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斎藤利三(としみつ)と言えば、明智家に於いては重臣中の重臣とも呼べる臣下だった。春日局の父親としても知られる利三だが、同じ美濃国の斎藤姓でも斎藤道三とは血縁関係にはない。元々の美濃守護代であった斎藤家の血筋で、父親は斎藤利賢(としかた)、母親は蜷川氏の娘、光秀の叔母、光秀の妹もしくは姉と諸説ある。今回はこの斎藤利三という人物の人柄に迫っていきたい。

頑固者の稲葉一鉄と何らかの衝突があった斎藤利三

斎藤利三という人物は、少々問題児だったようだ。元々は稲葉一鉄の与力だったようだが、その一鉄とは何らかの理由で衝突があったようだ。そして『当代記』という『信長公記』を元に編纂された資料には、信長から勘当されているとも記されている。それぞれどのような問題があったのかは詳しく記されてはいないが、しかし何らかのいざこざがあったことは確かなようだ。

ちなみに稲葉一鉄という人物は美濃三人衆(安藤守就、氏家卜全)の一人で、美濃国内では非常に有力な人物だった。そして「頑固一徹」という言葉はこの稲葉一鉄が由来となっている。恐らくは利三は、その頑固者の一鉄の考え方に同調できなかったのだろう。だが問題はこれだけでは済まなかった。

斎藤利三が原因で何度も信長に殴られた光秀

稲葉一鉄の元を去り、明智光秀に与した斎藤利三だったが、この状況を一鉄は気に入らなかった。確かに利三は一鉄の娘を娶っていたのだから、一鉄が怒りを感じたことも理解はできる。『明智軍記』や『稲葉家譜』の記述からは、光秀に有能な家臣を奪われたと一鉄は感じていたようだと読み取ることができる。そしてさらに、那波直治が利三を追うように光秀の傘下に加わろうとした。再び光秀に家臣を奪われたと感じた一鉄は信長にこれを報告し、信長は光秀を呼びつけ、直治だけは一鉄の元に返すように命じたようだ。

この時に信長が人前で光秀を叱り飛ばし、さらには2〜3回殴ったことで辱めを受け、それを逆恨みして光秀が本能寺の変を起こしたと主張する歴史学者もいるが、筆者はそうは思わない。本能寺の変当時、天下統一を目前にした信長と光秀は現代で言えば総理大臣と副総理のような立場にあった。それだけの立場にあった光秀が、果たしてそんなことを理由に主君を討つだろうか。そもそも信長が光秀を何度も殴ったという話は、どうやら後世の創作である可能性も高い。

本能寺の変は斎藤利三がけしかけた事件だった?!

さて、斎藤利三には頼辰(よりとき)という兄がいた。しかしこの兄は石谷家の養子となり、石谷頼辰と名を改めている。この頼辰の妻の妹が長曾我部元親の正室となっており、その繋がりがあったために明智光秀は、織田家と長曾我部家の取次として交渉役を任されていた。しかし実際に交渉に当たっていたのは光秀ではなく、斎藤利三だったようだ。

そしてこの繋がりがあったために、縁戚となっていた長曾我部家を滅ぼそうとしていた信長を止めるため、斎藤利三が光秀に対して本能寺の変を嗾けたという説もまことしやかに語られている。だがこの説も説得力には乏しいように感じられる。織田家と長曾我部家の問題は、信長の家臣の家臣が物を言っていいような次元の話題ではない。もちろん交渉役を務めていたのは利三であったわけだが、しかし交渉役と言っても実際には信長の意思を元親に伝え、元親の意思を信長に伝えるというのが主な役目であり、利三が個人的に意見を言えるような状況ではなかったはずだ。

確かに利三の感情論としては、利三と元親は義理の兄弟であったため、信長の長曾我部討伐を聞いた際は利三も心苦しかったはずだ。だが元々の元凶は元親にもあった。本能寺の変が起こる前年、長宗我部元親は織田家と交渉をしながらも、織田家の宿敵である毛利と同盟を結んでいたのだ。これはつまり元親の織田家に対する裏切り行為であり、これが元凶となって信長が長曾我部討伐を企てたとしても、利三には納得できたことのはずだった。このような理由から、筆者は利三が本能寺の変を嗾けたという説には信憑性がないと感じている。

