「豊臣秀吉」と一致するもの

千利休は本当はどのような理由で秀吉の怒りを買ったのか?

刎ねた利休の首を踏みつけさせる異常さを見せる怒り狂った秀吉

天正19年2月28日(1591年)、千利休は豊臣秀吉から切腹を命じられた。その理由は茶器を法外な値段で売りつけ私腹を肥やしているため、というものだった。そして切腹した後は京都一条戻橋で晒し首にされ、大徳寺山門に置かれていた利休の木像も磔にされ、しかもその像に利休の首を踏ませるという異常なものだった。利休はそれほどまでに秀吉の怒りを買ったらしいのだ。

当然だが茶器を高く売った程度で受ける程度の処罰ではない。そもそも利休は信長、秀吉に仕えた政商であり、政権を運営するための資金集めを任されていた人物だ。そして鉄砲など武器の調達も任されていた。つまり茶人千利休の本業は実は商人だったというわけだ。

利休が切腹させられた翌年、秀吉は唐入りを決行している。つまり朝鮮出兵だ。この朝鮮出兵については当時は何年も前から噂が流れており、多くの武将が秀吉がいつかは朝鮮に攻め込むであろうと考えていた。だが朝鮮に攻め込みたい武将など一人もいない。見ず知らずの国で、言葉さえも通じないのだ。そんな国を攻めて領土を与えられたとしても何も嬉しくはない、それが武将たちの総意だった。

だがこの頃、秀吉に諫言できる家臣は一人もおらず、唯一利休だけが物怖じすることなく秀吉に思ったことを伝え続けていた。そのため武将たちは利休の茶室を訪れては秀吉に朝鮮出兵を思い留まらせて欲しいと懇願していたのだ。

利休のクーデーターを恐れた秀吉

多くの武将が利休を訪ねているという噂は秀吉の耳にも入り、これより秀吉は、利休が家臣たちを結託させようとしていると疑念を抱き始める。そんな疑念が強まる中、利休は秀吉に対し朝鮮出兵をやめるようにと言ってきた。秀吉はこのまま利休を放っておけば、影で家臣たちを束ねクーデターを起こしかねないと考えたのだった。

秀吉は何よりも、自分を差し置いて家臣たちが利休を頼っていることが許せなかった。まるで秀吉の政策が、利休によって作られているかのように秀吉には感じられたのかもしれない。

だが利休が唐入りに反対したという理由だけで切腹を命じるわけにはいかない。何故ならそんなことをしては、唐入りに対しさらに風当たりが強くなってしまうからだ。そのため利休自身に何か罪を被せなければならない。それが茶器を法外な値段で売っているというものだった。

一族への報復を恐れ切腹命令に背けなかった千利休

ちなみに戦国時代に於ける茶器はステータスであり、茶碗ひとつで城や国が買えてしまうほどの名器もあった。そういう意味では利休も確かに法外な値段で茶器を売っていたのだと思う。だがそれは利休に限った話ではないことも確かだ。秀吉自身も金に糸目をつけず茶器を買い漁っていた一人なのだから。

利休自身、辞世の句などでこの切腹に納得していない気持ちを遺している。しかしだからと言って秀吉に楯突くことはできない。そんなことをしてしまえば利休だけではなく、一族にも危害が及んでしまうからだ。だからこそ利休は娘のお亀に対してのみ、密かに言葉を遺した。

利休が切腹させられた翌年に唐入りは実現してしまう。かつては信長も計画していた唐入りだったが、信長も唐入り計画に対する不安を持った家臣に討たれてしまい、秀吉もまた唐入りを実現させたことで求心力を失った。だがその反面、唐入りを封印して世論を味方につけ幕府を開いたのが徳川家康だったというわけだ。

真田幸村

年配に多い豊臣秀吉信奉者と、若者に人気の真田幸村

2016年NHK大河ドラマ『真田丸』の主人公としても注目されていた人物、真田信繁こと通称幸村。真田家は大名と呼ぶことはできない土豪出身の一族であり、常に時の有力大名に臣従することにより家を守ってきた。信長、秀吉、家康のように天下を動かしたわけではなく、歴史を動かすような特別大きな武功を挙げたわけでもない。それなのに真田幸村という人物は、今なお歴史ファンから愛された存在で居続けている。

筆者の個人的感想を言わせてもらえるなら、第二次大戦を経験している年代は特に豊臣秀吉が好きな方が多い印象がある。特に中国との戦争を体験していたり、それをよく知る世代の方は秀吉を尊敬しているという方が多い。これには理由があり、かつての大日本帝国軍が中国に侵攻した際、日本政府は豊臣秀吉を英雄として担ぎ上げていた。その理由は戦国時代に秀吉が朝鮮に侵攻していたためだ。当時の日本政府は秀吉を祭り上げ、中国への侵攻を正当化しようとしていたのだ。いわゆるプロバガンダだ。

その影響からか、年配の方に秀吉を尊敬している方が多いように感じられる。だがそれよりも若い世代となると、義に厚く、散り樣が見事だった武将の人気が高まってくる。その中でも一番人気がある人物のひとりが真田幸村だ。

