「石田三成」と一致するもの

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明智光秀という人物は、実は羽柴秀吉と大差のない状況から立身出世した人物だった。羽柴秀吉は農民から出世街道に乗って行ったため、家臣は0というところから武士人生をスタートさせている。もちろん明智光秀の場合は農民ではなく小土豪だったわけだが、武士としての親族はいたものの、家臣と呼べるほどの家臣の存在は秀吉同様にほとんど0に近いところからの始まりだった。そこで今回は、明智光秀の身近に存在していた人物たちを備忘録的に記録しておきたい。

血縁者

明智光隆
光秀の父親。別名・明智光綱、明智玄蕃頭(げんばのかみ)
天文11〜14年(1542〜1545年)に土岐一族が斎藤道三の下剋上に遭った際に戦死。

明智光安
光隆の弟で、光秀にとっては叔父。光隆死去後は、光安が光秀の後見人を務めた。妹が斎藤道三の継室(小見の方・おみのかた)だったこともあり、斎藤義龍が父道三を討った戦で道三側に与し、稲葉一鉄らと戦い戦死している。

小見の方
光隆・光安の妹で、光秀にとっては叔母。小見の方と斎藤道三の間に生まれた帰蝶(濃姫)は織田信長の正室となっている。つまり織田信長は光秀にとっては義理の従兄弟だった。

煕子
光秀の正室。妻木範煕の娘。光秀がまだ立身出世を果たす前、煕子が黒髪を売って光秀を財政的に支えたと言う逸話が残されているが、これは後世の創作である可能性が高い。実際には妻木範煕が光秀を経済的に支えていた。

明智光忠
光秀の父・光隆の弟である明智光久の子。光秀にとっては血の繋がった従兄弟。光忠は、光秀が最も信頼した家臣の一人で、光秀の娘を娶っている。

明智光久
光隆の弟で、光秀にとっては叔父。光忠の父。斎藤道三に与したことで明智城を斎藤義龍に攻められた際、自らは最後の最後まで籠城して戦い、光秀たちを脱出させた。しかし光久自身はその戦いの最中に戦死。

明智光慶
明智光秀の嫡男。本能寺の変後については諸説あり定かではない。坂本城で討ち死にしたという説や、僧として生き続けたという説がある。

細川ガラシャ
洗礼を受ける前は玉、もしくは珠。明智光秀の娘であり、光秀の盟友細川藤孝の嫡男忠興に嫁いだ。関ヶ原の戦い直前、石田三成の人質となった際にそれを嫌い命を絶った。

光秀の次男(名前不詳)
名前は明らかにはなっていないが、筒井順慶の養子になっていたらしい。

非血縁者

斎藤利三
明智光秀が最も信頼を寄せた家臣。斎藤道三の血縁者というわけではなく、美濃の守護代だった別の斎藤家の血筋。母親が光秀の叔母だったという説もある。利三の兄である石谷頼辰(いしがいよりとき)の義理の妹が長宗我部元親の正室だった。利三はかつて稲葉一鉄や織田信長の与力となっていたが、それぞれと何らかの衝突があり、最終的に光秀の臣下に加わった。最期は山崎の合戦後に明智半左衛門によって捕縛され、六条河原で処刑された。

明智秀満
別名は左馬之助光春。光秀の娘婿。元の名は三宅弥平次で、光秀の娘を娶った後、明智秀満と改名した。美濃の塗師の家に生まれた人物という説の信憑性が高いらしい。実はこの妻、元々は荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたのだが、村重が信長に反旗を翻した際、村重が光秀の心中を慮り、光秀の元に返していた。その後秀満に嫁いだ。秀満は本能寺の変後の坂本城で自らの妻、そして煕子ら光秀の親族が捕縛され辱めを受けないように刺殺した後、自刃。

織田信澄
光秀の臣下だったわけではないが、光秀の娘が信長の命により信澄に嫁いでいた。織田信澄とは、織田信長の弟信行の子。信行は家督を争った際、信長に討たれている。光秀の娘を娶っており、居城も坂本城に近かったことがあり、本能寺の変の首謀者の一人として疑われ、織田信孝・丹羽長秀軍により釈明する間も無く討たれてしまう。

