「徳川家康」と一致するもの

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甲斐・信濃の国主武田勝頼率いる武田家は、織田家にとってはまさに長年の宿敵だった。このため織田信忠が信濃に出陣し、高遠城(現在の長野県伊那市)を取り囲んだ。高遠は勝頼の弟である仁科盛信(武田信玄の五男で高遠城主)と小山田昌成が領する土地だったが、川尻秀隆の調略が奏功し瞬く間に城兵たちを討ち破っていった。そしてその勢いのまま新府城(この時点での武田氏の本城)に攻め込んだ。

武田勝頼は織田の猛攻に耐え切れず敗北を喫し、天目山へと逃れていく。だが川尻秀隆と滝川一益も勝頼を追って山中に入り、幾度も戦闘を繰り広げる。その結果勝頼は完全に敗北し、武田勝頼、勝頼の嫡男武田信勝、武田信玄の弟の子武田信豊、武田信玄の弟武田信廉(のぶかど)をはじめとする武田一族はことごとく首をはねられた。

甲斐・信濃・駿河が平定されたという報告を受け、信長も信濃へ向かった。信長がこの三国を視察している際、北条を始めとする関東諸大名の多くが味方として信長のもとに駆け付けた。信長は長年富士山をこの目で見てみたいと思っていた。富士山は天竺(てんじく:インド)、震旦(しんたん:中国)、扶桑(ふそう:日本)三国の中で無双の名山と呼ばれていたためだ。

いま、その富士山を自らの領地に治めるという念願を達成し、そしてその目で拝むことができ、信長はたいそう喜んでいた。そして富士山を見物した後は三河・遠江の領主である徳川家康の居城、浜松城に滞在した。

惟任退治記全文掲載

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明智光秀本能寺の変の一連の出来事の後、天海僧正として徳川家康に仕えたという説が唱えられている。しかしこの説の信憑性は低い。明智光秀といえば、当時は織田家・徳川家の人間の多くがその顔を知る有力大名だった。にも関わらず彼らが天海を見て、明智光秀だと誰も気付かなかったというのであれば、これは非常に不自然なことだと言える。また、天海は蘆名一族の武士の出ということもわかっており、土岐氏を源流とする明智光秀と同一人物であると考えることは難しい。

二度目の比叡山に登るも焼き討ちの憂き目に遭う

蘆名氏の祖は三浦義明という人物であり、そのことから蘆名一族は三浦介と名乗っていた。天海はこの一族の中に生まれており、さらに出自そのものは決して高貴ではなかったと伝えられている。つまりは会津の身分の低い武士の家に生まれた、ということだ。生まれたのは天文5年(1536年)だと言われている。そして遷化(せんげ:高僧が亡くなること)したのは寛永20年(1643)と言われており、これが真実だとすれば108年生きたということになる。人間50年と言われていた時代に於いて108年生きたのだから、これは現代で言えば160歳前後まで生きた、という感覚だ。

元亀元年頃(1570年)、35歳になった天海は、18歳の時以来二度目の比叡山に登り学びを得ようとしていた。だが翌年、織田信長が比叡山を焼き討ちにするという事件が起こり、天海は比叡山での居場所を失ってしまった。生き延びた僧の多くは武田信玄の庇護を受け、天海もその一人となる。

天海=光秀説の論拠となった数々の出来事

さて、なぜ天海は明智光秀と同一人物だと言われるようになったのだろうか。この説が周知されていった要因は、明智憲三郎氏の祖父が書かれた『光秀行状記』にあるようだ。この本によってその可能性が伝えられ、謎が多かった光秀と天海を同一視する説が広がっていったらしい。ちなみにその他にも光秀はやはり山崎の戦いでは死なず、関ヶ原の戦い後に溺死したという説も残されているという。だがこれらはあくまでも伝承であるため、信憑性という意味ではやはり低いということになる。

その他にも天海の光秀転生説の論拠となった出来事がいくつかあり、徳川家康と天海が初めて対面した際、家康は珍しく人払いをして天海と二人だけで二刻(現代の1時間)、まるで旧知の間柄のように話を弾ませたと伝えられており、これがまるで家康がかつて知った光秀と話しているようだ、という形で話が広まっていった。そして天海が造営を任された日光東照社(東照宮)には、多くの桔梗紋が使われている。桔梗紋と言えばまさに明智光秀の家紋であり、これも天海=光秀説の論拠の一つとなっている。また、華厳の滝などをよく見渡せる場所の地名を「明智平」と名付けたのも天海だとされている。