父とは逆に義を貫き散っていった真田幸村

真田幸村の父昌幸は、謀略を得意とする知将だった。謀(はかりごと)が何よりも得意で、真田家を守るためであれば義など二の次だった。事実昌幸は秀吉から「表裏非興の者」と呼ばれ、仕える相手をその時々の都合により目まぐるしく変えていくことを揶揄されている。だが昌幸はそんなことお構いなしとばかりに、真田の家を守ることだけに注力していく。

一方の幸村は義に厚い人物として知られている。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、大坂城で最も守備が弱いとされていた南側の守りを受け持ち、かの有名な真田丸という丸馬出(まるうまだし/城の出入り口外側に作られた半円状をした、守備用の土塁)で徳川勢を大いに苦しめた。

この時の豊臣方は家康に対し疑心も持っていたり、豊臣家にかつて仕えていた浪人が中心で、10万という大軍だったと伝えられているが、しかし団結していたかといえば決してそんなことはなかった。まさに寄せ集め集団で、戦術さえもまともに話し合えないような状況だった。それでも幸村は豊臣への恩顧があったため、浪人の身でありながら豊臣勢として大坂城に駆けつけた。

そして慶長20年の大坂夏の陣では、豊臣方敗色濃厚という状況で豊臣方を見限る武将も多かった中、幸村は最期まで豊臣勢として戦い続けた。3,000の幸村勢は、1万の大軍を率いる伊達政宗の侵攻を防ぐなど奮闘し、さらには家康の本陣に肉薄する猛攻を見せるも、しかし真田軍に続く豊臣方の味方がおらず、最後にはとうとう徳川方の大軍の前に力尽きてしまった。

このように義を貫き通し、最期は桜のように見事な散り樣を見せた幸村の姿が、戦国ファンの心を惹きつけてやまないのであろう。戦国時代記では、これから真田幸村の生き様を深く掘り下げていきたいと思う。

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2020年1月19日、紆余曲折を経ながらいよいよ始まる『麒麟がくる』。これは言うまでもなく明智光秀の生涯を追った大河ドラマであり、戦国時代のど真ん中を描いた作品となる。では麒麟とは一体何物なのか?劇中、若き明智十兵衛光秀は太平の世になれば麒麟が現れると信じている。麒麟とは中国の伝説上の生き物のこと。

麒麟とは仁のある政治が行われると現れる瑞獣

中国語で「チーリン」と発音する麒麟(きりん)は、体調は5メートルほどで、龍の顔、鹿のような体と角、牛の尾、馬の蹄を持ち、体は黄色く鱗を持つと言われている。中国の古書『礼記(らいき)』には、王が仁のある政治を行うと現れる瑞獣(ずいじゅう)だとされている。

日本や朝鮮半島ではその姿が似ているということもあり、動物園にいる首の長いキリンが、麒麟同様「キリン」という名で呼ばれている。キリンに似た生き物が麒麟となったのではなく、麒麟に似た動物がキリンと呼ばれるようになった。大昔には麒麟にその姿が似ていたことから、キリンが権力者の間で寵愛を受けたということもあったと言う。

人物像が明確に遺されていない明智光秀という人

劇中の十兵衛は辛い境遇に遭いながらも、夢と希望を失わず、麒麟の出現を待ちわびる実直な人物として描かれていくようだ。史実においては明智光秀という人物は、まだ多くの謎に包まれている。明智光秀に関する多くの悪評は、光秀の死後、豊臣秀吉によって捏造されたものであるケースが多い。

『惟任退治記』という、秀吉が光秀を討った際の出来事が書かれたこの本も、秀吉の命によって書かれたものであり、決して真実が語られているわけではない。つまりは小説であり、ノンフィクションではない。信長、秀吉、家康のように、その人柄まで克明に書き遺されている人物とは異なり、明智光秀という人物像を史実通りに描くことはとても難しい。そのため劇中では、新しい光秀像が生み出されるのではないか、という期待も膨らんでくる。

大河ドラマは決してノンフィクションではない

しかし大河ドラマはあくまでもドラマであり、やはりノンフィクションではない。明智憲三郎氏のように、史実のみを追い求める方にとってはきっと不満も募る内容になるのだと思う。もちろん筆者も明智憲三郎氏同様史実を知りたい。しかし今年の大河ドラマに関しては史実のみに捕らわれることなく、ドラマをドラマとして楽しみたいと思う。

とはいえ、楽しみながらも戦国時代記ではドラマと史実の相違点にも注目していきたい。果たして劇中、明智光秀は麒麟を目にすることができるのか、本能寺の変はどのように描かれるのか、そしてどの登場人物が実在し、どの登場人物が架空の人物なのかについてもご紹介していければと思っています。ということで、初回放送が今から待ち遠しい限りです。本当に楽しみですね!