溝尾庄兵衛尉(しょうべえのじょう)
別名は三沢秀次との説あり。山崎の合戦後、負傷したことにより自刃を余儀なくされた光秀を介錯し、その後坂本城まで戻り自らも自刃。光秀が信長に仕える以前から光秀に仕えていた古参。

藤田伝五
藤田伝五も、光秀が信長に使える前から光秀に仕えていた。しかし山崎の合戦で負傷し、その翌日に自刃。

可児才蔵
美濃出身で「槍の才蔵」として知られた槍の名手。福島正則に与する以前、光秀の臣下になっていた時期があったらしい。

明智半左衛門
元の名は猪飼野秀貞(いかいのひでさだ)と言う近江出身者で、光秀の臣下になった際に明智半左衛門と名乗るようになったが、本能寺の変では光秀に与することなく、斎藤利三を捕縛し、羽柴秀吉に差し出している。

明智孫十郎
本能寺の変の際、織田信忠が立て籠もる二条城を攻めた際に戦死。

明智掃部(かもん)
詳細は不明だが『天王寺屋会記』に光秀の家臣としてその名が登場する。

明智千代丸
光秀が八上城を攻めた際、最後の最後まで波多野家に忠義を尽くし戦死した小畠国明の遺児。光秀は国明の忠義を称し、まだ幼かった国明の子に明智姓を与えた。

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戦国時代を語るにあたり必ず登場するのが軍師の存在だ。竹中半兵衛、黒田官兵衛、直江兼続、山本勘助、立花道雪ら戦国時代にはその他にも名だたる軍師たちの存在が多く見て取れる。だが戦国時代そのものにはどうやら軍師という役職は存在していなかったようだ。


江戸時代後期や明治時代になると歴史小説が読まれるようになり、それらの小説により軍師という言葉は一般的になった。そしてそれらの小説に軍師という言葉が登場するきっかけとなったのは、江戸時代以降の軍学者たちによる研究結果だった。学者たちは大名に様々な知恵を提供する役割を担った人物のことを軍師と呼ぶようになり、それが小説の世界へと広がって行き、一般的にもよく知られる言葉となっていった。

歴史ドラマではたまに軍師のことを「軍師殿」と呼ぶシーンが描かれているが、どうやら実際にそのように呼ばれることはなかったようだ。例えば直江兼続のように守護職を持っている人物の場合は「山城守(やましろのかみ)」や「山城」と呼ばれていた。一方竹中半兵衛のように役職に関心のない人物は「半兵衛殿」「竹中殿」と呼ばれていた。

ここでは便宜上「軍師」という言葉を使うが、室町時代から戦国時代初期にかけての軍師は、占い師的な要素が強かった。例えば奇門遁甲などを駆使し方角や運勢を読み、運を味方に付け戦に勝つ手助けを行なっていた。いわゆる陰陽師のような存在だ。

そのため特に戦国時代初期の軍師は、実際には陰陽師ではないが、陰陽師をルーツにするような僧侶などの修験者(しゅげんじゃ)が務めることも多かった。例えば今川義元を支えた太原雪斎(たいげんせっさい)や、大友家を支えた角隈石宗(つのくませきそう)のような存在だ。だが戦国時代が中期に突入すると『孫子』などの軍学に精通した人物が軍師として重用されるようになる。羽柴秀吉を支えた竹中半兵衛や黒田官兵衛のような存在だ。

これが戦国時代も末期に差し掛かり戦が減って行くと、軍学を得意とする軍師の役割も減って行く。その代わりに台頭してくるのが吏僚型の軍師だ。石田三成や大谷吉継のような存在だ。彼らは戦のことももちろん学んでいるが、それ以上に兵站(兵糧)の確保や金銭の管理に大きな力を発揮した。特に石田三成は近江商人で有名な土地で生まれ育ったため算術を得意としており、豊臣秀吉が仕掛けた朝鮮出兵などでは後方支援として大きな役割を果たした。

ちなみに日本最初の軍師は吉備真備(きびのまきび)という人物だ。奈良時代(700年代)の学者で、中国の軍学を学ぶことによって戦術面に貢献するようになり、藤原仲麻呂が起こした乱を巧みに鎮圧したことでも知られる人物だ。その後鎌倉時代から南北朝時代に入って行くと、今度は楠木正成という軍師が登場する。楠木正成は、戦国時代で言えば真田昌幸のようなゲリラ戦法を得意とする軍師だった。

