天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼が
天門山の戦いに敗れ自刃したことにより武田家が滅亡すると、その武田の旧領を他家や国衆たちが奪い合った。これを「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」というわけだが、ここで最も大きくぶつかり合ったのが徳川家康と北条氏政・氏直父子だった。この時真田昌幸は徳川家康に味方をし、策を巡らすことにより北条軍を撃退している。だが徳川と北条の戦いも、家康と氏政が和睦を結んだことにより唐突に終結してしまった。
だがその後が問題だった。和睦が締結した後には必ず国分けという、大名同士の境界線を設定する作業があるのだが、この国分けが、真田家にとって不都合なものとなってしまったのだ。多くの小説やNHK大河ドラマ『真田丸』では、真田が所有していた沼田領を家康が勝手に北条に譲ってしまったように描かれている。だがこれは事実ではない。恐らく物語を面白くするために原作者たちが脚色したのだろう。
事実としては、真田家にとって不都合なのは変わりないわけだが、北条が武力を以ってして沼田領が含まれる上野(こうずけ)を制圧することを家康が認めるという内容の和睦だったようだ。つまり家康が勝手に沼田領を北条に譲渡し、その上で真田に沼田を明け渡すように言ったわけではないのだ。
この和睦内容により、北条はすぐに沼田攻めを開始した。この攻撃により真田は中山城を奪われてしまったが、それでも沼田城代を務めていた矢沢頼綱(真田幸隆の弟で、昌幸の叔父)の奮闘により何とか沼田城は死守することができた。この後も北条の攻撃は続くのだが、それにより沼田城が落ちることはなかった。
天正11年になると、真田の本拠である小県郡で、国衆が蜂起するという出来事が起こってしまう。真田昌幸はその鎮圧に苦労し、家康にも援軍を求めている。そしてその流れで昌幸はどさくさに紛れて上杉景勝を刺激しようと企てる。この時の真田は徳川に従っていたため、真田が上杉領に侵攻すれば、上杉は徳川を攻めることになってしまう。
事実上杉の徳川への牽制が入るわけだが、上杉に攻め込まれないようにと昌幸は上田に城を築くことを家康に提言する。上田は、上杉領である虚空蔵山城(こくぞうさんじょう)の目と鼻の先だ。だが真田家の力だけでは簡単に城を築くことはできない。そのため昌幸は、上田に城を築くことが上杉を抑えるためにも、徳川にとっての得策であると家康を説得し、上田城を家康に作らせることに成功した。
だが同じ頃、城の請取を求めに沼田城に入った北条の使者を矢沢頼綱が斬り捨ててしまうという事件が起こった。実はこれは昌幸の策略だった。矢沢頼綱に北条の使者を斬らせ、それを手土産に叔父矢沢頼綱を単独で上杉に寝返らせた。この時代で使者を切り捨てるということは、相手に対し宣戦布告をしたことになる。つまり昌幸は沼田城を守るために上杉の義を利用しようとしたのだ。上杉は助けを求める者は必ず助ける。それを昌幸が逆手に取ったのだった。
これにより困ったのは家康だ。北条に対しては切り取り次第北条領にして良いと密約を結んだ沼田領の援軍として、上杉がやってくることになったのだ。これでは北条も簡単に沼田城を攻めることはできなくなるし、上杉が動けば北条は本領を手薄にはできなくなる。当然家康自身も徳川に従う形となっている真田をここで攻めるわけにはいかない。形式上上杉に寝返ったのは矢沢頼綱だけなのだから。
この状況に困った家康は小県群の国衆である室賀正武を上手く言いくるめ、昌幸の暗殺を企てる。だがこの暗殺を事前に察知していた昌幸は室賀を返り討ちにしたことで、逆に室賀の所領を奪い取り勢力を増すことに成功した。家康としては暗殺の失敗によりますます状況が悪化してしまったというわけだ。
上田城は、沼田城の件の侘びのつもりで家康が築城を許したと伝えられている。つまり家康側からすれば「徳川で上田城を作り進呈するから、沼田は北条に譲ってくれ」という思惑だ。だが真田昌幸は上田城をありがたく頂戴したあげく、沼田城の引き渡しは拒否し続けたのだった。
