「文禄の役」と一致するもの

戦国時代にももちろん天皇の存在はあった。しかし現代ほど国の象徴的な存在ではなく、特に戦国時代は天皇の威信は薄れ、財政に苦しむ天皇も少なくなかった。中には即位の礼を行うための資金がなく、なかなか即位できなかった天皇もいたほどだ。今回の巻では、戦国時代の天皇を一覧にしていこうと思う。ちなみに今上天皇(平成)は第125代目となる。

第104代 後柏原天皇(ごかしわばら)
在位:明応9年10月25日〜大永6年4月7日(1500〜1526年)
父:後土御門天皇(第103代)
子:後奈良天皇(第105代)

明応9年に後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御され、37歳で践祚式(せんそしき:天皇の象徴である勾玉や宝剣を継承する儀式)を行なった。だがその後は財政難によってなかなか即位することができず、第11代将軍足利義澄が献金しようとするも管領である細川政元に反対されてしまう。その後足利将軍家や本願寺から献金を受け即位できたのは践祚から21年経った大永元年(1521年)だった。戦国時代はこのように、天皇の威信が最も失われていた時代だったのである。


第105代 後奈良天皇(ごなら)
在位:大永6年4月29日〜弘治3年9月5日(1526〜1557年)
父:後柏原天皇(第104代)
子:正親町天皇(第106代)

後柏原天皇が崩御するとすぐに践祚したが、しかし朝廷の財政難は続いていた。父である後柏原天皇同様、践祚してもなかなか即位することができず、大内家・北条家・今川家からの献金を受け即位できたのは天文5年(1536年)になってからだった。後奈良天皇は即位後に財政危機を乗り切るため、天皇の直筆を諸大名に売った。金銭さえ支払えば、大名たちは天皇に好きな文言を直筆してもらうことができた。このような天皇の行動も、天皇の権威を失墜させる原因となっていた。

だが後奈良天皇も父親同様、民の安寧を誰よりも願う天皇だった。そのため長尾景虎(後の上杉謙信)のように天皇への忠誠を誓う義将の存在もあった。長尾景虎は天文22年(1553年)に上洛し後奈良天皇に拝謁している。


第106代 正親町天皇(おおぎまち)
在位:弘治3年10月27日〜天正14年11月7日(1557〜1586年)
父:後奈良天皇(第105代)

正親町天皇はまさに戦国時代のど真ん中を生きた天皇だった。践祚(せんそ)したのは弘治3年(1557年)だったが、財政難は変わらず毛利元就らの献金により即位できたのは永禄3年(1560年:桶狭間の戦いが起きた年)だった。応仁の乱(応仁元年:1467年)以降朝廷を苦しめ続けた財政難だが、正親町天皇の代になると状況が一変する。織田信長が登場したためだ。信長は永禄11年(1568年)に上洛をすると、その後は第15代将軍足利義昭を援助しながら、朝廷への献金も熱心に行った。

しかし信長の場合は長尾景虎とは違い、天皇に忠誠心を持っていたわけではなかった。戦で都合が悪くなると天皇を担ぎ出し調停に持ち込むため、信長は天皇を味方にするためだけに資金援助を行っていた。長年苦しめられた石山本願寺との休戦も、天皇の勅命あってこそだった。

だが正親町天皇は徐々に信長のやり方に異論を挟むようになり、信長は正親町天皇を疎ましく感じるようになる。そこで信長が考えたことは、信長の養子となっていた第五皇子、誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位させることだった。だがこれに関しては信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたため実現することはなかった。だが107代天皇には誠仁親王の子、後陽成天皇が即位している。

ちなみに本能寺の変後、天下を掌握した羽柴秀吉は征夷大将軍になることを目指した。しかし征夷大将軍になるためには第15代将軍足利義昭の養子になる必要がある。これを義昭が拒んだため、秀吉は征夷大将軍になることができず、関白の職に就くことになった。また、羽柴秀吉に豊臣姓を与えたのは正親町天皇だった。