強い忠誠心を持っていたことから、戦国時代にはヒーローとして崇められ、例えば竹中半兵衛などは「昔楠木、今竹中」「今楠木」となどと呼ばれ、その高い手腕が賞賛されていた。

軍師とは野球チームで言えばヘッドコーチ、内閣で言えば官房長官のような役割になるのだろう。決してトップになることはないが常にトップの傍らでトップを支え、成り行きを良い方向へと向かわせる役割を果たす。

ちなみに軍師は『孫子』などに精通している必要があるが、現代でMBAを取得する際の必須科目にも『孫子』は加えられている。その孫子(孫武)自身も紀元前500年代に活躍した中国の軍師(軍事思想家)だった。
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1600年9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍は、徳川家康率いる東軍に一瞬のうちに敗れてしまった。この戦いで真田昌幸・信繁父子は西軍に味方し、真田信幸は東軍に付いていた。東軍諸将の目に信幸は、父親を裏切ってまで家康に味方した功労者として写っていた。事実徳川家康も父親と袂を分かってまで東軍に味方したことを労っている。


関ヶ原の戦いが終わると論功行賞で信幸は沼田・上田領9万5000石の大名に処せられた。関ヶ原以前は2万7000石だったため、所領は一気に3倍以上に膨らんだことになる。そしてこの頃、真田信幸は諱を信之と改めた。定説としては家康に忠義を誓うために父昌幸の「幸」の字を捨てたと言われている。だが本当にそうだろうか。

確かに松代藩初代藩主信之と、二代目藩主真田信政は「幸」の字を使わなかった。だが三代目藩主からは真田幸道と「幸」の字がすぐに復活しているのである。もし信之が本当に家康への忠義のために「幸」の字を捨てたのであれば、信之系譜の真田家の子孫にも「幸」の字は使わせなかったはずだ。

江戸幕府に於いて徳川家康は神として崇められていた。三代目藩主の代と言えば、まだまだ家康の威光が強く残っていた頃だ。その頃に「幸」の字が復活しているということは、これはもしかしたら家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないのではないだろうか。

逆に、父真田昌幸に対し罪悪感を覚えていたからこそ「幸」の字を使い続けることができなかったのではないだろうか。真田昌幸は豊臣秀吉から表裏比興の者と呼ばれるほど智謀に長けた、まさに戦国時代を象徴するような人物だった。一方真田信之は非常に義理堅く信義に厚い武将として知られている。つまり信之は非常に誠実な人物だったのだ。

信之のその人柄を思うならば、家康に忠義を示したというよりは、昌幸への罪悪感により「幸」の字を自身の諱から消したと考える方がしっくり行くような気がする。戦国時代で最も強い影響力を持っていたのは父親だった。子は父親に逆らうことは決して許されない時代であり、信之は真田家を守るためとは言え、その掟を破ったことになる。

その罪悪感から「幸」の字を捨て、さらには命を賭してまで父昌幸と弟信繁の赦免を大坂の陣が始まるまで求め続けたのではないだろうか。そして父と弟が九度山に幽閉されていた頃も、決して援助を絶やすことはしなかったという。

家康が時に残酷な智謀を用いることは信之もよく知っているはずだった。それでも信之は父と弟と運命を共にすることはせず、真田の家を守るために家康に味方をするという決断を下した。信義に厚い信之の人柄を思うならば、この決断はまさに断腸の思いであったはずだ。父の落胆ぶりにも心を痛めたことだろう。

真実に関しては今となっては知りようもない。だが三代目藩主から早々に「幸」の字が復活している事実を見つめれば、これは決して家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないと思えるようになる。もし本当に家康に対する忠義により「幸」の字を捨てたのであれば、松代藩を預かっている限り真田家で「幸」の字を使うことはなかったはずだ。

