「伊達政宗」と一致するもの

鉄砲隊の割合が多かった伊達隊の弱点と、それを利用して戦った真田幸村

大坂夏の陣で何らかの密約を交わしていた真田幸村と伊達政宗

慶長20年(1615年)5月6日、誉田(こんだ)の戦いで真田幸村(信繁)と伊達政宗は対峙した。誉田の戦いとは大坂夏の陣に於ける一戦で、誉田陵(こんだりょう・応神天皇が埋葬された古墳)周辺で繰り広げられた戦いのことだ。伊達政宗からすると道明寺の戦いで後藤又兵衛と戦った直後の真田隊との遭遇だった。道明寺の戦いでは伊達の鉄砲隊の前に又兵衛が壮絶な討ち死にを果たしている。

忍びからの情報で、伊達鉄砲隊の威力の凄まじさは幸村の耳にも入っていた。2800の後藤隊を壊滅させた1万の伊達隊はほとんど減っていない。まともに対峙をすれば3000の真田隊に勝ち目はなかった。この時の伊達隊は三分の一が鉄砲隊で、実はこれが強みであると同時に、一つの弱点にもなっていた。

火縄銃を連続して撃てるのは当時は最大でも20発程度だったらしく、それだけ打つと筒内に煤が溜まり、一度手入れをしなければ暴発の危険があった。幸村は、後藤隊と戦った際に伊達隊はすでにある程度鉄砲を消耗していたことを耳にしていた。そのため幸村は伊達隊にどんどん鉄砲を撃たせ、鉄砲を使えなくなるまで時間稼ぎをしたのだった。

鉄砲隊が主力だった伊達隊だけに、鉄砲が使えなくなると戦力が一気に低下してしまった。幸村にとっては敵将伊達政宗を討ち取る好機となった。だが幸村は後退する伊達隊を深追いすることはしなかった。その理由は、幸村が狙っていたのは徳川家康の首だけだったからだと伝えられている。だがそれ以上に、幸村と政宗の間に密約があった可能性があるのだ。

密約を交わしていた可能性がある真田幸村と伊達政宗

実は大坂夏の陣、徳川方として参戦していた伊達政宗は豊臣方への内通が疑われており、逆に豊臣方として戦っていた真田幸村は徳川への内通を疑われていた。その理由はかつて政宗に仕えていた家臣が出奔し、豊臣秀頼に仕えるようになっていたためだと伝えられている。しかもその家臣は一時は幸村の配下にも置かれていたようで、これにより幸村と政宗はいつでも連絡を取り合える状況にあった。この状況によりふたりは内通を疑われていたらしい。

いくつかの資料を読んでいると幸村と政宗は、家康の首を狙う密約を交わしていた可能性があるようだ。そのために誉田の戦いで政宗は真田隊を攻め切らず、幸村も後退した伊達隊を深追いすることはしなかった。何らかの密約があったからこそ、ふたりは本格的にぶつかり合うことを避けた可能性は否めない。

真田隊を中心にして豊臣方も善戦を繰り広げた。だが八尾・若江にて豊臣勢が壊滅させられたため、誉田で戦っていた豊臣勢は大阪城への撤退を余儀なくされる。この時に殿(しんがり)を務めたのは真田隊だったわけだが、全滅させられる可能性が高い殿であるにもかかわらず、伊達隊は真田隊を逆に追うことはしなかった。本来であれば殿隊は敵に背を向けながら戦うため、追う側とすれば簡単に壊滅させることができる。だが政宗はそうはしなかった。

真田幸村は大阪城に戻ると、次男と4人の娘たちを政宗の元へと送り届けた。そして実際政宗は幸村の子を引き取り保護している。ふたりの間に密約がなければ、このようなやり取りが行われることもなかったはずだ。どんな内容だったにせよ、幸村と政宗の間に何らかの密約があったことは、やはり間違いないのではないだろうか。ではその密約の内容とは?戦国時代に同盟を結ぶ理由は二つしかない。お互いの利害の一致と、家を守るためだ。

父昌幸の代から天敵だった徳川家康と、天下取りを狙った伊達政宗

真田幸村は父昌幸の代から天敵であった徳川家康を討ち、自らの名を後世に残すことを目的としこの戦いに挑んでいた。一方伊達政宗は未だ野心を捨て切れず、隙あらばと天下を虎視眈々と狙っていた。つまりこの戦いで家康が敗れれば、両者ともに大きな利益があったというわけだ。

