城を守る明智光安の苦悩

こうして考えていくと、やはり小見の方が道三に輿入れした天文元年以降、明智家は道三側とは一貫して良好な関係を維持していたのではないだろうか。そう考えなければ、圧倒的な兵力差がある中で明智家が義龍側ではなく、あえて道三側に味方した理由も、義龍が明智家を明智城から追いやった理由も説明がつかなくなる。

確かに斎藤道三はかつての主君である土岐家を美濃から追放した人物だ。しかし世は戦乱だったとしても、明智城を守る光秀の叔父光安としては、妹である小見の方を見捨てることなどできなかったのだろう。そう考えるともしかしたら長良川の戦い以降、明智家は明らかに道三に味方したわけではなく、立場を鮮明にせず自らに味方しなかったために業を煮やした義龍によって明智城を攻められたのかもしれない。だが今となってはその真実を知るすべはない。

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令和の時代となった今なお、明智光秀という人物を天下の裏切り者と呼ぶ史家は多い。しかし筆者は20年ほど前からそのようには感じていなかった。当時20歳前後だった筆者は、その頃多くの明智光秀に関する本を読んでいたのだが、裏切り者というレッテルの陰に隠れながらも、いくつかの明智光秀の人柄を表す言い伝えを目にした。それを踏まえて明智光秀という人物を考え、裏切り者というレッテルの方にこそ違和感を感じたことを今でもよく覚えている。

明智光秀を逆賊にしたい史家たちの言い分

明智光秀を逆賊に仕立てたい史家の言い分としては、美濃から亡命した明智家を救ってくれた朝倉家を裏切り足利家に仕え、そうかと思えば突然織田家に鞍替えしたという話を持ち出しながら、簡単に人を裏切る人物であると断罪していることが多い。だが本当にそうだろうか。この明智光秀の足跡は、今で言うところの「ヘッドハンティングと転職」とはどう違うのだろうか。筆者には同じものにしか見えない。

転職をした人間は裏切り者であるという考え方は、非常に単一的であり思い込み以外の何物でもないと思う。これが仮に、朝倉家を攻めるために足利家に寝返ったり、足利家を攻めるために織田家に寝返ったというのなら話は別だ。しかし光秀が足利将軍家に仕えていた際に、将軍家と朝倉家が敵対していた事実はない。また、足利家から織田家へと転籍した際も、まだ足利義昭と織田信長の間に目立った大きな火種はなかった。

このように冷静に見ていけば、これは光秀が主家を次々と裏切ったというよりは、功績によりヘッドハンティングされ、立身出世していったと見た方が自然ではないだろうか。もちろん後々、足利家・朝倉家と織田家の間には修復しがたい溝が生じていくわけだが、しかし光秀が転籍した時点ではそうではなかった。だからこその転籍を裏切りと表現することに筆者は大きな違和感を覚えてしまう。

浮かび上がるのは領民に愛された光秀の姿

明智光秀にはその良き人柄を表す言い伝えが多く残っている。まず、とにかく妻熙子を生涯大切にしたと伝えられている。もし自らの欲のためだけに主家を裏切り次々と転籍をしていったのであれば、例えば斎藤道三や松永久秀のように金や権力に憑りつかれていたような人物だったはずだ。だが光秀は生涯を妻を大切にし、さらには領民のことも深く愛した。

実際光秀が治めていた地方には光秀の善政に関する言い伝えが多く残されているようで、本能寺の変後に敗死した光秀を祀る石碑なども多数残されている。もし光秀が本当にただの裏切り者だっとすれば、石碑がそのように多く作られただろうか?いや、そんなことはない。光秀は領民に対し善政を行っていたからこそ彼らに愛され、逆賊として敗死した後でさえこのように愛されたのだ。もし光秀がただの欲深い城持ちというだけだったなら、領民たちも誰も敗死した光秀のためになけなしの銭をはたいて供養塔など祀らなかったはずだ。
(明智光秀に関するガイドブックなどをお読みいただければ、多数ある光秀の首塚の場所を調べることができます)

明智光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか?

戦国の世という時代背景を鑑みても、若き日の明智光秀は苦労人だったと言える。美濃の内乱に巻き込まれて国を追われ、かなりの年齢になるまでは武家でありながらも極貧の生活を送っていたようで、叔父明智光安や妻の実家である妻木家からの経済的援助なくして家族を養うことはできなかった。妻熙子には多大な苦労をかけ、それを負い目にも感じていただろう。その光秀が妻のため家族のためにととにかく必死に働き、少しでも多くの禄(給料)を得るために転職を重ねていったことは、逆に美談としては見えないだろうか。

(一次資料にも残されているように)時に体を壊しながらも死に物狂いで働いた光秀はどんどん出世していき、時の権力者である織田信長軍団の実質ナンバー2にまで伸し上がった。ようやく家族に楽をさせてあげられるようにもなり、光秀の思いも一入だったのではないだろうか。

果たしてそのような人物であった明智光秀が、自らの野望のためだけに織田信長を討つという盲動に出るだろうか。果たして本能寺の変という出来事を、明智光秀の裏切りという言葉だけで片付けてしまっていいのだろうか。少なくとも筆者はそうは思わない。領民にも慕われ、そして誰よりも家族を愛した光秀なのだ。自らの野望のために本能寺の変を起こしたのではないはずだ。やはり一説にあるように、光秀は何かを守るために本能寺の変を起こしたのだろう。

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『麒麟がくる』第2回「道三の罠」では、冒頭から終始斎藤軍と織田軍の合戦シーンが描かれた。斎藤道三と織田信秀(信長の父)の時代には、このような戦いが幾度もあったわけだが、しかし信秀は生涯最期まで稲葉山城を落とすことができなかった。この稲葉山城は難攻不落の城と呼ばれ、織田信長でさえも桶狭間の戦い以降何度も美濃に侵攻したが、実際に美濃を手中に収めたのは永禄10年(1567年)だと言われている。

斎藤義龍は側女の子だった?!

