「忍城の戦い」と一致するもの

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慶長5年(1600)年9月15日午前に開戦し、あっという間に東軍勝利に終わった関ヶ原の戦い。真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍に味方し、信繁の兄である信之は東軍に味方した。何と親子が敵味方に分かれて戦う形になったのだが、これはどちらが勝っても負けても真田の家が滅ばないようにと、昌幸があえてこのような状況を選んだとも伝えられている。

真田昌幸は過去、幾度となく東軍大将の徳川家康を苦しめてきた。そのため家康は昌幸のことを目の敵にしている。そして昌幸自身も、家康に煮え湯を飲まされた経験があり積年の鬱憤を晴らしたいと考えていた。そのため昌幸に東軍に味方するという選択肢はほとんどなかった。

しかし信之に関しては事情が異なる。信之は家康に対しそれほど負の感情は持っていなかったとされている。そして徳川四天王である本多忠勝の娘、小松姫を正室に迎えているという事情もあり、信之は家康率いる東軍に味方することになった。この時信之は再三東軍に味方するようにと昌幸を説得したようだが、しかし昌幸が首を縦に振ることは最後までなかった。

だが個人的な恨みだけで敵味方を決める真田昌幸ではない。勝機ありと見たからこそ、昌幸は西軍に味方したのである。それは関ヶ原から遡ること10年、天正18年(1590年)の忍城の戦いで石田三成の器量の良さを目の当たりにし、この人物の用意周到さがあれば必ず家康に勝てると踏んだからこそ、昌幸は西軍に味方していたのだ。

そうでなければ表裏比興の者と秀吉に言わしめた真田昌幸が、個人的な恨みだけで家康の的に回るはずがない。より高い確率で真田の家を守れると考えたからこそ、昌幸は西軍に味方したのだ。そして昌幸の働きは見事だった。父家康の恨みを晴らすべく徳川秀忠が4万近い大軍を率いて上田城に攻めてきたのだが、昌幸は関ヶ原の前哨戦となったこの戦いに見事勝利した。

この戦いが第二次上田合戦と呼ばれる物だが、実は信之も義弟本多忠政と共に上田城攻めに従っていた。そして父昌幸に開城するようにと説得を試みたが、この時もやはり昌幸が首を縦に振ることはなかった。

さて、信之の妻が本多忠勝の娘であれば、信繁の妻は大谷吉継の娘だった。大谷吉継とは、石田三成と共に関ヶ原の戦いを仕掛けた人物であり、三成の盟友でもあった名将だ。大谷吉継が義父である限り、信繁としては西軍に味方するしかなかった。また、真田昌幸の正室山手殿は石田三成の妻とは姉妹だった。

信繁はこの時、上田城の支城である砥石城を守っていた。この砥石城攻めを任されたのが兄信之だったわけだが、信繁は兄が攻めて来たと知るとすぐに砥石城を捨て、上田城に入ってしまった。信繁には、兄が疑われていることがわかっていた。今は東軍に付いているものの、信之はいつ裏切って父昌幸の元に走るかわからないと思われていたのだ。その疑いを晴らすためにも信繁はあえて兄と戦うことは避け、信之が真田攻めをやり切り徳川を裏切らなかったと秀忠らに思わせようとしたようだ。

砥石城はこのようにした落ちたものの、上田城は昌幸・信繁父子の抗戦により最後まで落ちることはなく、第二次上田合戦もまた、第一次同様に真田勝利で終わったのだった。だが本戦となった関ヶ原では西軍石田三成が、東軍徳川家康に敗れてしまう。これによって真田昌幸・信繁父子は賊軍として扱われてしまうのだった。

関ヶ原後、家康は昌幸・信繁父子を処刑しようとした。だが信之や本多忠勝の説得により、九度山(高野山)への流罪で決着した。この時真田昌幸は信之に対し「さてもさても口惜しきかな。内府(だいふ・徳川家康)をこそ、このように(九度山流罪)してやろうと思ったのに」と語ったと『真田御武功記』に残されている。これは関ヶ原の戦いが終わってしばらくしたのち、信之がふと口にしたことを書き残したものであるようだ。

九度山での生活は侘しいものだった。流罪から10年ほど経つと昌幸は病気がちになり、67歳でその生涯に幕を下ろしてしまう。だが昌幸の意志は信繁が受け継いだ。昌幸の死から3年後に起こった大坂冬の陣で、信繁は真田丸で善戦し、再び徳川勢を大いに苦しめる戦いを見せるのだった。
ishida.gif忍城の水攻めに失敗した石田三成だが、実はこの当初、三成を悪く言う者はいなかった。徳川四天王のひとりである榊原康政も、三成と共に忍城を攻めた浅野長吉への書状で「お手柄」と書いているほどだ。やはり三成の戦下手という評価は江戸時代に恣意的に作られたものだと考えるべきだ。

備中高松城を水攻めした際に作られた堤は東南4キロに渡って築かれた。つまり備中高松城を水攻めにするには4キロの堤を作れば良かったわけであり、水攻めをするに適した弱点を持った城だった。一方の忍城を水攻めにした際約1ヵ月かけて作られた堤は28キロにも及んだ。備中高松城攻めで築いた堤の実に7倍の長さだ。これだけの堤を作るためには人員や資金ばかりではなく、大量資材や、人員のための大量の食料まで必要になる。それを手際よく用意したのが他でもない、石田三成なのだ。