この一連の騒動により、真田と徳川の関係は日に日に悪化していく。そもそも昌幸は、天正壬午の乱で真田が徳川に味方した直後に、家康が沼田領攻めを北条に対し容認したことで、家康への不信感を募らせ徳川から離れる時期を早々から図っていた。そしてその時期は天正13年6月にやってくる。昌幸は徳川と絶縁し、次男である弁丸(のちの真田信繁)を人質として送ることにより、上杉に従属していった。
ここで真田と徳川は正式に敵対関係となり、徳川が真田昌幸の居城となっていた上田城に侵攻し、
第一次上田合戦が始まっていくのである。それにしても自分で作って真田昌幸に与えた城を自分で攻めることになるとは、家康からすれば実に皮肉な出来事となってしまった。
北条氏政という人物は言われているように、本当に愚将だったのだろうか。戦国時代の出来事について書かれた家記や軍記などは、大きく誇張されたり後世の創り話が加えられていることが非常に多い。氏政の無能振りを強調したような「二度汁」に関するエピソードも、真実は毛利家のエピソードからの引用だとされている。
「二度汁」とは、この時代は飯に汁をかけて食べるのが一般的だったわけだが、毎日食べているにもかかわらず汁の分量を一度では量り切れず二度に分けたため、そんな分量も量れない者に善政が可能なはずはない、当家も自らの代で終わるのか、と北条氏康が氏政を嘆いたとされるエピソードだ。だがこれは上述の通り、毛利元就の輝元に対してのエピソードの引用であった可能性が高い。
氏政が愚将と呼ばれる所以は、やはり大名としての北条家を滅亡に追い込んだ事実があるためだろう。本能寺の変が起こり、その後豊臣秀吉が力を付けていくわけだが、氏政は天下統一を目前としている秀吉と対立してしまったのだ。しかも真田昌幸のような智謀により勝機があってこその対立ではなく、小田原城の守備力を過信してのものだった。
確かに小田原城はかつて、戦国最強と謳われた上杉謙信や武田信玄の侵攻さえも難無く防いだ名城だ。だが上杉軍や武田軍と、北条家の最後となる頃の豊臣軍とでは軍勢の規模がまるで違っていた。確かに上杉謙信が10万を超える軍勢で攻め込んできたこともあったが、しかし小田原城を攻めた際の豊臣軍は22万だったと言われている。
見たこともないようなこの大軍勢を前に北条勢は戦意喪失してしまい、結局降伏することになった。こうして勝てないとわかり切っていた戦を行い大名北条家を滅亡位に追いやったため、氏政は愚将と呼ばれるようになった。
ではなぜ氏政は豊臣に敵対したのか。それは独立大名としての誇りを強く持っていたためだとされる。この時代に北条が大名として生き残るためには豊臣に臣従する必要があった。だが同時に徳川、もしくは上杉の格下として扱われる可能性が高かった。北条にとって上杉は天敵であり、徳川にしてもかつてのライバルで、一昔前であれば徳川よりも北条の方がよほど大きな家だった。そのようなプライドが働き氏政は判断を鈍らせ、豊臣に敵対する道を歩んでしまった。
しかし本能寺の変が起こらなければ、氏政の判断は決して愚かなものばかりではなかった。まず織田信長が力を付け始めると、武田家の抑えとして北条家は織田家と友好関係を築いていく。そして天正10年(1582年)に織田家が甲州征伐に乗り出した際も助力している。このまま何も起こらなければ織田家との同盟により、北条家は末長く安泰となるはずだった。だが氏政の判断も本能寺の変によりすべてが狂い出してしまう。
本能寺の変が起こるまでは、武田との同盟により上杉と戦い、さらには徳川との同盟により今度は武田を攻めるなど、臨機応変の現実的な判断を数多く下してきた。もし氏政のこのような判断がなければ、北条家はもしかしたらもっと早くに衰退していたかもしれない。北条氏政を生涯を通して見ていくと、決して愚将ではなかったと言える。しかし最後の最後で大きな過ちを犯してしまったため、そのことだけが人々の記憶に残り、愚将のレッテルを貼られてしまったのだった。