第107代 後陽成天皇(ごようぜい)
在位:天正14年11月7日〜慶長16年3月27日(1586〜1611年)
父:誠仁親王(正親町天皇の第5皇子で織田信長の養子)

豊臣政権と徳川政権にまたがって即位していた天皇で、関ヶ原の戦いの翌年までの在位となる。豊臣政権時代は織田政権時代同様、秀吉が朝庭に対し熱心に献金を行なっていた。そのため正親町天皇の頃に取り戻していた天皇の威信もまだ保たれていた。ちなみに秀吉が文禄の役慶長の役を戦った際、もし勝っていたら後陽成天皇を明国(中国)の皇帝にしようと考えていたようだ。

秀吉が死に天下が家康の手に渡ると、天皇の威信は再び失われていった。徳川家康は天皇を蔑ろにするような政治を行い、後陽成天皇もそれに対し不満を募らせていた。江戸幕府は1603年に徳川家康によって創設されたわけだが、それ以降天皇の威信はどんどん失われていった。後陽成天皇は元和3年(げんな:1617年)に崩御し火葬される。その後天皇はすべて土葬されているため、後陽成天皇は最後の火葬された天皇ということになる。
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石田三成という人物は本当に誤解されやすい人だ。その理由の一つとして実直すぎるという点を挙げられる。そして実直すぎる故に融通が利かなく、あまり他人を信用しないという性格だったようだ。そしてその性格による対応のせいで、慶長の役では豊臣恩顧の武断派との溝がさらに広まってしまった。


慶長の役とは慶長2年(1597年)に始まった秀吉二度目の唐入りのことで、この朝鮮との戦は慶長3年に豊臣秀吉が死去したことにより終結した。その際、石田三成は国内に留まり、自らが信頼を寄せる軍目付(いくさめつけ)7人を朝鮮に派遣し、戦況や戦功の状況を調査させた。

その7人とは太田一吉(三成家臣)、垣見一直(三成家臣)、熊谷直盛(三成の娘婿)、竹中重利(竹中半兵衛の義弟)、早川長政、福原長堯(ながたか、三成の妹婿)、毛利高政という人選だった。このように三成は軍目付として、自らが信用している人物だけを選んだ。だがこの人選が武断派の不興を買ってしまう。

加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興らは、軍目付として三成の臣下以外からも選ぶようにと迫ったが、三成はそれを受け入れなかった。その理由は武断派の息がかかった者を選べば、事実を誇張して報告される恐れがあったためだ。それを防ぎ、事実を正確に把握するために三成は自らが信頼している人物のみを軍目付として選んだ。

この7人の報告を受け、最終報告するのは三成の役目だったわけだが、武断派たちはそこで三成が讒言し、自らの武功を過小評価されたのではないかと猜疑したようだ。だが三成は過小評価して報告をしたわけでも、讒言したわけでもなかった。ただ事実をありのままに秀吉の報告したに過ぎなかったのである。決して私情を交えて報告するようなことはしなかった。

武断派たちは三成の思いなどまったく理解しようとはしなかった。文禄の役などでは特に、日本軍は海路を確保することができなかった。そのため兵糧を日本から朝鮮に送ることもできず、送ったとしても輸送船はあっという間に沈められてしまった。それにより朝鮮の日本軍は食糧危機に陥った。それでも武断派は戦いを続けようとしたのだが、三成は兵を無駄に死なせることを嫌い、退却を強く進言したのだった。

慶長の役では慶長3年8月18日に秀吉が死去し、朝鮮攻めが頓挫すると、三成は帰国してきた武将たちを博多で出迎えた。そして「伏見で秀頼公に御目通りされたら一度国に戻り休み、来年また上洛あれ。その折には茶の湯でも楽しもうではないか」と心からの労いの言葉をかけたようだが、加藤清正は「治部少は茶を振舞われるがよかろう。我らは異国で7年も戦い、米一粒、茶も酒もないため稗粥(ひえがゆ)ででも持て成そう」と怒鳴りつけたと伝えられている。