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細川ガラシャという人は、戦国時代の最も敬虔なキリシタンとしてその名を知られている。しかしガラシャというのは洗礼名であり、実際にガラシャと呼ばれていたわけではない。実際の名は細川玉(珠)と言い、当時玉というのは非常に貴重なものを意味し、それをラテン語に直した言葉がグラティアで、ガラシャという洗礼名はここから取られたと言う。そして当時ガラシャの周囲にはスペイン語を話す宣教師がいたようで、スペイン語の発音グラァシァが訛りガラシャとなっていったようだ。

生涯たった一度しか教会に行けなかったガラシャ

細川玉でもなく、明智玉でもなく、ガラシャという洗礼名で名を残すほど敬虔なキリシタンであったガラシャだが、しかし教会に足を運んだのは37年の生涯のうちたった一度だけだった。それは天正15年(1587年)のイースターの祝日の正午頃だった。夫である細川忠興が九州に遠征した際、ガラシャは侍女たちと結託し、屋敷の者たちの目を盗み抜け出し、初めて大坂のカトリック教会へと足を運んだ。ガラシャが教会を訪れたのは後にも先にもただこの一度だけだった。

ガラシャがキリシタンの存在を知ったのは忠興との会話からだった。忠興は親交のあるキリシタン大名高山右近から、よくキリシタンに関する話を聞かされていた。そして忠興がその話をガラシャに聞かせているうちに、ガラシャの中のキリシタンへの関心がどんどん膨らんでいく。その強い関心が、屋敷を抜け出して教会に足を運ぶという大胆な行動を彼女に取らせたのだった。

教会でガラシャに対応したのはセスペデス司祭と高井コスメ

ガラシャは数人の侍女と教会を訪れ、名も身分も明かさずに教示を求めた。その時教会にいたのはグレゴリオ・デ・セスペデスという司祭だけだったが、どうやら彼はまだ日本語が堪能ではなかったらしく、高井コスメという人物が戻るまでガラシャには待ってもらい、コスメにガラシャへの説明を任せたらしい。コスメはこの時のガラシャを「ここまで理解力があり、ここまで日本の各宗派のことを詳しく知っている女性には今まで会ったことがない」と後に評している。ガラシャは戦国時代を代表する美女としても知られるが、それだけではなく、頭も切れる人物だったと記録されている。

ガラシャはこれまで抱いていた疑問のすべてをコスメにぶつけた。そしてコスメの話によりキリシタンへの理解をさらに深めると、ガラシャはその場で洗礼を受けたいと強く願い出る。しかしセスペデスがそれを許さなかった。その理由は、名を名乗らぬ目の前の女性はいかにも貴婦人であり、その身分がわからないうちは豊臣秀吉の側室である可能性を否めなかったからだ。天正15年と言えば秀吉がバテレン追放令を出した年で、教会としては秀吉の機嫌を損ねる行為だけは絶対に避ける必要があった。その危険を冒さないためにも、セスペデスは身分がわからないうちは洗礼を与えるべきではないと考えた。

そして何かと理由をつけて洗礼は次に教会に訪れた時にするのが一番だとコスメがガラシャを説得している最中に、ガラシャの不在に気付いた細川家の人間が教会まで探しに来て、ガラシャはそのまま輿に乗せられ連れ戻されてしまった。この時セスペデスは密かに、部下に輿の後とつけさせていた。するとその輿は細川屋敷へと入っていき、セスペデスはその報告を受けて初めて彼女が細川忠興の夫人だったと知ることになる。

清原マリアによって洗礼を与えられガラシャとなった細川玉

ガラシャは同年、細川家の17人と共に洗礼を受けた。この時洗礼を与えたのは、セスペデスの上司に当たるオルガンティーノという司祭から、洗礼を与える手順を指導された清原マリアという、ガラシャの側で尽くした細川家の侍女だった。本来であれば洗礼は司祭にしか行うことができないのだが、この時は忠興によってガラシャが屋敷に監禁状態にされていた事情もあり、細川屋敷に住みすでに洗礼を受けていたマリアが教会から派遣されるという形で、司祭の代わりにガラシャたちに代洗という形で洗礼を授けていった。

前述した通り天正15年は秀吉によってバテレン追放令が出され、司祭たちは次々と大阪を去っていくことになる。ガラシャは彼らが大阪を去る前に洗礼を受けることを強く望んだが、しかしだからと言ってオルガンティーノやセスペデスが細川屋敷に行くことも簡単ではなかった。そこでガラシャは長持ちの中に隠れて教会に行くという危険を犯そうとしたが、あまりにも危険な行動だと感じた司祭たちがそれを制止したと言う。

しかし清原マリアによってガラシャたちは屋敷から出ることなく無事洗礼を受けることができた。そしてこの日から慶長5年(1600年)までの13年間を、玉はガラシャとして、キリシタンとして生きることになっていく。しかしキリシタンになったことで彼女の運命はさらに過酷なものとなり、関ヶ原の戦いを直前に控え、ガラシャは壮絶な最期を迎えることになっていく。

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明智光秀の正室の名は煕子(ひろこ)と伝えられているが、この名前は正確に伝えられてきた名前ではなく、『氷点』などで知られる故三浦綾子さんが書かれた『細川ガラシャ夫人』という1975年に発表された小説以来、煕子という名で周知されていったようだ。それ以前はお牧の方や、伏屋姫と呼ばれていたようだが、これらに関しても正確な名であるという資料は残されていない。ただはっきりしているのは、妻木範煕の娘ということだけで、三浦綾子さんはこの父親の名から煕子と設定されたようだ。