さらに言えば比叡山には慶長20年(1615)に寄進された灯籠があるのだが、そこには「願主光秀」と書かれている。これもやはり、光秀は山崎では死ななかったのではないかという推測の論拠となっている。そしてこれに関しては少し強引さも否めないのだが、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の「秀」と、第3代家光の「光」は明智光秀からその字を取ったのではないかとも推論されている。ちなみにその論拠となっているのは、家光と名付けたのが天海であるという直筆の資料が残っているためだ。確かに「光」という字については土岐一族で多く使われている字だが、「秀」に関しては当時は非常に多く使われていた。

不自然な点も多い天海=光秀説

さて、このように天海は光秀が成りすました人物だと言われることもあるわけだが、天海という人物は徳川家康の側に仕えつつも、戦国時代の他の僧侶のように政治に意見をすることはまったくなかったと伝えられている。天海は天台宗の権益拡大に生涯を捧げた人物であり、人柄という面では明智光秀とはまったく違う形で伝えられている人物だ。確かに天海=光秀の論拠路なる話は多数あるわけだが、しかし同一人物として考えるには、その生い立ちには不自然な点が多いことは否めない。

だが可能性として、比叡山が焼き討ちにされる以前より、天海と光秀の間に何らかの面識があった可能性はあるのかもしれない。信長は堕落した僧侶たちを駆逐するために比叡山を焼き討ちにしたわけだが、光秀は天海は決して堕落した僧侶ではないと以前より知っていて、もしかしたら天海は殺すべき僧侶ではないと考えた光秀が天海を比叡山から逃がしたという出来事があったのかもしれない。それを恩に感じていた天海がその後光秀に報いたことで、上述したような論拠が増えていったのかもしれない。だがこれに関しての真実はもはや誰にも知ることはできず、推論の域を出ることも決してない。

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NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』の第3回目では、幼少期の直虎、とわが出家するまでのいざこざが描かれている。とわはその後出家し次郎法師と名乗ることになるわけだが、大河ドラマでは今川家に人質として送られることを回避するために出家の道を選んだというように描かれている。だがこれはフィクションなのだろう。恐らくとわが今川家の人質にされそうになったという史料は存在していないはずだ。


ドラマ内で井伊家から先立って人質に出されていた佐名という人物が登場するが、佐名という名前はドラマ内での創作だとは思うが、実在した人物であり、ドラマ内での設定の通り井伊直平(直虎の曽祖父)の娘となる。佐名はのちに今川義元の養女となり、今川家の重臣である関口親永に嫁ぐことになる。

佐名について、とわの乳母であるたけが「佐名は太守様(今川義元)のお手つきとなった」と語る場面がある。お手つきとは現代で言えば愛人のようなものだ。主人が侍女や女中らと性的関係を持つことであり、側室のように正式な妾というわけではない。そのため正室や側室のような待遇は受けられず、主人が飽きてしまえばそれまでの関係となってしまう。

つまり佐名は、今川義元に遊ばれるだけ遊ばれたのちに捨てられた、ということだ。だがこれもあくまでもドラマ内での設定であり、史料として残っているわけではない。そもそもお手つきとして捨てた女を、のちのち養女として迎え入れることも考えにくい。この点に関しては、フィションが過ぎるのかなと筆者は感じてしまった。

さて、とわに話を戻すと、史実としては今川家への人質になることを回避するためではなく、どうやら亀之丞への貞節を守るために出家したのではないかと、一部の史家たちは考えているようだ。確かに仮に人質ということになれば、名前は残らずとも「井伊家の女が今川家の人質となった」という史料は、佐名のケースのように残るはずだ。だがそれがないということは、人質にされそうになったということはなかったのかもしれない。

そもそも大名の命により人質にされそうになり、それが蹴鞠の勝負により覆されることはまず考えられない。蹴鞠に関する場面も、40話以上に及ぶ大河ドラマのために書き下ろされた創作となる。

