「斎藤義龍」と一致するもの

akechi.gif

斎藤道三と斎藤義龍父子の仲は、最終的には長良川で戦火を交えるほど険悪なものへとなっていく。この長良川での戦い以降、明智家は斎藤道三に味方していたものと思われている。だが反対に、明智家が土岐家を追放に追いやった道三に味方するはずはない、という見方をしている史家もいる。だが正確な資料が残されていない上では、明智家が実際にはどちらの味方をしたのかを断言することはできない。

明智家は本当は道三と義龍のどちらに味方したのか?!

『明智軍記』を参考にするならば、どうやら明智光安(光秀の叔父)が城主を務める明智城は道三側に付いていたようだ。ただし『明智軍記』は本能寺の変から100年以上経ったのちに書かれたものであるため、情報が正確ではない記述も多々ある。そのためこれを信頼し得る情報だとは言い切れないわけだが、しかし今回は『明智軍記』の記述も参考にしていきたい。

ここで明智家が斎藤道三に味方するはずがないという論理も合わせて見ておくと、斎藤道三は光秀が再興を夢見た土岐家を美濃から追いやった人物だった。その人物に味方するなど考えられない、という論理であるわけだが、筆者は個人的にはそうは思わない。戦国時代は力を持つ者こそが正義だった。つまり力がなければ、力を持つものに従うしかない。

さらに言えば斎藤道三の正室である小見の方は、光秀の叔母だったとされている。となれば、血縁者の側に味方するのは自然であったとも言える。光秀は家を何よりも大切に考えていた人物だ。それならば明智家の血縁者である小見の方を正室に迎えている道三に味方する方が自然に見え、『明智軍記』に書かれていることにも違和感を覚えることはない。

幼少期から光秀に一目置いていた斎藤道三

長良川の戦いが起こったこの頃、明智光秀はまだまだ土岐家の再興を現実的に考えられるような状況ではなかった。明智家は武家とは言え最下層とも言える家柄で、武家というよりは土豪に近い水準にまで成り下がっていた。このような状況では土岐家のことまで心配することなどとてもできなかったはずだ。

そもそも斎藤道三は明智光秀には幼少の頃から一目置いており、彦太郎(光秀の幼名)に対し「万人の将となる人相がある」と言ったとも記録されている。このような関係性があったことからも、道三と義龍が戦った際、明智家が道三に味方したと考えることに不自然さはないようにも思える。

斎藤義龍の父親は斎藤道三と土岐頼芸のどっちだったのか?!

斎藤義龍は長良川で父道三を討った後に明智城を攻め落とした。この戦いで明智光安が討ち死にし、光秀ら明智一族は越前へと亡命するしかなくなってしまった。ではなぜその亡命先が越前だったのか?明智光秀の父明智玄播頭(げんばのかみ)こと明智光隆の妻は、若狭の武田義統の妹だった。そしてこの武田家は越前朝倉家に従属していた。恐らくはこの武田家を通じ、当時は非常に裕福だった越前に仕官を求めたのではないだろうか。

ちなみに斎藤義龍には土岐頼芸の子であったという説もあるが、斎藤道三の子であったことが記された書状なども残されており、その信憑性は低いようだ。仮に義龍が本当に頼芸の子だったならば、光秀が義龍に味方することが自然にも思えるが、しかしそうしなかったということは、やはり義龍は道三の子だったのではないだろうか。

義龍は父道三を討った後、中国で同じようにやむなく父親を殺害した人物から名を取り范可(はんか)と名乗るようになった。また、父親殺しの汚名を避けるためか道三を討つ際は一色を名乗っていたようだ。これらのことを踏まえるならば、もし義龍が本当に頼芸の子で、道三の子ではないのだとすれば、范可という名も一色という名も名乗る必要はなかったはずだ。

道三は小見の方を娶った後に明智城を攻めたのか!?