幼馴染みだった明智光秀と煕子

光秀が生まれた当時の明智家は決して大きな力は持ち合わせておらず、美濃の小土豪に過ぎなかった。光秀自身も明智家の居館で生まれることはなかったようで、高木家の居城だった美濃の多羅城で生まれている。そして幼少期は妻木家の庇護を受けながら成長したようだ。だが幼少期の彦太郎ことのちの明智光秀は周囲からの評価は非常に高く、斎藤道三をして「万人の将となる人相」をしていたと言う。

そのようなこともあり彦太郎は妻木家からある程度安定した生活を送れるだけの庇護を受けながら育ち、自然な流れとして、元服した明智十兵衛光秀は幼馴染みでもあった妻木範煕の娘、煕子(便宜上そう呼ぶことにする)を娶った。弘治2年(1556年)に斎藤義龍によって明智城を落とされ越前に落ちた際煕子は身籠っていたというから、二人の婚姻は少なくとも1556年以前ということになるわけだが、正確な日付を知ることのできる資料はまだ発見されてはいないようだ。ただ、弘治2年に光秀はすでに29歳だったと言われていることから、婚姻関係を結んだのは一般的にはその10年以上前のことだと思われる。

黒髪を売って光秀を支えたと伝えられる煕子

光秀が越前の朝倉氏に出仕していた頃、光秀は歌会を催すための資金繰りに悩んでいた。その際に煕子が黒髪を売ってお金の工面をしたというエピソードが伝えられているが、これは後年の創作である可能性が非常に高い。まず妻木氏はこの当時、小土豪だった明智家を保護できるだけの力を持っていた。それだけ力を持った家の娘が仮にお金を工面するために黒髪を売ったとなれば、光秀としては妻木家の面汚しとなってしまう。あくまでも筆者の想像ではあるが、恐らくは黒髪を売ったのではなく、売ろうとしただけではなかっただろうか。そしてそうせざるを得ない窮状を父に相談し、実際には煕子の父親である妻木範煕(広忠と同一人物である可能性もある)が支援したと考える方が自然に感じられる。

通常女性が黒髪を切ったり剃髪するのは出家した時だ。しかし煕子は出家などしていないため、仮に出家していないのに髪を切り法師頭巾などを被っていれば、これは戦国時代では非常に不自然な光景として映ってしまう。そのため煕子の実家がそうなることを決して許さなかったはずだ。もちろん実際に髪を売ってお金を工面したのかもしれないが、しかし時代と、妻木家と光秀の力関係を鑑みるならば、煕子の実家が支援したと考える方が自然ではないだろうか。

光秀に深く愛され続けた煕子

煕子は天正4年(1576年)に病死したと伝えられているが、しかしこれについても真実であるかは確信することはできない。『西教寺塔頭実成坊過去帳』に記されているこの情報の信憑性は低くはないと思うわけだが、一方『川角太閤記』では本能寺の変後、明智秀満が光秀の妻子を介錯した後に自刃とも書かれており、情報が一致しない。ちなみに『川角太閤記』とは川角三郎右衛門が江戸時代初期に、当時を知る武士たちに直接話を聞くことによってまとめた、本能寺の変から関ヶ原の戦いまでの豊臣秀吉、豊臣家の伝記とされている。江戸時代初期という、まだ本能寺の変を知る人物が多く生きる時代に書かれているため、他の軍記物とは異なり信憑性はあるように感じられる。

天正4年に病死したのか、それとも天正10年に秀満により介錯されたのか、どちらが真実なのかは今となってはわからない。しかしただ一つ間違いなく言えることは、煕子は光秀によって深く愛されていたということだ。煕子が病に伏せれば手厚く看病をしたり、吉田兼見に診療を依頼したりした。そして病により顔に痣のようなものが残ってしまっても、光秀はまったく気にすることなく煕子を大切にしたという。その光秀にも側室がいたという言い伝えもあるようだが、一般的には煕子が存命中は側室は持たなかったという説が広く伝えられている。この言い伝えからすると、秀満が介錯した光秀の妻は後妻という可能性もあるわけだが、筆者はまだそこまで調べ切ることができていない。もしこれに関する資料をどこかで読むことができれば、またここで書き伝えたいと思う。

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戦国時代を語るにあたり必ず登場するのが軍師の存在だ。竹中半兵衛、黒田官兵衛、直江兼続、山本勘助、立花道雪ら戦国時代にはその他にも名だたる軍師たちの存在が多く見て取れる。だが戦国時代そのものにはどうやら軍師という役職は存在していなかったようだ。


江戸時代後期や明治時代になると歴史小説が読まれるようになり、それらの小説により軍師という言葉は一般的になった。そしてそれらの小説に軍師という言葉が登場するきっかけとなったのは、江戸時代以降の軍学者たちによる研究結果だった。学者たちは大名に様々な知恵を提供する役割を担った人物のことを軍師と呼ぶようになり、それが小説の世界へと広がって行き、一般的にもよく知られる言葉となっていった。

