羽柴筑前守秀吉(はしば ちくぜんのかみ ひでよし)とその弟羽柴小一郎秀長は、天正6年に播磨の三木城主である別所長治を攻めて以来、信長から中国地方を制圧するための大将に任じられていた。まず備前(岡山県南東部)・美作(岡山県北東部)を守護していた宇喜多直家を服従させ、さらに播磨(兵庫県南西部)・但馬(兵庫県北部)・因幡(鳥取県東部)を加えた計5ヵ国による軍勢で、天正10年3月15日(1582年)、備前の冠城を攻撃した。
冠城に立てこもる毛利軍も守備を固くし奮戦していたが、秀吉は最初から、抵抗に遭い損害が出たとしても力攻めでこの城を落とし、力の差を毛利、そして味方5ヵ国の軍勢に見せつける腹づもりだった。
秀吉は先陣として杉原家次(秀吉の正室おねの叔父)、仙石権兵衛秀久、荒木重堅(もともとは荒木村重の家臣だったが、村重離反後は秀吉に仕え、のちに木下を名乗る)を送り込み、陣を敷かせた。彼らは水際から攻め入り、重要拠点を押さえていった。この功績に秀吉は満足し、彼らに馬や太刀を褒美として与えた。
実は冠城からは秀吉に対し幾度となく使者が送られていた。だが彼らの懇願を秀吉は受け入れることはせず、大軍で冠城を力攻めし、城内の者の首をことごとく切っていった。
冠城を落とすと秀吉は間髪入れずに河屋城(岡山市北区)を取り囲んだ。するとあまりの大軍に城を守っていた河屋氏(土豪)は恐れをなし、すぐに鎧兜を脱ぎ、毛利の援軍を待つことなく降伏した。これにより秀吉は河屋氏を助命し、追放するだけで終わらせた。
惟任退治記全文掲載
- 中国地方攻略の大将を任された羽柴秀吉
- 冠城を問答無用の力攻めで落とす
- 間髪入れず落とされた河屋城