いくつかの資料、書籍でも書かれているように、ふたりはきっと家康を討つための密約を結び、そしてそれが上手くいかなかった時の手筈まで整えていたのだろう。だからこそこの大戦のさなか、幸村は5人の子どもたちをすんなりと政宗の元へ送り届けることができた。

だがこの大戦に関する作戦はまったく上手くいかなかった。豊臣方は所詮は浪人の寄せ集め集団であり、しかもその頂点に立っていた司令官は戦に関しては素人同然の淀殿だった。このような烏合の衆が戦上手の徳川軍に勝てる可能性など最初からなかったのだ。だからこそ幸村や又兵衛が善戦を見せても、別の場所ではすぐに豊臣勢は壊滅させられてしまい、幸村は大阪城に戻るしかなくなってしまった。つまり例えで幸村と政宗の共闘で家康を討つという作戦があったとしても、幸村が大阪城に戻らなければならなくなったこの時点でその作戦は破綻していたことになる。

伊達政宗のお陰で最後まで家康を悩ませ続けた真田幸村

先にも述べたように殿を務めた幸村を、政宗は追撃しなかった。政宗の娘婿である松平忠輝は、政宗に加勢し真田を追撃すると申し出たようだが、政宗はそれを断っている。もしかしたら命を落とす可能性が高い殿を務める幸村を、無事大阪城に戻すために政宗はあえて加勢を断ったのかもしれない。だが今となってはその真実は誰にも分からない。

大坂夏の陣では、徳川方は必ずしも一致団結していたわけではなかった。家康のやり方が気に入らない武将も多く存在しており、この戦いでも豊臣方に内通する機会を窺っていた武将も多かったと言う。だが豊臣方が想像以上に脆く崩れてしまったために、将たちは寝返る機会を失ってしまった。

豊臣方は大阪城まで撤退を強いられる状況になってしまったわけだが、前年の大阪冬の陣とはわけが違った。大阪城の防御は大坂冬の陣の停戦協定により根こそぎ取り壊されており、城の防御能力はないに等しかった。冬の陣で徳川方を苦しめた真田丸の存在も、この時にはもはや過去の話となっていた。

慶長20年(1615年)5月7日、つまり幸村と政宗が対峙した翌日、天王寺の戦いにて幸村は家康本隊を猛攻するも、3000の軍勢では徳川の大軍の前にすぐに力を失ってしまった。この時の真田軍の猛攻にはさすがの家康も死を覚悟したと伝えられている。真田幸村は最後の最後まで家康を苦しませた。かつては上田合戦で、前年は真田丸で、そして大坂夏の陣では天王寺の戦いでまた。

しかし数で圧倒された真田隊は善戦を見せるも松平忠直の部隊によってすぐに壊滅させられてしまい、幸村はそこで壮絶な討ち死にを果たしている。天王寺の戦いで力尽きるまで刀を振るい続けた幸村だが、それもやはり子どもたちが政宗によって保護されたからこそ、心置きなく戦えた結果だったのではないだろうか。

真田幸村のために口を閉し続けた伊達政宗

大阪冬の陣、夏の陣以前より真田家は徳川家の天敵であり、一方の伊達家は徳川に従属していた。つまり幸村と政宗は立場上では完全なる敵同士だった。だが同じ年齢であるふたりは、何かを切っ掛けにしお互いに興味を持ち、人知れず友情を育んでいたのかもしれない。

それが幸村の死後、政宗の口から語られることはなかったわけだがそれは当然だ。敵である幸村と密約をしていたことが公になれば、政宗もただでは済まされない。家康によって切腹を命じられたかもしれないし、伊達征伐軍を奥州に送られていたかもしれない。だからこそ政宗は固く口を閉ざしたわけだが、閉ざしたからこそ幸村との間に何らかの密約があったと想像する方が自然だとは言えないだろうか。

その真実は今となっては誰にも分からないわけだが、ふたりの英傑がこうして繋がっていたと考えることは、歴史好きにとっては果てしなく大きな浪漫とは言えないだろうか。

真田幸村

年配に多い豊臣秀吉信奉者と、若者に人気の真田幸村

2016年NHK大河ドラマ『真田丸』の主人公としても注目されていた人物、真田信繁こと通称幸村。真田家は大名と呼ぶことはできない土豪出身の一族であり、常に時の有力大名に臣従することにより家を守ってきた。信長、秀吉、家康のように天下を動かしたわけではなく、歴史を動かすような特別大きな武功を挙げたわけでもない。それなのに真田幸村という人物は、今なお歴史ファンから愛された存在で居続けている。

