「惟任退治記」と一致するもの

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戦国時代に使われていた名前は、生涯のうちで何度も変わることも多かった。例えば豊臣秀吉などは、若い頃は木下藤吉郎、その後木下藤吉郎秀吉、羽柴秀吉と変わり、最後は天皇から苗字を賜り豊臣秀吉と名乗った。今回は戦国時代の名前、呼び方について少し書き留めておきたい。

諱は時の権力者から一字もらうことが多い

戦国武将たちがまず与えられる名前は幼名(ようみょう)だ。幼名とはその名の通り生まれてすぐ付けられる名前のことで、織田信長であれば幼少期は吉法師、真田信繁であれば弁丸と名乗っていた。13歳を過ぎると男子は元服していくのだが、元服をするまではこの幼名を名乗ることになる。

元服をすませると諱(いみな)と、烏帽子親(えぼしおや)によって仮名(けみょう)が与えられる。「真田」が苗字、「源次郎」が仮名、「信繁」が諱、ということになり、諱は時の権力者などから一字もらうことが多い。信繁の場合は武田信玄から一字もらった形だ。

織田信長のことを「信長様」と呼ぶことは非常に失礼なことだった

官位を持っていない武将の場合、仮名で呼ばれることが一般的で、諱で呼ばれることはほとんどない。特に位の高い相手を諱で呼ぶことは失礼に当たり、「信長様」と呼ぶことはまずない。信長は晩年右大臣に就いていたのだが、その役職から信長は「右府(うふ)様」と呼ばれていた。

なお諱というのは元々は、生前の徳行によって死後に贈られる称号のことで、諡(おくりな)とも言われる。漢字も本来は「忌み名」と書くことから、相手を諱で呼ぶことはほとんどなかった。真田源次郎信繁は「源次郎」、竹中半兵衛重治であれば「半兵衛」、黒田官兵衛孝高であれば「官兵衛」と仮名で呼ばれていた。ちなみに信長の仮名は三郎だ。

テレビではわかりやすいように諱で呼ばせている?!

例えば石田三成はテレビドラマなどでは「治部少(じぶのしょう)」や「治部殿」と官途(かんど)で呼ばれているが、やはり諱で呼ばれることはななく、官職が与えられる前は仮名である「佐吉」と呼ばれていた。

テレビドラマでは時々、諱で「信長様」「秀吉様」と呼ぶ場面が見られるが、実際にそう呼ばれることはなかった。ドラマの場合は視聴者にわかりやすいように、あえて諱で呼ばせているのだろう。だが大河ドラマなど、最近のドラマでは比較的官途が使われていることが多いように感じられる。例えば徳川家康のことも「内府(だいふ)殿」と呼ばせることが多い。

家康を内府(ないふ)殿と呼ぶのは実は間違い!?

なお治部少(じぶのしょう)というのは明での読み方となる。日本語では「おさむるつかさ」と読むようで、戦国時代当時は役職を唐名(とうみょう)で読むことが一般的だった。現代に於いては、最高経営責任者のことをCEOと英語で呼ぶようなものだ。また、徳川家康のことを内府(ないふ)と呼んでいるドラマもあるが、これは恐らくは間違いだと思う。内府(ないふ)というのは明治憲法下での呼び方であり、戦国時代では内府(だいふ)と唐名で呼ぶのが正解だ。

羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち、その経緯を記した軍記物(現代で言うところの歴史小説)を書かせた際、題名は『惟任退治記』だった。この頃の明智光秀は、惟任日向守光秀と名乗っていた。惟任とは天皇から与えられる氏(うじ)であり、源、平、藤原、橘、豊臣などと同じ部類のものとなる。主君信長を討った光秀のことさえも諱では呼ばず、氏で呼んでいることから、やはり当時は諱で呼ぶことが相当憚られていたのだろう。ちなみに光秀の仮名は十兵衛だった。

最後に付け加えておくと、この諱によって引き起こされた事件があった。方広寺鐘銘事件だ。この事件がきっかけで大坂冬の陣が勃発したわけだが、この時は豊臣方が鐘に「家康」と諱を使ったことを理由にし、家康は大坂城を攻める口実としている。

toyotomi.gif天正10年(1582年)6月2日、本能寺で主織田信長が討たれたことを知ると、羽柴秀吉は逆臣明智光秀を討つために中国大返しを敢行した。この時秀吉は備中高松城の毛利氏を攻めていたのだが、本能寺での事件を知るや否や毛利との和睦を締結し、急ぎ明智攻めへと転戦していった。

だが明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』を読むと、秀吉が本能寺で事件が起こることをあらかじめ知っていたであろう証拠が並べられている。その内容はどれも納得がいくものばかりで、こうして証拠を並べられると疑う余地もない。

そもそも織田と毛利はそれほど険悪な状態ではなかったようだ。毛利に天下を狙う意志はなく、領地安堵のみを望んでいた。そのため毛利から積極的に戦を仕掛けることもなく、定説で言われているような一触即発状態ではなかった。そして和睦そのものも本能寺の変が起こる以前より下交渉を行われており、羽柴方の黒田官兵衛と毛利方の安国寺恵瓊との間ではほとんど合意に至っていたらしい。

テレビドラマや小説ではドラマティックに仕立てるため、本能寺の変が起こった後に急いで和睦交渉を行ったように描かれることがほとんどだが、しかし事実はそうではなかったようだ。下交渉が行われていたために和睦がすぐに締結し、秀吉は明智討伐へと向かうことができた。

中国大返しは、通常では考えられないようなスピードで備中高松城から姫路城まで戻ったと伝えられている。備中高松城を撤収したのは6月6日14時頃で、姫路城に着いたのは翌7日で、体勢を整えて姫路を発ったのは9日とされている。明智憲三郎氏の研究によれば、備中高松城から姫路城までは通常4日、早くても3日はかかるらしい。だが秀吉が書かせた『惟任退治記』では1日か1日半程度で姫路まで着いたと書かれている。

ではなぜ秀吉は早くても3日かかる道のりを、1日で進んだと書かせたのだろうか?それは本能寺で何かが起こることを知っていたことを、知られないためだ。秀吉が本能寺の変が起きたことを知ったのは3日夜で、そこから和睦を開始し姫路城に向かったのは6日14時頃と伝えられている。しかし6月7日に姫路に着くためには、現実的には遅くとも6月4日は備中高松城を出ていなければならないと明智憲三郎氏は言う。

つまり2日の夜に信長が討たれ、3日の夜に秀吉がそれを知り、4日には和睦を済ませ備中高松城を出たという真実が知れ渡れば、秀吉が本能寺で何かが起こることをあらかじめ知っていたと疑われる可能性が高いのだ。その事実を隠蔽するために秀吉は真実よりも2日以上遅い、6月6日14時に備中高松城を発ったと書かせたのだ。これが中国大返しの真実であり、史実は決して『惟任退治記』に書かれているように1日で姫路城に着いたわけではなかったのだ。

秀吉という男とは、現代でいうメディア操作に長けた人物だった。かんたんに言えば様々な噂を流すことにより、自らを誇張するのが得意だった。そして時を経るほどその誇張が真実として定着するようになり、秀吉伝説が作られていくことになる。中国大返しも不都合な真実を隠すために誇張し書かせたものであり、決して真実ではなかったのだ。

もしかしたら今後も歴史研究が進むことにより、『本能寺の変 431年目の真実 』のように証拠を並べ立て新たな真実が明らかにされることが増えてくるのかもしれない。そうなれば今まで常識として伝えられていた戦国時代の多くの出来事が、実は作り話だったなんてことになるのかもしれない。