光秀はまず、利三ら5人だけに本能寺への討ち入りを打ち明けた

斎藤利三は、明智光秀にとってはまさに忠臣だ。明智秀満と共に、光秀が最も信頼を寄せたのが斎藤利三だった。であれば、当然光秀の明智家を守りたいという強い意思や、土岐家再興に対する情熱も知っていたはずだ。それを知った上でもし利三が本当に本能寺の変を嗾けていたのだとすれば、利三を忠臣と呼ぶことなどできなくなる。なぜなら本能寺の変を起こせば土岐家再興どころか、明智家がそのまま滅ぶ恐れもあったからだ。そして実際に明智家は滅んでしまった。忠臣であれば、そのような進言は絶対にしなかったはずだ。

さて、本能寺の変の直前、光秀は5人の信頼できる家臣だけを集めて本能寺への討ち入り計画を最初に打ち明けたようだ。その5人とは斎藤利三、明智秀満、溝尾庄兵衛尉、藤田伝五、明智光忠のようだ。しかしここで疑問が浮かんでくる。光秀も含めこの5人はすべて本能寺の変で戦死、もしくは処刑されている。なのに何故後世に書かれた軍記物などで、光秀がこの5人だけに打ち明けたということがハッキリと書かれているのだろうか。とてもこの5人が死ぬ間際にそれを誰かに打ち明けたとも思えない。

本能寺の変は利三が嗾けたという説を上述したが、しかし『備前老人物語』は、それが真実であるのかはわからないが、利三と秀満は最後まで討ち入りには反対していたと伝えている。これらのことを色々と考えると、結局は真実を伝えているものはほとんど皆無に等しく、書かれている多くのことは後世の創作であったり、噂話をそのまま真実として記しただけであることがよくわかる。特に軍記物は今でいう歴史小説と同じ類もので、ベストセラーを狙って面白おかしく書かれている物であり、その記述を資料として信頼することはできない。

利三処刑後も途絶えなかった斎藤利三の血脈

さて、本能寺の変で信長を討った後、斎藤利三は山崎の戦いで先鋒として羽柴軍と戦った。しかし傷を負い、その傷が原因で病にも侵されかけ力を失った利三は、ついには堅田で捕縛されてしまう。ちなみにこの時利三を捕縛し秀吉に差し出したのは明智半左衛門という味方のはずだった人物だった。明智半左衛門は光秀を裏切ったが、しかし半左衛門の父親である猪飼昇貞(いかいのぶさだ)は最後まで光秀に忠義を尽くし、本能寺の変で戦死している。

半左衛門によって捕縛された利三は六条河原で打ち首にされた。『言経卿記』によれば、斎藤利三は当初から本能寺の変を起こした主要人物として見られていたようだ。さて、このようにして斎藤利三はその生涯を閉じたわけだが、しかし利三の血脈はここで途切れることはなかった。結果的には斎藤利三と稲葉一鉄は喧嘩別れのような形になっていたが、しかしその後利三の娘福が稲葉一鉄の孫(養子)に当たる稲葉正成の後妻となり、その後は江戸幕府第三代将軍家光の乳母となり、さらには江姫(浅井長政と市姫の三女)のもとで大奥を取り仕切るようになっていく。もちろん彼女こそがかの春日局だ。同じ本能寺の変の当事者の子孫であったにも関わらず、明智光秀の子孫に対する扱いとは雲泥の差があったようだ。

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明智光秀という人物は、実は羽柴秀吉と大差のない状況から立身出世した人物だった。羽柴秀吉は農民から出世街道に乗って行ったため、家臣は0というところから武士人生をスタートさせている。もちろん明智光秀の場合は農民ではなく小土豪だったわけだが、武士としての親族はいたものの、家臣と呼べるほどの家臣の存在は秀吉同様にほとんど0に近いところからの始まりだった。そこで今回は、明智光秀の身近に存在していた人物たちを備忘録的に記録しておきたい。