劇中で稲葉山城はただの砦のように描かれているが、実際にはもう少し城っぽい形状だったとされている。しかしさすがに城を再現することは困難なため、城そのものはほとんど描写せず、城下町や砦のみを描く形に留まっているのだろう。だが今後話が展開していき、織田信長が稲葉山城を岐阜城と改めた時に、岐阜城の姿も映し出されるのではないだろうか。

さてその劇中、のちの斎藤義龍である斎藤高政が「自分は側女(そばめ)の子だから父は私の話に耳を貸さない」と語っていた。この台詞は後々重要な意味を持ってくるはずだ。ネタバレになりすぎないようにここではあえて書かないが、ぜひこの台詞は覚えておいてもらいたい。きっと後々の放送で大きな意味を持ってくるはずだ。

『孫子』が頻繁に登場する『麒麟がくる』

斎藤利政(のちの斎藤道三)はこの戦の前、明智光秀と叔父の明智光安に孫子について尋ねている。光安は答えられなかったが、光秀はすらすらと答えていた。『孫子』謀攻編に出てくる「彼を知り己を知らば、百戦して危うからず(危の実際の漢字は、かばねへんに台)」という言葉を引用しているが、これは敵のことも味方のこともしっかり把握し切れていれば、百度戦をしても大敗することはない、という意味になる。

ちなみに劇中で利政は最初は応戦させたがすぐに籠城させ、織田軍に戦う意思がないように思わた。そして織田軍が、斎藤軍に忍ばせていた乱破(らっぱ)の情報からそれを知り兵たちが油断し始めると、利政は猛攻をかけ織田軍を大敗させた。ちなみに劇中では乱破がスパイのように描かれているが、実際の乱破は闇夜に紛れて敵を討つ忍び集団だったと言われている。スパイを表現するのであれば、間者(かんじゃ)や間諜(かんちょう)の方が筆者個人としてはしっくり来る。斎藤利政が仕掛けたこの、能力がない振りをして相手を油断させて討つことを、『孫子』計編で「兵とは詭道(きどう)なり」と言っている。

「兵とは詭道なり」とは、戦とは騙し合いであって、本当は自軍にはその能力があるのに、実際にはないかのように振舞って相手を油断させて敵を撃退するという意味だ。ちなみにこの戦法が最大限活かされたのが、本巻では詳しくは書かないが桶狭間の戦いだった。さて、『孫子』からもう一遍。今回の戦で利政は籠城する意図を誰にも話さなかった。そして籠城を解く時になって初めて諸将にその意図を伝えている。『孫子』ではこれを「能(よ)く士卒の耳目を愚にして」と説いている。これはいわゆる、敵を騙すならまずは味方から、という意味になる。

土岐家と織田家は本当に強い絆で結ばれていたのか?!

最後にもう一点、劇中では美濃守護である土岐家と尾張の織田家には強い絆があると描かれている。この台詞だけだと深いところまで知ることはできないが、実際には決して絆があったわけではない。劇中で伝えられている通り、斎藤利政は美濃守護の土岐頼芸(劇中では「よりのり」と読むが「よりあき」など読み方がいくつか存在している)を武力で追放して美濃を手中に収めたわけだが、尾張の織田信秀は追放された頼芸を美濃守護に戻すという大義名分を得るために、頼芸を利用していただけだった。

仮に信秀が稲葉山城を落とせていたとしても、美濃を土岐家に返還するようなことは決してしなかっただろう。つまり土岐家と織田家の間には絆などなく、織田家が土岐家を利用していただけだった。これは織田信長と足利義昭の関係にもよく似ていて、戦国時代はこのような形で大義名分を作り戦を仕掛けることがよくあった。

以上が『麒麟がくる』第2回「道三の罠」を見た筆者の感想と、解説とまでは言えないが、解説のようなものとなる。ところで、前回放送後の予告編のような部分と、実際の今回の内容がけっこう違っていることに少し驚いたのだが、これは昨年起きた出来事による影響なのだろうか。筆者はてっきり、第2回放送で光秀が妻を娶り、今川義元も登場してくるものだと思ったのだが、そうではないようだ。とは言え、第3回放送も心待ちにしたい。

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いよいよ始まった2020年大河ドラマ『麒麟がくる』。初回放送はまず冒頭で明智荘(あけちのしょう)に野盗が現れ田畑を荒らし、鉄砲の威力を見せつけるというシーンから始まる。そして光秀は鉄砲を持ち帰り、名医を美濃に連れ帰ることを条件に、国主斎藤利政(のちの斎藤道三)に京・堺への旅の許しを請い、ひとり旅立っていく。