土木工事も滞りなく進んだと言い、この三成の活躍を間近で見ていたのが大谷吉継、真田昌幸、真田信繁(幸村)、直江兼続、佐竹義宣、長束正家、多賀谷重経らだった。そして面白いのは彼らは皆、関ヶ原の戦いで三成に味方しているという点だ。もし忍城の水攻めの失敗が三成の戦下手や不手際によるものであれば、名だたる名将たちが果たして天下分け目の関ヶ原で三成に味方しただろうか。

大谷吉継や直江兼続のように、三成と親しかった者が味方するのならばまだわかる。しかし秀吉に表裏非興の者とまで言わせた謀将真田昌幸が、戦下手の三成に果たして味方などするだろうか。いや、しないはずだ。真田父子はこの時に三成の手際の良さや、水攻めはすべきではないという三成の冷静な判断に接していたからこそ、関ヶ原では西軍の勝利を予測し三成に味方したはずだ。そうでなければ家を守るためには手段を選ばなかった真田昌幸が三成に味方する理由はない。

忍城内では実は離反の動きも少なくなかったと言う。そのような状態であれば力攻めをすればあっという間に城は落ちたはずだ。その情報も掴んでいたからこそ水攻めにより無駄な労力や無駄な出費をすることなく、忍城を力攻めにすべきだと三成は秀吉に進言したようだ。

結果的に忍城の戦いは天正18年6月17日から始まり、7月5日に小田原城が落ち、成田氏長がそのことを忍城に伝え開城を説得し、城を守っていた成田長親(のぼうのモデル)らが説得に応じ、7月16日に開城された。

忍城水攻めの失敗により三成を責めるべきではない。三成は秀吉に命じられた無理難題を実現させ、たった1ヵ月で28キロにも及ぶ堤を完成させたのだ。三成の手際の良さと政治力がなければ決してなしえなかっただろう。それなのに三成は水攻め失敗の事実を歪曲され、戦下手として周知されるようになってしまった。

なおこの堤は「石田堤」と呼ばれ、現在では行田市から鴻巣市にかけて250メートルだけ現存している。忍城水攻めでは、三成は本来であれば賞賛されるべき功績を残しているのだ。そして秀吉自身この水攻めの段取りは三成にしかできないと思ったからこそ、「水攻めについては全面的に任せた」という書状を三成に送っているのである。


ishida.gif石田三成は戦下手としてよく知られているが、実際はそんなことはなかった。石田三成の戦下手を強調する戦として忍城(おしじょう)の戦いと関ヶ原の戦いが挙げられるわけだが、特に忍城の戦いでの失敗が三成の戦下手を有名にしてしまった。だがそう語っているのは徳川幕府が開かれたあと、江戸時代に書かれた書物なのだ。

石田三成と徳川家康は天敵同士だった。江戸時代に徳川幕府に取り入ろうとする者の多くが、三成批判を展開していた。中には三成の故郷である近江の石田村までわざわざ出向き、石田家の墓を破壊する者までいたと言う。つまり江戸時代に書かれた石田三成に関する事柄は信じてはいけないということだ。

さて、忍城の戦いというのは一般的にはそれほど有名な戦ではないが、映画『のぼうの城』と言えばピンと来る方が多いのではないだろうか。この戦は豊臣秀吉が北条氏を滅亡させた小田原征伐の一環だったわけだが、小田原城の支城であった忍城への攻撃を秀吉から任されたのが石田三成だった。ちなみに忍城とは現在の埼玉県行田市にある、関東七名城のひとつだ。

この忍城攻めを三成は、秀吉が備中高松城を攻めた時のように水攻めを行った。堤を築き周囲を水浸しにし、城を浸水させ開城を迫る戦い方だ。だが備中高松城攻めの時のように水攻めは上手くはいかなかった。堤が決壊してしまい、本来は城を攻めるはずの水が石田陣営に流れ込んでしまったのだ。この失敗により三成は戦下手であるとのちに語られるようになる。

だが事実は違う。繰り返すが三成の戦下手を流布させたのは江戸時代の語り部たちだ。実は三成は忍城は水攻めにすべきではないと秀吉に進言していた。その理由は忍城の周辺は元々湿地帯で、過去洪水が起こっても城に被害が及ぶことはほとんどなかった。なぜなら忍城は湿地帯の中心にある孤島のような丘に築かれており、例え洪水が起こったとしても城が沈むことはないのだ。実際に忍城を見てそれがわかったからこそ、三成は水攻めはすべきではないと進言したのだ。

実は三成は共に忍城を攻めた浅野長吉(秀吉の死後に長政に改名)に対し「力攻めをすべきだが、諸将は水攻めと決めかかっており戦意を失っている」という趣旨の書状を天正18年(1590年)6月12日に送っている。さらにその後7月3日には秀吉が長吉に対し「とにかく水攻めをし、水攻め以外で攻めた将は処罰す」という書状を送っている。秀吉は三成に対しても6月20日に書状を送り、堤の図面などを提出させ自ら指揮を執る姿勢を見せている。

つまり忍城水攻めは三成は反対していたのだが、秀吉が水攻めにこだわったことにより行われた攻城だったのだ。三成は始めから力攻めをして一気に方をつけべきだと言い続けていたのだ。なぜなら石田勢2万3千に対し、忍城の守勢は3千程度だったからだ。

ではなぜ秀吉はこの時水攻めにこだわったのか?それは諸大名に対するパフォーマンスだったと考えられている。水攻めというのは大量の人員と莫大な費用がかかる。秀吉はそんな水攻めを行うことにより動員力と財力を見せつけ、諸大名の反抗心を減退させようとしたのだ。要するに水攻めが成功しようが失敗しようが関係なかったのだ。秀吉は動員力と財力を見せつけられればそれで良かったのである。