歴史ドラマではたまに軍師のことを「軍師殿」と呼ぶシーンが描かれているが、どうやら実際にそのように呼ばれることはなかったようだ。例えば直江兼続のように守護職を持っている人物の場合は「山城守(やましろのかみ)」や「山城」と呼ばれていた。一方竹中半兵衛のように役職に関心のない人物は「半兵衛殿」「竹中殿」と呼ばれていた。

ここでは便宜上「軍師」という言葉を使うが、室町時代から戦国時代初期にかけての軍師は、占い師的な要素が強かった。例えば奇門遁甲などを駆使し方角や運勢を読み、運を味方に付け戦に勝つ手助けを行なっていた。いわゆる陰陽師のような存在だ。

そのため特に戦国時代初期の軍師は、実際には陰陽師ではないが、陰陽師をルーツにするような僧侶などの修験者(しゅげんじゃ)が務めることも多かった。例えば今川義元を支えた太原雪斎(たいげんせっさい)や、大友家を支えた角隈石宗(つのくませきそう)のような存在だ。だが戦国時代が中期に突入すると『孫子』などの軍学に精通した人物が軍師として重用されるようになる。羽柴秀吉を支えた竹中半兵衛や黒田官兵衛のような存在だ。

これが戦国時代も末期に差し掛かり戦が減って行くと、軍学を得意とする軍師の役割も減って行く。その代わりに台頭してくるのが吏僚型の軍師だ。石田三成や大谷吉継のような存在だ。彼らは戦のことももちろん学んでいるが、それ以上に兵站(兵糧)の確保や金銭の管理に大きな力を発揮した。特に石田三成は近江商人で有名な土地で生まれ育ったため算術を得意としており、豊臣秀吉が仕掛けた朝鮮出兵などでは後方支援として大きな役割を果たした。

ちなみに日本最初の軍師は吉備真備(きびのまきび)という人物だ。奈良時代(700年代)の学者で、中国の軍学を学ぶことによって戦術面に貢献するようになり、藤原仲麻呂が起こした乱を巧みに鎮圧したことでも知られる人物だ。その後鎌倉時代から南北朝時代に入って行くと、今度は楠木正成という軍師が登場する。楠木正成は、戦国時代で言えば真田昌幸のようなゲリラ戦法を得意とする軍師だった。

強い忠誠心を持っていたことから、戦国時代にはヒーローとして崇められ、例えば竹中半兵衛などは「昔楠木、今竹中」「今楠木」となどと呼ばれ、その高い手腕が賞賛されていた。

軍師とは野球チームで言えばヘッドコーチ、内閣で言えば官房長官のような役割になるのだろう。決してトップになることはないが常にトップの傍らでトップを支え、成り行きを良い方向へと向かわせる役割を果たす。

ちなみに軍師は『孫子』などに精通している必要があるが、現代でMBAを取得する際の必須科目にも『孫子』は加えられている。その孫子(孫武)自身も紀元前500年代に活躍した中国の軍師(軍事思想家)だった。
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1600年9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍は、徳川家康率いる東軍に一瞬のうちに敗れてしまった。この戦いで真田昌幸・信繁父子は西軍に味方し、真田信幸は東軍に付いていた。東軍諸将の目に信幸は、父親を裏切ってまで家康に味方した功労者として写っていた。事実徳川家康も父親と袂を分かってまで東軍に味方したことを労っている。


関ヶ原の戦いが終わると論功行賞で信幸は沼田・上田領9万5000石の大名に処せられた。関ヶ原以前は2万7000石だったため、所領は一気に3倍以上に膨らんだことになる。そしてこの頃、真田信幸は諱を信之と改めた。定説としては家康に忠義を誓うために父昌幸の「幸」の字を捨てたと言われている。だが本当にそうだろうか。

確かに松代藩初代藩主信之と、二代目藩主真田信政は「幸」の字を使わなかった。だが三代目藩主からは真田幸道と「幸」の字がすぐに復活しているのである。もし信之が本当に家康への忠義のために「幸」の字を捨てたのであれば、信之系譜の真田家の子孫にも「幸」の字は使わせなかったはずだ。

江戸幕府に於いて徳川家康は神として崇められていた。三代目藩主の代と言えば、まだまだ家康の威光が強く残っていた頃だ。その頃に「幸」の字が復活しているということは、これはもしかしたら家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないのではないだろうか。

逆に、父真田昌幸に対し罪悪感を覚えていたからこそ「幸」の字を使い続けることができなかったのではないだろうか。真田昌幸は豊臣秀吉から表裏比興の者と呼ばれるほど智謀に長けた、まさに戦国時代を象徴するような人物だった。一方真田信之は非常に義理堅く信義に厚い武将として知られている。つまり信之は非常に誠実な人物だったのだ。

信之のその人柄を思うならば、家康に忠義を示したというよりは、昌幸への罪悪感により「幸」の字を自身の諱から消したと考える方がしっくり行くような気がする。戦国時代で最も強い影響力を持っていたのは父親だった。子は父親に逆らうことは決して許されない時代であり、信之は真田家を守るためとは言え、その掟を破ったことになる。