当時の比叡山の僧侶は土倉と呼ばれる高利貸しだった

光秀は美濃から琵琶湖までは馬で行き、琵琶湖を商船のような船で横断していく。この時代、琵琶湖は西と東を結ぶ交通の要衝であり、琵琶湖を制す者が京を制すとも言われていた。その理由は単純で、歩けば険しい山道を何日もかけて行かなければならないが、船なら大荷物であってもあっという間に京まで移動できるからだった。そのため後年の織田信長は琵琶湖周辺に安土城、坂本城、長浜城、大溝城という4つの城を築き琵琶湖を死守に努めた。

そして光秀は比叡山を経て堺に向かうのだが、比叡山では僧兵たちが通行料として15文(もん)徴収していた。そしてそれを払えなければ暴力をふるうというシーンが描かれている。これは史実だと言える。当時の比叡山は一部の僧侶を除き堕落し切っていた。比叡山の僧侶が営む土倉(どそう)と呼ばれる高利貸しは利息50%にもなり、返済が滞ると僧兵が暴力的に取り立てたり、娘を奴隷業者に売るためにさらっていくこともあったと言う。

ちなみに15文というのは現代の金額では1,000~1,500円程度である。信長が焼き討ちにするまでの比叡山はまさに腐り切っており、禁忌とされている魚肉や酒を口にしたり、女人禁制であるにも関わらず、色欲に溺れる僧侶ばかりだった。今でいう悪徳金融業者同様となるわけだが、しかし現代の悪徳業者以上に悪徳だったようだ。

比叡山延暦寺を焼き討ちにした信長が魔王のように描かれることも多いが、しかし実際には比叡山は元亀元年(1570年)だけではなく、1435年と1499年にも焼かれている。とにかくこの時代の比叡山延暦寺は聖職者とは程遠く、どちらかと言えばヤクザのような振る舞いをしていた。そのため今回劇中で描かれている比叡山の僧兵の横暴過ぎる振る舞いは、史実にかなり近いと言えよう。

まだ高額で1挺手に入れることさえ難しかった火縄銃

この初回放送が、一体何年の設定になっているのか筆者にはわからない。だが光秀がまだ若かった頃は、劇中の松永久秀の言葉通り鉄砲は非常に高価な品で、1挺手に入れることさえもまだ難しかった。そして安全性もまだ確かではなく、暴発して大火傷を負ってしまうことも珍しくはなかった。劇中では三淵藤英(みつぶちふじひで)が試し打ちをしているが、これだけ高い身分の人物が試し打ちをしているということは、安全性が完全に確かめられた1挺であるか、それとも火縄銃の危険性をまったく知らない無知であるかのどちらかだろう。

火縄銃はまず筒に弾と火薬を入れて棒でしっかりと押し込み、撃鉄の部分にも火薬を置き、火縄に付けた火を用いることで火薬を爆発させて発射させていた。そのためどんなに頑張っても30秒に1発しか撃つことはできなかったという。劇中で三淵藤英は「戦では使い物にならない」と語っているがまさにその通りで、1挺だけ持っていても戦で活用することは難しい代物だった。

だが後年、遊学によって鉄砲に関する知識を学んだ光秀は、織田軍団の一員として二段撃ち、三段撃ちという戦法を編み出し、戦で鉄砲を最大限活用することに成功している。長篠の戦いなどはまさにその顕著な例だと言える。

崩壊寸前だった足利幕府と京の都

京に着くと、光秀はその荒廃した様に驚く。とても都と呼べるような有様ではなく、この惨状は織田信長が上洛するまで続くことになる。上洛を果たすと、信長は惜しみなく京の復興に金銭を費やしていく。そしてそれにより朝廷の信頼を得ていく。だが光秀が若かりし頃の京は、まさに劇中のような惨状に近いものだったと推測されている。

足利幕府も崩壊寸前で、幕府に力がなくなったことにより各国の守護大名たちも力を失い、美濃においては守護大名だった土岐氏がのちの斎藤道三である斎藤利政に追放されている。そして隣国尾張の織田信秀(信長の父)は、守護代を追放した斎藤氏を悪と評し、成敗の名目で幾度となく美濃に攻め込んでいく。

とにかくこの時代の京は、足利家と三好家の対立が激しく、頻繁に町が破壊されてしまうという状況だった。直しても直しても切りがなく、町人にとっては諦めて何とかそこで生きるか、京を捨てるかの二択だった。とても都と呼べるような、現代の京都と結びつくような美しい町並みなど存在せず、まさに廃墟に近い状況だったとされている。

「光秀、西へ」のまとめ

ドラマであるため、今後フィクションだと思われるストーリーも多く絡んでくるのだろうが、初回放送に関して言えば、フィクションだと思われるのは堺で明智光秀、松永久秀、三淵藤英が一堂に出会ったり、望月東庵(もちづきとうあん)医師や菊丸ら架空の人物が登場してきたことくらいではないだろうか。

次回「道三の罠」では織田家と斎藤家が激突したり、海道一の弓取り(東海道一の国持大名という意味)と呼ばれた今川義元の姿も登場してくるようだ。名のある戦国大名が続々登場してくるようなので、来週の放送も心待ちにしたい。

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明智光秀の正室の名は煕子(ひろこ)と伝えられているが、この名前は正確に伝えられてきた名前ではなく、『氷点』などで知られる故三浦綾子さんが書かれた『細川ガラシャ夫人』という1975年に発表された小説以来、煕子という名で周知されていったようだ。それ以前はお牧の方や、伏屋姫と呼ばれていたようだが、これらに関しても正確な名であるという資料は残されていない。ただはっきりしているのは、妻木範煕の娘ということだけで、三浦綾子さんはこの父親の名から煕子と設定されたようだ。