このように総合的に考えていくと、斎藤義龍の父親はやはり斎藤道三で、義龍は弟たちに寵愛を示していた道三によって廃嫡される可能性があったために、土岐氏を美濃から追放した極悪人を討伐するという名目によって長良川の戦いへと発展していったと考えられる。そしてかつての主君に忠誠を誓っていた安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の美濃三人衆は道三に対し良い印象を持ってはおらず、長良川ではこの美濃最大の有力者たち3人が義龍側に付くことにより、道三はあっけない最期を迎えることになってしまう。

そして光秀の叔母である小見の方が道三の正室だった明智家としては、その小見の方を見捨てることなどできず、感情はどうあれ道三に味方するしかなかったのではないだろうか。ちなみに小見の方は天文元年(1532年)に道三(当時の名は長井規秀)に嫁いでいる。だが『細川家記』によれば、光秀の父である玄播頭は土岐家が道三に敗れた戦で道三に明智城を攻められ討ち死にしているらしいのだが、信憑性に関しては確かとは言えないらしい。

確かに明智家から小見の方を娶り、その後で明智城を攻め、なお小見の方を正室にし続けたとなると、やや辻褄が合わなくなる。となると光秀の父はもしかしたら、土岐家と斎藤道三による抗争とは無関係の戦で戦死したのではないだろうか。だとすれば辻褄も合う。

明智城を守る明智光安の苦悩

こうして考えていくと、やはり小見の方が道三に輿入れした天文元年以降、明智家は道三側とは一貫して良好な関係を維持していたのではないだろうか。そう考えなければ、圧倒的な兵力差がある中で明智家が義龍側ではなく、あえて道三側に味方した理由も、義龍が明智家を明智城から追いやった理由も説明がつかなくなる。

確かに斎藤道三はかつての主君である土岐家を美濃から追放した人物だ。しかし世は戦乱だったとしても、明智城を守る光秀の叔父光安としては、妹である小見の方を見捨てることなどできなかったのだろう。そう考えるともしかしたら長良川の戦い以降、明智家は明らかに道三に味方したわけではなく、立場を鮮明にせず自らに味方しなかったために業を煮やした義龍によって明智城を攻められたのかもしれない。だが今となってはその真実を知るすべはない。

akechi.gif

明智光秀という人物は時に、義理に堅くない武将として語られることがあるが、実際にはそんなことはなかった。義理堅く律儀な人物だったということが、光秀が残している書状などから読み取ることができる。

朝倉家の被官とは言え正式な臣下ではなかった光秀

光秀がなぜ義理堅くない武将として語られるかと言えば、それはひとえに主を次々と変えていったためだろう。順に追っていくと斎藤家、朝倉家、足利家、織田家と転々としている。まず斎藤家に関しては斎藤義龍に明智城を攻められて美濃を追われているため、これは光秀の意志ではない。その後越前の朝倉家に仕官するわけだが、その身分は平社員どころか、契約社員のような一時的なものだった。

その後朝倉家にも籍を置いたまま足利義昭に仕えていくわけだが、これは細川藤孝の推薦によるものであり、決して光秀が朝倉義景を蔑ろにしたわけではなかった。ちなみに足利義昭からすれば、大名家は幕臣であるという考え方があるため、各大名家の家臣は自らの家臣という考えもあったはずだ。

一方朝倉義景からすれば、契約社員1人が掛け持ちで他社で働いていたとしても痛くも痒くもない。そのため光秀は義景からすれば「欲しければあげるよ」という程度の存在だったと言える。

朝倉家と足利家に於いての明智光秀の地位とは

足利義昭の側近として織田家に出入りするようになると、光秀は織田信長に気に入られるようになる。その理由の一つとして、光秀が信長の正室である濃姫の従兄妹だったことも影響していたのだろう。この頃の光秀はまだ正社員と呼べるような地位は手にしていなかった。越前はもう完全に去っていたとしても、足利義昭自身「流浪の将軍」状態であり、家臣をしっかりと養う力を持っていたわけではない。そのような状況だったため、義昭と信長の取次役を務めているうちに、信長から頼まれる仕事の割合が少しずつ増えていった。

そうしているうちに光秀は初めて正式な家臣として織田家に仕えるようになる。光秀は決して、義景や義昭を踏み台にしていったわけではない。朝倉家と足利家では光秀は契約社員程度の身分であり、それを信長が初めて正社員として迎えたのであって、光秀が義理に堅くない人物であったからではなかった。

