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上杉謙信は戦国最強の大名だと言われている。自ら毘沙門天の化身を名乗り、義のための戦いを生涯続けた。戦場では軍神と化すその迫力、一騎打ちでは絶対的な強さを見せた姿は、確かに戦国最強の大名だと言えるかもしれない。しかし戦そのもの戦績を見返していくと、その勝率は決して高くはないのである。


上杉謙信は大名として生涯で100回を超える戦を経験しているのだが、その勝率は6割程度なのである。だが4割負けているというわけではなく、4割近くは引き分けに終わっているのだ。反面最も高い勝率を誇る毛利元就は8割を優に超え、戦の回数は謙信よりも20ほど少ないのだが、引き分けの数は謙信の1/3にも満たない。つまり負けも引き分けも少ないということだ。戦の勝率だけで見るならば、毛利元就を戦国最強と言うことができる。

だが上杉謙信の場合、他の大名が参戦しないような戦も戦っていた。義のための戦いだ。謙信は誰かに助けを求められると、それを決して断ることをしなかった。救援に出るとほとんど確実に勝って帰ってくるのだが、しかし謙信が去るとまた戦が再開されてしまう。そしてまた救援に向かう。上杉氏の関東遠征などはまさにその繰り返しだった。

上杉謙信が最も優れていたのは、負けない戦い方ではないだろうか。遠征を多く戦った謙信ではあるが、しかし決して無謀な戦いに挑むことはなかった。引き際を心得ており、義を果たしたと判断すると決して敵を深追いすることなく、すぐ越後に帰還していった。そのような判断力もあり、謙信は生涯で8回しか負け戦を経験していない。

最強と謳われる謙信の勝率は上述の通り6割程度なのだが、これは戦国大名としては10位くらいの戦績となる。だが謙信の場合、武田信玄と北条氏康との戦いが続いた時期があり、この3人に関してはそれぞれがそれぞれの勝率を下げる戦いを行っていた。そのため武田信玄にしても北条氏康にしても、勝率は謙信よりも少し上を行く程度とそれほど高くはない。

謙信の場合、実は戦よりも商才を高く評価すべきかもしれない。越後は海に面していたため、湊を使った貿易や商いによって資金力を高めていた。さらには武田信玄が塩を入手できずに苦しんでいると、すぐさま甲斐に塩商人を送り込み高値で塩を売らせた。「敵に塩を送る」の美談の元となった話だ。

通常、謙信ほど多くの遠征をしていては兵はすぐに疲弊してしまう。しかし資金力があったからこそいつでも武具を揃えることができ、兵にもしっかりと兵糧を分け与えることができた。だからこそ他の大名家よりも遥かに多く遠征を戦っているにもかかわらず、6割もの勝率を残しているのだろう。

地の利を得にくい遠征が多かったという意味では、それで6割の勝率を残しているのだから戦国最強と言っても良いのかもしれない。特に関東への遠征は、戦場にたどり着くまでに兵は多少なりとも疲れてしまう。その疲れた兵を駆使しての通算6割なのだから、やはり上杉謙信の統率力は並外れたものがあったのだろう。
uesugi.gif永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、今川家の家督を氏真が相続すると、今川家の衰退は止め処なく進行していった。その姿を見て武田信玄は今川家を見限り、当時締結していた武田・北条・今川による「甲相駿三国同盟」を永禄11年(1568年)に破棄し、さらに信玄は今川領である駿河を攻め自領としてしまった。

これに怒った今川氏真は「塩止め」を実施する。武田家は塩を駿河湾からの輸入で賄っていたのだが、氏真はこの塩を武田には売らないように塩商人たちに指示を出したのだ。これにより武田家のみならず、甲斐や信濃の民までも苦しめられてしまう。塩がなければ食料を保存することもできず、食べ物はどんどん腐っていってしまう。

この窮状を知り、上杉謙信は川中島で鎬を削っていた武田信玄に日本海産の塩を送ったという逸話が残っている。いわゆる「敵に塩を送る」という故事の語源だ。だがこれはあくまでも逸話であり、事実は少し異なる。

上杉謙信は武勇で名を馳せた武将であるわけだが、商業面でも優れた才覚を発揮していた。謙信は病死するまでに2万7140両という莫大な財産を築き上げていたわけだが、これは決して佐渡金山のお陰ではない。なぜなら佐渡金山が上杉家の物となったのは景勝の代になってからだからだ。では謙信はどのようにして財を成したのか?