しかし大坂の陣を前にし、信之が心を千切る思いで捨てた「幸」の字を信繁が拾った。まる兄信之の心の痛みを背負い預かるかのように信繁最期の戦いとなった大阪の陣、信繁は真田幸村と名乗り徳川家康と戦ったのだった。敵味方となっても、家が二つに分裂しても、最後は心で真田家は一つに戻ったのである。
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関ヶ原の戦いの直前、真田家は二つに分裂することになる。世に言う『犬伏の別れ』となるわけだが、真田昌幸・信繁父子は上杉景勝に味方し、真田信幸は徳川家康に味方することとなった。さて、二つに分裂したと上述したが、しかし実際には分裂してしまったわけではなかった。実は犬伏の別れの前から、真田家は二つに分かれていたのである。


関ヶ原の戦い直前の時点で、真田昌幸は上田城、真田信幸は沼田城を居城とし、それぞれ独立した大名としての立ち位置となっていた。沼田城は一時北条家の城となっていたが、小田原征伐により北条が滅ぶと沼田は徳川の城となった。この時の真田家は徳川家の与力とされていたのだが、北条家滅亡後、沼田城は徳川家康によって真田信幸に与えられ、この時から信幸は正式に徳川家付属の大名となったのである。関ヶ原の戦い10年前の出来事だった。

通説では、関ヶ原の戦いで東軍・西軍のどちらが勝利しても真田家が存続するよう、昌幸があえて真田家を東西に振り分けた、と語られているものもある。だがこれは史実とは異なる。関ヶ原の戦い時点で、真田昌幸と真田信幸は父子という間柄ではあるものの、それぞれ独立した別個の大名家だった。つまりこの時の昌幸には、信幸の行動をコントロールする権限はなかったのである。

だが信幸はしきりに父昌幸に、徳川家に味方するようにと説得を繰り返した。この交渉は第二次上田合戦が開戦するまで続けられたが、昌幸の家康嫌いは半端ではなかった。最後の最後まで首を縦に振ることはなく、恩義を感じていた上杉景勝に味方する道を選んだ。元はと言えば上杉景勝の助力がなければ、沼田城はもっと早くに真田の手から離れてしまっていた。沼田を守るために力を貸してくれた景勝に対し、昌幸は味方すると決意していたのだ。

ちなみに縁戚関係が犬伏の別れに繋がったとする説もある。真田昌幸の正室と西軍石田三成の正室は姉妹であり、真田信繁の正室は西軍大谷吉継の娘だった。そして真田信幸の正室は東軍本多忠勝の娘。これにより真田家が東西に別れたとする説もあるが、戦国時代で最も優先されるのは家を守ることであり、婚姻のほとんどは家を強くするための政略結婚だった。

そのためもし婚姻関係が家を守るために足枷となるようであれば、離縁させることも日常茶飯事だった。つまり婚姻関係だけでどちらの味方に付くか判断することは、当時一般的にはなかったことだ。ただし人質を取られている場合は話は別だ。人質を取られていてはそちらに味方するしかなくなってしまう。

真田昌幸からすれば上杉景勝は沼田を守るために力を貸してくれた盟友。家康が上杉討伐に出かけた隙を突き、上杉と共に南北から家康を挟み撃ちにしたいと考えていた。こうして家康を討つことこそが、真田家を守る最善の策だと考えていた。

一方の真田信幸は、家康は沼田城を与えてくれ、自分を独立大名として取り立ててくれた恩義ある大大名だった。しかも秀吉の死後、最も力を持っている人物が家康であり、家康に歯向かえば他家など簡単に潰せてしまうほどだった。上杉家にしても、もし徳川家と単独で戦えば、当時の上杉家には徳川に勝つ力などなかった。だからこそ信幸は家康に味方することによって真田家を守ろうとしたのである。

これが犬伏の別れを生み出してしまった真相だ。通説のように昌幸と信幸が喧嘩別れしたわけでも、婚姻関係に縛られたわけでもない。それぞれ独立する大名となっていた真田昌幸と真田信幸父子が、真田家を守るための最善策をぶつけ合い、結果的に折り合いがつかず真田家は二通りの道を取ることになってしまったのである。
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直江兼続が認めた『直江状』は、一般的には徳川家康への挑戦状として知られている。そしてこの『直江状』が関ヶ原の戦いの一因になったとも言われている。だが実際に『直江状』は徳川家康への挑戦状ではなく、単純に上杉家にかけられた嫌疑を晴らしたいという思いが込められた書状だったのである。


