「姉川の戦い」と一致するもの

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NHK大河ドラマ『真田丸』でも頻繁に登場している豊臣秀次は、幼い頃より死ぬまで叔父秀吉に翻弄される人生を送り続けた。こうまでも自分の好きなように生きられなかった戦国武将も珍しいのではないだろうか。武芸や習い事にも真面目で非常に有能な武将だったのだが、最後は殺生関白と呼ばれるようになってしまい、その有能さを活かすことをできずに28歳という若さで秀吉に切腹を命じられてしまった。


豊臣秀次という人物は永禄11年(1568年)に三好吉房と秀吉の姉である智(とも)との間に生まれた。生年は詳細に記録されていないようだが、後年に残された書状などから逆算をすると、永禄11年生まれが最も有力であるようだ。

ちなみに父親である三好吉房という人物は何度も改姓をしており、最初は木下弥助、その後長尾を名乗り、三好吉房、三好昌之と名を変え、秀次が秀吉の養子となった後は羽柴を名乗っている。

豊臣秀次は28年の生涯で三度も養子に出されている。最初は宮部家だった。宮部とは、浅井長政の臣下であった宮部継潤のことだ。姉川の戦いに至る前、羽柴秀吉は浅井家臣下の調略に当たっていた。その調略をスムーズに進めるための駒として、秀吉は甥である秀次を宮部継潤の猶子(相続権を持たない養子)とした。

姉川の戦いは元亀元年(1570年)であるため、秀次はまだ2歳ということになる。ちなみに秀次の幼名などは記録に残されておらず、最初に名前が出てくるのは次に養子に出された先での名前、三好孫七郎信吉としてとなる。

宮部継潤と秀次の養子関係は、遅くとも天正9年(1581年)、秀次が13歳の頃には解消されていたようだ。その理由は宮部継潤が秀吉に厚遇されており、養子関係を結ばずとも両者の関係が良好であったためだ。

その後、四国の長曾我部元親と織田信長との関係が悪化してくると、秀吉は四国攻めのための調略に当たるようになる。その時にしっかりと味方に引き入れておきたかった存在が三好康長だった。三好康長とは三好長慶の叔父に当たる人物で、阿波国の有力者だった。長曾我部を攻めるにあたり、阿波国の三好康長をしっかりと懐柔しておきたかったのである。

その調略の道具として、再び秀次は利用された。秀次がまだ13〜14歳の頃になるわけだが、今度は三好家に養子に出され、三好孫七郎信吉と名乗るようになった。一説では天正7年(1579年)の段階で三好家の養子になっていたともされているが、この頃の三好康長はすでに信長に降っており、織田家と長曾我部家の対立もなかったため、秀次を三好家の養子に出す理由がない。そのため近年の史家の研究では、実際に養子となったのは織田家と長曾我部家の対立が鮮明になった天正9年秋頃という見方が有力とされている。

だが両家の対立も、本能寺の変によって回避されることになり、秀次が三好を名乗った期間も短く終わった。そして天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いの後、16歳になると羽柴孫七郎信吉と名乗り、その直後に羽柴孫七郎秀次と名乗るようになっている。こうしてようやく秀次は羽柴一門に戻ってきたのである。

16歳までの秀次はこのように、秀吉の都合によって他家へ養子に出される日々を過ごしていた。こうして見ていくと秀吉は秀次に対しそれほど愛情は持っていなかったのだろう。確かに戦国の世では養子に出されることは珍しいことではないが、しかし28年の生涯で三度も養子になることは珍しい。三度目はもちろん実子を幼くして亡くした秀吉の養子としてだ。

秀吉が甥っ子に対してそれほど愛情を持っていなかったからこそ、戦略上の都合で簡単に養子に出しては戻すということを繰り返したのだろう。そしてだからこそ秀吉は、豊臣秀次に対しあれほど惨い最期を遂げさせた。文禄4年(1595年)7月15日に秀次を自害させると、8月2日には京の三条河原で秀次の妻子を全員処刑してしまった。