幼馴染みだった明智光秀と煕子

光秀が生まれた当時の明智家は決して大きな力は持ち合わせておらず、美濃の小土豪に過ぎなかった。光秀自身も明智家の居館で生まれることはなかったようで、高木家の居城だった美濃の多羅城で生まれている。そして幼少期は妻木家の庇護を受けながら成長したようだ。だが幼少期の彦太郎ことのちの明智光秀は周囲からの評価は非常に高く、斎藤道三をして「万人の将となる人相」をしていたと言う。

そのようなこともあり彦太郎は妻木家からある程度安定した生活を送れるだけの庇護を受けながら育ち、自然な流れとして、元服した明智十兵衛光秀は幼馴染みでもあった妻木範煕の娘、煕子(便宜上そう呼ぶことにする)を娶った。弘治2年(1556年)に斎藤義龍によって明智城を落とされ越前に落ちた際煕子は身籠っていたというから、二人の婚姻は少なくとも1556年以前ということになるわけだが、正確な日付を知ることのできる資料はまだ発見されてはいないようだ。ただ、弘治2年に光秀はすでに29歳だったと言われていることから、婚姻関係を結んだのは一般的にはその10年以上前のことだと思われる。

黒髪を売って光秀を支えたと伝えられる煕子

光秀が越前の朝倉氏に出仕していた頃、光秀は歌会を催すための資金繰りに悩んでいた。その際に煕子が黒髪を売ってお金の工面をしたというエピソードが伝えられているが、これは後年の創作である可能性が非常に高い。まず妻木氏はこの当時、小土豪だった明智家を保護できるだけの力を持っていた。それだけ力を持った家の娘が仮にお金を工面するために黒髪を売ったとなれば、光秀としては妻木家の面汚しとなってしまう。あくまでも筆者の想像ではあるが、恐らくは黒髪を売ったのではなく、売ろうとしただけではなかっただろうか。そしてそうせざるを得ない窮状を父に相談し、実際には煕子の父親である妻木範煕(広忠と同一人物である可能性もある)が支援したと考える方が自然に感じられる。

通常女性が黒髪を切ったり剃髪するのは出家した時だ。しかし煕子は出家などしていないため、仮に出家していないのに髪を切り法師頭巾などを被っていれば、これは戦国時代では非常に不自然な光景として映ってしまう。そのため煕子の実家がそうなることを決して許さなかったはずだ。もちろん実際に髪を売ってお金を工面したのかもしれないが、しかし時代と、妻木家と光秀の力関係を鑑みるならば、煕子の実家が支援したと考える方が自然ではないだろうか。

光秀に深く愛され続けた煕子

煕子は天正4年(1576年)に病死したと伝えられているが、しかしこれについても真実であるかは確信することはできない。『西教寺塔頭実成坊過去帳』に記されているこの情報の信憑性は低くはないと思うわけだが、一方『川角太閤記』では本能寺の変後、明智秀満が光秀の妻子を介錯した後に自刃とも書かれており、情報が一致しない。ちなみに『川角太閤記』とは川角三郎右衛門が江戸時代初期に、当時を知る武士たちに直接話を聞くことによってまとめた、本能寺の変から関ヶ原の戦いまでの豊臣秀吉、豊臣家の伝記とされている。江戸時代初期という、まだ本能寺の変を知る人物が多く生きる時代に書かれているため、他の軍記物とは異なり信憑性はあるように感じられる。

天正4年に病死したのか、それとも天正10年に秀満により介錯されたのか、どちらが真実なのかは今となってはわからない。しかしただ一つ間違いなく言えることは、煕子は光秀によって深く愛されていたということだ。煕子が病に伏せれば手厚く看病をしたり、吉田兼見に診療を依頼したりした。そして病により顔に痣のようなものが残ってしまっても、光秀はまったく気にすることなく煕子を大切にしたという。その光秀にも側室がいたという言い伝えもあるようだが、一般的には煕子が存命中は側室は持たなかったという説が広く伝えられている。この言い伝えからすると、秀満が介錯した光秀の妻は後妻という可能性もあるわけだが、筆者はまだそこまで調べ切ることができていない。もしこれに関する資料をどこかで読むことができれば、またここで書き伝えたいと思う。

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明智光秀という人物は、土岐氏の再興に強いこだわりを持っていた。ではなぜ明智光秀は明智姓であるにも関わらず、土岐氏の再興を夢見ていたのだろうか。その理由はいたってシンプルで、明智姓は土岐氏が源流となっており、明智氏の祖先を辿ると土岐氏に繋がっていく。そのため明智姓を「土岐明智」と呼ぶこともある。つまり土岐氏というのは、光秀にとっては言わばルーツということになる。

土岐氏を源流とする偉人は光秀以外にも意外と多い

現代の日本人が日本人としてのルーツ、日本人としての誇りを持って外国へと旅立つように、明智光秀も自らのルーツを誇りとしていた。光秀の時代にこそ凋落していた土岐家だったが、土岐氏というのはかつては名門と呼ばれる一族だった。鎌倉幕府の御家人(ごけにん:鎌倉幕府では鎌倉殿、つまり源頼朝と主従関係にある家のこと)として栄えた家柄であり、鎌倉時代や『太平記』の中で活躍した家柄の一つが土岐氏ということになる。