しかし振り返り見れば、兵糧が尽きかけようとしても戦を続けたのは清正ら武断派であり、兵を守るため撤退させようと苦心したのが三成だった。武断派たちはそんなことは決して理解しようとはせず、理不尽にも三成に当たり散らしたのだった。

秀吉の死は、三成にとっては心が千切れるような出来事だったに違いない。自分を武将に仕立ててくれた恩人であり、三成は秀吉の構想を実現させるべき身を粉にして働いてきた。三成にとっては秀吉こそが正義だったのである。慶長の役は8月以降、撤退は12月まで及んだのだが、三成は兵たちが無事帰国できるように、その間も奉行として涙を見せず働き続けた。

石田三成という人物は、自らにかかる疑念に対し弁明することはほとんどしなかった。そのため誤解が解かれることもなく、誤解がさらなる誤解を生んでしまうことも多々あった。そして江戸時代になると徳川家康の敵として、さらに有る事無い事酷く書かれることになってしまう。

秀吉の生前は秀吉のミスをカバーし続け、そのミスも自らが罪を被り、秀吉のカリスマ性が失われないように対応し続けた。そのような事実も武断派たちは決して知らなかったはずだし、知ろうともしなったのだろう。現代の歴史ドラマでも石田三成は未だ悪役として描かれることが多い。だが実際の石田三成は信じた正義を貫き通した、豊臣家最大の義将だったのである。
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石田三成と加藤清正は本当に仲が悪かったのかと言えば、それは確かであるようだ。そしてその仲を決定的に悪くしたのは文禄の役での一連のやりとりでだった。文禄の役とは天正20年(1592年)4月に始まった唐入りのことだ。ちなみにこの年の12月8日に文禄と改元されたために、この唐入りは文禄の役と呼ばれている。


実は石田三成は唐入りには反対の意を持っていた。だが千利休や豊臣秀次とは違いそれを態度で示すことはなかった。しかし検分のため自らも実際に朝鮮に渡り、兵糧が尽きかけていると知るや否や、三成はすぐに戦線を縮小させようとした。それに異を唱えたのが加藤清正ら、いわゆる豊臣恩顧の武断派武将だちだったわけだ。

唐入り直後は、日本軍は破竹の勢いで朝鮮を攻め立てていた。だが明国が朝鮮の援軍として駆けつけてきた後は日本軍の勢いは少しずつ失われていく。そして見知らぬ土地で食べ物を調達することもできず、病死する者も多数出るようになった。これ以上戦況を悪くしないためにも、三成は戦線の縮小を大将宇喜多秀家に進言したのだった。

しかしこの時点では、槍働きをしている武将たちの手柄はほとんどないに等しかった。つまりこのタイミングで戦が終わってしまうと、兵を消耗しただけで何の得もない状態で帰国させられることになる。それだけは避けたいと躍起になったのが加藤清正だった。

さらに石田三成は軍目付(いくさめつけ)として、加藤清正を讒言(ざんげん)したと伝えられている。讒言とは事実を捻じ曲げて他人を陥れようとする行為のことだが、石田三成は決してそのようなことはしなかった。ただ、事実だけを秀吉に伝えたのである。

どのような事実かと言えば、実はこの戦いで加藤清正は、朝鮮の王子ふたりを捕虜としていた。戦いは少しずつ日本軍が劣勢に傾き始めており、そこへ明国の勅使から清正はある提言を受けた。それは朝鮮の王子をふたりとも無事に返せば、日本軍もこのまま無事に日本に返してくれる、というものだった。

だが清正はこの提案を勝手に蹴ってしまった。しかもあろうことか「豊臣朝臣(あそん)清正」と署名して。しかしこの時の加藤清正は豊臣姓は賜っていない。つまり清正は勝手に秀吉の姓を用い、勝手に交渉を蹴ってしまったというわけだ。三成はこの事実をありのまま秀吉に報告したに過ぎなかった。