朝倉家が滅んだ直後に光秀が認めた書状の内容

光秀はよく筆を手にする人物だった。例えば束の間の休暇を取り旅行を楽しむと、親しい友人に向け、今でいう絵葉書のような手紙を書くこともあった。そして知人の体調が優れないと知れば、すぐに見舞いに出向いたり気遣いの手紙を書くこともあった。

光秀はどうやら越前にいた頃、竹という人物に世話になっていたようだ。だが朝倉家は後に織田信長に攻められ滅ぶことになる。朝倉家が滅んだ後、光秀は服部七兵衛尉(はっとりしちへいのじょう)という人物に「朝倉が攻められた際、竹を助けてくれてありがとうございました」という内容の書状を認めている。光秀が本当に薄情な人物だったとすれば、果たしてこのような書状を認めただろうか。

ちなみに戦国時代には、光秀のように二つの家で被官することは決して珍しいことではなかった。また、他家からの引き抜きも日常茶飯事であり、光秀のように仕官先を転々とする武将はどこにでもいた。だが確かにそれが元でいざこざが起こることもあり、戦がなくなった江戸時代には、他家からの引き抜きは幕府によって禁止された。

さて、この巻を読んでもらえれば、明智光秀という人物が決して義理堅くない人物ではなかった、ということがおわかりいただけると思う。朝倉義景や足利義昭を裏切ってきた人物なのだから、織田信長に刃を向けたのも不思議ではない、という考え方は間違いであると筆者は考えている。明智光秀という人物は、実は非常に義理堅い人物だったのだ。

saito.gif

『麒麟がくる』第2回「道三の罠」では、冒頭から終始斎藤軍と織田軍の合戦シーンが描かれた。斎藤道三と織田信秀(信長の父)の時代には、このような戦いが幾度もあったわけだが、しかし信秀は生涯最期まで稲葉山城を落とすことができなかった。この稲葉山城は難攻不落の城と呼ばれ、織田信長でさえも桶狭間の戦い以降何度も美濃に侵攻したが、実際に美濃を手中に収めたのは永禄10年(1567年)だと言われている。

斎藤義龍は側女の子だった?!

劇中で稲葉山城はただの砦のように描かれているが、実際にはもう少し城っぽい形状だったとされている。しかしさすがに城を再現することは困難なため、城そのものはほとんど描写せず、城下町や砦のみを描く形に留まっているのだろう。だが今後話が展開していき、織田信長が稲葉山城を岐阜城と改めた時に、岐阜城の姿も映し出されるのではないだろうか。

さてその劇中、のちの斎藤義龍である斎藤高政が「自分は側女(そばめ)の子だから父は私の話に耳を貸さない」と語っていた。この台詞は後々重要な意味を持ってくるはずだ。ネタバレになりすぎないようにここではあえて書かないが、ぜひこの台詞は覚えておいてもらいたい。きっと後々の放送で大きな意味を持ってくるはずだ。

『孫子』が頻繁に登場する『麒麟がくる』

斎藤利政(のちの斎藤道三)はこの戦の前、明智光秀と叔父の明智光安に孫子について尋ねている。光安は答えられなかったが、光秀はすらすらと答えていた。『孫子』謀攻編に出てくる「彼を知り己を知らば、百戦して危うからず(危の実際の漢字は、かばねへんに台)」という言葉を引用しているが、これは敵のことも味方のこともしっかり把握し切れていれば、百度戦をしても大敗することはない、という意味になる。

ちなみに劇中で利政は最初は応戦させたがすぐに籠城させ、織田軍に戦う意思がないように思わた。そして織田軍が、斎藤軍に忍ばせていた乱破(らっぱ)の情報からそれを知り兵たちが油断し始めると、利政は猛攻をかけ織田軍を大敗させた。ちなみに劇中では乱破がスパイのように描かれているが、実際の乱破は闇夜に紛れて敵を討つ忍び集団だったと言われている。スパイを表現するのであれば、間者(かんじゃ)や間諜(かんちょう)の方が筆者個人としてはしっくり来る。斎藤利政が仕掛けたこの、能力がない振りをして相手を油断させて討つことを、『孫子』計編で「兵とは詭道(きどう)なり」と言っている。

「兵とは詭道なり」とは、戦とは騙し合いであって、本当は自軍にはその能力があるのに、実際にはないかのように振舞って相手を油断させて敵を撃退するという意味だ。ちなみにこの戦法が最大限活かされたのが、本巻では詳しくは書かないが桶狭間の戦いだった。さて、『孫子』からもう一遍。今回の戦で利政は籠城する意図を誰にも話さなかった。そして籠城を解く時になって初めて諸将にその意図を伝えている。『孫子』ではこれを「能(よ)く士卒の耳目を愚にして」と説いている。これはいわゆる、敵を騙すならまずは味方から、という意味になる。

土岐家と織田家は本当に強い絆で結ばれていたのか?!