なおドラマ内で重要な役どころとなっている龍潭寺の南渓和尚とは、井伊直平の弟(養子で父母は不明)となる。そのために井伊家との結びつきが強く、常に直虎を支えてくれる存在となっていく。とわを尼僧ではなく男性同様に僧として出家させるという助言をしたのも南渓和尚であるようだ。

尼僧から還俗した事例はこの頃にはほとんどなかったが、層として出家し、その後還俗して戦国時代で活躍した人物は大勢いる。例えば今川義元や上杉謙信らがその好例だ。南渓和尚は、万が一井伊家に何かが起きた時は次郎法師を還俗させられるようにと、尼僧ではなく僧としてとわを出家させたというのが史実となる。

ちなみに第3回目では菜々緒さん演じる瀬名という女性も登場するのだが、瀬名とは後の築山殿であり徳川家康の正妻だ。この回では今川義元の嫡男、龍王丸(のちの今川氏真)の正室になることに躍起になっているように描かれているが、しかし瀬名が龍王丸に嫁ぐことはなく、代わりに当時はまだ三河の田舎侍であったのちの徳川家康、松平元康に嫁ぐことになる。

井伊直虎に関する史料というのはとにかく少なく、史実だけで小説を書くことは不可能なほどだ。そのため大河ドラマでも多くのフィションが巧みに盛り込まれている。今後どのようなフィションで、視聴者を小説感覚で楽しませてくれるのか、それも今年の大河ドラマの醍醐味の一つとなるのではないだろうか。
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1600年9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍は、徳川家康率いる東軍に一瞬のうちに敗れてしまった。この戦いで真田昌幸・信繁父子は西軍に味方し、真田信幸は東軍に付いていた。東軍諸将の目に信幸は、父親を裏切ってまで家康に味方した功労者として写っていた。事実徳川家康も父親と袂を分かってまで東軍に味方したことを労っている。


関ヶ原の戦いが終わると論功行賞で信幸は沼田・上田領9万5000石の大名に処せられた。関ヶ原以前は2万7000石だったため、所領は一気に3倍以上に膨らんだことになる。そしてこの頃、真田信幸は諱を信之と改めた。定説としては家康に忠義を誓うために父昌幸の「幸」の字を捨てたと言われている。だが本当にそうだろうか。

確かに松代藩初代藩主信之と、二代目藩主真田信政は「幸」の字を使わなかった。だが三代目藩主からは真田幸道と「幸」の字がすぐに復活しているのである。もし信之が本当に家康への忠義のために「幸」の字を捨てたのであれば、信之系譜の真田家の子孫にも「幸」の字は使わせなかったはずだ。

江戸幕府に於いて徳川家康は神として崇められていた。三代目藩主の代と言えば、まだまだ家康の威光が強く残っていた頃だ。その頃に「幸」の字が復活しているということは、これはもしかしたら家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないのではないだろうか。

逆に、父真田昌幸に対し罪悪感を覚えていたからこそ「幸」の字を使い続けることができなかったのではないだろうか。真田昌幸は豊臣秀吉から表裏比興の者と呼ばれるほど智謀に長けた、まさに戦国時代を象徴するような人物だった。一方真田信之は非常に義理堅く信義に厚い武将として知られている。つまり信之は非常に誠実な人物だったのだ。

信之のその人柄を思うならば、家康に忠義を示したというよりは、昌幸への罪悪感により「幸」の字を自身の諱から消したと考える方がしっくり行くような気がする。戦国時代で最も強い影響力を持っていたのは父親だった。子は父親に逆らうことは決して許されない時代であり、信之は真田家を守るためとは言え、その掟を破ったことになる。

その罪悪感から「幸」の字を捨て、さらには命を賭してまで父昌幸と弟信繁の赦免を大坂の陣が始まるまで求め続けたのではないだろうか。そして父と弟が九度山に幽閉されていた頃も、決して援助を絶やすことはしなかったという。

家康が時に残酷な智謀を用いることは信之もよく知っているはずだった。それでも信之は父と弟と運命を共にすることはせず、真田の家を守るために家康に味方をするという決断を下した。信義に厚い信之の人柄を思うならば、この決断はまさに断腸の思いであったはずだ。父の落胆ぶりにも心を痛めたことだろう。