『直江状』が書かれたことにはそれなりの原因があった。それは上杉家の、越後から会津への移封である。上杉家は死去する直前の豊臣秀吉の命令により慶長3年(1598年)に移封させられた。これにより上杉家は50万石から、120万石の大大名となる。秀吉が上杉家を移封させたのには、上杉家に江戸の徳川家康の牽制役を務めてもらいたかったからだった。

国替えさせられた際に直江兼続と石田三成が協議し、この年に徴収した慶長2年分の年貢をすべて会津に持っていくことになった。上杉家の後に越後に入ったのは堀秀治で、米倉が空になっていることに驚く。そして上杉家に借米してなんとか窮地をしのいだわけだが、次の年貢徴収(慶長3年分)で、さらに驚くべき事実が発覚した。何と農民の多くが上杉家を慕い、一緒に会津に移り住んでしまっていたのだ。

これにより越後の田畑の多くが耕作放棄されることになり、堀家はほとんど年貢を徴収することができなかった。この状況を堀秀治の家老である堀直政が徳川家康に訴え、更には上杉家に遺恨を抱いたことで「上杉家に不穏な動きあり」と讒言までしてしまった。これは慶長4年の出来事であり、移封を命じていた豊臣秀吉はすでに前年に死去している。

秀吉の死により豊臣政権の中心となっていたのが徳川家康だったわけだが、家康とって上杉家は目の上のたんこぶだった。なにせ上杉家は、徳川家康の牽制役として会津に国替えさせられていたのだから。家康としては何とか上杉景勝を失脚させたかったわけだが、その大義名分を堀秀政の訴えによって得たのだった。

家康は「二心ないのであればすぐに上洛せよ」と上杉家に迫る。だが上杉家は移封させられたばかりで会津国内もまだ落ち着いていないため、落ち着いてから秋にでも上洛したいと返す。だが家康はすぐに上洛をしようとしない上杉家に二心ありと決めつけてしまう。これに対し不満を示したのが上杉家であり、『直江状』だったのである。

『直江状』には主に、家康は堀家の讒言は究明しようともせず鵜呑みにしたのに、なぜ上杉家の言い分は聞こうとしないのか、それは不公平であると書かれている。これは決して家康への挑戦状ではなく、上杉家の純粋な訴えだった。現に先には秋に上洛したいと伝えていたが、『直江状』では夏に上洛すると繰り上げており、豊臣政権にも家康に対しても喧嘩など売っていないのである。

そして「二心がないのなら上洛せよ」という家康の要求に対し、謀反の疑いと上洛をセットにして考えて欲しくはないとも訴えている。上杉家としてはあくまでも、会津の領国支配が落ち着いたらすぐにでも上洛する旨を示しており、二心がないから上洛するのではない、ということを直江状では訴えられている。

小説やテレビドラマではストーリーをドラマティックにするため、『直江状』は家康への挑戦状として描かれることも多い。しかし真実はそうではない。上杉家の「真実を究明して欲しい」という思いが込められただけの書状だったのである。

ちなみに家康が真実を究明しようとしなかった理由の一つには、上述したように年貢について協議した相手が石田三成だったからという可能性がある。慶長4年と言えば関ヶ原の戦いが起こる前年であり、この頃の石田三成と徳川家康はほとんど敵対しているような状態だった。慶長4年3月には、家康により五奉行石田三成は蟄居させられており、家康と三成の関係は冷え切っていた。

そのような状況だったこともあり、家康は三成が絡んでいることに対して知らない振りをしていたのかもしれない。だが家康が知らない振りをしたことにより直江兼続と、失脚していた石田三成が連絡を取りやすくなり、それが関ヶ原の戦いを引き起こす三成の挙兵に繋がった可能性もある。

この時三成と兼続が連携を取っていた証拠は残っていないため、真実は定かではない。だが隠密裏に行われていた作戦の証拠が残させるケースはほとんどないため、証拠がないからと言って、ふたりの連携がなかったとは言い切れない。もちろん連携があったと言い切ることもできないわけだが、親友であったふたりだけに、その可能性は十分にあったのではないだろうか。