最後にもう一点、劇中では美濃守護である土岐家と尾張の織田家には強い絆があると描かれている。この台詞だけだと深いところまで知ることはできないが、実際には決して絆があったわけではない。劇中で伝えられている通り、斎藤利政は美濃守護の土岐頼芸(劇中では「よりのり」と読むが「よりあき」など読み方がいくつか存在している)を武力で追放して美濃を手中に収めたわけだが、尾張の織田信秀は追放された頼芸を美濃守護に戻すという大義名分を得るために、頼芸を利用していただけだった。

仮に信秀が稲葉山城を落とせていたとしても、美濃を土岐家に返還するようなことは決してしなかっただろう。つまり土岐家と織田家の間には絆などなく、織田家が土岐家を利用していただけだった。これは織田信長と足利義昭の関係にもよく似ていて、戦国時代はこのような形で大義名分を作り戦を仕掛けることがよくあった。

以上が『麒麟がくる』第2回「道三の罠」を見た筆者の感想と、解説とまでは言えないが、解説のようなものとなる。ところで、前回放送後の予告編のような部分と、実際の今回の内容がけっこう違っていることに少し驚いたのだが、これは昨年起きた出来事による影響なのだろうか。筆者はてっきり、第2回放送で光秀が妻を娶り、今川義元も登場してくるものだと思ったのだが、そうではないようだ。とは言え、第3回放送も心待ちにしたい。

akechi.gif

明智光秀の正室の名は煕子(ひろこ)と伝えられているが、この名前は正確に伝えられてきた名前ではなく、『氷点』などで知られる故三浦綾子さんが書かれた『細川ガラシャ夫人』という1975年に発表された小説以来、煕子という名で周知されていったようだ。それ以前はお牧の方や、伏屋姫と呼ばれていたようだが、これらに関しても正確な名であるという資料は残されていない。ただはっきりしているのは、妻木範煕の娘ということだけで、三浦綾子さんはこの父親の名から煕子と設定されたようだ。

幼馴染みだった明智光秀と煕子

光秀が生まれた当時の明智家は決して大きな力は持ち合わせておらず、美濃の小土豪に過ぎなかった。光秀自身も明智家の居館で生まれることはなかったようで、高木家の居城だった美濃の多羅城で生まれている。そして幼少期は妻木家の庇護を受けながら成長したようだ。だが幼少期の彦太郎ことのちの明智光秀は周囲からの評価は非常に高く、斎藤道三をして「万人の将となる人相」をしていたと言う。

そのようなこともあり彦太郎は妻木家からある程度安定した生活を送れるだけの庇護を受けながら育ち、自然な流れとして、元服した明智十兵衛光秀は幼馴染みでもあった妻木範煕の娘、煕子(便宜上そう呼ぶことにする)を娶った。弘治2年(1556年)に斎藤義龍によって明智城を落とされ越前に落ちた際煕子は身籠っていたというから、二人の婚姻は少なくとも1556年以前ということになるわけだが、正確な日付を知ることのできる資料はまだ発見されてはいないようだ。ただ、弘治2年に光秀はすでに29歳だったと言われていることから、婚姻関係を結んだのは一般的にはその10年以上前のことだと思われる。

黒髪を売って光秀を支えたと伝えられる煕子

光秀が越前の朝倉氏に出仕していた頃、光秀は歌会を催すための資金繰りに悩んでいた。その際に煕子が黒髪を売ってお金の工面をしたというエピソードが伝えられているが、これは後年の創作である可能性が非常に高い。まず妻木氏はこの当時、小土豪だった明智家を保護できるだけの力を持っていた。それだけ力を持った家の娘が仮にお金を工面するために黒髪を売ったとなれば、光秀としては妻木家の面汚しとなってしまう。あくまでも筆者の想像ではあるが、恐らくは黒髪を売ったのではなく、売ろうとしただけではなかっただろうか。そしてそうせざるを得ない窮状を父に相談し、実際には煕子の父親である妻木範煕(広忠と同一人物である可能性もある)が支援したと考える方が自然に感じられる。