真実に関しては今となっては知りようもない。だが三代目藩主から早々に「幸」の字が復活している事実を見つめれば、これは決して家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないと思えるようになる。もし本当に家康に対する忠義により「幸」の字を捨てたのであれば、松代藩を預かっている限り真田家で「幸」の字を使うことはなかったはずだ。

しかし大坂の陣を前にし、信之が心を千切る思いで捨てた「幸」の字を信繁が拾った。まる兄信之の心の痛みを背負い預かるかのように信繁最期の戦いとなった大阪の陣、信繁は真田幸村と名乗り徳川家康と戦ったのだった。敵味方となっても、家が二つに分裂しても、最後は心で真田家は一つに戻ったのである。
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関ヶ原の戦いの直前、真田家は二つに分裂することになる。世に言う『犬伏の別れ』となるわけだが、真田昌幸・信繁父子は上杉景勝に味方し、真田信幸は徳川家康に味方することとなった。さて、二つに分裂したと上述したが、しかし実際には分裂してしまったわけではなかった。実は犬伏の別れの前から、真田家は二つに分かれていたのである。


関ヶ原の戦い直前の時点で、真田昌幸は上田城、真田信幸は沼田城を居城とし、それぞれ独立した大名としての立ち位置となっていた。沼田城は一時北条家の城となっていたが、小田原征伐により北条が滅ぶと沼田は徳川の城となった。この時の真田家は徳川家の与力とされていたのだが、北条家滅亡後、沼田城は徳川家康によって真田信幸に与えられ、この時から信幸は正式に徳川家付属の大名となったのである。関ヶ原の戦い10年前の出来事だった。

通説では、関ヶ原の戦いで東軍・西軍のどちらが勝利しても真田家が存続するよう、昌幸があえて真田家を東西に振り分けた、と語られているものもある。だがこれは史実とは異なる。関ヶ原の戦い時点で、真田昌幸と真田信幸は父子という間柄ではあるものの、それぞれ独立した別個の大名家だった。つまりこの時の昌幸には、信幸の行動をコントロールする権限はなかったのである。

だが信幸はしきりに父昌幸に、徳川家に味方するようにと説得を繰り返した。この交渉は第二次上田合戦が開戦するまで続けられたが、昌幸の家康嫌いは半端ではなかった。最後の最後まで首を縦に振ることはなく、恩義を感じていた上杉景勝に味方する道を選んだ。元はと言えば上杉景勝の助力がなければ、沼田城はもっと早くに真田の手から離れてしまっていた。沼田を守るために力を貸してくれた景勝に対し、昌幸は味方すると決意していたのだ。

ちなみに縁戚関係が犬伏の別れに繋がったとする説もある。真田昌幸の正室と西軍石田三成の正室は姉妹であり、真田信繁の正室は西軍大谷吉継の娘だった。そして真田信幸の正室は東軍本多忠勝の娘。これにより真田家が東西に別れたとする説もあるが、戦国時代で最も優先されるのは家を守ることであり、婚姻のほとんどは家を強くするための政略結婚だった。

そのためもし婚姻関係が家を守るために足枷となるようであれば、離縁させることも日常茶飯事だった。つまり婚姻関係だけでどちらの味方に付くか判断することは、当時一般的にはなかったことだ。ただし人質を取られている場合は話は別だ。人質を取られていてはそちらに味方するしかなくなってしまう。

真田昌幸からすれば上杉景勝は沼田を守るために力を貸してくれた盟友。家康が上杉討伐に出かけた隙を突き、上杉と共に南北から家康を挟み撃ちにしたいと考えていた。こうして家康を討つことこそが、真田家を守る最善の策だと考えていた。

一方の真田信幸は、家康は沼田城を与えてくれ、自分を独立大名として取り立ててくれた恩義ある大大名だった。しかも秀吉の死後、最も力を持っている人物が家康であり、家康に歯向かえば他家など簡単に潰せてしまうほどだった。上杉家にしても、もし徳川家と単独で戦えば、当時の上杉家には徳川に勝つ力などなかった。だからこそ信幸は家康に味方することによって真田家を守ろうとしたのである。