『直江状』を受け取った家康はそれを読み激怒したという。そして関ヶ原の戦い3ヵ月前の慶長5年(1600年)6月、家康はついに上杉討伐のために会津に出陣していく。そしてこの機を狙っていたかのように石田三成は打倒家康を掲げ、大阪で挙兵したのだった。

史家の分析では石田三成と直江兼続は協力関係にあり、『直江状』を送れば家康は必ず会津に出陣すると予測し、その隙を突き三成が大阪で挙兵し、上杉家と共に家康を東西から挟み撃ちする作戦を練っていたとするものもある。上述の通りその証拠は残されていないわけだが、やはり可能性としては十分にありえたと考えるべきではないだろうか。

何故ならもし三成と兼続の連携がなく『直江状』を送ったとすれば、単純に上杉家が家康に攻められる戦に終わり、そうなればこの頃の上杉家だけでは家康に勝つ力などなく、上杉家は滅ぼされていた可能性も高かった。連携があったからこそ上杉景勝は直江兼続に命じ、家康を刺激する可能性の高い『直江状』を書かせたのではなかっただろうか。
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豊臣秀次はなぜ28歳という若さで切腹させられてしまったのだろうか。一般的には謀反の嫌疑がかけられての高野山への追放と切腹だったと伝えられている。だが謀反という線は近年の史家の研究によりほとんどないことがわかってきている。実際に謀反の疑いにより切腹させられたのだとしても、これを冤罪と断言する史家も少なくない。


豊臣秀吉は通常、誰かを攻めたり処分する際にはその理由を明確に書状に示している。だが豊臣秀次の時だけは「不届」としか書いていなかったらしい。「不届き」を辞書で調べると「道理や法に従わないこと」とある。つまり秀次は謀反を起こしたのではなく、何らかの理由によって秀吉に逆らったのである。そしてその理由は千利休と同じであると筆者は考えている。

千利休切腹の真実は別巻にてご確認いただくとして、秀次もあることで秀吉に対し反抗したと考えられている。そのあることとは唐入りだ。秀吉はすでに文禄元年(1592年)に最初の唐入りを実行している。この時は兵を疲弊させただけでほとんど何の利も大義もなかった。そのため秀次はさらなる唐入りを太閤秀吉に、関白としてやめさせようとしたと考えられる。

事実、唐入り反対派の武将たちが関白秀次を中心に集まり始めていたとも伝えられている。唐入りに対して秀吉の決断に異を唱えた、と考えれば上述した「不届」という表現もマッチする。

逆に本当に謀反が切腹の原因だったとすれば、不自然なことも多い。まず秀次の軍勢では秀吉の軍勢にはまったく歯が立たないし、そもそも秀次の重臣たちがまったく軍を動かしていないのである。本当に謀反だとすれば、重臣たちはそれなりに兵を動かすはずだ。それに秀次の切腹後も、秀次の家臣たちはまったく罪を咎められていない。

三条河原で処刑されたのは妻や側女、子どもたちだけであり、家臣たちは殉死した者はいたものの、処刑された者はいなかったようだ。このような事実を追うと、やはり謀反の線はなかったのだろうと思う。

秀次が切腹させられた頃、秀吉はすでに次の唐入りを画策していたと考えられる。つまり慶長の役だ。秀吉としては今度こそは唐入りを実のあるものにしたいという強い思いがあった。だがそれに対し秀次が異を唱え、秀吉は激昂したのだろう。それでも秀次は唐入りに対し反対姿勢を貫いたため、秀吉はもう「不届」として秀次を処分するしかなくなったのである。秀次の師である千利休同様に。

当時のことを日記に残している何人かの公家は、この頃の秀吉と秀次の関係を「不和」と書き残してはいるが、その不和の理由は誰も書いていない。また『信長公記』などを記した太田牛一にしてもふたりの不和の理由を明確にしていない。本当に知らなかったのかもしれないが、しかし仮に「唐入りに反対したため」と書いてしまったとすれば、書いた本人も秀吉からの処罰を受ける可能性もあるため、理由を知ってはいたが書けなかった、という事情もあるのではないだろうか。

