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azai.gif朝倉からの助勢は朝倉景健の8000だった。これは織田への援軍である徳川5000と比較をすると3000も多い。ここだけを見ると、朝倉義景は本気で浅井を救いに行ったようにも見える。しかし事実は違う。朝倉義景は浅井を救うこと以上に、8000の軍勢をできるだけ消耗させずに連れ帰るようにと景健に命じている。

さらに徳川勢は当主である徳川家康が直参しているにも関わらず、朝倉義景は他で戦をしていたわけでもないのに義景自身が出陣してくることはなかった。つまり体裁を保つために8000という軍勢を送ってはいるが、義景自身はまったく浅井を本気で救う気はなかったようだ。織田の朝倉攻めでは浅井に助けられていたにも関わらずだ。もし義景が本気で浅井を救おうとしていれば、間違いなく義景自身が出陣していたはずだ。

元亀元年(1570年)6月28日午前4時頃、姉川の戦いは開戦された。まず戦ったのは徳川勢と朝倉勢だった。数の上では8000の朝倉勢が5000の徳川勢を圧倒しているわけだが、戦いはほとんど互角で膠着状態が続いた。一方織田とぶつかり合う浅井は必死だ。3万5000の織田軍に対し、自軍は僅かに5000の兵のみで打って出ている。だが5000の兵すべてを織田本陣に向けて突撃させた浅井勢の突破力は凄まじい。11段構えを敷いていた織田軍を次々と打ち破っていく。

このままでは信長は討たれてしまうのではないか、そう感じた家康は機転を利かせ、榊原康政に浅井長政勢の横を突かせた。突如として横を攻められ浅井勢は大混乱に陥る。信長の首にたどり着くまでもう少しのところで総崩れとなってしまった。

徳川家康は信長に対して大きな恩を売ることができ、逆に朝倉勢は何の役にも立たないまま足早に越前へと引き返していった。そして小谷城へと撤退する浅井勢を織田勢も追撃したが、長政を討ち取るには至らず、その足で横山城への再攻撃に転戦して行った。

こうして姉川の戦いはあっという間に終わったわけだが、浅井・朝倉の被害は甚大だった。まず長政は最も信頼していた重心である遠藤直経と弟の浅井政之ら、名だたる武将たちが討ち死にを果たした。そして朝倉勢も猛将真柄直隆らが討ち死にを果たす。真柄直隆と言えば長さ221.5センチ、重さ4.5キロという非常に長く重い真柄太刀で戦ったことでも有名な猛将だ。朝倉軍で多くの武功を立てた武将だったが、彼もこの戦いで討たれてしまった。

ちなみに「姉川の戦い」というのは徳川方の呼び名だ。それぞれの家記ではそれぞれが布陣した場所で呼ばれており、織田・浅井方では「野村合戦」、朝倉方では「三田村合戦」と呼ばれている。やはり後々歴史に残るのは滅んだ家の話ではなく、栄えた家の話であるようだ。

さて、姉川の戦いから2ヵ月経った9月、浅井・朝倉連合軍は態勢を整え、合わせて3万の軍勢で信長不在の京に攻め込んだ。織田・徳川、浅井・朝倉にとって姉川の戦いとは、これから始まる壮絶な戦いのまだ序章に過ぎなかったのである。


oda.gif朝倉攻めで義弟浅井長政に裏切られた織田信長は、猛烈な怒りを心の中で沸騰させていた。信長が最も許せないのは味方の裏切りであり、疑わしきは罰するという態度を常々示している。今回裏切られた相手は妹市を嫁がせた浅井長政だけあり、信長の怒りも沸点に達してしまった。

信長はまず、小谷城までの経路の確保に努めた。その任を仰せつかったのが羽柴秀吉であり、調略を担当したのが稲葉山城乗っ取り事件を起こした竹中半兵衛だった。この頃竹中半兵衛は客人として秀吉の陣に加わっており、軍師として活躍していた。半兵衛の活躍で堀秀村の調略に成功し、織田勢は難なく小谷城への経路を確保することができた。

元亀元年(1570年)6月21日、織田軍は浅井父子が立て篭もる小谷城を取り囲み、城下に火を放って回った。信長の作戦は長政を挑発し、野戦に持ち込むことだった。だが長政も愚将ではない。信長の作戦などすでに見通しており、挑発に乗ることはなかった。だが信長も長政が愚将ではないことをよく知っている。だからこそ愛する妹、市を嫁がせたのだ。

信長は第二の作戦に出た。長政にあえて背を見せ、背後から襲わせるという作戦だ。だがもちろんただ襲われるわけではなく、追撃に出てきた浅井勢を返り討ちにするための作戦だった。浅井勢は多少の追撃は見せたものの、しかし本格的に城から討って出ることはなかった。だが籠城戦に持ち込まれ、小谷城を陥すのに何ヵ月も、何年もかけるつもりは信長にはない。

信長は方向転換をし、支城である横山城の攻略へと向かった。小谷城からは6キロ程度しか離れていない、まさに目と鼻の先にある支城であり、信長はここを本拠にし本格的な浅井攻めを行う腹づもりだった。大方の予想通り横山城はあっさりと陥落した。そしてこの頃6月24日、織田軍には5千の兵を率いた徳川家康が加わった。

一方浅井方にも、8千の兵を率いた朝倉景健(かげたか)が援軍に駆けつけた。すると6月26日、織田軍4万+徳川軍5千、浅井長政5千+朝倉景健8千が大依山(おおよりやま)で対峙する形となった。4万5千と1万3千とではあまりに兵力に差があり過ぎる。だがこれを逆手に取ったのは長政だった。6月27日、この大差により一旦兵を引く姿を見せる。もちろんこれは長政の陽動作戦だ。織田勢を誘き寄せ、地の利を活かし戦うつもりだった。しかし信長がそんな戦術に乗ることはなく、織田勢が追撃に出ることはなかった。

6月28日、浅井・朝倉連合軍は結局姉川まで軍勢を進め態勢を整えた。そして川を挟み浅井の正面には織田、朝倉の正面に徳川が向かい合う形で布陣した。いよいよ姉川合戦の火蓋が切られようとしていた。