刎ねた利休の首を踏みつけさせる異常さを見せる怒り狂った秀吉
天正19年2月28日(1591年)、千利休は豊臣秀吉から切腹を命じられた。その理由は茶器を法外な値段で売りつけ私腹を肥やしているため、というものだった。そして切腹した後は京都一条戻橋で晒し首にされ、大徳寺山門に置かれていた利休の木像も磔にされ、しかもその像に利休の首を踏ませるという異常なものだった。利休はそれほどまでに秀吉の怒りを買ったらしいのだ。
当然だが茶器を高く売った程度で受ける程度の処罰ではない。そもそも利休は信長、秀吉に仕えた政商であり、政権を運営するための資金集めを任されていた人物だ。そして鉄砲など武器の調達も任されていた。つまり茶人千利休の本業は実は商人だったというわけだ。
利休が切腹させられた翌年、秀吉は唐入りを決行している。つまり朝鮮出兵だ。この朝鮮出兵については当時は何年も前から噂が流れており、多くの武将が秀吉がいつかは朝鮮に攻め込むであろうと考えていた。だが朝鮮に攻め込みたい武将など一人もいない。見ず知らずの国で、言葉さえも通じないのだ。そんな国を攻めて領土を与えられたとしても何も嬉しくはない、それが武将たちの総意だった。
だがこの頃、秀吉に諫言できる家臣は一人もおらず、唯一利休だけが物怖じすることなく秀吉に思ったことを伝え続けていた。そのため武将たちは利休の茶室を訪れては秀吉に朝鮮出兵を思い留まらせて欲しいと懇願していたのだ。
利休のクーデーターを恐れた秀吉
多くの武将が利休を訪ねているという噂は秀吉の耳にも入り、これより秀吉は、利休が家臣たちを結託させようとしていると疑念を抱き始める。そんな疑念が強まる中、利休は秀吉に対し朝鮮出兵をやめるようにと言ってきた。秀吉はこのまま利休を放っておけば、影で家臣たちを束ねクーデターを起こしかねないと考えたのだった。
秀吉は何よりも、自分を差し置いて家臣たちが利休を頼っていることが許せなかった。まるで秀吉の政策が、利休によって作られているかのように秀吉には感じられたのかもしれない。
だが利休が唐入りに反対したという理由だけで切腹を命じるわけにはいかない。何故ならそんなことをしては、唐入りに対しさらに風当たりが強くなってしまうからだ。そのため利休自身に何か罪を被せなければならない。それが茶器を法外な値段で売っているというものだった。
一族への報復を恐れ切腹命令に背けなかった千利休
ちなみに戦国時代に於ける茶器はステータスであり、茶碗ひとつで城や国が買えてしまうほどの名器もあった。そういう意味では利休も確かに法外な値段で茶器を売っていたのだと思う。だがそれは利休に限った話ではないことも確かだ。秀吉自身も金に糸目をつけず茶器を買い漁っていた一人なのだから。
利休自身、辞世の句などでこの切腹に納得していない気持ちを遺している。しかしだからと言って秀吉に楯突くことはできない。そんなことをしてしまえば利休だけではなく、一族にも危害が及んでしまうからだ。だからこそ利休は娘のお亀に対してのみ、密かに言葉を遺した。
利休が切腹させられた翌年に唐入りは実現してしまう。かつては信長も計画していた唐入りだったが、信長も唐入り計画に対する不安を持った家臣に討たれてしまい、秀吉もまた唐入りを実現させたことで求心力を失った。だがその反面、唐入りを封印して世論を味方につけ幕府を開いたのが徳川家康だったというわけだ。
豊臣秀吉はなぜ文禄の役、慶長の役と二度に渡り唐入りを実施したのか?唐入り賛成派の武将というのは実はほとんどいなかった。大それた反論はしなかったものの石田三成でさえも唐入りには反対しており、実際に反乱の火種となりかねなかった豊臣秀次や千利休に至っては切腹させられている。秀吉はなぜ秀次や利休を切腹させてまで唐入りを目指したのだろうか。
