第一次上田合戦以降、真田家と徳川家の間には険悪なムードが漂い続けていた。まさに一触即発といった状況で、家康としては状況さえ許せばすぐにでも真田を潰してしまいたい思いだった。自ら真田のために築いた上田城で、自ら真田に大敗を喫してしまったのも家康としては内心忸怩たる思いだったはずだ。
この頃の真田は上杉家の庇護を受けており、弁丸(のちの真田信繁、通称幸村)が人質として送られていた。第一次上田合戦では母山之手殿を海津城に代わりの人質として送ることにより一時的な帰国と、上田合戦への参加を許されはしたが、あくまでも弁丸は上杉家の人質という立場だった。
真田昌幸は徳川対策を考え始める。もちろん上杉の傘下に入ったことがその一つではあるのだが、同時に羽柴秀吉とも交渉を進めていたようだ。一説では秀吉と交渉をすることは、上杉側から許可をもらっていたと言う。義の上杉に対し、義を立てて接した昌幸と思いきや、これもやはり昌幸一流の芝居だった。
昌幸の交渉が実り、秀吉が真田と徳川の仲裁をしてくれることが決まった。その条件として秀吉は真田昌幸に人質を求めたわけだが、その人質として昌幸は弁丸を送ろうとする。だが弁丸はもちろんまだ上杉家の人質だ。一人の人間がふたつの家の人質になることはできない。では昌幸は一体どのようにしたのか?
天正14年(1586年)6月、上杉景勝は羽柴秀吉の軍門に下り上洛することになった。昌幸はこの隙を突き春日山城から勝手に弁丸を奪還してしまったのだった。上杉景勝はさすがに怒りを露わにするが、しかし弁丸が再び送られた先は羽柴秀吉の元であり、これにより真田家は羽柴家の臣下となっていた。つまり上杉が真田を攻撃するということは、上杉が羽柴を攻めるのに等しい行為であり、これは当然謀反となってしまう。そのため景勝は真田に対し何も行動を起こすことができなかったのだ。
真田昌幸はそこまで予測し、弁丸の奪還を実行した。秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれたのもこの辺りの出来事が所以となっているのだろう。だが結果的には第一次上田合戦の翌年、秀吉の仲裁により真田家と徳川家の和睦が成立した。上杉家はこの和睦を実現させるために利用された形となったわけだが、昌幸は最初からその腹づもりだったようだ。
真田と徳川の全面戦争になれば、さすがの謀将真田昌幸にも勝ち目はない。国力に差があり過ぎるのだ。つまり徳川との火種をいつまでも燻らせていては、いつか徳川に真田が滅ぼされると昌幸は考えていた。昌幸の目的はあくまでも真田の家の存続だ。真田の家と真田の郷を守ることに命を賭している。そして真田を守れるのであれば手段など問わないのが昌幸のやり方だった。
この一連の流れにより真田は上杉とも険悪になってしまうのだが、しかしこれは後々解消されていくようだ。恐らく景勝自身、真田はそうまでしなければ家を守ることができなかったと考えるようになり、そして許したのだろう。だからこそ関ヶ原の戦いで真田と上杉は同じ西軍として石田三成に味方し、徳川家康を敵に回し戦ったのだろう。
天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼が
天門山の戦いに敗れ自刃したことにより武田家が滅亡すると、その武田の旧領を他家や国衆たちが奪い合った。これを「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」というわけだが、ここで最も大きくぶつかり合ったのが徳川家康と北条氏政・氏直父子だった。この時真田昌幸は徳川家康に味方をし、策を巡らすことにより北条軍を撃退している。だが徳川と北条の戦いも、家康と氏政が和睦を結んだことにより唐突に終結してしまった。
だがその後が問題だった。和睦が締結した後には必ず国分けという、大名同士の境界線を設定する作業があるのだが、この国分けが、真田家にとって不都合なものとなってしまったのだ。多くの小説やNHK大河ドラマ『真田丸』では、真田が所有していた沼田領を家康が勝手に北条に譲ってしまったように描かれている。だがこれは事実ではない。恐らく物語を面白くするために原作者たちが脚色したのだろう。