謙信は直江津、寺泊、柏崎などの湊で「船道前(ふなどうまえ)」という関税を徴収していた。さらには越後上布(えちごじょうふ/上質な麻糸で織った軽くて薄い織物)を京で売るため、京に家臣を常駐させるなどしていた。このように関税や特産品によって謙信は財を成して行ったわけだが、そんな折に目をつけたのが塩不足で困っている武田信玄だった。

謙信は決して塩を信玄にプレゼントしたわけではない。そうではなく、越後の塩商人を甲斐に送り、通常よりも高い価格で塩を売ったに過ぎない。今では謙信の義の象徴として語り継がれる故事ではあるが、事実は謙信の商魂によるものだったのだ。そもそも謙信は武田信玄のやり方を嫌っていた。今回の塩止めに関しても、信玄が同盟を破棄して今川領駿河に攻め込んだ自業自得が生んだ出来事であり、謙信は決して信玄を救おうとしたわけではない。

謙信と信玄は永遠のライバルのようにも語られているが、謙信は決して信玄のことを良く思ってはいなかったという。逆に信玄は謙信という人物を高く評価していたようだ。ちなみに謙信は、武田勝頼という人物に関しては信玄のことよりも高く評価していた。それは織田信長とやり取りした書状に残されている。

「敵に塩を送る」という故事の語源は、このように決して美談ではなかったというわけだ。事実は謙信が、塩がなく困ったいた信玄の足元を見ただけの話なのである。だが他面に於いて義を貫き通した上杉謙信であるため、後世に書かれた書物によりいつの間にか美談化されていったようだ。

uesugi.gif上杉謙信は女性だったという説が実しやかに語られているが、某には謙信公が女性だったとは考えられない。謙信公を女性だとする説は、文献に毎月腹痛に悩んでいたということが記されており、これを月経だったと考えたり、死因として記されている大虫は女性の生理を意味すると説明している。

だが腹痛に悩んでいたのは上杉謙信だけではない。羽柴秀吉もよく腹を下していたことで有名だ。また、一部文献で書かれる大虫という死因だが、生理痛や更年期障害で命を落とすというのも考えにくい。ちなみに中国語で大虫は獣、主に老虎を意味する。

死因を大虫と書いた松平忠明は、もしかしたら上杉謙信の別名であった景虎、もしくは幼名虎千代にかけて、中国語の老虎を意味する大虫という言葉を「虎も老いて亡くなった」と洒落で使ったのではないだろうか。そんな考え方も、こじつけではあるができなくもない。

そもそも上杉謙信には3人の兄がいる。もし上杉家に男の子が生まれていなければ、世継ぎ不在を回避するため女の子を男の子として育てることも考えられたかもしれない。だが兄が3人もおり、姉もいるためあえて女の子を男の子として育てる必要はないと考えるのが普通だ。そのため幼名も虎千代と男の子の名前が付けられている。

戦国時代には確かに男勝りな女城主たちが存在していた。だがそれは決して一般的なことではなく、あくまでも非常手段でしかない。根本的に考えれば当時の時代背景に於いて、歴戦の武将たちが女性の下につくことを良しとするはずがない。そしていくら隠そうとも、女性の男装が何十年にも渡りバレないということも考えにくい。本当に生理になっていたとすれば、当時であれば着衣が生理によって汚れもしただろう。

上杉謙信は女性だった。と言うことは夢があってもとても面白いと思う。だがそれはあくまでも小説の世界の話だ。生涯独身を貫いたことも女性説を唱える要因になっているが、逆に上洛した際には遊郭に通ったという逸話も残っているし、男色が今ほど異色扱いされていなかった戦国時代であれば、同性愛者だった可能性だってあるだろう。このように可能性をたどっていけば切りがなく、女性説を裏付ける根拠も何一つ残されていない。

イスパニア(スペイン)の文献に「謙信は景勝(謙信の養子)の叔母」と記されているものがあるようだが、これに関しても根拠としては内容が非常に乏しく、日本語がよくわからないイスパニア人が勘違いした可能性だって高いだろう。そもそも謙信が女性であったならば景勝の叔母ではなく、景勝の母になる。この点からして勘違いしているため、イスパニアのこの文献を謙信女性説の根拠にすることはできない。

さらに肖像画のヒゲの描かれ方が戦国武将らしくなく、女性に取って付けたような無精髭であるという考えられ方もされているが、しかし戦国時代に描かれた謙信公の肖像画は現存していない。つまり現在残されている肖像画はすべて、謙信公の顔を見たことがない肖像画家が描いたものなのだ。そのためどれだけ謙信公が忠実に描かれているのかは未知数だと言える。

このような観点から、上杉謙信は女性だったという説は、まだファンタジーの域を出ないと某は考えているのである。だが今後もっと歴史調査が進んでいけば、もしかしたら謙信公が女性だったという確たる証拠が出てくるかもしれない。それまでは夢やファンタジーとして謙信公女性説を楽しみたいと思う。