血縁者

明智光隆
光秀の父親。別名・明智光綱、明智玄蕃頭(げんばのかみ)
天文11〜14年(1542〜1545年)に土岐一族が斎藤道三の下剋上に遭った際に戦死。

明智光安
光隆の弟で、光秀にとっては叔父。光隆死去後は、光安が光秀の後見人を務めた。妹が斎藤道三の継室(小見の方・おみのかた)だったこともあり、斎藤義龍が父道三を討った戦で道三側に与し、稲葉一鉄らと戦い戦死している。

小見の方
光隆・光安の妹で、光秀にとっては叔母。小見の方と斎藤道三の間に生まれた帰蝶(濃姫)は織田信長の正室となっている。つまり織田信長は光秀にとっては義理の従兄弟だった。

煕子
光秀の正室。妻木範煕の娘。光秀がまだ立身出世を果たす前、煕子が黒髪を売って光秀を財政的に支えたと言う逸話が残されているが、これは後世の創作である可能性が高い。実際には妻木範煕が光秀を経済的に支えていた。

明智光忠
光秀の父・光隆の弟である明智光久の子。光秀にとっては血の繋がった従兄弟。光忠は、光秀が最も信頼した家臣の一人で、光秀の娘を娶っている。

明智光久
光隆の弟で、光秀にとっては叔父。光忠の父。斎藤道三に与したことで明智城を斎藤義龍に攻められた際、自らは最後の最後まで籠城して戦い、光秀たちを脱出させた。しかし光久自身はその戦いの最中に戦死。

明智光慶
明智光秀の嫡男。本能寺の変後については諸説あり定かではない。坂本城で討ち死にしたという説や、僧として生き続けたという説がある。

細川ガラシャ
洗礼を受ける前は玉、もしくは珠。明智光秀の娘であり、光秀の盟友細川藤孝の嫡男忠興に嫁いだ。関ヶ原の戦い直前、石田三成の人質となった際にそれを嫌い命を絶った。

光秀の次男(名前不詳)
名前は明らかにはなっていないが、筒井順慶の養子になっていたらしい。

非血縁者

斎藤利三
明智光秀が最も信頼を寄せた家臣。斎藤道三の血縁者というわけではなく、美濃の守護代だった別の斎藤家の血筋。母親が光秀の叔母だったという説もある。利三の兄である石谷頼辰(いしがいよりとき)の義理の妹が長宗我部元親の正室だった。利三はかつて稲葉一鉄や織田信長の与力となっていたが、それぞれと何らかの衝突があり、最終的に光秀の臣下に加わった。最期は山崎の合戦後に明智半左衛門によって捕縛され、六条河原で処刑された。

明智秀満
別名は左馬之助光春。光秀の娘婿。元の名は三宅弥平次で、光秀の娘を娶った後、明智秀満と改名した。美濃の塗師の家に生まれた人物という説の信憑性が高いらしい。実はこの妻、元々は荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたのだが、村重が信長に反旗を翻した際、村重が光秀の心中を慮り、光秀の元に返していた。その後秀満に嫁いだ。秀満は本能寺の変後の坂本城で自らの妻、そして煕子ら光秀の親族が捕縛され辱めを受けないように刺殺した後、自刃。

織田信澄
光秀の臣下だったわけではないが、光秀の娘が信長の命により信澄に嫁いでいた。織田信澄とは、織田信長の弟信行の子。信行は家督を争った際、信長に討たれている。光秀の娘を娶っており、居城も坂本城に近かったことがあり、本能寺の変の首謀者の一人として疑われ、織田信孝・丹羽長秀軍により釈明する間も無く討たれてしまう。

溝尾庄兵衛尉(しょうべえのじょう)
別名は三沢秀次との説あり。山崎の合戦後、負傷したことにより自刃を余儀なくされた光秀を介錯し、その後坂本城まで戻り自らも自刃。光秀が信長に仕える以前から光秀に仕えていた古参。