事実としては、真田家にとって不都合なのは変わりないわけだが、北条が武力を以ってして沼田領が含まれる上野(こうずけ)を制圧することを家康が認めるという内容の和睦だったようだ。つまり家康が勝手に沼田領を北条に譲渡し、その上で真田に沼田を明け渡すように言ったわけではないのだ。
この和睦内容により、北条はすぐに沼田攻めを開始した。この攻撃により真田は中山城を奪われてしまったが、それでも沼田城代を務めていた矢沢頼綱(真田幸隆の弟で、昌幸の叔父)の奮闘により何とか沼田城は死守することができた。この後も北条の攻撃は続くのだが、それにより沼田城が落ちることはなかった。
天正11年になると、真田の本拠である小県郡で、国衆が蜂起するという出来事が起こってしまう。真田昌幸はその鎮圧に苦労し、家康にも援軍を求めている。そしてその流れで昌幸はどさくさに紛れて上杉景勝を刺激しようと企てる。この時の真田は徳川に従っていたため、真田が上杉領に侵攻すれば、上杉は徳川を攻めることになってしまう。
事実上杉の徳川への牽制が入るわけだが、上杉に攻め込まれないようにと昌幸は上田に城を築くことを家康に提言する。上田は、上杉領である虚空蔵山城(こくぞうさんじょう)の目と鼻の先だ。だが真田家の力だけでは簡単に城を築くことはできない。そのため昌幸は、上田に城を築くことが上杉を抑えるためにも、徳川にとっての得策であると家康を説得し、上田城を家康に作らせることに成功した。
だが同じ頃、城の請取を求めに沼田城に入った北条の使者を矢沢頼綱が斬り捨ててしまうという事件が起こった。実はこれは昌幸の策略だった。矢沢頼綱に北条の使者を斬らせ、それを手土産に叔父矢沢頼綱を単独で上杉に寝返らせた。この時代で使者を切り捨てるということは、相手に対し宣戦布告をしたことになる。つまり昌幸は沼田城を守るために上杉の義を利用しようとしたのだ。上杉は助けを求める者は必ず助ける。それを昌幸が逆手に取ったのだった。
これにより困ったのは家康だ。北条に対しては切り取り次第北条領にして良いと密約を結んだ沼田領の援軍として、上杉がやってくることになったのだ。これでは北条も簡単に沼田城を攻めることはできなくなるし、上杉が動けば北条は本領を手薄にはできなくなる。当然家康自身も徳川に従う形となっている真田をここで攻めるわけにはいかない。形式上上杉に寝返ったのは矢沢頼綱だけなのだから。
この状況に困った家康は小県群の国衆である室賀正武を上手く言いくるめ、昌幸の暗殺を企てる。だがこの暗殺を事前に察知していた昌幸は室賀を返り討ちにしたことで、逆に室賀の所領を奪い取り勢力を増すことに成功した。家康としては暗殺の失敗によりますます状況が悪化してしまったというわけだ。
上田城は、沼田城の件の侘びのつもりで家康が築城を許したと伝えられている。つまり家康側からすれば「徳川で上田城を作り進呈するから、沼田は北条に譲ってくれ」という思惑だ。だが真田昌幸は上田城をありがたく頂戴したあげく、沼田城の引き渡しは拒否し続けたのだった。
この一連の騒動により、真田と徳川の関係は日に日に悪化していく。そもそも昌幸は、天正壬午の乱で真田が徳川に味方した直後に、家康が沼田領攻めを北条に対し容認したことで、家康への不信感を募らせ徳川から離れる時期を早々から図っていた。そしてその時期は天正13年6月にやってくる。昌幸は徳川と絶縁し、次男である弁丸(のちの真田信繁)を人質として送ることにより、上杉に従属していった。
ここで真田と徳川は正式に敵対関係となり、徳川が真田昌幸の居城となっていた上田城に侵攻し、
第一次上田合戦が始まっていくのである。それにしても自分で作って真田昌幸に与えた城を自分で攻めることになるとは、家康からすれば実に皮肉な出来事となってしまった。
