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戦国時代には戦をする際、主に8つの基本陣形があったとされている。いわゆる「戦国の八陣」と言われているものだ。しかしこの陣形はあくまでも基本的な考え方であり、戦で毎回必ず実践されていたという事実はない。江戸時代後期の軍学者などはこの八陣についてかなり研究をしていたようだが、しかし戦国時代はほとんど使われていなかったと考えるのが自然だ。


戦国時代の戦というのは、少なくとも数千人規模で行われていた。多い時では10万人を超すこともある。10万人と10万人が戦う戦となると、途方もない大規模な戦となる。そして1000人と1000人による戦であっても、これも決して少人数とは言えない。

現代のように拡声器や、スマホのような連絡手段があるわけでもない。ほとんど声の伝達により指示は伝えられていた。しかもほとんどの戦で兵は専任ではなく、農作業をしながら戦う者たちばかりだった。つまり足軽隊などは、ほとんど訓練されていないに等しい。

そのような状況で、例えば歴史ドラマでもよく登場する「鶴翼の陣」などをきれいに敷けるはずがないのだ。そして何よりも場所が問題だ。数千人、数万人規模で陣形を整えるとなると、東京ドーム何個分もの広大な平野が必要となる。しかし戦国時代はそこまで平野ばかりの場所で戦うケースは非常に少なかったと考えられる。

武田信玄などは陣形を整えるのが得意だったとも言われているが、しかし甲州の山ばかりの土地で陣形をきれいに整えて戦うことはほとんど不可能だ。そのため戦国の八陣はあくまでも基本的考え方であり、実際に用いられるケースはほとんどなかった。

その代わり、隊列にはどの武将もかなりこだわりを持っていたようだ。つまり足軽、騎馬隊、鉄砲隊などの割合と並び方だ。これによって各武将自らの戦闘スタイルを構築していった。面白いのは伊達政宗だ。政宗は鉄砲騎馬という新しい形を生み出した。

それまでの鉄砲隊は隊列を組んで、何枚かに分かれて入れ替わり順に撃っていくという形だったのだが、政宗は鉄砲隊を騎馬に乗せてしまった。これにより破壊的な突破力を得ることに成功した。これを初めて実験的に導入したのが大坂夏の陣だった。

このように戦国時代の戦では実際には八陣よりも、隊列や編成を工夫することの方が重要だったのだ。八陣が用いられるのは広大な平野で行われる戦にほとんど限定されていた。そして陣形よりも地形の方が重要であることを理解していたからこそ、織田信長や真田信繁はいつも馬に乗り地形の調査を行っていたのだ。

逆に地形をまったく理解せずに戦ってしまうと、厳島の戦いで大軍を率いたにもかかわらず、寡兵の毛利元就に敗れた陶晴賢のように、大軍が狭い土地に追い込まれて身動きが取れなくなってしまうこともあった。そのようなミスを犯さないためにも、戦国時代の戦は陣形以上に地形が何より重視されていたのである。
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戦国時代に使われていた名前は、生涯のうちで何度も変わることも多かった。例えば豊臣秀吉などは、若い頃は木下藤吉郎、その後木下藤吉郎秀吉、羽柴秀吉と変わり、最後は天皇から苗字を賜り豊臣秀吉と名乗った。今回は戦国時代の名前、呼び方について少し書き留めておきたい。

諱は時の権力者から一字もらうことが多い

戦国武将たちがまず与えられる名前は幼名(ようみょう)だ。幼名とはその名の通り生まれてすぐ付けられる名前のことで、織田信長であれば幼少期は吉法師、真田信繁であれば弁丸と名乗っていた。13歳を過ぎると男子は元服していくのだが、元服をするまではこの幼名を名乗ることになる。

元服をすませると諱(いみな)と、烏帽子親(えぼしおや)によって仮名(けみょう)が与えられる。「真田」が苗字、「源次郎」が仮名、「信繁」が諱、ということになり、諱は時の権力者などから一字もらうことが多い。信繁の場合は武田信玄から一字もらった形だ。

織田信長のことを「信長様」と呼ぶことは非常に失礼なことだった

官位を持っていない武将の場合、仮名で呼ばれることが一般的で、諱で呼ばれることはほとんどない。特に位の高い相手を諱で呼ぶことは失礼に当たり、「信長様」と呼ぶことはまずない。信長は晩年右大臣に就いていたのだが、その役職から信長は「右府(うふ)様」と呼ばれていた。

なお諱というのは元々は、生前の徳行によって死後に贈られる称号のことで、諡(おくりな)とも言われる。漢字も本来は「忌み名」と書くことから、相手を諱で呼ぶことはほとんどなかった。真田源次郎信繁は「源次郎」、竹中半兵衛重治であれば「半兵衛」、黒田官兵衛孝高であれば「官兵衛」と仮名で呼ばれていた。ちなみに信長の仮名は三郎だ。

テレビではわかりやすいように諱で呼ばせている?!

例えば石田三成はテレビドラマなどでは「治部少(じぶのしょう)」や「治部殿」と官途(かんど)で呼ばれているが、やはり諱で呼ばれることはななく、官職が与えられる前は仮名である「佐吉」と呼ばれていた。

テレビドラマでは時々、諱で「信長様」「秀吉様」と呼ぶ場面が見られるが、実際にそう呼ばれることはなかった。ドラマの場合は視聴者にわかりやすいように、あえて諱で呼ばせているのだろう。だが大河ドラマなど、最近のドラマでは比較的官途が使われていることが多いように感じられる。例えば徳川家康のことも「内府(だいふ)殿」と呼ばせることが多い。

家康を内府(ないふ)殿と呼ぶのは実は間違い!?

なお治部少(じぶのしょう)というのは明での読み方となる。日本語では「おさむるつかさ」と読むようで、戦国時代当時は役職を唐名(とうみょう)で読むことが一般的だった。現代に於いては、最高経営責任者のことをCEOと英語で呼ぶようなものだ。また、徳川家康のことを内府(ないふ)と呼んでいるドラマもあるが、これは恐らくは間違いだと思う。内府(ないふ)というのは明治憲法下での呼び方であり、戦国時代では内府(だいふ)と唐名で呼ぶのが正解だ。

羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち、その経緯を記した軍記物(現代で言うところの歴史小説)を書かせた際、題名は『惟任退治記』だった。この頃の明智光秀は、惟任日向守光秀と名乗っていた。惟任とは天皇から与えられる氏(うじ)であり、源、平、藤原、橘、豊臣などと同じ部類のものとなる。主君信長を討った光秀のことさえも諱では呼ばず、氏で呼んでいることから、やはり当時は諱で呼ぶことが相当憚られていたのだろう。ちなみに光秀の仮名は十兵衛だった。

最後に付け加えておくと、この諱によって引き起こされた事件があった。方広寺鐘銘事件だ。この事件がきっかけで大坂冬の陣が勃発したわけだが、この時は豊臣方が鐘に「家康」と諱を使ったことを理由にし、家康は大坂城を攻める口実としている。