仮に関白秀次が唐入りに対し反対しているということが世間に知れ渡ってしまえば、その唐入りを実行しようとしている秀吉に対する風当たりが強くなってしまう。そしてそうなっては再び唐入りを実行に移すことも難しくなり、将来クーデターをを起こしかねない有力武将たちを国内から朝鮮・明国へと体良く追い出すこともできなくなってしまう。

秀吉としてはとにかく唐入りを成功させ、朝鮮や明国に領地を拡大させたいと考えていた。そのためにも唐入り反対派の中心的存在となっていた秀次の存在が目障りだったのである。だが唐入り反対を理由に秀次を処分しては、上述の通り秀吉の唐入りそのものへの風当たりがさらに強くなってしまう。しかも秀次は関白であり、その影響力は絶大だ。

だからこそ秀吉は秀次に対し謀反の嫌疑を立て、まず高野山へと追放した。ちなみに高野山への追放令の書状は前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家の連名で送られている。秀次の切腹には三成黒幕説もあるが、それは別巻にて真実ではないことを説明している。

秀吉は、秀次を高野山に追放することにより、反論できない状況に追い込んだ。切腹に関しては秀吉が命じたという説もあるが、実はそうではなく「冤罪を着せられるのなら自ら腹を切る」と、秀次自ら死を選んだ可能性が近年史家によって指摘されている。その理由は秀吉がこの時高野山に送った秀次の処遇を指示した書状に、秀次の切腹に関する記述がまったくないためだ。

どのようなことが書かれていたかと言えば、十数名の世話人は置いていいこと、刀の類は携帯させないこと、家族との面会は禁止させること、ということを主に伝えている。このような書状を秀吉が高野山に送った事実を踏まえれば、秀吉は切腹を命じていなかったと考えるのが自然ではないだろうか。

ちなみにこの書状を高野山に届けたのは福島正則、福原長堯(石田三成の娘婿)、池田秀雄の3名だったようだ。秀次はもしかしたらこの3人が、首実検のために高野山に派遣されたと誤解したのかもしれない。もしそうだとすれば、あまりにも悲劇だったとしか言いようがない。

豊臣秀次はこのような悲運の下、わずか28年という人生を自ら終えてしまったのである。文武両道に勤勉だった秀次が豊臣家を継いでいればと考えると、本当に残念で仕方ないという思いで一杯になってしまう。
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酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人を俗に徳川四天王と呼ぶ。だがこの4人年齢が実にバラバラなのである。その中でも井伊直政は最も若く、酒井忠次とは親子以上の歳の差があった。それでも井伊直政が徳川四天王に名を連ねたということは、物凄い速度で出世していったということになる。


酒井忠次・・・大永7年(1527年)生まれ
本多忠勝・・・天文17年(1548年)生まれ
榊原康政・・・天文17年生まれ
井伊直政・・・永禄4年(1561年)生まれ

酒井忠次と井伊直政は34歳差、本多忠勝・榊原康政と井伊直政は13歳となる。ちなみに直政を除く3人はみな三河出身で、つまりは家康と同郷となる。まだ新興大名だった頃から家康を支えていた3人だった。一方直政は遠江出身で、家康に出仕したのは天正3年(1575年)、直政が15歳の時からだった。この時はわずかに300石の知行だった。

それから7年後、本能寺の変が起こる天正10年(1582年)には4万石にまで加増されている。そして関ヶ原の戦いでの功績として石田三成の居城であった佐和山城を与えられた時には、18万石の有力大名となっていた。まさにトントン拍子で出世して行ったと言える。

この出世に対し一説では徳川家康が男色家であり、直政を寵愛していたためだと言われている。だがこれは真実とは言えない。多くの史家たちが言うように、家康に男色の気はなかったのである。これは織田信長が森蘭丸を寵愛したことになぞらえられていると考えられるが、実は織田信長も男色家として森蘭丸を寵愛していたわけではなかった。

信長が蘭丸を寵愛したというのは、信長の死後に秀吉が吹聴した作り話だった。森蘭丸という漢字も秀吉が勝手に変えてしまったものであり、実際の漢字は森乱丸だった。 当時、蘭という言葉には女性らしい男子という意味合いがあったらしく、信長を男色家としてしまうために、秀吉はあえて蘭丸と書かせていたようだ。秀吉の場合、男色家の信長より、自分の方が天下人に相応しいとアピールするために、このような捏ち上げをしている。