その罪悪感から「幸」の字を捨て、さらには命を賭してまで父昌幸と弟信繁の赦免を大坂の陣が始まるまで求め続けたのではないだろうか。そして父と弟が九度山に幽閉されていた頃も、決して援助を絶やすことはしなかったという。

家康が時に残酷な智謀を用いることは信之もよく知っているはずだった。それでも信之は父と弟と運命を共にすることはせず、真田の家を守るために家康に味方をするという決断を下した。信義に厚い信之の人柄を思うならば、この決断はまさに断腸の思いであったはずだ。父の落胆ぶりにも心を痛めたことだろう。

真実に関しては今となっては知りようもない。だが三代目藩主から早々に「幸」の字が復活している事実を見つめれば、これは決して家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないと思えるようになる。もし本当に家康に対する忠義により「幸」の字を捨てたのであれば、松代藩を預かっている限り真田家で「幸」の字を使うことはなかったはずだ。

しかし大坂の陣を前にし、信之が心を千切る思いで捨てた「幸」の字を信繁が拾った。まる兄信之の心の痛みを背負い預かるかのように信繁最期の戦いとなった大阪の陣、信繁は真田幸村と名乗り徳川家康と戦ったのだった。敵味方となっても、家が二つに分裂しても、最後は心で真田家は一つに戻ったのである。
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直江兼続が認めた『直江状』は、一般的には徳川家康への挑戦状として知られている。そしてこの『直江状』が関ヶ原の戦いの一因になったとも言われている。だが実際に『直江状』は徳川家康への挑戦状ではなく、単純に上杉家にかけられた嫌疑を晴らしたいという思いが込められた書状だったのである。


『直江状』が書かれたことにはそれなりの原因があった。それは上杉家の、越後から会津への移封である。上杉家は死去する直前の豊臣秀吉の命令により慶長3年(1598年)に移封させられた。これにより上杉家は50万石から、120万石の大大名となる。秀吉が上杉家を移封させたのには、上杉家に江戸の徳川家康の牽制役を務めてもらいたかったからだった。

国替えさせられた際に直江兼続と石田三成が協議し、この年に徴収した慶長2年分の年貢をすべて会津に持っていくことになった。上杉家の後に越後に入ったのは堀秀治で、米倉が空になっていることに驚く。そして上杉家に借米してなんとか窮地をしのいだわけだが、次の年貢徴収(慶長3年分)で、さらに驚くべき事実が発覚した。何と農民の多くが上杉家を慕い、一緒に会津に移り住んでしまっていたのだ。

これにより越後の田畑の多くが耕作放棄されることになり、堀家はほとんど年貢を徴収することができなかった。この状況を堀秀治の家老である堀直政が徳川家康に訴え、更には上杉家に遺恨を抱いたことで「上杉家に不穏な動きあり」と讒言までしてしまった。これは慶長4年の出来事であり、移封を命じていた豊臣秀吉はすでに前年に死去している。

秀吉の死により豊臣政権の中心となっていたのが徳川家康だったわけだが、家康とって上杉家は目の上のたんこぶだった。なにせ上杉家は、徳川家康の牽制役として会津に国替えさせられていたのだから。家康としては何とか上杉景勝を失脚させたかったわけだが、その大義名分を堀秀政の訴えによって得たのだった。

家康は「二心ないのであればすぐに上洛せよ」と上杉家に迫る。だが上杉家は移封させられたばかりで会津国内もまだ落ち着いていないため、落ち着いてから秋にでも上洛したいと返す。だが家康はすぐに上洛をしようとしない上杉家に二心ありと決めつけてしまう。これに対し不満を示したのが上杉家であり、『直江状』だったのである。

『直江状』には主に、家康は堀家の讒言は究明しようともせず鵜呑みにしたのに、なぜ上杉家の言い分は聞こうとしないのか、それは不公平であると書かれている。これは決して家康への挑戦状ではなく、上杉家の純粋な訴えだった。現に先には秋に上洛したいと伝えていたが、『直江状』では夏に上洛すると繰り上げており、豊臣政権にも家康に対しても喧嘩など売っていないのである。

そして「二心がないのなら上洛せよ」という家康の要求に対し、謀反の疑いと上洛をセットにして考えて欲しくはないとも訴えている。上杉家としてはあくまでも、会津の領国支配が落ち着いたらすぐにでも上洛する旨を示しており、二心がないから上洛するのではない、ということを直江状では訴えられている。

小説やテレビドラマではストーリーをドラマティックにするため、『直江状』は家康への挑戦状として描かれることも多い。しかし真実はそうではない。上杉家の「真実を究明して欲しい」という思いが込められただけの書状だったのである。

ちなみに家康が真実を究明しようとしなかった理由の一つには、上述したように年貢について協議した相手が石田三成だったからという可能性がある。慶長4年と言えば関ヶ原の戦いが起こる前年であり、この頃の石田三成と徳川家康はほとんど敵対しているような状態だった。慶長4年3月には、家康により五奉行石田三成は蟄居させられており、家康と三成の関係は冷え切っていた。