藤田伝五
藤田伝五も、光秀が信長に使える前から光秀に仕えていた。しかし山崎の合戦で負傷し、その翌日に自刃。

可児才蔵
美濃出身で「槍の才蔵」として知られた槍の名手。福島正則に与する以前、光秀の臣下になっていた時期があったらしい。

明智半左衛門
元の名は猪飼野秀貞(いかいのひでさだ)と言う近江出身者で、光秀の臣下になった際に明智半左衛門と名乗るようになったが、本能寺の変では光秀に与することなく、斎藤利三を捕縛し、羽柴秀吉に差し出している。

明智孫十郎
本能寺の変の際、織田信忠が立て籠もる二条城を攻めた際に戦死。

明智掃部(かもん)
詳細は不明だが『天王寺屋会記』に光秀の家臣としてその名が登場する。

明智千代丸
光秀が八上城を攻めた際、最後の最後まで波多野家に忠義を尽くし戦死した小畠国明の遺児。光秀は国明の忠義を称し、まだ幼かった国明の子に明智姓を与えた。

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明智光秀という人物にはまだ多くの謎が残されている。その最大の謎はもちろん、なぜ本能寺で主君信長を討たなければならなかったのか、ということだが、それに次いで出自にもまだ多くの謎が残されている。近年専門家の研究によって随分多くのことが判明してきているわけだが、それでも光秀の出自には明確にならない部分もまだ多い。

明智姓を隠そうとした光秀の親族

ではなぜ明智光秀の出自には不明瞭な点が多いのか。その理由は主君信長を討ってしまったことにより、永きに渡り逆賊として扱われてきたからだ。光秀の出自を追う資料としては、土岐家の家系図と明智家の家系図が存在している。しかしこの2つの家系図には相違点が散見していて、どちらも光秀の出自を正確に伝えるための資料にはなり切れていない。

その理由は本能寺の変後、光秀の親族が明智の名を隠そうとしたことにある。もし明智光秀同様に逆賊として扱われることになれば、とてもじゃないが普通の暮らしは送れなくなってしまう。そうならないために本能寺の変後、江戸時代も含め、明智姓を捨てた明智一族が多かったようだ。そのために家系図が正確でなくなってしまった、という事情があるらしい。

高木家の居城で誕生した明智光秀

光秀が生まれた頃の明智家は、小さな土豪に過ぎなかった。大きな力も持っておらず、吹けば飛んでしまうような小さな家柄だった。そんな明智家に光秀が誕生したのは享禄元年(1528年)で、生まれたのは美濃の多羅城だった。しかし多羅城は高木氏の所領だったため、生まれは多羅城だが、育ったのは別の場所であるらしい。

明確な資料が残されているわけではないのだが、専門家たちの懸命な研究によれば、どうやら生まれた後は妻木氏の所領で育った可能性が高いようだ。妻木氏とは妻木範煕のことで、当時は明智家よりも大きな力を持っていた。恐らくは妻木範煕の庇護を受けながら光秀は育ち、のちに妻木範煕の娘、煕子を娶ったのだと考えられている。

国主からも嘱望された若き日の明智光秀

若き日の明智光秀を見た美濃の国主斎藤道三は、「彦太郎(光秀)は万人の将になる人相がある」と言ったとされている。光秀は十代の頃よりすでに文武に磨きがかけられていて、国主からも将来を嘱望された若武者だったと伝えられている。だがその道三が息子義龍に討たれてしまうと、状況は一変していく。

当時の住まいだった明智城は義龍軍に落とされ、光秀は一族を連れて脱出するのが精一杯だった。そしてこの後から明智光秀の放浪生活が始まっていく。明智城を落とされたのは弘治2年(1556年)、光秀が29歳の時で、その後越前の朝倉家に500貫で仕官したわけだが、30歳になると光秀は諸国放浪へと旅立ち、越前に戻って来たのはその5年後だった。