これが犬伏の別れを生み出してしまった真相だ。通説のように昌幸と信幸が喧嘩別れしたわけでも、婚姻関係に縛られたわけでもない。それぞれ独立する大名となっていた真田昌幸と真田信幸父子が、真田家を守るための最善策をぶつけ合い、結果的に折り合いがつかず真田家は二通りの道を取ることになってしまったのである。
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関ヶ原の戦いで徳川家と戦った真田昌幸と真田信繁は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いには参加していないのである。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。


関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身、真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。一方徳川家の家臣たちの多くは、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。

だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることがなかったようだ。

父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。

『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかったようだ。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす:殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていたようだ。

信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信はもともと真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。

ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である信之も切腹するのが筋、というのが信之の気持ちだった。

結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまった。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかはわからない。

徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。

真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまった。
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直江兼続が認めた『直江状』は、一般的には徳川家康への挑戦状として知られている。そしてこの『直江状』が関ヶ原の戦いの一因になったとも言われている。だが実際に『直江状』は徳川家康への挑戦状ではなく、単純に上杉家にかけられた嫌疑を晴らしたいという思いが込められた書状だったのである。


『直江状』が書かれたことにはそれなりの原因があった。それは上杉家の、越後から会津への移封である。上杉家は死去する直前の豊臣秀吉の命令により慶長3年(1598年)に移封させられた。これにより上杉家は50万石から、120万石の大大名となる。秀吉が上杉家を移封させたのには、上杉家に江戸の徳川家康の牽制役を務めてもらいたかったからだった。

国替えさせられた際に直江兼続と石田三成が協議し、この年に徴収した慶長2年分の年貢をすべて会津に持っていくことになった。上杉家の後に越後に入ったのは堀秀治で、米倉が空になっていることに驚く。そして上杉家に借米してなんとか窮地をしのいだわけだが、次の年貢徴収(慶長3年分)で、さらに驚くべき事実が発覚した。何と農民の多くが上杉家を慕い、一緒に会津に移り住んでしまっていたのだ。

これにより越後の田畑の多くが耕作放棄されることになり、堀家はほとんど年貢を徴収することができなかった。この状況を堀秀治の家老である堀直政が徳川家康に訴え、更には上杉家に遺恨を抱いたことで「上杉家に不穏な動きあり」と讒言までしてしまった。これは慶長4年の出来事であり、移封を命じていた豊臣秀吉はすでに前年に死去している。

秀吉の死により豊臣政権の中心となっていたのが徳川家康だったわけだが、家康とって上杉家は目の上のたんこぶだった。なにせ上杉家は、徳川家康の牽制役として会津に国替えさせられていたのだから。家康としては何とか上杉景勝を失脚させたかったわけだが、その大義名分を堀秀政の訴えによって得たのだった。

家康は「二心ないのであればすぐに上洛せよ」と上杉家に迫る。だが上杉家は移封させられたばかりで会津国内もまだ落ち着いていないため、落ち着いてから秋にでも上洛したいと返す。だが家康はすぐに上洛をしようとしない上杉家に二心ありと決めつけてしまう。これに対し不満を示したのが上杉家であり、『直江状』だったのである。

『直江状』には主に、家康は堀家の讒言は究明しようともせず鵜呑みにしたのに、なぜ上杉家の言い分は聞こうとしないのか、それは不公平であると書かれている。これは決して家康への挑戦状ではなく、上杉家の純粋な訴えだった。現に先には秋に上洛したいと伝えていたが、『直江状』では夏に上洛すると繰り上げており、豊臣政権にも家康に対しても喧嘩など売っていないのである。

そして「二心がないのなら上洛せよ」という家康の要求に対し、謀反の疑いと上洛をセットにして考えて欲しくはないとも訴えている。上杉家としてはあくまでも、会津の領国支配が落ち着いたらすぐにでも上洛する旨を示しており、二心がないから上洛するのではない、ということを直江状では訴えられている。

小説やテレビドラマではストーリーをドラマティックにするため、『直江状』は家康への挑戦状として描かれることも多い。しかし真実はそうではない。上杉家の「真実を究明して欲しい」という思いが込められただけの書状だったのである。

ちなみに家康が真実を究明しようとしなかった理由の一つには、上述したように年貢について協議した相手が石田三成だったからという可能性がある。慶長4年と言えば関ヶ原の戦いが起こる前年であり、この頃の石田三成と徳川家康はほとんど敵対しているような状態だった。慶長4年3月には、家康により五奉行石田三成は蟄居させられており、家康と三成の関係は冷え切っていた。