さらに清正は明国とのやり取りの中で、小西行長のことを商人扱いし侮辱し、清正の家臣に至っては現地で狼藉を働いてもいた。このような事実が秀吉の怒りを買い、清正はその後帰国と伏見への蟄居を命じられている。ちなみに清正の勝手な越権行為が交渉決裂を招いてしまい、慶長の役へと繋がってしまった。

このように事実は、石田三成は讒言などしてはおらず、事実を報告されたことを加藤清正が讒言されたと歪曲理解してしまっただけの話なのだ。石田三成は、決して加藤清正を陥れようとなどしてはいないのである。だが日頃の不仲が積もり積もったことにより、このような事態になってしまったことは確かだろう。

この出来事により、石田三成と武断派たちとの間には決して埋め切れない大きな溝が生まれてしまった。そしてこの溝を巧みに利用して豊臣家から政権を横奪したのが徳川家康なのである。
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豊臣秀吉はなぜ文禄の役、慶長の役と二度に渡り唐入りを実施したのか?唐入り賛成派の武将というのは実はほとんどいなかった。大それた反論はしなかったものの石田三成でさえも唐入りには反対しており、実際に反乱の火種となりかねなかった豊臣秀次や千利休に至っては切腹させられている。秀吉はなぜ秀次や利休を切腹させてまで唐入りを目指したのだろうか。


実は唐入り構想の原案は秀吉のものではなかった。最初に唐入りを目指すと口にしたのは織田信長であり、それを嫌った明智光秀により信長は討たれてしまった。つまり秀吉は、信長が考えていたことをそのまま自分のアイデアとして取り入れてしまったということになる。

信長は日の本を統一した後は、有力大名たちには刈り取った朝鮮、民国の広大な土地を与え、国内の主要部は織田一門に任せるという構想を練っていた。本能寺の変直前、織田家で最も力を持っていた家臣が明智光秀であり、まさに光秀は朝鮮、民国に移封させられる最有力とされていた。

秀吉も同じことを考えていた。朝鮮、民国に攻め入り領地化し、力を持ち過ぎた大名たちを国内から追い出そうと考えていたのだ。そしてさらには領土を広げることにより、秀吉は大王になろうとしていたとも言われている。一説では実子捨(すて)の死の悲しみを癒すべく唐入りしたとも言われているが、一国を治める太閤(前関白の意)がそのような理由で戦を仕掛けるはずはない。

秀吉も信長同様、有力大名たちを国内から追い出すような形にし、国内は豊臣一門を中心に政権運営していくことを目指したのだった。そしてこれが実現されれば秀吉亡き後、有力大名に後継が狙われる心配もなくなる。秀吉としては先の短くなっていた命、後継が狙われる心配を排除した上で命を全うしたかったようだ。

だからこそ唐入りに意を唱え、クーデターを起こす可能性のあった豊臣秀次や千利休を、下手な言い掛かりをつけて切腹させてしまっている。実際多数の武将たちが秀次や利休を頼り、秀吉に唐入りを中止させるように頼んでいたようだ。秀吉としては唐入り反対派をまとめる役割を果たしていた秀次や利休が邪魔で仕方なかったというわけだ。

武器商人であった千利休としては、実際のところは唐入りという大掛かりな戦をしてくれた方が莫大な利益を得ることができた。それでも利休が唐入りに反対したということは、それだけ国益に繋がらない大義なき戦だと唐入りは見られていたのだろう。そして実際二度に渡り行なわれた唐入りは、大義も成果も何もない戦で、ただただ大名たちを疲弊させただけで終わってしまった。

だが秀吉からすれば、力を持ち過ぎた大名の体力を失わせただけでも、唐入りは成功に値するものだったのかもしれない。だが立派な武将に成長していた豊臣秀次を切腹させてしまったことで、豊臣政権はその後大きく揺らぐことになってしまう。秀次は素行が悪かったとも伝えられているが、しかしそれは切腹を命じた際のでっち上げだと考えられている。実際の秀次は武士としての習い事も真面目に取り組み、勤勉であり、教養にも優れた人物だった。