そのような状況だったこともあり、家康は三成が絡んでいることに対して知らない振りをしていたのかもしれない。だが家康が知らない振りをしたことにより直江兼続と、失脚していた石田三成が連絡を取りやすくなり、それが関ヶ原の戦いを引き起こす三成の挙兵に繋がった可能性もある。

この時三成と兼続が連携を取っていた証拠は残っていないため、真実は定かではない。だが隠密裏に行われていた作戦の証拠が残させるケースはほとんどないため、証拠がないからと言って、ふたりの連携がなかったとは言い切れない。もちろん連携があったと言い切ることもできないわけだが、親友であったふたりだけに、その可能性は十分にあったのではないだろうか。

『直江状』を受け取った家康はそれを読み激怒したという。そして関ヶ原の戦い3ヵ月前の慶長5年(1600年)6月、家康はついに上杉討伐のために会津に出陣していく。そしてこの機を狙っていたかのように石田三成は打倒家康を掲げ、大阪で挙兵したのだった。

史家の分析では石田三成と直江兼続は協力関係にあり、『直江状』を送れば家康は必ず会津に出陣すると予測し、その隙を突き三成が大阪で挙兵し、上杉家と共に家康を東西から挟み撃ちする作戦を練っていたとするものもある。上述の通りその証拠は残されていないわけだが、やはり可能性としては十分にありえたと考えるべきではないだろうか。

何故ならもし三成と兼続の連携がなく『直江状』を送ったとすれば、単純に上杉家が家康に攻められる戦に終わり、そうなればこの頃の上杉家だけでは家康に勝つ力などなく、上杉家は滅ぼされていた可能性も高かった。連携があったからこそ上杉景勝は直江兼続に命じ、家康を刺激する可能性の高い『直江状』を書かせたのではなかっただろうか。
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NHK大河ドラマで豊臣秀次は「キリシタンだったのではないか?」と思えるような演出がされている。高野山で切腹をする直前、秀次が聖母マリアの絵画をじっと見つめるシーンがあるためだ。この絵画は秀次の娘が父秀次に贈ったように大河ドラマでは描かれているが、秀次の娘である隆清院(大河ドラマではたか)もキリシタンだったかどうかは定かではない。


恐らく大河ドラマでこれから登場するキリシタン細川ガラシャへの布石として、秀次と隆清院をキリシタンだったように演出したのではないだろうか。しかし史実では秀次も隆清院も仏門で弔われているため、キリシタンだったという資料は存在していないと思われる。そもそもキリスト教では自殺は禁忌されているため、切腹をした時点で秀次はキリシタンではなかったということにもなる。

隆清院は確かに真田信繁の側室となり、御田姫と三男幸信を生んだ。そして亡くなった後は秋田県由利本荘市にある妙慶寺で弔われている。隆清院の生まれた年や亡くなった年は不明となっているが、しかし寺で弔われているということは、やはりキリシタンだった可能性は低いのではないだろうか。

豊臣秀吉や徳川家康の時代にはキリシタン追放令が出されたわけだが、それでもキリシタン大名や姫たちは、キリシタンであれば最後までそれを全うした人物が多い。例えば高山右近はそれによってフィリピンのマニラに追放されている。当時のキリシタンの特性として、キリシタンであることを誇りに思っている人物が多かった。

もちろん隠れキリシタンの存在もあったわけだが、しかし秀次や隆清院にまつわる資料にキリスト教関連のものは見当たらない。ふたりの生い立ちを考えても、キリシタン追放令を出した豊臣秀吉の甥である関白秀次がキリスト教でいることはできないだろうし、秀次自刃後はすべて処刑された秀次の妻や子どもたちの中で、数少ない生き残りとなった隆清院が、さらに目をつけられるようなキリシタンであったとも考えにくい。

そうなると大河ドラマではやはり、細川ガラシャへの布石としての演出だったのかもしれないと思えるようになる。細川ガラシャも有名なキリシタン姫であるわけだが、果たしてドラマの中では今後ガラシャと隆清院が絡む場面が登場するのだろうか。

大河ドラマは小説の部類に入れるべきだろう。ドラマで描かれている内容が必ずしも史実と一致しているわけではない。脚色されていたり、脚本家の希望が盛り込まれているケースも多い。やはりテレビドラマとして、史実を淡々と描いているだけでは視聴率を上げることができないためだろう。

脚色が悪いとは思わないが、しかし本サイトは史実にこだわっているため、秀次と隆清院がキリシタンだったのかを少しだけ検証してみた。秀次は複数の寺に寄進しているし、自刃後は自らが寄進した寺で戒名を与えられている。隆清院も妙慶寺に位牌が置かれている。やはり史実ではふたりとも仏教徒だったと考えるのが自然ではないだろうか。
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豊臣秀次はなぜ28歳という若さで切腹させられてしまったのだろうか。一般的には謀反の嫌疑がかけられての高野山への追放と切腹だったと伝えられている。だが謀反という線は近年の史家の研究によりほとんどないことがわかってきている。実際に謀反の疑いにより切腹させられたのだとしても、これを冤罪と断言する史家も少なくない。