そのような状況だったこともあり、家康は三成が絡んでいることに対して知らない振りをしていたのかもしれない。だが家康が知らない振りをしたことにより直江兼続と、失脚していた石田三成が連絡を取りやすくなり、それが関ヶ原の戦いを引き起こす三成の挙兵に繋がった可能性もある。

この時三成と兼続が連携を取っていた証拠は残っていないため、真実は定かではない。だが隠密裏に行われていた作戦の証拠が残させるケースはほとんどないため、証拠がないからと言って、ふたりの連携がなかったとは言い切れない。もちろん連携があったと言い切ることもできないわけだが、親友であったふたりだけに、その可能性は十分にあったのではないだろうか。

『直江状』を受け取った家康はそれを読み激怒したという。そして関ヶ原の戦い3ヵ月前の慶長5年(1600年)6月、家康はついに上杉討伐のために会津に出陣していく。そしてこの機を狙っていたかのように石田三成は打倒家康を掲げ、大阪で挙兵したのだった。

史家の分析では石田三成と直江兼続は協力関係にあり、『直江状』を送れば家康は必ず会津に出陣すると予測し、その隙を突き三成が大阪で挙兵し、上杉家と共に家康を東西から挟み撃ちする作戦を練っていたとするものもある。上述の通りその証拠は残されていないわけだが、やはり可能性としては十分にありえたと考えるべきではないだろうか。

何故ならもし三成と兼続の連携がなく『直江状』を送ったとすれば、単純に上杉家が家康に攻められる戦に終わり、そうなればこの頃の上杉家だけでは家康に勝つ力などなく、上杉家は滅ぼされていた可能性も高かった。連携があったからこそ上杉景勝は直江兼続に命じ、家康を刺激する可能性の高い『直江状』を書かせたのではなかっただろうか。
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NHK大河ドラマで豊臣秀次は「キリシタンだったのではないか?」と思えるような演出がされている。高野山で切腹をする直前、秀次が聖母マリアの絵画をじっと見つめるシーンがあるためだ。この絵画は秀次の娘が父秀次に贈ったように大河ドラマでは描かれているが、秀次の娘である隆清院(大河ドラマではたか)もキリシタンだったかどうかは定かではない。


恐らく大河ドラマでこれから登場するキリシタン細川ガラシャへの布石として、秀次と隆清院をキリシタンだったように演出したのではないだろうか。しかし史実では秀次も隆清院も仏門で弔われているため、キリシタンだったという資料は存在していないと思われる。そもそもキリスト教では自殺は禁忌されているため、切腹をした時点で秀次はキリシタンではなかったということにもなる。

隆清院は確かに真田信繁の側室となり、御田姫と三男幸信を生んだ。そして亡くなった後は秋田県由利本荘市にある妙慶寺で弔われている。隆清院の生まれた年や亡くなった年は不明となっているが、しかし寺で弔われているということは、やはりキリシタンだった可能性は低いのではないだろうか。

豊臣秀吉や徳川家康の時代にはキリシタン追放令が出されたわけだが、それでもキリシタン大名や姫たちは、キリシタンであれば最後までそれを全うした人物が多い。例えば高山右近はそれによってフィリピンのマニラに追放されている。当時のキリシタンの特性として、キリシタンであることを誇りに思っている人物が多かった。

もちろん隠れキリシタンの存在もあったわけだが、しかし秀次や隆清院にまつわる資料にキリスト教関連のものは見当たらない。ふたりの生い立ちを考えても、キリシタン追放令を出した豊臣秀吉の甥である関白秀次がキリスト教でいることはできないだろうし、秀次自刃後はすべて処刑された秀次の妻や子どもたちの中で、数少ない生き残りとなった隆清院が、さらに目をつけられるようなキリシタンであったとも考えにくい。

そうなると大河ドラマではやはり、細川ガラシャへの布石としての演出だったのかもしれないと思えるようになる。細川ガラシャも有名なキリシタン姫であるわけだが、果たしてドラマの中では今後ガラシャと隆清院が絡む場面が登場するのだろうか。