通常女性が黒髪を切ったり剃髪するのは出家した時だ。しかし煕子は出家などしていないため、仮に出家していないのに髪を切り法師頭巾などを被っていれば、これは戦国時代では非常に不自然な光景として映ってしまう。そのため煕子の実家がそうなることを決して許さなかったはずだ。もちろん実際に髪を売ってお金を工面したのかもしれないが、しかし時代と、妻木家と光秀の力関係を鑑みるならば、煕子の実家が支援したと考える方が自然ではないだろうか。

光秀に深く愛され続けた煕子

煕子は天正4年(1576年)に病死したと伝えられているが、しかしこれについても真実であるかは確信することはできない。『西教寺塔頭実成坊過去帳』に記されているこの情報の信憑性は低くはないと思うわけだが、一方『川角太閤記』では本能寺の変後、明智秀満が光秀の妻子を介錯した後に自刃とも書かれており、情報が一致しない。ちなみに『川角太閤記』とは川角三郎右衛門が江戸時代初期に、当時を知る武士たちに直接話を聞くことによってまとめた、本能寺の変から関ヶ原の戦いまでの豊臣秀吉、豊臣家の伝記とされている。江戸時代初期という、まだ本能寺の変を知る人物が多く生きる時代に書かれているため、他の軍記物とは異なり信憑性はあるように感じられる。

天正4年に病死したのか、それとも天正10年に秀満により介錯されたのか、どちらが真実なのかは今となってはわからない。しかしただ一つ間違いなく言えることは、煕子は光秀によって深く愛されていたということだ。煕子が病に伏せれば手厚く看病をしたり、吉田兼見に診療を依頼したりした。そして病により顔に痣のようなものが残ってしまっても、光秀はまったく気にすることなく煕子を大切にしたという。その光秀にも側室がいたという言い伝えもあるようだが、一般的には煕子が存命中は側室は持たなかったという説が広く伝えられている。この言い伝えからすると、秀満が介錯した光秀の妻は後妻という可能性もあるわけだが、筆者はまだそこまで調べ切ることができていない。もしこれに関する資料をどこかで読むことができれば、またここで書き伝えたいと思う。

akechi.gif

明智光秀という人物は、実は羽柴秀吉と大差のない状況から立身出世した人物だった。羽柴秀吉は農民から出世街道に乗って行ったため、家臣は0というところから武士人生をスタートさせている。もちろん明智光秀の場合は農民ではなく小土豪だったわけだが、武士としての親族はいたものの、家臣と呼べるほどの家臣の存在は秀吉同様にほとんど0に近いところからの始まりだった。そこで今回は、明智光秀の身近に存在していた人物たちを備忘録的に記録しておきたい。

血縁者

明智光隆
光秀の父親。別名・明智光綱、明智玄蕃頭(げんばのかみ)
天文11〜14年(1542〜1545年)に土岐一族が斎藤道三の下剋上に遭った際に戦死。

明智光安
光隆の弟で、光秀にとっては叔父。光隆死去後は、光安が光秀の後見人を務めた。妹が斎藤道三の継室(小見の方・おみのかた)だったこともあり、斎藤義龍が父道三を討った戦で道三側に与し、稲葉一鉄らと戦い戦死している。

小見の方
光隆・光安の妹で、光秀にとっては叔母。小見の方と斎藤道三の間に生まれた帰蝶(濃姫)は織田信長の正室となっている。つまり織田信長は光秀にとっては義理の従兄弟だった。

煕子
光秀の正室。妻木範煕の娘。光秀がまだ立身出世を果たす前、煕子が黒髪を売って光秀を財政的に支えたと言う逸話が残されているが、これは後世の創作である可能性が高い。実際には妻木範煕が光秀を経済的に支えていた。