筆者の個人的感想を言わせてもらえるなら、第二次大戦を経験している年代は特に豊臣秀吉が好きな方が多い印象がある。特に中国との戦争を体験していたり、それをよく知る世代の方は秀吉を尊敬しているという方が多い。これには理由があり、かつての大日本帝国軍が中国に侵攻した際、日本政府は豊臣秀吉を英雄として担ぎ上げていた。その理由は戦国時代に秀吉が朝鮮に侵攻していたためだ。当時の日本政府は秀吉を祭り上げ、中国への侵攻を正当化しようとしていたのだ。いわゆるプロバガンダだ。

その影響からか、年配の方に秀吉を尊敬している方が多いように感じられる。だがそれよりも若い世代となると、義に厚く、散り樣が見事だった武将の人気が高まってくる。その中でも一番人気がある人物のひとりが真田幸村だ。

父とは逆に義を貫き散っていった真田幸村

真田幸村の父昌幸は、謀略を得意とする知将だった。謀(はかりごと)が何よりも得意で、真田家を守るためであれば義など二の次だった。事実昌幸は秀吉から「表裏非興の者」と呼ばれ、仕える相手をその時々の都合により目まぐるしく変えていくことを揶揄されている。だが昌幸はそんなことお構いなしとばかりに、真田の家を守ることだけに注力していく。

一方の幸村は義に厚い人物として知られている。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、大坂城で最も守備が弱いとされていた南側の守りを受け持ち、かの有名な真田丸という丸馬出(まるうまだし/城の出入り口外側に作られた半円状をした、守備用の土塁)で徳川勢を大いに苦しめた。

この時の豊臣方は家康に対し疑心も持っていたり、豊臣家にかつて仕えていた浪人が中心で、10万という大軍だったと伝えられているが、しかし団結していたかといえば決してそんなことはなかった。まさに寄せ集め集団で、戦術さえもまともに話し合えないような状況だった。それでも幸村は豊臣への恩顧があったため、浪人の身でありながら豊臣勢として大坂城に駆けつけた。

そして慶長20年の大坂夏の陣では、豊臣方敗色濃厚という状況で豊臣方を見限る武将も多かった中、幸村は最期まで豊臣勢として戦い続けた。3,000の幸村勢は、1万の大軍を率いる伊達政宗の侵攻を防ぐなど奮闘し、さらには家康の本陣に肉薄する猛攻を見せるも、しかし真田軍に続く豊臣方の味方がおらず、最後にはとうとう徳川方の大軍の前に力尽きてしまった。

このように義を貫き通し、最期は桜のように見事な散り樣を見せた幸村の姿が、戦国ファンの心を惹きつけてやまないのであろう。戦国時代記では、これから真田幸村の生き様を深く掘り下げていきたいと思う。

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戦国時代には戦をする際、主に8つの基本陣形があったとされている。いわゆる「戦国の八陣」と言われているものだ。しかしこの陣形はあくまでも基本的な考え方であり、戦で毎回必ず実践されていたという事実はない。江戸時代後期の軍学者などはこの八陣についてかなり研究をしていたようだが、しかし戦国時代はほとんど使われていなかったと考えるのが自然だ。


戦国時代の戦というのは、少なくとも数千人規模で行われていた。多い時では10万人を超すこともある。10万人と10万人が戦う戦となると、途方もない大規模な戦となる。そして1000人と1000人による戦であっても、これも決して少人数とは言えない。

現代のように拡声器や、スマホのような連絡手段があるわけでもない。ほとんど声の伝達により指示は伝えられていた。しかもほとんどの戦で兵は専任ではなく、農作業をしながら戦う者たちばかりだった。つまり足軽隊などは、ほとんど訓練されていないに等しい。

そのような状況で、例えば歴史ドラマでもよく登場する「鶴翼の陣」などをきれいに敷けるはずがないのだ。そして何よりも場所が問題だ。数千人、数万人規模で陣形を整えるとなると、東京ドーム何個分もの広大な平野が必要となる。しかし戦国時代はそこまで平野ばかりの場所で戦うケースは非常に少なかったと考えられる。

武田信玄などは陣形を整えるのが得意だったとも言われているが、しかし甲州の山ばかりの土地で陣形をきれいに整えて戦うことはほとんど不可能だ。そのため戦国の八陣はあくまでも基本的考え方であり、実際に用いられるケースはほとんどなかった。

その代わり、隊列にはどの武将もかなりこだわりを持っていたようだ。つまり足軽、騎馬隊、鉄砲隊などの割合と並び方だ。これによって各武将自らの戦闘スタイルを構築していった。面白いのは伊達政宗だ。政宗は鉄砲騎馬という新しい形を生み出した。