この秀次の死が、豊臣家を秀吉一代で衰退させてしまった最大の要因だとされている。もし秀次を自害させていなければ秀吉死後、幼い秀頼が家督を継ぐこともなく、立派な武将に成長していた秀次が豊臣家を継ぐことにより、徳川家康に政権を奪われる隙も与えずに済んだと考えられている。
azai.gif朝倉からの助勢は朝倉景健の8000だった。これは織田への援軍である徳川5000と比較をすると3000も多い。ここだけを見ると、朝倉義景は本気で浅井を救いに行ったようにも見える。しかし事実は違う。朝倉義景は浅井を救うこと以上に、8000の軍勢をできるだけ消耗させずに連れ帰るようにと景健に命じている。

さらに徳川勢は当主である徳川家康が直参しているにも関わらず、朝倉義景は他で戦をしていたわけでもないのに義景自身が出陣してくることはなかった。つまり体裁を保つために8000という軍勢を送ってはいるが、義景自身はまったく浅井を本気で救う気はなかったようだ。織田の朝倉攻めでは浅井に助けられていたにも関わらずだ。もし義景が本気で浅井を救おうとしていれば、間違いなく義景自身が出陣していたはずだ。

元亀元年(1570年)6月28日午前4時頃、姉川の戦いは開戦された。まず戦ったのは徳川勢と朝倉勢だった。数の上では8000の朝倉勢が5000の徳川勢を圧倒しているわけだが、戦いはほとんど互角で膠着状態が続いた。一方織田とぶつかり合う浅井は必死だ。3万5000の織田軍に対し、自軍は僅かに5000の兵のみで打って出ている。だが5000の兵すべてを織田本陣に向けて突撃させた浅井勢の突破力は凄まじい。11段構えを敷いていた織田軍を次々と打ち破っていく。

このままでは信長は討たれてしまうのではないか、そう感じた家康は機転を利かせ、榊原康政に浅井長政勢の横を突かせた。突如として横を攻められ浅井勢は大混乱に陥る。信長の首にたどり着くまでもう少しのところで総崩れとなってしまった。

徳川家康は信長に対して大きな恩を売ることができ、逆に朝倉勢は何の役にも立たないまま足早に越前へと引き返していった。そして小谷城へと撤退する浅井勢を織田勢も追撃したが、長政を討ち取るには至らず、その足で横山城への再攻撃に転戦して行った。

こうして姉川の戦いはあっという間に終わったわけだが、浅井・朝倉の被害は甚大だった。まず長政は最も信頼していた重心である遠藤直経と弟の浅井政之ら、名だたる武将たちが討ち死にを果たした。そして朝倉勢も猛将真柄直隆らが討ち死にを果たす。真柄直隆と言えば長さ221.5センチ、重さ4.5キロという非常に長く重い真柄太刀で戦ったことでも有名な猛将だ。朝倉軍で多くの武功を立てた武将だったが、彼もこの戦いで討たれてしまった。

ちなみに「姉川の戦い」というのは徳川方の呼び名だ。それぞれの家記ではそれぞれが布陣した場所で呼ばれており、織田・浅井方では「野村合戦」、朝倉方では「三田村合戦」と呼ばれている。やはり後々歴史に残るのは滅んだ家の話ではなく、栄えた家の話であるようだ。

さて、姉川の戦いから2ヵ月経った9月、浅井・朝倉連合軍は態勢を整え、合わせて3万の軍勢で信長不在の京に攻め込んだ。織田・徳川、浅井・朝倉にとって姉川の戦いとは、これから始まる壮絶な戦いのまだ序章に過ぎなかったのである。


oda.gif朝倉攻めで義弟浅井長政に裏切られた織田信長は、猛烈な怒りを心の中で沸騰させていた。信長が最も許せないのは味方の裏切りであり、疑わしきは罰するという態度を常々示している。今回裏切られた相手は妹市を嫁がせた浅井長政だけあり、信長の怒りも沸点に達してしまった。

信長はまず、小谷城までの経路の確保に努めた。その任を仰せつかったのが羽柴秀吉であり、調略を担当したのが稲葉山城乗っ取り事件を起こした竹中半兵衛だった。この頃竹中半兵衛は客人として秀吉の陣に加わっており、軍師として活躍していた。半兵衛の活躍で堀秀村の調略に成功し、織田勢は難なく小谷城への経路を確保することができた。

元亀元年(1570年)6月21日、織田軍は浅井父子が立て篭もる小谷城を取り囲み、城下に火を放って回った。信長の作戦は長政を挑発し、野戦に持ち込むことだった。だが長政も愚将ではない。信長の作戦などすでに見通しており、挑発に乗ることはなかった。だが信長も長政が愚将ではないことをよく知っている。だからこそ愛する妹、市を嫁がせたのだ。

