『惟任退治記』とは、天正10年(1582年)10月15日に行われた織田信長の葬儀の直後、織田信長がどのようにして明智光秀に討たれ、どのようにして羽柴秀吉が光秀を討ち信長の仇を取ったのかということを、秀吉が大村由己(おおむらゆうこ)という御伽衆に書かせた軍記物だと伝えられている。軍記物とは現代でいうところの歴史小説のようなもので、ノンフィクションではなく、フィクションも多分に含まれている。そのため歴史研究においては、ノンフィクションのみが記されていると思われる日記や書状などを一次資料と呼ぶのに対し、フィクションも含まれている軍記物は二次資料と呼ばれている。
ただ、軍記物といっても100%フィクションというわけではなく、史実通りのことが書かれていることが多いのは現代の歴史小説と同様だった。ただ、書いた者や書かせた者の主観が含まれることが多いため、事実が捻じ曲げられていたり、物語そのものが創造されていることも多い。だがそのあたりを踏まえて読んでいくと、軍記物は歴史ファンにとっては非常に楽しめる読み物だと言える。今回、戦国時代記では『惟任退治記』という、12編からなると言われている『天正記』の1編を、現代語訳どころか、現代小説風に書いてみたいと思う。言葉遣いなどはまさに現代小説風になっていくが、書かれている内容や意味は、原文通りにし、筆者の脚色等は一切排除した内容にしていきたい。
惟任退治記(1)皇居が移動して来たかのように賑わう安土城
世間というものは栄えたり衰えたりということを繰り返すことによって成り立っている。南山(なんざん:高野山のこと)の春の花は咲き誇ったかと思えば逆風により散っていき、東嶺(とうれい:京都の東山のこと)に美しい秋月が見えたかと思えば厚い雲がそれを覆い隠してしまう。そして力強く根を張る樹齢長き松の木でさえも伐採されることを自ら避けることはできず、寿命万年といわれる亀でさえもいつかは死んでしまう。また、朝顔の花に落ちる露や、荘子が見たという自ら蝶となり花の上で100年遊んだという夢の目覚めのように、世の栄華というのは実に儚い。
亡くなった後に太政大臣に叙せられた織田信長公は、長きにわたり日ノ本のリーダーとして国家を主導してきたが、その亡くなる前、信長公は近江の安土山に城郭を築いた。大きな石で土台が作られた建物の屋根が連なり、天守閣は天まで届きそうなほどに高くそび、それら煌びやかな建物が鏡面のような琵琶湖の水面に映り、その美しさは言葉で表すことなどできない。
恐れ多くも正親町天皇をはじめとし、朝廷に仕える公家たちも身分の上下問わず、毎日のように信長宛てに連絡を入れ、続々と安土城に集まってきた。その様子はまるで皇居が安土城に移動して来たかのようだった。三管領と呼ばれた室町幕府の名家、斯波家、細川家、畠山家の人間で、信長公を崇拝しない者は誰一人としていない。そして信長公は彼らと、100羽の鷹を集めて鷹狩りに出かけたり、千とも万とも言われた数の馬を集めて馬揃え(軍事力を誇示し諸大名に力を見せつけたり、軍の士気を高めるために行われた一大行事)を行った。
朝廷の者たちは、私欲のない清らかな政治を志し、曲がったことは正すと言いながらも、夜になると奥に控えていた3000人の美女たちを欲しいままにした。正しいことを行うと言いつつ毎夜催された宴は、いくら楽しんでも尽きることがなかった。唐(とう:中国の王朝名)の玄宗皇帝が所有していた温泉付きの驪山宮(りざんきゅう)や、洛陽(らくよう:中国河南省の非常に栄えていた都市)の上陽殿(宮殿)の娯楽でさえも、安土城の物ほどではなかっただろう。
惟任退治記全文掲載
- 織田信長が死ぬ直前に作った安土城
- 皇居が移動して来たように賑わう安土城
- 毎夜美女を欲しいままにする公家たち