NHK大河ドラマ『真田丸』の主人公でもある真田幸村とは、一体どのような人物だったのだろうか。歴史ファンの間で幸村の人気は非常に高いわけだが、しかしそれほど多くの武功を立てた人物ではない。確かに徳川との戦いで強さを見せてきたわけだが、その多くの戦を父真田昌幸と共に戦っている。つまり幸村のみの采配で戦った戦はほとんどないのだ。
幸村の出生にはいくつか説がある。永禄10年(1567年)出生説、元亀元年(1570年)2月2日出生説、元亀2年出生説だ。いくつかある説の中で、幸村の行動を照らし合わせていくと元亀元年出生説が歴史研究家たちの間では最も現実的となるようだ。
父親は言わずと知れた真田昌幸で、兄は真田信之、母は山之手殿。幼名は弁丸で、後に真田源次郎信繁、通称真田幸村となる。この真田幸村の名前が歴史上に最初に登場するのは天正壬午(じんご)の乱となる。天正壬午の乱とは、織田信長が本能寺の変で討たれた直後に起こった出来事のことだ。この時武田の旧領はは滝川一益が治めていたのだが、本能寺の変が起こると清洲会議に出席するため、元の領主に返還し自領に戻って行った。
この武田の旧領を徳川、北条、上杉、真田で奪い合うわけだが、これが主に天正壬午の乱と言われている。そしてこの時幸村がどのように登場するかと言えば、まずは本能寺の変の前、武田が滅亡した際だ。天正10年3月3日、本能寺の変が起こるちょうど3ヵ月前。武田勝頼は普請したばかりで完成も間近だった新府城に火を放ち、城が敵の手に落ちないようにし、岩殿城へと落ち延びようとした。
この時幸村は兄信之、母山之手殿らと共に真田の本領である岩櫃(いわびつ)城への帰還を許された。だがその道のりは落ち武者狩りと絶えず遭遇し続ける過酷なものだったようだ。これが幸村の名前が歴史上に最初に登場した場面となるわけだが、この直後、天正壬午の乱に突入すると再び名前が登場してくる。
しかしこの時も戦で活躍したという記述ではなく、祖母と共に滝川一益の人質になったという記録だ。元亀元年出生説であればこの時幸村は12歳で、永禄10年説だったとしても15歳という年齢だ。NHK大河ドラマではこの幸村を堺雅人さんが演じているわけだが、さすがに年齢設定に無理があるのでは、と某は見ていて感じてしまった。
滝川一益が無事信濃を脱出すると、人質であった幸村たちは木曽福島城の木曽義昌に引き渡され、その後9月に真田本領に無事返されている。若き日の幸村はとにかく人質生活が多かった。この後も天正13年(1585年)には上杉景勝の人質とされ、天正15年には豊臣秀吉の人質とされている。
人質となった幸村だが、他の人質とはまるで違っていた。上杉景勝はすぐに幸村の力量に気づき、人質としてではなく1000貫の知行を与え、臣下として迎え入れた。そして元服を迎えた頃に送られた豊臣家では、後に豊臣姓を賜るほど秀吉に気に入られている。幸村は人質でありながらも、臣下としても仕え力を与えられた珍しい武将だったのだ。
これが若き日の幸村の日々であり、戦に主力として参加したという記録はほとんどない。恐らく最初に大きな戦に加わるのは天正13年の第一次上田合戦となるのだろう。この時幸村はすでに上杉の人質だったわけだが、景勝は幸村の参陣を許した。これは異例中の異例だ。通常では人質を返すということはどのような状況でもほとんど考えられない。だが義将上杉景勝は、真田幸村の義を信じたのだろう。上田での戦で父昌幸の手助けをしに帰ることを許した。
ただこの参陣に関しても、歴史学的には「可能性があった」という話に留まり、実際に参陣していたのかどうかはまだ明確にはなっていないようだ。しかし上杉景勝という人物を見ていくと、幸村の参陣を認めた可能性は高いように感じられる。
ちなみに幸村は、第一次上田合戦で真田が上杉に援軍を求めるために送られた人質だった。にも関わらず景勝が本当に幸村の参陣を許したのだとすれば、これほど男気溢れる武将もそうはいないのではないだろうか。非常に無口であったためあまりスポットライトが当たらない武将ではあるが、上杉景勝の度量は謙信にも劣ってはいなかったように感じられる。
今回は若き日の幸村をダイジェストで記して行ったが、今後は上田合戦などをまた細かく書いていきたいと思う。