明智光忠
光秀の父・光隆の弟である明智光久の子。光秀にとっては血の繋がった従兄弟。光忠は、光秀が最も信頼した家臣の一人で、光秀の娘を娶っている。

明智光久
光隆の弟で、光秀にとっては叔父。光忠の父。斎藤道三に与したことで明智城を斎藤義龍に攻められた際、自らは最後の最後まで籠城して戦い、光秀たちを脱出させた。しかし光久自身はその戦いの最中に戦死。

明智光慶
明智光秀の嫡男。本能寺の変後については諸説あり定かではない。坂本城で討ち死にしたという説や、僧として生き続けたという説がある。

細川ガラシャ
洗礼を受ける前は玉、もしくは珠。明智光秀の娘であり、光秀の盟友細川藤孝の嫡男忠興に嫁いだ。関ヶ原の戦い直前、石田三成の人質となった際にそれを嫌い命を絶った。

光秀の次男(名前不詳)
名前は明らかにはなっていないが、筒井順慶の養子になっていたらしい。

非血縁者

斎藤利三
明智光秀が最も信頼を寄せた家臣。斎藤道三の血縁者というわけではなく、美濃の守護代だった別の斎藤家の血筋。母親が光秀の叔母だったという説もある。利三の兄である石谷頼辰(いしがいよりとき)の義理の妹が長宗我部元親の正室だった。利三はかつて稲葉一鉄や織田信長の与力となっていたが、それぞれと何らかの衝突があり、最終的に光秀の臣下に加わった。最期は山崎の合戦後に明智半左衛門によって捕縛され、六条河原で処刑された。

明智秀満
別名は左馬之助光春。光秀の娘婿。元の名は三宅弥平次で、光秀の娘を娶った後、明智秀満と改名した。美濃の塗師の家に生まれた人物という説の信憑性が高いらしい。実はこの妻、元々は荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたのだが、村重が信長に反旗を翻した際、村重が光秀の心中を慮り、光秀の元に返していた。その後秀満に嫁いだ。秀満は本能寺の変後の坂本城で自らの妻、そして煕子ら光秀の親族が捕縛され辱めを受けないように刺殺した後、自刃。

織田信澄
光秀の臣下だったわけではないが、光秀の娘が信長の命により信澄に嫁いでいた。織田信澄とは、織田信長の弟信行の子。信行は家督を争った際、信長に討たれている。光秀の娘を娶っており、居城も坂本城に近かったことがあり、本能寺の変の首謀者の一人として疑われ、織田信孝・丹羽長秀軍により釈明する間も無く討たれてしまう。

溝尾庄兵衛尉(しょうべえのじょう)
別名は三沢秀次との説あり。山崎の合戦後、負傷したことにより自刃を余儀なくされた光秀を介錯し、その後坂本城まで戻り自らも自刃。光秀が信長に仕える以前から光秀に仕えていた古参。

藤田伝五
藤田伝五も、光秀が信長に使える前から光秀に仕えていた。しかし山崎の合戦で負傷し、その翌日に自刃。

可児才蔵
美濃出身で「槍の才蔵」として知られた槍の名手。福島正則に与する以前、光秀の臣下になっていた時期があったらしい。

明智半左衛門
元の名は猪飼野秀貞(いかいのひでさだ)と言う近江出身者で、光秀の臣下になった際に明智半左衛門と名乗るようになったが、本能寺の変では光秀に与することなく、斎藤利三を捕縛し、羽柴秀吉に差し出している。

明智孫十郎
本能寺の変の際、織田信忠が立て籠もる二条城を攻めた際に戦死。

明智掃部(かもん)
詳細は不明だが『天王寺屋会記』に光秀の家臣としてその名が登場する。

明智千代丸
光秀が八上城を攻めた際、最後の最後まで波多野家に忠義を尽くし戦死した小畠国明の遺児。光秀は国明の忠義を称し、まだ幼かった国明の子に明智姓を与えた。

saito.gif斎藤道三は11歳で京の妙覚寺で僧侶となり、法蓮房と名乗った。だがその後還俗して松波庄五郎と名乗り、油屋だった奈良屋又兵衛の娘を娶り、山崎屋という称号で油売り商人となった。しかもただの商人ではなく、一文銭の穴を通して油を注ぎ、一滴でも溢れたら代金は取らないという手法で売り歩いていた。これが美濃で評判となり、庄五郎は財を成していく。