それまでの鉄砲隊は隊列を組んで、何枚かに分かれて入れ替わり順に撃っていくという形だったのだが、政宗は鉄砲隊を騎馬に乗せてしまった。これにより破壊的な突破力を得ることに成功した。これを初めて実験的に導入したのが大坂夏の陣だった。

このように戦国時代の戦では実際には八陣よりも、隊列や編成を工夫することの方が重要だったのだ。八陣が用いられるのは広大な平野で行われる戦にほとんど限定されていた。そして陣形よりも地形の方が重要であることを理解していたからこそ、織田信長や真田信繁はいつも馬に乗り地形の調査を行っていたのだ。

逆に地形をまったく理解せずに戦ってしまうと、厳島の戦いで大軍を率いたにもかかわらず、寡兵の毛利元就に敗れた陶晴賢のように、大軍が狭い土地に追い込まれて身動きが取れなくなってしまうこともあった。そのようなミスを犯さないためにも、戦国時代の戦は陣形以上に地形が何より重視されていたのである。
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慶長19年11月(1614年)、大坂冬の陣が勃発した。この直前、真田信繁(幸村)は関ヶ原の戦いで西軍に味方したことにより、徳川家康から九度山(高野山)への蟄居を命じられていた。実に10年以上にも及ぶ九度山生活だったわけだが、しかし家康の本音は、自らを大いに苦しませてくれた真田昌幸・信繁父子の処刑だった。


家康はふたりの処刑を強く望んでいたようだが、関ヶ原の戦いでは昌幸・信繁とは袂を分かち東軍に味方した真田信之(信繁の兄)、そして信之の舅である本多忠勝(徳川四天王)の説得により処刑は考え直し、高野山への配流という形で決着させた。昌幸は九度山からも再起を図ろうと苦心したが、しかし1611年、65年の生涯を九度山で閉じてしまう。

父昌幸を亡くした3年後、信繁の元に大坂城に入って欲しいという要請が届いた。つまり大坂冬の陣が始まるにあたり、豊臣側に味方して欲しいという参陣要請だ。この要請を信繁は快諾し、再び徳川を敵に回し戦う覚悟を固めた。父昌幸の無念を晴らすためにも。

NHK大河ドラマでも描かれる真田丸とは、この大坂冬の陣に登場する防衛線のことなのだが、そもそも信繁はなぜ真田丸を作らなければならなかったのか?そしてなぜ寡兵でその真田丸に篭り戦わなければならなかったのか?

大坂城には10万人にも及ぶ兵が集まったのだが、しかしこれは烏合の衆と呼ばざるを得ないものだった。絶対的な大将がいるわけではなく、豊臣勢を率いたのは21歳と若く経験も浅い豊臣秀頼で、しかも実権を握っていたのは淀殿だったとも言われている。そのため軍勢にはまとまりがまったくなく、戦略に関しても特に真田信繁と大野治長の間で意見が割れていた。

信繁と後藤又兵衛は出撃論を展開していたが、大野治長は籠城して徳川軍を疲弊させてから戦おうと主張した。信繁・又兵衛案には多くの武将が賛同したようだが、結局は淀殿と親しかった治長の主張が通ってしまう。だが信繁は出撃することで勝機が生まれるという確かな勝算を持っており、何とか大阪城の外で戦う道を模索した。

実は真田丸は、最初から信繁が作り上げたものではなかった。信繁が大坂城に入った頃にはすでに形が出来上がっており、入城後に普請を引き継いだ信繁が改良を加え真田丸として完成させたものだった。そして従来は大坂城に隣接する丸馬出しとして認識されていたが、しかし近年の史家の研究によれば、実は大坂城から200メートル以上も離れた場所に作られた独立砦だった可能性が高いらしい。

つまり大坂城への敵兵の侵入を防ぐのではなく、敵兵をすべて引き寄せ大坂城に近づけさせないための役割を真田丸は持っていたと言うのだ。これに関しては『翁物語』にも記されており、幸村の甥である真田信吉が信繁の陣中見舞いをした際「城より遥かに離れ予想だにしない場所に砦を構えたのは、城中に対するお気遣いあってのことなのでしょう」と信吉が信繁に対し語ったとされている。この信吉の言葉を信じるならば、やはり真田丸は大坂城からはかなり離れた場所に作られた砦だったのだろう。

200メートルも離れていては、当然火縄銃や弓などで援護を受けることはできない。信繁はまさに孤立無援状態で真田丸に篭り、徳川勢を撃退したようだ。以前、父昌幸が上田城で家康を苦しめた時のように。

