タグ「吉乃」が付けられているもの

吉乃の菩提寺である久昌寺が廃寺に

吉乃の墓がある久昌寺が老朽化により取り壊しに

織田信長には斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)という正妻がいた。しかし信長が女性として本当に愛したのは帰蝶ではなく、吉乃(きつの)という女性だった。
※ 吉乃という名前は後世に便宜上付けられた名前で、本名は明らかにはなっていない。

吉乃は若くして未亡人となってしまうのだが、その後信長の側室として嫡男信忠、信雄、徳姫を産んだ。だが生来体が弱かった吉乃は29歳という若さで亡くなってしまう。その吉乃が眠っているのが愛知県江南市にある久昌寺(きゅうしょうじ)という、1384年に建立された寺だった。

しかしこの久昌寺の廃寺が2021年に決定されてしまった。その理由は老朽化した本堂を立て替える費用を捻出できない、というものだった。時代の流れとしてこれは仕方のないことではあるが、しかし時代の流れに乗れば廃寺を防ぐこともできたかもしれない。

例えば法隆寺などはクラウドファンディングで多額の寄付金を集めることができた。久昌寺も信長の名の力を借りれば、法隆寺ほどの額じゃないにしても、本堂を立て替えるくらいの寄付金は集められたかもしれない。吉乃のためであれば、信長も喜んで名を貸してくれたことだろう。

19代目で最後の久昌寺当主となってしまった生駒英夫氏は50代手前でまだ若いわけで、檀家だけに頼るやり方を見直していれば、もう少し違う結果にもなったかもしれなかった。だが唯一の救いは、吉乃のお墓は維持されるということだ。

解体は令和4年(2022年)5月から始まり、令和3年には公園として整備されるようだ。だがその公園には吉乃のお墓が残されるため、信長も少しは安心したのではないだろうか。

永禄9年(1566年)5月13日に吉乃を失うと、信長は当時の居城であった小牧山城の天守閣に登っては西の空を眺めていた。そう、久昌寺は小牧山城の西に位置していたのだ。信長はそこから西の空を眺めながら、吉乃を想いよく一人涙を流していたと伝えられている。

魔王のようだったとも伝えられている織田信長だが、実はそのイメージとは裏腹に愛情深い男でもあった。ドラマや映画では帰蝶との関係が描かれることがほとんどだが、もしいつか、信長と吉乃が互いに愛し合う姿が描かれた作品が誕生したなら、筆者はぜひともその作品を通して信長の素の姿を見てみたい。

oda.gif

織田信長という人物は時に、冷酷非道な人物として語れることがある。それはやはり比叡山を焼き討ちにし女子供問わず殺させたり、浅井父子・朝倉義景の髑髏(しゃれこうべ)に金箔を塗って飾らせたり、自らを裏切った荒木村重の一族を皆殺しにしたりと、このような行動を取ってきたことに影響している。だが本当の信長は、実は愛情深い男だったのだ。


織田信長には、正室である濃姫以上に愛していた女性がいた。吉乃(きつの)という人物だ。吉乃は元々は土田御前(信長の母)の甥である土屋弥平次に嫁いでいたが、弥平次が弘治2年(1556年)に戦死し、19歳という若さで未亡人になってしまった。そして吉乃が未亡人になった頃にその存在を知った信長の恋心はどんどん膨らんで行く。ちなみに吉乃という名前は後世の創作で、実名は定かではない。

さて、信長自身は天文18年(1549年)2月24日に斎藤道三の娘、濃姫と結婚している。濃姫に関しては若くして亡くなった説や、本能寺の変で信長と共に戦い死んだという説など、諸説存在している。若くして亡くなったとしても、それでも信長は濃姫の目を盗んでは吉乃に会いに行く日々を続けていた。時期としては桶狭間の戦いが起こる前の数年間だ。

吉乃は馬借(ばしゃく・馬を使った運送業)をしていた生駒家宗の長女だったのだが、弥平次が死んでからは生駒家に戻っていた。そして信長は当時の居城であった清須城から10キロ離れた生駒家まで馬を駆けて通っていたと言う。若き日の信長は毎日馬で山野を駆け巡り地形を頭に叩き込んでいたのだが、そのついでに生駒家に通う日々だったのかもしれない。

吉乃はその後、信長の側室として迎えられた。そして嫡男信忠、信雄、徳姫を産むのだが、吉乃は元来体が弱かった。それもあり出産をするごとに体力を失っていき、病に伏せるようになってしまう。信長は吉乃のために名医を呼び、金に糸目をつけず吉乃のために薬を手に入れた。そして少し元気な日には吉乃の体を支えながら屋敷内を一緒に歩いたと言う。

時には吉乃を支えながら歩き家臣団がいるところまで連れて行き、吉乃を家臣たちに紹介することもあったようだ。普段は激烈な信長の姿ばかりを見ている家臣たちは、その信長の優しい姿を見てさぞや驚いたのではないだろうか。

信長は吉乃のために輿まで用意すると言った。当時輿と言えば、身分の高い女性だけが乗ることを許された乗り物だった。それを馬借の娘であり、側室という身分でしかなかった女性が乗ることなど、普通ではまず考えられることではない。つまり信長はそれほどまでに吉乃に愛情を示していたということなのだ。

だが吉乃の病状が良くなることはなく、永禄9年(1566年)5月13日、29歳という若さで他界してしまう。この頃の信長は戦に明け暮れ、吉乃に会いに行けることも減っていた。時期は信長が稲葉山城を手に入れる直前だ。

この頃の信長は稲葉山城を攻めるため、稲葉山城にほど近い小牧山城に居城を移していたのだが、吉乃はそこから西4キロほど離れた久昌寺で荼毘に付された。

吉乃を弔った久昌寺の僧侶は「信長公は妻女(吉乃)を哀慕し小牧山城の櫓に登り、(吉乃が眠る)遥か西方を望んで涙を流していた」と書き残している。

織田信長は決して冷徹なだけの人物ではなかった。愛した女性に対しては深い愛情を示し、無償の愛を贈ることのできる男だったのだ。信長にこれほど愛され、吉乃はきっと幸せな最期を迎えたのではないだろうか。そして吉乃が最初に産んだ子、織田信忠もまた愛情深い人物に育っていく。詳しくはこちらの巻を参照していただきたい。

吉乃を亡くした数年後、信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井父子・朝倉義景の髑髏を金箔で飾り、荒木村重一族を皆殺しにするわけだが、もしかしたら吉乃を失った深い悲しみを誤魔化すために愛情とは真逆の行動を取り続けたのかもしれない。

なぜそう思うかと言えば、吉乃が存命していた頃の信長は寛大な対応を見せることも多かったからだ。相続争いの際には柴田勝家らを許した。後には稲葉山城を奪取していた竹中半兵衛に信長は再三好条件での開城を要求したのだが、半兵衛はそれを断り続けた。その半兵衛を数年後、半兵衛の思うような形で織田の寄人になることを許している。

だが吉乃を失ったあとはこのような寛大な対応が減り、黒田官兵衛に裏切りの疑惑がかけられると人質松寿丸の処刑をかんたんに命じてしまうような姿も見せている。今となっては信長の心境などわかるはずもないが、しかし吉乃を失った悲しみはとても一言で言い表せるものではなかったのだろう。もしかしたら吉乃の死が信長を魔王に変えてしまったのかもしれない。