ちなみに有名どころの土岐源流の人物は明智光秀だけではなく、豊臣五奉行の浅野長政、『忠臣蔵』の浅野内匠頭や、坂本龍馬も土岐氏を源流としている。土岐氏の始祖は諸説あるのだが、土岐光衡(みつひら)であるという説が有力なようだ。この土岐光衡から土岐明智氏を経て16代降ると明智光秀に辿り着く。

土岐光衡の父親は源光長と言い、平家が滅び鎌倉幕府が開かれると光衡は源頼朝の御家人となり、美濃の土岐郡を本拠地にしたことから土岐姓を名乗るようになった。光衡の父ら上の世代も土岐と称されることがあるが、しかし実際にはこの土岐光衡が土岐氏の始祖となる。

斎藤道三と戦おうにも戦えなかった明智家

土岐氏が力を失っていったのは1400年代終盤、戦国時代がまさにこれから始まろうとしている頃だった。この頃の土岐家は数十年に渡り相続争いが頻発し、内紛を続けることで力を失い続けていよいよ天文11年(1542年)、土岐頼芸の代になり土岐氏は斎藤道三によって美濃を追放されてしまった。永きに渡り美濃守護職を務めてきた土岐氏も、ここで滅びを迎えることとなった。

そして斎藤道三によって滅ぼされた土岐氏の再興を誰よりも願っていたのが明智光秀という人物だ。つまり道三は土岐氏の仇になるわけだが、しかし話はそう単純ではなく、明智光秀の叔母にあたる小見の方が斎藤道三の正室となっていたのだ。小見の方は信長の正室帰蝶(濃姫)を生んだことでも知られる。このように明智家と斎藤家の繋がりがあったために、光秀は道三を敵に回すことができなかった。

小見の方は天文元年(1532年)に長井規秀に嫁いだ。長井規秀とは油売りという商人の身から立身出世していき、長井家、斎藤家を次々と乗っ取っていき、最後は美濃一国までもを乗っ取ってしまった、まさに下克上を絵に描いたような人物だった。この長井規秀、のちの斎藤道三が小見の方を正室としていたため、明智家は土岐氏が道三によって美濃から追放された後、この縁組と力関係により、道三に服従せざるを得ない状況が続いた。

美濃守護職を美濃から追放してしまった斎藤道三

土岐家とはまさに名門であり、道三が乗っ取った斎藤家も、元々は美濃守護職である土岐氏の守護代だった。つまり土岐氏を源流とする明智家からすると、斎藤道三というのは土岐氏の守護代だった斎藤氏の家臣に過ぎない存在だったのだ。それが卑劣な手法により下克上を繰り返し、美濃一国の大名まで登りつめていった。「土岐家の家臣の家臣に土岐氏は美濃を追放されてしまった」、このような考えはきっと光秀の中にも少なからず存在していたはずだ。

戦国時代に於いて最も重視されたのは、家が滅ばないようにとにかく家を守ることだった。そして名を途切れさせないため、男子が生まれない場合や戦死した場合、血縁者などから養子を引き受けることによって家名を継いで行った。そして土岐家もそれに倣い、血脈を途切れさせなかったことで、明智氏など数々の名門を派生させていった。その名門の数々を派生させた源流である美濃守護職土岐氏を、斎藤道三は美濃から追放してしまったのだった。

偏見を持たずに人を評価した斎藤道三

斎藤道三という人物は戦国時代を代表する悪人の一人とも呼べるわけだが、有能な人材に関しては一切の偏見を持たずに接した懐の広さも持ち合わせていた。商人から立身出世した経験から、その辺りは農家出身の羽柴秀吉と同じ感性を持っていたと言える。例えば尾張でうつけ者と呼ばれていた織田信長の才能にいち早く気付き、その将来に賭けるかのように愛娘の帰蝶をその尾張のうつけに嫁がせた。そしていつか斎藤家の家臣たちは信長の馬を引くことになるだろうと口にし、息子義龍の機嫌を損ねていく。だが実際には道三の言葉通りになった。

そしてもう一人道三が目にかけたのが彦太郎こと、幼い頃の明智光秀だった。当然道三は光秀の源流が土岐であることも、その土岐氏を追放したことで明智家に良い感情を持たれていないことも理解していたはずだ。それでも有能な人材は有能だと偏見なく言い切ることができたのが、道三の懐の広さだ。もし道三が懐の狭い人物であったなら、他の大名たちがそうしたように、復讐をしてくる可能性のある人物は眼が出る前に排除していたはずだ。しかし道三は決してそうはしなかった。

本能寺の変、すべては土岐家のために!