大坂冬の陣、真田丸の前には前田利常(利家の息子)、藤堂高虎、伊達政宗ら、錚々たる武将たちが15軍団以上対陣した。しかし信繁は彼らを一切大坂城に近づけることなく、大坂城唯一の弱点と言われていた南方を最後まで守り抜いた。家康は総勢20万とも言われる兵力で大坂城を攻めたわけだが、その被害は甚大だった。そして徳川方の戦死者の8割は真田丸攻防戦によるものだったと伝えられている。

上田合戦では二度も家康を苦しめ、大坂冬の陣でも信繁は大いに徳川勢を苦しめた。この結果を見るならば関ヶ原の戦い直後、家康が昌幸・信繁父子を処刑したかったという気持ちもよくわかる。ふたりを生かしておけば、また自らを苦しめることになると家康はきっとわかっていたのだろう。
sanada.gif真田幸村は生涯、側室を含めて4人の妻を持ったと伝えられている。その最初の妻は真田家の家臣である堀田作兵衛の娘だと言われている。ただこれには娘ではなく妹説もあり、NHK大河ドラマ『真田丸』では妹として設定されている。

なぜ娘説と妹説があるかと言うと実は堀田作兵衛は父親も堀田作兵衛だったのだ。そのため父と息子が混同さてしまい、父の娘説と、息子の妹説が混同されることになってしまった。とは言えこれは紹介の仕方の違いであり、娘でも妹でも別人というわけではない。父の娘は息子の妹であり、息子の妹は父の娘だからだ。

つまり堀田作兵衛の娘、もしくは妹説というのは、堀田作兵衛は父も息子も同じ堀田作兵衛を名乗ったということを前提に考えなければならない。堀田作兵衛シニアと、堀田作兵衛ジュニアだ。シニアとジュニアがいたということがわかれば、娘説でも妹説でも同一人物だということがわかる。

そしてこの堀田作兵衛の娘(妹)は幸村との間に長女阿菊(おきく)を身籠った。ちなみに大河ドラマでは堀田作兵衛の娘は「梅」として登場している。なお阿菊は後に石合十蔵重定という信濃の郷士に嫁いでいる。

次女於市(おいち)と三女阿梅(おうめ)を生んだのは真田家の重臣であった高梨内記の娘だ。大河ドラマでは「きり」として登場している。於市は早世(早死)してしまうが、阿梅は後に伊達家の重臣で白石城主であった片倉重長の後妻になっている。大河ドラマではきりとお梅が親友という設定になっているが、この縁があって後々きりは自分の娘に阿梅と親友の名を付ける設定になっていくのだろうか?!

続いて四女あぐり、嫡男幸昌、六女阿菖蒲(おしょうぶ)、七女おかね、次男守信を生んだのは竹林院(ちくりんいん)だ。言わずと知れた大谷吉継の娘(姪説もある)だ。幸村のもとで初めて男の子を産んだため正室になったと伝えられている。

四女あぐりは三春城主蒲生郷喜の子の妻となり、六女阿菖蒲は伊達政宗の家臣片倉金兵衛の妻に、そして七女おかねは尾張犬山城主石川貞清に嫁いだ。

五女御田姫は隆清院(豊臣秀次の娘)を母に持ち、後に出羽亀田城主岩城宣隆の妻となった。そして隆清院は幸村の死2ヵ月後に三男幸信を産んでいる。

なお大坂夏の陣で幸村が伊達政宗に保護を頼んだのは三女阿梅、六女阿菖蒲、七女おかね、次男守信ともうひとりの子だった。その縁から阿梅、阿菖蒲は伊達家の家臣の妻となり、次男真田守信も伊達家に召し抱えられている。

このように真田幸村は生涯、少なくとも4人の妻を持ち、少なくとも10人の子を持っていた。少なくとも、と書いたのは他にも記録には残っていない側室がいた可能性があるためだ。

大河ドラマでは梅以外に妻を娶る気はない、と語っている幸村ではあるが、しかし実際には戦国の世では当たり前とされていた側室を何人も持っていたのである。

堀田作兵衛の娘(もしくは妹、大河ドラマでは「梅」)
子:長女阿菊

高梨内記の娘(大河ドラマでは「きり」)
子:次女於市、三女阿梅

竹林院(大谷吉継の娘、正室)
子:四女あぐり、嫡男幸昌、六女阿菖蒲、七女おかね、次男守信

隆清院
子:御田姫、三男幸信