実は唐入り構想の原案は秀吉のものではなかった。最初に唐入りを目指すと口にしたのは織田信長であり、それを嫌った明智光秀により信長は討たれてしまった。つまり秀吉は、信長が考えていたことをそのまま自分のアイデアとして取り入れてしまったということになる。
信長は日の本を統一した後は、有力大名たちには刈り取った朝鮮、民国の広大な土地を与え、国内の主要部は織田一門に任せるという構想を練っていた。本能寺の変直前、織田家で最も力を持っていた家臣が明智光秀であり、まさに光秀は朝鮮、民国に移封させられる最有力とされていた。
秀吉も同じことを考えていた。朝鮮、民国に攻め入り領地化し、力を持ち過ぎた大名たちを国内から追い出そうと考えていたのだ。そしてさらには領土を広げることにより、秀吉は大王になろうとしていたとも言われている。一説では実子捨(すて)の死の悲しみを癒すべく唐入りしたとも言われているが、一国を治める太閤(前関白の意)がそのような理由で戦を仕掛けるはずはない。
秀吉も信長同様、有力大名たちを国内から追い出すような形にし、国内は豊臣一門を中心に政権運営していくことを目指したのだった。そしてこれが実現されれば秀吉亡き後、有力大名に後継が狙われる心配もなくなる。秀吉としては先の短くなっていた命、後継が狙われる心配を排除した上で命を全うしたかったようだ。
だからこそ唐入りに意を唱え、クーデターを起こす可能性のあった豊臣秀次や千利休を、下手な言い掛かりをつけて切腹させてしまっている。実際多数の武将たちが秀次や利休を頼り、秀吉に唐入りを中止させるように頼んでいたようだ。秀吉としては唐入り反対派をまとめる役割を果たしていた秀次や利休が邪魔で仕方なかったというわけだ。
武器商人であった千利休としては、実際のところは唐入りという大掛かりな戦をしてくれた方が莫大な利益を得ることができた。それでも利休が唐入りに反対したということは、それだけ国益に繋がらない大義なき戦だと唐入りは見られていたのだろう。そして実際二度に渡り行なわれた唐入りは、大義も成果も何もない戦で、ただただ大名たちを疲弊させただけで終わってしまった。
だが秀吉からすれば、力を持ち過ぎた大名の体力を失わせただけでも、唐入りは成功に値するものだったのかもしれない。だが立派な武将に成長していた豊臣秀次を切腹させてしまったことで、豊臣政権はその後大きく揺らぐことになってしまう。秀次は素行が悪かったとも伝えられているが、しかしそれは切腹を命じた際のでっち上げだと考えられている。実際の秀次は武士としての習い事も真面目に取り組み、勤勉であり、教養にも優れた人物だった。
詳しくはこちらの巻に記しているが、秀次は千利休の愛弟子でもあった。そのため唐入りを阻止するために二人が結託していた可能性も非常に高い。だからこそこのふたりが揃って見せしめとして切腹させられたと考えるのが自然ではないだろうか。
日の本全体としては決して成功とは言えない結果に終わった唐入りだが、しかし秀吉個人からすれば上述の通り唐入りは決して失敗ではなかった。だがその唐入りをめぐっての秀次の切腹などにより、その後豊臣政権が行き行かなくなってしまった。もし秀次に切腹を命じていなければ幼い秀頼が家督を継ぐ状況にもならず、豊臣政権も秀吉一代では終わっていなかったかもしれない。
だが秀次を失ってしまったことにより豊臣政権は大きく揺らぎ、秀吉の死後はあっさりと徳川家康に政権を乗っ取られてしまった。そういう意味に於いては秀吉の唐入りは、特に秀吉の死後は豊臣家に大きな爪痕を残す形となってしまった。
天正19年(1591年) 千利休切腹
文禄元年(1592年) 文禄の役
文禄4年(1595年) 豊臣秀次切腹
慶長2年(1597年) 慶長の役