大河ドラマは小説の部類に入れるべきだろう。ドラマで描かれている内容が必ずしも史実と一致しているわけではない。脚色されていたり、脚本家の希望が盛り込まれているケースも多い。やはりテレビドラマとして、史実を淡々と描いているだけでは視聴率を上げることができないためだろう。

脚色が悪いとは思わないが、しかし本サイトは史実にこだわっているため、秀次と隆清院がキリシタンだったのかを少しだけ検証してみた。秀次は複数の寺に寄進しているし、自刃後は自らが寄進した寺で戒名を与えられている。隆清院も妙慶寺に位牌が置かれている。やはり史実ではふたりとも仏教徒だったと考えるのが自然ではないだろうか。
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NHK大河ドラマ『真田丸』でも頻繁に登場している豊臣秀次は、幼い頃より死ぬまで叔父秀吉に翻弄される人生を送り続けた。こうまでも自分の好きなように生きられなかった戦国武将も珍しいのではないだろうか。武芸や習い事にも真面目で非常に有能な武将だったのだが、最後は殺生関白と呼ばれるようになってしまい、その有能さを活かすことをできずに28歳という若さで秀吉に切腹を命じられてしまった。


豊臣秀次という人物は永禄11年(1568年)に三好吉房と秀吉の姉である智(とも)との間に生まれた。生年は詳細に記録されていないようだが、後年に残された書状などから逆算をすると、永禄11年生まれが最も有力であるようだ。

ちなみに父親である三好吉房という人物は何度も改姓をしており、最初は木下弥助、その後長尾を名乗り、三好吉房、三好昌之と名を変え、秀次が秀吉の養子となった後は羽柴を名乗っている。

豊臣秀次は28年の生涯で三度も養子に出されている。最初は宮部家だった。宮部とは、浅井長政の臣下であった宮部継潤のことだ。姉川の戦いに至る前、羽柴秀吉は浅井家臣下の調略に当たっていた。その調略をスムーズに進めるための駒として、秀吉は甥である秀次を宮部継潤の猶子(相続権を持たない養子)とした。

姉川の戦いは元亀元年(1570年)であるため、秀次はまだ2歳ということになる。ちなみに秀次の幼名などは記録に残されておらず、最初に名前が出てくるのは次に養子に出された先での名前、三好孫七郎信吉としてとなる。

宮部継潤と秀次の養子関係は、遅くとも天正9年(1581年)、秀次が13歳の頃には解消されていたようだ。その理由は宮部継潤が秀吉に厚遇されており、養子関係を結ばずとも両者の関係が良好であったためだ。

その後、四国の長曾我部元親と織田信長との関係が悪化してくると、秀吉は四国攻めのための調略に当たるようになる。その時にしっかりと味方に引き入れておきたかった存在が三好康長だった。三好康長とは三好長慶の叔父に当たる人物で、阿波国の有力者だった。長曾我部を攻めるにあたり、阿波国の三好康長をしっかりと懐柔しておきたかったのである。

その調略の道具として、再び秀次は利用された。秀次がまだ13〜14歳の頃になるわけだが、今度は三好家に養子に出され、三好孫七郎信吉と名乗るようになった。一説では天正7年(1579年)の段階で三好家の養子になっていたともされているが、この頃の三好康長はすでに信長に降っており、織田家と長曾我部家の対立もなかったため、秀次を三好家の養子に出す理由がない。そのため近年の史家の研究では、実際に養子となったのは織田家と長曾我部家の対立が鮮明になった天正9年秋頃という見方が有力とされている。

だが両家の対立も、本能寺の変によって回避されることになり、秀次が三好を名乗った期間も短く終わった。そして天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いの後、16歳になると羽柴孫七郎信吉と名乗り、その直後に羽柴孫七郎秀次と名乗るようになっている。こうしてようやく秀次は羽柴一門に戻ってきたのである。

16歳までの秀次はこのように、秀吉の都合によって他家へ養子に出される日々を過ごしていた。こうして見ていくと秀吉は秀次に対しそれほど愛情は持っていなかったのだろう。確かに戦国の世では養子に出されることは珍しいことではないが、しかし28年の生涯で三度も養子になることは珍しい。三度目はもちろん実子を幼くして亡くした秀吉の養子としてだ。