とにかく土岐氏という家柄は、源頼朝の頃より御家人となり、後々美濃守護職を賜ることになっていく、まさに名門中の名門とも言える家柄だった。その家柄に対し、光秀は誇りを持っていた。そして道三に滅ぼされてしまった土岐家の再興を願いながら若き日々を流浪の日々に費やし、武術、学問、文化、鉄砲技術を磨き、将軍家と縁の深い越前朝倉氏に仕官することによって足利義昭に近付くことに成功し、さらには信長の臣下になっていく。

そして今か今かと土岐家を再興するための機会を窺い続け、天正10年6月2日、本能寺に大きな機会を得ていった。この機会が光秀にとって土岐家を再興するためのものだったのか、土岐家の再興を阻まれることを防ぐためのものだったのか、それは今となっては誰も知ることはできない。だが少なくともこの本能寺の変が、すべて土岐家のために決行された事件だったことは確かなようだ。

ちなみに明智家は、初代美濃守護職を務めた土岐頼貞の九男の子、明智頼重を祖としている。

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斎藤利三(としみつ)と言えば、明智家に於いては重臣中の重臣とも呼べる臣下だった。春日局の父親としても知られる利三だが、同じ美濃国の斎藤姓でも斎藤道三とは血縁関係にはない。元々の美濃守護代であった斎藤家の血筋で、父親は斎藤利賢(としかた)、母親は蜷川氏の娘、光秀の叔母、光秀の妹もしくは姉と諸説ある。今回はこの斎藤利三という人物の人柄に迫っていきたい。

頑固者の稲葉一鉄と何らかの衝突があった斎藤利三

斎藤利三という人物は、少々問題児だったようだ。元々は稲葉一鉄の与力だったようだが、その一鉄とは何らかの理由で衝突があったようだ。そして『当代記』という『信長公記』を元に編纂された資料には、信長から勘当されているとも記されている。それぞれどのような問題があったのかは詳しく記されてはいないが、しかし何らかのいざこざがあったことは確かなようだ。

ちなみに稲葉一鉄という人物は美濃三人衆(安藤守就、氏家卜全)の一人で、美濃国内では非常に有力な人物だった。そして「頑固一徹」という言葉はこの稲葉一鉄が由来となっている。恐らくは利三は、その頑固者の一鉄の考え方に同調できなかったのだろう。だが問題はこれだけでは済まなかった。

斎藤利三が原因で何度も信長に殴られた光秀

稲葉一鉄の元を去り、明智光秀に与した斎藤利三だったが、この状況を一鉄は気に入らなかった。確かに利三は一鉄の娘を娶っていたのだから、一鉄が怒りを感じたことも理解はできる。『明智軍記』や『稲葉家譜』の記述からは、光秀に有能な家臣を奪われたと一鉄は感じていたようだと読み取ることができる。そしてさらに、那波直治が利三を追うように光秀の傘下に加わろうとした。再び光秀に家臣を奪われたと感じた一鉄は信長にこれを報告し、信長は光秀を呼びつけ、直治だけは一鉄の元に返すように命じたようだ。

この時に信長が人前で光秀を叱り飛ばし、さらには2〜3回殴ったことで辱めを受け、それを逆恨みして光秀が本能寺の変を起こしたと主張する歴史学者もいるが、筆者はそうは思わない。本能寺の変当時、天下統一を目前にした信長と光秀は現代で言えば総理大臣と副総理のような立場にあった。それだけの立場にあった光秀が、果たしてそんなことを理由に主君を討つだろうか。そもそも信長が光秀を何度も殴ったという話は、どうやら後世の創作である可能性も高い。

本能寺の変は斎藤利三がけしかけた事件だった?!

さて、斎藤利三には頼辰(よりとき)という兄がいた。しかしこの兄は石谷家の養子となり、石谷頼辰と名を改めている。この頼辰の妻の妹が長曾我部元親の正室となっており、その繋がりがあったために明智光秀は、織田家と長曾我部家の取次として交渉役を任されていた。しかし実際に交渉に当たっていたのは光秀ではなく、斎藤利三だったようだ。

そしてこの繋がりがあったために、縁戚となっていた長曾我部家を滅ぼそうとしていた信長を止めるため、斎藤利三が光秀に対して本能寺の変を嗾けたという説もまことしやかに語られている。だがこの説も説得力には乏しいように感じられる。織田家と長曾我部家の問題は、信長の家臣の家臣が物を言っていいような次元の話題ではない。もちろん交渉役を務めていたのは利三であったわけだが、しかし交渉役と言っても実際には信長の意思を元親に伝え、元親の意思を信長に伝えるというのが主な役目であり、利三が個人的に意見を言えるような状況ではなかったはずだ。

確かに利三の感情論としては、利三と元親は義理の兄弟であったため、信長の長曾我部討伐を聞いた際は利三も心苦しかったはずだ。だが元々の元凶は元親にもあった。本能寺の変が起こる前年、長宗我部元親は織田家と交渉をしながらも、織田家の宿敵である毛利と同盟を結んでいたのだ。これはつまり元親の織田家に対する裏切り行為であり、これが元凶となって信長が長曾我部討伐を企てたとしても、利三には納得できたことのはずだった。このような理由から、筆者は利三が本能寺の変を嗾けたという説には信憑性がないと感じている。

光秀はまず、利三ら5人だけに本能寺への討ち入りを打ち明けた

斎藤利三は、明智光秀にとってはまさに忠臣だ。明智秀満と共に、光秀が最も信頼を寄せたのが斎藤利三だった。であれば、当然光秀の明智家を守りたいという強い意思や、土岐家再興に対する情熱も知っていたはずだ。それを知った上でもし利三が本当に本能寺の変を嗾けていたのだとすれば、利三を忠臣と呼ぶことなどできなくなる。なぜなら本能寺の変を起こせば土岐家再興どころか、明智家がそのまま滅ぶ恐れもあったからだ。そして実際に明智家は滅んでしまった。忠臣であれば、そのような進言は絶対にしなかったはずだ。