だがある日、当時美濃の国主だった土岐氏の家臣、矢野という名の武士に「その技術は素晴らしいが所詮商人のものだ。だがそれを武芸に繋げられれば、立派な武士になれるだろう」と称えられ、庄五郎は武芸の道に進むことを決意する。その後土岐氏臣下である長井長弘の家臣になり、土岐頼芸の信頼を得ていく。

その後は長弘を殺害することで長井氏を名乗り、さらには斎藤利良が病死すると斎藤氏を名乗り稲葉山城に入り、城の大改築などを行う。さらには土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺し土岐氏を混乱状態に陥れ、最終的には国主であった土岐頼芸を美濃から追放し、斎藤利政(のちの道三)は美濃一国を乗っ取ってしまった。このように乗っ取りに乗っ取りを重ね、最終的には国そのものまで乗っ取ってしまったために、斎藤道三はマムシと呼ばれるようになったのである。

そのマムシ斎藤道三は嫡男である義龍に家督を譲った後でも、義龍のことを良いようには思っていなかった。逆に義龍の弟たちのことは高く評価し、義龍を廃嫡にし、弟に家督を譲るという噂まで流れていたほどだ。さらには三女である濃姫(帰蝶・明智光秀のいとこ)を織田信長に嫁がせ、「義龍率いる斎藤氏は近い将来織田の軍門に下るだろう」という趣旨の言葉まで発している。これによって道三と義龍の関係は日に日に険悪になっていく。

濃姫を嫁がせた頃の織田信長は、尾張の大うつけと呼ばれ周囲も呆れるような存在だった。だが道三は織田信長がうつけの振りをしているのを見抜き、あえて濃姫を大うつけに嫁がせたのだった。織田信長の才覚を見抜いた道三の眼力は素晴らしいものだが、しかしなぜか義龍の才覚を認めることは最期の時までできなかった。

義龍が廃嫡にされるという噂が本格的に広がり始めると、義龍は病を装い弟二人を呼び出し殺害してしまう。そして父道三をも討とうと企てる。冬の間は美濃の深雪により休戦状態が続いたが、弘治2年(1556年)4月、雪が溶けると両軍動き出した。

4月18日、道三は鶴山に布陣し、織田信長の援軍を待った。義龍軍は17,500人という大軍勢となったが、しかし道三軍は2,700人ほどしか動員することができなかった。それは何故なのか?理由は道三が美濃を手中に収めた時の経緯が関係していた。道三は下剋上により長井、斎藤の家を乗っ取り、さらには土岐頼満を毒殺したところで土岐頼芸を美濃から追放し、美濃を手に入れていた。斎藤道三の力量は買っていたとしても、この一連の乗っ取りを快く思っている家臣はほとんどいなかったのだ。

そのため安藤守就(竹中半兵衛の舅)、稲葉一鉄(頑固一徹の由来の人物)、氏家卜全(3人の中では最大勢力)という西美濃三人衆まで義龍側に味方する事態となってしまった。軍勢にこれだけの差が生じてしまっては、織田信長の援軍が到着したところで焼け石に水だと考えたのだろう。義龍が長良川南岸に布陣すると、道三は信長を待たずして長良川北岸に移動し義龍軍と対峙した。

緒戦こそ善戦した道三ではあったが、全面対決となると兵力の差は歴然だった。道三軍はあっという間に押されてしまい、道三の首は小牧源太によって落とされてしまった。

数々の乗っ取りによって美濃を手に入れたマムシの道三だったが、最期は息子との骨肉相食む争いを繰り広げすべてを失ってしまった。そして長良川の戦いで義龍の見事な采配振りを目にし、道三は自分の義龍を見る目が間違っていたことに気付き後悔したと伝えられている。

因果応報とでも云うべきか、それとも業(ごう)、カルマとでも言うべきか。災いはすべて道三の身に返ってきてしまった。ちなみに道三が追放した土岐氏は、明智光秀が本能寺の変を起こしてまで再興しようとした、あの土岐氏だ。つまり明智光秀にとって叔父斎藤道三は、土岐氏を滅ぼした仇敵であり、織田信長はその仇敵の娘婿だったというわけなのである。