信長は第二の作戦に出た。長政にあえて背を見せ、背後から襲わせるという作戦だ。だがもちろんただ襲われるわけではなく、追撃に出てきた浅井勢を返り討ちにするための作戦だった。浅井勢は多少の追撃は見せたものの、しかし本格的に城から討って出ることはなかった。だが籠城戦に持ち込まれ、小谷城を陥すのに何ヵ月も、何年もかけるつもりは信長にはない。

信長は方向転換をし、支城である横山城の攻略へと向かった。小谷城からは6キロ程度しか離れていない、まさに目と鼻の先にある支城であり、信長はここを本拠にし本格的な浅井攻めを行う腹づもりだった。大方の予想通り横山城はあっさりと陥落した。そしてこの頃6月24日、織田軍には5千の兵を率いた徳川家康が加わった。

一方浅井方にも、8千の兵を率いた朝倉景健(かげたか)が援軍に駆けつけた。すると6月26日、織田軍4万+徳川軍5千、浅井長政5千+朝倉景健8千が大依山(おおよりやま)で対峙する形となった。4万5千と1万3千とではあまりに兵力に差があり過ぎる。だがこれを逆手に取ったのは長政だった。6月27日、この大差により一旦兵を引く姿を見せる。もちろんこれは長政の陽動作戦だ。織田勢を誘き寄せ、地の利を活かし戦うつもりだった。しかし信長がそんな戦術に乗ることはなく、織田勢が追撃に出ることはなかった。

6月28日、浅井・朝倉連合軍は結局姉川まで軍勢を進め態勢を整えた。そして川を挟み浅井の正面には織田、朝倉の正面に徳川が向かい合う形で布陣した。いよいよ姉川合戦の火蓋が切られようとしていた。


azai.gif浅井長政はなぜ義兄である織田信長を裏切り、姉川の戦いにより浅井家を滅亡に導いてしまったのだろうか。浅井長政は決して愚将ではなかった。武勇に優れ、文武両道の優れた武将だったと伝えられる。しかし反面、優柔不断だったことも伝えられている。果たして浅井長政は本当に優柔不断で、それにより浅井家を守ることができなかったのだろうか。

浅井賢政が、戦国一の美女と謳われた信長の妹、市を娶ったのは永禄10年(1567年)9月のことだった(時期については諸説あり)。これは浅井家と織田家を結ぶための、いわゆる政略結婚で、この婚儀を機に賢政は信長より一字拝し長政と改名している。ちなみに賢政という名は、かつては主従関係にあった六角義賢の賢をもらった名だった。

浅井家と織田家の関係は同盟当初は非常に友好なものだった。長政自身、信長の天下取りの助力となることを望んでいたともされている。だが唯一の懸念は、かねてより織田家と朝倉家の関係が悪いということだった。浅井家は朝倉家には大恩があった。そのため浅井家としては両者にはあまりいがみ合ってもらいたくはない。

そんな長政の思惑もあり、織田家と同盟を結ぶ際、浅井に断りなく朝倉を攻めないことを信長に約束させている。この約束により、例え織田家と朝倉家が一触即発状態になったとしても、間に浅井が入れば最悪の状態は回避できるはずだった。

浅井家と織田家の同盟については、実は浅井家の総意ではなかったようだ。先見の明があった長政には、今の時代では信長と手を結ぶことが浅井家を守る最良の手だとわかっていた。だが朝倉との仲を懸念する父、浅井久政や何人かの重臣はこの同盟には反対だったようだ。

しかし同盟を結ばなければ、美濃の斎藤が滅んだ後は浅井が織田に攻められることは明白だった。何故なら信長が尾張から上洛するためには、浅井家が支配する北近江を通らなければならない。もし浅井が道を空けなければ、信長は力づくで道を確保するはずだ。長政にはそれがわかっていたからこそ、久政が大反対をしても織田との同盟を推し進めたのだった。

このような点を見ていくと、浅井長政は決して優柔不断ではなかったように感じられる。むしろ積極果敢に未来を切り開こうとする才知溢れる武将のようにも見える。

浅井の協力もあり、信長は永禄11年(1568年)9月16日に足利義昭を奉じ念願の上洛を果たした。だがこの上洛が長政の頭を悩ませることになっていく。