詳しくはこちらの巻に記しているが、秀次は千利休の愛弟子でもあった。そのため唐入りを阻止するために二人が結託していた可能性も非常に高い。だからこそこのふたりが揃って見せしめとして切腹させられたと考えるのが自然ではないだろうか。

日の本全体としては決して成功とは言えない結果に終わった唐入りだが、しかし秀吉個人からすれば上述の通り唐入りは決して失敗ではなかった。だがその唐入りをめぐっての秀次の切腹などにより、その後豊臣政権が行き行かなくなってしまった。もし秀次に切腹を命じていなければ幼い秀頼が家督を継ぐ状況にもならず、豊臣政権も秀吉一代では終わっていなかったかもしれない。

だが秀次を失ってしまったことにより豊臣政権は大きく揺らぎ、秀吉の死後はあっさりと徳川家康に政権を乗っ取られてしまった。そういう意味に於いては秀吉の唐入りは、特に秀吉の死後は豊臣家に大きな爪痕を残す形となってしまった。

天正19年(1591年) 千利休切腹
文禄元年(1592年)  文禄の役
文禄4年(1595年)  豊臣秀次切腹
慶長2年(1597年)  慶長の役
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天正18年(1590年)の小田原征伐以降、真田家に大きな動きはほとんどなかった。しかし文禄元年(1592年)2月、いよいよ豊臣秀吉の朝鮮出兵を実行に移すため、真田昌幸は徳川家康、上杉景勝と共に肥前名護屋城に赴いている。ちなみに名護屋城とは朝鮮出兵の拠点として、天正19年10月から普請され、短期間で仕上げられた城だった。


名護屋城には7万3千もの兵が集結した。その中から実際に渡海して行く部隊人数が細かに定められたわけだが、真田父子は700人の兵を持ち、渡海する際は500人連れて行くようにと定められた。だが実際に真田父子が渡海することはなく、上述の通り家康、景勝と共に名護屋城で秀吉の身辺警護を行い、最後まで渡海命令が下されることはなかった。

この時徳川家康、上杉景勝と近い扱いをされるということは、秀吉の中で真田昌幸の存在はかなり大きかったのだろう。そして戦術家としても、小田原征伐以来、秀吉は昌幸を高く評価していたようだ。大名としての格から、さすがにその後大老になるようなことはなかったが、しかし一連の処遇を見ていくと、秀吉が昌幸のことを高く買っていたことが良くわかる。

同じ戦術家として豊臣家には黒田孝高という存在もまだあったわけだが、しかし秀吉に対し耳の痛いこと言う軍師であるためか、この頃の黒田孝高は秀吉からは遠く離されてしまっていた。その黒田孝高の代わりとして、新たな豊臣恩顧の小大名であり、知略にも優れた真田昌幸を置いておきたかったという気持ちが秀吉の中にはもしかしたらあったのかもしれない。

さて、文禄の役では渡海は命じられなかった真田父子だったが、文禄の役が終わると、その替わりとなる役割が待っていた。それは伏見城の普請役だった。伏見城は秀吉が隠居後に暮らすつもりの城で、大坂と京のほぼ中間に作られたものだった。この城の普請を一部担ったわけだが、真田家は木材の提供と1680人(知行高の1/5)の労働者の提供を求められた。

だが文禄の役で実際に渡海させられるよりは遥かにましと言える勤めだった。しかも伏見城の普請、そして名護屋城への出向の恩賞として、家督を継いでいた真田信幸には下従五位伊豆守と豊臣姓が与えられた。真田信繁(幸村)にも下従五位左衛門尉と豊臣姓が与えられたと伝えられてはいるが、しかし信繁の場合はそれを証明する書状は残されてはいない。