秀吉が甥っ子に対してそれほど愛情を持っていなかったからこそ、戦略上の都合で簡単に養子に出しては戻すということを繰り返したのだろう。そしてだからこそ秀吉は、豊臣秀次に対しあれほど惨い最期を遂げさせた。文禄4年(1595年)7月15日に秀次を自害させると、8月2日には京の三条河原で秀次の妻子を全員処刑してしまった。

この秀次の死が、豊臣家を秀吉一代で衰退させてしまった最大の要因だとされている。もし秀次を自害させていなければ秀吉死後、幼い秀頼が家督を継ぐこともなく、立派な武将に成長していた秀次が豊臣家を継ぐことにより、徳川家康に政権を奪われる隙も与えずに済んだと考えられている。
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酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人を俗に徳川四天王と呼ぶ。だがこの4人年齢が実にバラバラなのである。その中でも井伊直政は最も若く、酒井忠次とは親子以上の歳の差があった。それでも井伊直政が徳川四天王に名を連ねたということは、物凄い速度で出世していったということになる。


酒井忠次・・・大永7年(1527年)生まれ
本多忠勝・・・天文17年(1548年)生まれ
榊原康政・・・天文17年生まれ
井伊直政・・・永禄4年(1561年)生まれ

酒井忠次と井伊直政は34歳差、本多忠勝・榊原康政と井伊直政は13歳となる。ちなみに直政を除く3人はみな三河出身で、つまりは家康と同郷となる。まだ新興大名だった頃から家康を支えていた3人だった。一方直政は遠江出身で、家康に出仕したのは天正3年(1575年)、直政が15歳の時からだった。この時はわずかに300石の知行だった。

それから7年後、本能寺の変が起こる天正10年(1582年)には4万石にまで加増されている。そして関ヶ原の戦いでの功績として石田三成の居城であった佐和山城を与えられた時には、18万石の有力大名となっていた。まさにトントン拍子で出世して行ったと言える。

この出世に対し一説では徳川家康が男色家であり、直政を寵愛していたためだと言われている。だがこれは真実とは言えない。多くの史家たちが言うように、家康に男色の気はなかったのである。これは織田信長が森蘭丸を寵愛したことになぞらえられていると考えられるが、実は織田信長も男色家として森蘭丸を寵愛していたわけではなかった。

信長が蘭丸を寵愛したというのは、信長の死後に秀吉が吹聴した作り話だった。森蘭丸という漢字も秀吉が勝手に変えてしまったものであり、実際の漢字は森乱丸だった。 当時、蘭という言葉には女性らしい男子という意味合いがあったらしく、信長を男色家としてしまうために、秀吉はあえて蘭丸と書かせていたようだ。秀吉の場合、男色家の信長より、自分の方が天下人に相応しいとアピールするために、このような捏ち上げをしている。

話を井伊直政に戻すと、直政の父親は直親であり、直親の祖父は井伊直平だ。この井伊直平という人物は、実は築山殿の母方の祖父なのだ。築山殿とはもちろん、徳川家康の正室だ。築山殿は直政が家康に仕えた4年後に殺されてしまうのだが、正室の血縁者ということで家康も直政を重用するようになった。

そしてもう一つ家康が直政を重用した理由がある。直政の父、井伊直親は謀反の嫌疑をかけられ謀殺されてしまったわけだが、その原因は直親と徳川家康が遠江について話し合ったことにあった。もちろん謀反の相談ではなかったわけだが、それを謀反だと讒言され、直親は今川氏真の命により殺害されてしまう。

このような経緯もあり、家康は直親の子である直政を重用するようになった。井伊直虎の死後、まだ万千代と名乗っていた22歳の直政に「井伊を名乗るようにと」命じたのも家康だった。

井伊直政の驚異的なスピード出世の陰には直政自身の高い能力に加え、築山殿の血縁者、直親の死に家康が関係していた、という要因があったようだ。そして最終的には近江佐和山藩初代藩主にまで昇り詰め、慶長7年(1602年)2月1日、関ヶ原で追った怪我が原因で41歳という若さで亡くなっている。

幼き頃から今川から命を狙われ、14歳でようやく井伊谷に戻ることができ、15歳で家康に出仕してからはスピード出世し、そして関ヶ原から1年半後に亡くなってしまった。まさに井伊直政は太く短く生きた戦国の名将と言えるだろう。