豊臣秀吉は通常、誰かを攻めたり処分する際にはその理由を明確に書状に示している。だが豊臣秀次の時だけは「不届」としか書いていなかったらしい。「不届き」を辞書で調べると「道理や法に従わないこと」とある。つまり秀次は謀反を起こしたのではなく、何らかの理由によって秀吉に逆らったのである。そしてその理由は千利休と同じであると筆者は考えている。

千利休切腹の真実は別巻にてご確認いただくとして、秀次もあることで秀吉に対し反抗したと考えられている。そのあることとは唐入りだ。秀吉はすでに文禄元年(1592年)に最初の唐入りを実行している。この時は兵を疲弊させただけでほとんど何の利も大義もなかった。そのため秀次はさらなる唐入りを太閤秀吉に、関白としてやめさせようとしたと考えられる。

事実、唐入り反対派の武将たちが関白秀次を中心に集まり始めていたとも伝えられている。唐入りに対して秀吉の決断に異を唱えた、と考えれば上述した「不届」という表現もマッチする。

逆に本当に謀反が切腹の原因だったとすれば、不自然なことも多い。まず秀次の軍勢では秀吉の軍勢にはまったく歯が立たないし、そもそも秀次の重臣たちがまったく軍を動かしていないのである。本当に謀反だとすれば、重臣たちはそれなりに兵を動かすはずだ。それに秀次の切腹後も、秀次の家臣たちはまったく罪を咎められていない。

三条河原で処刑されたのは妻や側女、子どもたちだけであり、家臣たちは殉死した者はいたものの、処刑された者はいなかったようだ。このような事実を追うと、やはり謀反の線はなかったのだろうと思う。

秀次が切腹させられた頃、秀吉はすでに次の唐入りを画策していたと考えられる。つまり慶長の役だ。秀吉としては今度こそは唐入りを実のあるものにしたいという強い思いがあった。だがそれに対し秀次が異を唱え、秀吉は激昂したのだろう。それでも秀次は唐入りに対し反対姿勢を貫いたため、秀吉はもう「不届」として秀次を処分するしかなくなったのである。秀次の師である千利休同様に。

当時のことを日記に残している何人かの公家は、この頃の秀吉と秀次の関係を「不和」と書き残してはいるが、その不和の理由は誰も書いていない。また『信長公記』などを記した太田牛一にしてもふたりの不和の理由を明確にしていない。本当に知らなかったのかもしれないが、しかし仮に「唐入りに反対したため」と書いてしまったとすれば、書いた本人も秀吉からの処罰を受ける可能性もあるため、理由を知ってはいたが書けなかった、という事情もあるのではないだろうか。

仮に関白秀次が唐入りに対し反対しているということが世間に知れ渡ってしまえば、その唐入りを実行しようとしている秀吉に対する風当たりが強くなってしまう。そしてそうなっては再び唐入りを実行に移すことも難しくなり、将来クーデターをを起こしかねない有力武将たちを国内から朝鮮・明国へと体良く追い出すこともできなくなってしまう。

秀吉としてはとにかく唐入りを成功させ、朝鮮や明国に領地を拡大させたいと考えていた。そのためにも唐入り反対派の中心的存在となっていた秀次の存在が目障りだったのである。だが唐入り反対を理由に秀次を処分しては、上述の通り秀吉の唐入りそのものへの風当たりがさらに強くなってしまう。しかも秀次は関白であり、その影響力は絶大だ。

だからこそ秀吉は秀次に対し謀反の嫌疑を立て、まず高野山へと追放した。ちなみに高野山への追放令の書状は前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家の連名で送られている。秀次の切腹には三成黒幕説もあるが、それは別巻にて真実ではないことを説明している。

秀吉は、秀次を高野山に追放することにより、反論できない状況に追い込んだ。切腹に関しては秀吉が命じたという説もあるが、実はそうではなく「冤罪を着せられるのなら自ら腹を切る」と、秀次自ら死を選んだ可能性が近年史家によって指摘されている。その理由は秀吉がこの時高野山に送った秀次の処遇を指示した書状に、秀次の切腹に関する記述がまったくないためだ。

どのようなことが書かれていたかと言えば、十数名の世話人は置いていいこと、刀の類は携帯させないこと、家族との面会は禁止させること、ということを主に伝えている。このような書状を秀吉が高野山に送った事実を踏まえれば、秀吉は切腹を命じていなかったと考えるのが自然ではないだろうか。

ちなみにこの書状を高野山に届けたのは福島正則、福原長堯(石田三成の娘婿)、池田秀雄の3名だったようだ。秀次はもしかしたらこの3人が、首実検のために高野山に派遣されたと誤解したのかもしれない。もしそうだとすれば、あまりにも悲劇だったとしか言いようがない。

豊臣秀次はこのような悲運の下、わずか28年という人生を自ら終えてしまったのである。文武両道に勤勉だった秀次が豊臣家を継いでいればと考えると、本当に残念で仕方ないという思いで一杯になってしまう。