さて、本能寺の変の直前、光秀は5人の信頼できる家臣だけを集めて本能寺への討ち入り計画を最初に打ち明けたようだ。その5人とは斎藤利三、明智秀満、溝尾庄兵衛尉、藤田伝五、明智光忠のようだ。しかしここで疑問が浮かんでくる。光秀も含めこの5人はすべて本能寺の変で戦死、もしくは処刑されている。なのに何故後世に書かれた軍記物などで、光秀がこの5人だけに打ち明けたということがハッキリと書かれているのだろうか。とてもこの5人が死ぬ間際にそれを誰かに打ち明けたとも思えない。

本能寺の変は利三が嗾けたという説を上述したが、しかし『備前老人物語』は、それが真実であるのかはわからないが、利三と秀満は最後まで討ち入りには反対していたと伝えている。これらのことを色々と考えると、結局は真実を伝えているものはほとんど皆無に等しく、書かれている多くのことは後世の創作であったり、噂話をそのまま真実として記しただけであることがよくわかる。特に軍記物は今でいう歴史小説と同じ類もので、ベストセラーを狙って面白おかしく書かれている物であり、その記述を資料として信頼することはできない。

利三処刑後も途絶えなかった斎藤利三の血脈

さて、本能寺の変で信長を討った後、斎藤利三は山崎の戦いで先鋒として羽柴軍と戦った。しかし傷を負い、その傷が原因で病にも侵されかけ力を失った利三は、ついには堅田で捕縛されてしまう。ちなみにこの時利三を捕縛し秀吉に差し出したのは明智半左衛門という味方のはずだった人物だった。明智半左衛門は光秀を裏切ったが、しかし半左衛門の父親である猪飼昇貞(いかいのぶさだ)は最後まで光秀に忠義を尽くし、本能寺の変で戦死している。

半左衛門によって捕縛された利三は六条河原で打ち首にされた。『言経卿記』によれば、斎藤利三は当初から本能寺の変を起こした主要人物として見られていたようだ。さて、このようにして斎藤利三はその生涯を閉じたわけだが、しかし利三の血脈はここで途切れることはなかった。結果的には斎藤利三と稲葉一鉄は喧嘩別れのような形になっていたが、しかしその後利三の娘福が稲葉一鉄の孫(養子)に当たる稲葉正成の後妻となり、その後は江戸幕府第三代将軍家光の乳母となり、さらには江姫(浅井長政と市姫の三女)のもとで大奥を取り仕切るようになっていく。もちろん彼女こそがかの春日局だ。同じ本能寺の変の当事者の子孫であったにも関わらず、明智光秀の子孫に対する扱いとは雲泥の差があったようだ。

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これはあくまでも筆者個人が立てた明智光秀に関する仮説に過ぎず、実際のところどうだったのかということなど、今となっては誰も知ることはできない。しかし筆者は思うのである。明智光秀は、もしかしたら織田家に仕官した頃から本能寺の変を企てていたのではないだろうかと。

お家騒動が繰り返されていた美濃国

明智光秀という人物は、土岐家の再興に情熱を燃やしていた人物だとされている。ではそもそも光秀の時代、土岐家はどういう状況になっていたのか?簡単に説明をすると、土岐頼芸(よりあき、よりのり、よりよし、よりなり、など読み方多数)の頃、土岐家は家督相続にて内紛状態にあった。最終的には頼芸が家督を継ぐわけだが、しかし凋落しかけていた土岐家はこの内紛によって更に力を失っていた。そこを家臣であった斎藤道三に突かれて美濃を強奪され、頼芸は尾張に追われてしまった。いわゆる下剋上に遭ったというわけだ。

すると今度は土岐家を乗っ取った斎藤家にもお家騒動が勃発し、父道三と子の義龍が戦い、道三は長良川の戦いで戦死してしまう。そしてこの時道三側に与していた明智家は義龍によって明智城を落とされ、光秀は命からがら美濃を脱出するという憂き目に遭ってしまう。だが義龍の子、龍興の代になるとまもなく、斎藤家は織田信長によって滅ぼされてしまった。

仇討ちをしたくてもできる状況ではなかった当時の光秀

土岐家を滅亡に追いやった斎藤家のお家騒動により、光秀は多くの血縁者を失った。しかし仇を討つにももう斎藤家は存在しない。残ったのは道三の娘帰蝶を娶っていた織田信長だけだった。道三は土岐家にとっては憎んでも憎み切れない仇敵だったわけだが、土岐家や親族の仇を討とうにももう斎藤家は存在していない。ちなみに道三は頼芸を美濃から追放するだけではなく、尾張に亡命していた頼芸を織田信秀(信長の父)と結託することにより、今度は尾張からも追放してしまった。これではもう土岐家の怒りも収まろうはずはない。

つまり斎藤家だけではなく、土岐家にとっては織田家も同様に仇敵と呼べる存在だったのだ。だがこの頃の光秀には土岐家や親族の仇討ちをできるような力はまったくなかった。美濃を追われた後は越前朝倉氏に仕官したものの、その後5年は放浪の旅に出ており、妻の実家である妻木家からの経済援助を受けているような状態だった。とてもじゃないが美濃・尾張の二国を有する織田信長を討つことなど不可能だ。

