「黒田官兵衛」と一致するもの
戦国時代の軍師の存在、意味とは一体どのようなものだったのか。軍師という言葉は歴史ドラマなどでもよく耳にすることがあるが、実際にはどのような役割を担っていたのか。この巻では軍師の役割について詳しく解説してきたいと思います。
織田信長という人物は時に、冷酷非道な人物として語れることがある。それはやはり比叡山を焼き討ちにし女子供問わず殺させたり、浅井父子・朝倉義景の髑髏(しゃれこうべ)に金箔を塗って飾らせたり、自らを裏切った荒木村重の一族を皆殺しにしたりと、このような行動を取ってきたことに影響している。だが本当の信長は、実は愛情深い男だったのだ。
関ヶ原の戦いで西軍を裏切った大名の代表格としていつも語られるのは、小早川秀秋だ。だがなぜ小早川秀秋は豊臣秀吉の正室、高台院(寧々、北政所)の甥でありながら西軍豊臣秀頼ではなく、東軍徳川家康に味方したのだろうか?実は秀秋を東軍に寝返らせるための調略を行ったのも、黒田長政だったのである。まさに黒田長政は東軍勝利の大立役者なのだ。
慶長5年(1600年)9月15日に開戦された関ヶ原の戦い、一般的には東軍徳川家康が勝つべくして勝ったと理解されている。だが決して楽な戦いではなく、実は開戦する以前の前哨戦に於いては家康は賊軍に成り下がる可能性すらあった。いや、事実賊軍として見做され、一時は身動きが取れない状況にも陥っていた。だがこの危機を救ったのが黒田長政、つまり黒田官兵衛の息子だったのだ。
武田信玄は「風林火山」の旗印でも有名な戦国大名であるわけだが、この風林火山とは『孫子』という兵法書に書かれている一節だ。疾きこと風の如し、静かなること林の如し、侵略すること火の如し、動かざること山の如し、という意味となる。戦国時代に『孫子』を愛読した武将は多い。例えば戦わずして勝つことにこだわった竹中半兵衛も『孫子』を学んだひとりだ。
筆者オススメの『孫子』
戦国時代に使われていた名前は、生涯のうちで何度も変わることも多かった。例えば豊臣秀吉などは、若い頃は木下藤吉郎、その後木下藤吉郎秀吉、羽柴秀吉と変わり、最後は天皇から苗字を賜り豊臣秀吉と名乗った。今回は戦国時代の名前、呼び方について少し書き留めておきたい。
諱は時の権力者から一字もらうことが多い
戦国武将たちがまず与えられる名前は幼名(ようみょう)だ。幼名とはその名の通り生まれてすぐ付けられる名前のことで、織田信長であれば幼少期は吉法師、真田信繁であれば弁丸と名乗っていた。13歳を過ぎると男子は元服していくのだが、元服をするまではこの幼名を名乗ることになる。
元服をすませると諱(いみな)と、烏帽子親(えぼしおや)によって仮名(けみょう)が与えられる。「真田」が苗字、「源次郎」が仮名、「信繁」が諱、ということになり、諱は時の権力者などから一字もらうことが多い。信繁の場合は武田信玄から一字もらった形だ。
織田信長のことを「信長様」と呼ぶことは非常に失礼なことだった
官位を持っていない武将の場合、仮名で呼ばれることが一般的で、諱で呼ばれることはほとんどない。特に位の高い相手を諱で呼ぶことは失礼に当たり、「信長様」と呼ぶことはまずない。信長は晩年右大臣に就いていたのだが、その役職から信長は「右府(うふ)様」と呼ばれていた。
なお諱というのは元々は、生前の徳行によって死後に贈られる称号のことで、諡(おくりな)とも言われる。漢字も本来は「忌み名」と書くことから、相手を諱で呼ぶことはほとんどなかった。真田源次郎信繁は「源次郎」、竹中半兵衛重治であれば「半兵衛」、黒田官兵衛孝高であれば「官兵衛」と仮名で呼ばれていた。ちなみに信長の仮名は三郎だ。
テレビではわかりやすいように諱で呼ばせている?!
例えば石田三成はテレビドラマなどでは「治部少(じぶのしょう)」や「治部殿」と官途(かんど)で呼ばれているが、やはり諱で呼ばれることはななく、官職が与えられる前は仮名である「佐吉」と呼ばれていた。
テレビドラマでは時々、諱で「信長様」「秀吉様」と呼ぶ場面が見られるが、実際にそう呼ばれることはなかった。ドラマの場合は視聴者にわかりやすいように、あえて諱で呼ばせているのだろう。だが大河ドラマなど、最近のドラマでは比較的官途が使われていることが多いように感じられる。例えば徳川家康のことも「内府(だいふ)殿」と呼ばせることが多い。
家康を内府(ないふ)殿と呼ぶのは実は間違い!?
なお治部少(じぶのしょう)というのは明での読み方となる。日本語では「おさむるつかさ」と読むようで、戦国時代当時は役職を唐名(とうみょう)で読むことが一般的だった。現代に於いては、最高経営責任者のことをCEOと英語で呼ぶようなものだ。また、徳川家康のことを内府(ないふ)と呼んでいるドラマもあるが、これは恐らくは間違いだと思う。内府(ないふ)というのは明治憲法下での呼び方であり、戦国時代では内府(だいふ)と唐名で呼ぶのが正解だ。
羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち、その経緯を記した軍記物(現代で言うところの歴史小説)を書かせた際、題名は『惟任退治記』だった。この頃の明智光秀は、惟任日向守光秀と名乗っていた。惟任とは天皇から与えられる氏(うじ)であり、源、平、藤原、橘、豊臣などと同じ部類のものとなる。主君信長を討った光秀のことさえも諱では呼ばず、氏で呼んでいることから、やはり当時は諱で呼ぶことが相当憚られていたのだろう。ちなみに光秀の仮名は十兵衛だった。
最後に付け加えておくと、この諱によって引き起こされた事件があった。方広寺鐘銘事件だ。この事件がきっかけで大坂冬の陣が勃発したわけだが、この時は豊臣方が鐘に「家康」と諱を使ったことを理由にし、家康は大坂城を攻める口実としている。