その後文禄4年には秀吉が草津温泉への湯治に出かけるということで、真田家はその饗応役を任ぜられたのだが、実際に秀吉が草津に赴くことはなかったようだ。秀吉はこの3年後に病死してしまうわけだが、もしかしたら伏見から草津へ出かけられないほど、この時の秀吉は体が弱っていたのかもしれない。もしくは慶長の役に向けての準備が忙しかったのだろうか。

このように、小田原征伐以降は真田家にはそれほど目立った動きはない。文禄の役では実際に出陣には至らず、文禄の役後は伏見城の普請を担当した程度だった。真田家は最初から最後まで徳川家や北条家などに振り回されていたわけだが、その北条家が滅亡した小田原征伐から少しの間だけは、因縁の沼田領も安堵されていたこともあり、真田家にとってはつかの間の平穏の時だったのかもしれない。
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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の最大の相違点のひとつに、キリスト教を認めたか否かということがある。秀吉は天正15年(1587年)にバテレン追放令を出し、徳川家康も慶長17年(1612年)に禁教令を出し教会の取り壊しを進めた。ではなぜ織田信長だけがキリスト教を手厚く持て成したのだろうか?!


考えらえることとしてはまず、織田信長自身が南蛮文化に強い興味を抱いていたという点が挙げられる。晩年の信長は日本的な甲冑ではなく、ヨーロッパで使われているような鎧やマントをまとっていたし、葡萄酒も好んで飲んでいたと伝えられている。南蛮の珍品は、すべてキリスト教の宣教師によって日本に持ち込まれた。そのような珍品を手に入れたいという思いもあり、キリスト教の布教を認めていたのだろう。

さらに信長は比叡山を焼き討ちにしたことでもわかるように、一部の堕落した僧侶を憎んでいた。そのような僧侶を一掃し、キリスト教という新たなものを利用することにより、日の本全体を新しく作り変えようとしていた可能性もある。事実信長という人物は、日の本を新たに作り直したいという強い思いを抱いていたため、そのためにキリスト教を利用しようと考えていた可能性は高い。

だがそれ以上に信長が目指したのは、南蛮貿易による莫大な利益を得ることだ。当時の南蛮貿易はキリスト教宣教師の専売特許だった。南蛮貿易と布教活動はセットで考えられており、南蛮貿易によって利益を得るためには、宣教師たちと良好な関係を築かなければならない。

信長が目指したのは、堺などの商人たちに南蛮貿易で大きな利益を得させ、その商人たちから莫大な税金を取るという形だった。そのため信長自身で貿易を行ったという形跡は見当たらない。信長はあくまでも珍品を集めるだけで、実際には堺の商人たちに海を渡らせて、海外との貿易を盛んにしていこうと考えていたようだ。

ちなみに豊臣秀吉が文禄の役、慶長の役で朝鮮に出兵した際、石田三成は上述したような信長と同じ考えを持っていた。朝鮮や明を支配下にするよりは、友好関係を結んで貿易を盛んに行なっていくことが国益に繋がると考えていた。だが秀吉は三成の考えを汲むことはせず、朝鮮や明と敵対する道を選んでしまう。

さて、それでは秀吉と家康はなぜバテレン追放令を出したのか。その理由は宣教師たちが秀吉や家康の支配下にされることを嫌ったからだった。特に後発組の宣教師たちが支配下に入ることを毛嫌いし、秀吉や徳川幕府の怒りを買ってしまう。逆に古参の宣教師たちは日本文化をよく理解していたため、後発の宣教師たちを説得しようと試みたようだが上手くはいかなかった。

さらに突っ込んだ話をすれば、鉄砲などの火器も貿易によって日本に入ってきた。信長は最新の武器を南蛮貿易によって手に入れようとも考えていたようだ。鉄砲の威力は長篠の戦いですでに証明されており、戦上手の信長としては重火器を使った戦いをさらに進化させたいと考えていたのだろう。

このように信長にとってのキリスト教とは単に宗教問題ではなく、その主旨は実は貿易による利益を得ることにあった。宗教そのものに深い関心がなかったからこそ、織田信長はいわゆるキリシタン大名になることもなかったのかもしれない。