仇敵のもとで力を蓄え続けた明智光秀

その後光秀は足利義昭の臣下として土岐家の仇敵である織田信長に近付いていく。そして信長と義昭が不仲になると、光秀は義昭ではなく、信長の臣下として知行を得るようになった。だがこの頃すでに、光秀の頭の中には土岐家の恨みを晴らすための考えが渦巻いていたのではないだろうか。もちろんこれを証明することは不可能であるわけだが、心理面を想像すると、決してありえない話ではないと思う。

光秀は有力大名となっていた信長から禄を得ながら力を蓄えた。それこそ身を粉にして働き、誰もが反対した比叡山の焼き討ちが行われた際も、光秀は率先して刀を振ったと言われている。その功績により光秀は、比叡山の僧侶が所有していた土地の多くを信長から与えられている。そしてその後も光秀は、信長からひっきりになしに命を受け続け、織田家の誰よりも信長に尽くし、流浪の身から織田家の実質ナンバー2になるほどの大出世を遂げていた。

天下人となる目前だった織田信長を討った光秀

斎藤家が滅んでしまった今、斎藤家に対し仇討ちを仕掛けることはできない。だが斎藤家同様に土岐家の仇敵となっていた織田家は全盛期を迎えていた。本能寺の変が起こる頃の信長は、天下布武の旗印のもと天下統一を目前に控えていた。その織田を討てば土岐家だけではなく、斎藤家によって殺されていった多くの親族たちも浮かばれる、光秀がそう考えていたとしても不思議ではないのではないだろうか。

もしかしたら光秀は信長の臣下になって以来、虎視眈々と仇討ちの機会を狙っていたのかもしれない。そしてそれを可能にするためには、とにかく信長から疑いをかけられるようなことの一切を避けなければならない。だからこそ光秀は、どんな無理難題を信長から突きつけられても平静を装い続けたのではないだろうか。さらには光秀は家臣全員に対し「織田家の宿老や馬廻衆とすれ違う際は脇によって必ず道を譲るように」という触れも出すほど、織田家との関係維持に神経質になっていた。流石の織田家臣団も、ここまで徹底する者は他にはいなかったようだ。

「是非に及ばず」という言葉の裏を読む

そして天正10年(1582年)6月2日、ついにその機会が光秀のもとに巡ってきた。信長は京の本能寺に宿泊し、護衛もほとんど付けていない状態だった。そして光秀の本拠地である坂本城は京の目と鼻の先にある。信長としては、万が一の事態が起こっても明智隊がすぐに救援に駆けつけられるという安心感もあったのだろう。だがこの本能寺が襲われた時に見えたのは桔梗紋だった。

もしかしたら信長は心のどこかで、織田・斎藤両家は土岐家の仇敵であり、それは光秀も当然忘れてはいないであろうことを理解していたのかもしれない。もちろんそんな話が二人の間でなされたことはないだろうが、しかし桔梗紋を見れば光秀が土岐氏源流の家柄にあることは一目でわかることだ。だからこそ信長は本能寺で桔梗紋を目の当たりにした際も、「是非に及ばず」という、まるで光秀のこれまでの異常なまでの忠臣振りがようやく腑に落ちたとでも言うような最期の言葉を残したのかもしれない。

計画性がまったくなかった本能寺の変

本能寺の変はほとんど思いつきのような討ち入りだった。計画性がまったくない討ち入りであり、その証拠に光秀が信長を討った後、光秀の盟友であるはずの細川藤孝、筒井順慶がまったく光秀に味方しようとはしていない。光秀に大きな借りができたはずの長宗我部元親でさえも、光秀の救援に向かう素振りは一切見せてはいない。このような状況証拠からも、光秀は天下が欲しかったのではなく、あくまでも土岐家と親族の仇討ちを果たすべくこの機会を利用したのではないかと筆者には感じられる。

仮に光秀が天下を欲しがったのならば、光秀の緻密な性格からすればもっと下準備をしていたはずだ。例えば長宗我部家と手を組み、さらには細川家と筒井家のどちからでも光秀に与してくれていれば、光秀が秀吉に討たれることもなかったはずだ。単純に長宗我部元親が少しでも牽制姿勢を見せていれば、秀吉は四国に背を向けることなどできなくなり、とても中国大返しを実行できるような状況でもなくなる。だが誰一人、光秀の味方をする大名は現れなかった。さらに言えば光秀がもし天下を狙っているのだとすれば、織田家の宿敵である毛利家とも手を結ぶことができたはずだ。だがこれに関してもそのような交渉が行われた形跡は一切残っていない。

一族の誉れのためにとった光秀の行動が一転逆賊のそれに

こうして考えていくとやはり、光秀の目的は天下ではなく仇討ちだったのではないだろうか、という印象の方が強くなっていく。ちなみに光秀は悪人ではない。斎藤道三や松永久秀のように、平気な顔で闇を歩けるような人柄ではなかった。民からも臣下からも慕われた大名で、その証拠に民が光秀を祀った首塚がいたるところに残されている。仮に慕われていなければ、誰が光秀の魂を各所で祀ろうなどと考えるだろうか。

今回の巻はあくまでも筆者個人の心理的推察に過ぎないわけだが、しかしまったくあり得ない話でもないと思う。だが皮肉なことに一族の誉れのために取った光秀の行動は逆賊のそれだと判断されてしまい、後世の明智一族はまったく別の姓を名乗ったり、明田(あけた)という姓を名乗ることによって、逆賊としての汚名から逃れようとした。だが仮に成功していたとしたら、明智光秀は主家の再興を成し遂げた英雄として語り継がれていたのだろう。