話を井伊直政に戻すと、直政の父親は直親であり、直親の祖父は井伊直平だ。この井伊直平という人物は、実は築山殿の母方の祖父なのだ。築山殿とはもちろん、徳川家康の正室だ。築山殿は直政が家康に仕えた4年後に殺されてしまうのだが、正室の血縁者ということで家康も直政を重用するようになった。

そしてもう一つ家康が直政を重用した理由がある。直政の父、井伊直親は謀反の嫌疑をかけられ謀殺されてしまったわけだが、その原因は直親と徳川家康が遠江について話し合ったことにあった。もちろん謀反の相談ではなかったわけだが、それを謀反だと讒言され、直親は今川氏真の命により殺害されてしまう。

このような経緯もあり、家康は直親の子である直政を重用するようになった。井伊直虎の死後、まだ万千代と名乗っていた22歳の直政に「井伊を名乗るようにと」命じたのも家康だった。

井伊直政の驚異的なスピード出世の陰には直政自身の高い能力に加え、築山殿の血縁者、直親の死に家康が関係していた、という要因があったようだ。そして最終的には近江佐和山藩初代藩主にまで昇り詰め、慶長7年(1602年)2月1日、関ヶ原で追った怪我が原因で41歳という若さで亡くなっている。

幼き頃から今川から命を狙われ、14歳でようやく井伊谷に戻ることができ、15歳で家康に出仕してからはスピード出世し、そして関ヶ原から1年半後に亡くなってしまった。まさに井伊直政は太く短く生きた戦国の名将と言えるだろう。
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戦国時代の軍師の存在、意味とは一体どのようなものだったのか。軍師という言葉は歴史ドラマなどでもよく耳にすることがあるが、実際にはどのような役割を担っていたのか。この巻では軍師の役割について詳しく解説してきたいと思います。


まず軍師を英語で言うと「Tactician(タクティシャン)」となり、戦術家という意味になります。つまり軍師を一言で説明するならば、戦術を練る人、ということになります。いわゆる参謀という存在であり、プロ野球チームならば監督が大名ならばヘッドコーチが軍師、総理大臣が大名ならば官房長官が軍師という感じになるでしょうか。

最終的な決断を下すのはもちろん大名や大将の役割です。その大名や大将に対し選択肢を提供するのが軍師の役目でした。例えば城を攻めるならばシンプルな攻城、兵糧攻め、水攻め、火攻めなどなど、どのような戦術を用いれば最も効果的に、かつ効率的に城を落とすことができるのか、それを大名が決断するための情報を提供するのが軍師の役割です。

そのため軍師は圧倒的な情報量を持っている必要がありました。例えば真田信繁(幸村)は情報を集めるために猿飛佐助や霧隠才蔵などの忍者を抱えていたと伝えられています。またその父真田昌幸は、根津のノノウ(歩き巫女)に情報収集をさせていたという説もあります。

軍師は大名や大将から何かを相談されても、その場ですぐに答えられるように圧倒的な情報量と知識が求められていました。知識といえばもちろん『孫子』を始めとする中国の書物への造詣もです。

軍師という存在が目立つようになったのは、戦国時代からだと言います。戦国時代の前期までは軍師は、主に禅僧の役割でした。中国の学問に精通した禅僧が大名の側に控え、知識を提供していたというのが戦国軍師の元々の姿です。その後徐々に自ら勉学に励む竹中半兵衛のような武将が登場し、大名とともに戦う武将型軍師が多くなっていきました。

ちなみに禅僧型軍師として有名なのは織田信長に仕えた沢彦(たくげん、岐阜を名付けた禅僧)などがいます。沢彦などはまさに典型的な禅僧型軍師であり、戦場にまで赴くことはありませんでした。逆に今川義元に仕えた禅僧型軍師である太原雪斎は自ら鎧をまとい戦場にまで赴く勇猛な禅僧でした。

軍師というのはとにかく、大名や大将が欲しいと思った情報を瞬時に提供できる人物だったようです。そしてそれを可能にするためにも情報網を広げ、武芸だけではなく勉学にも勤しむ忙しい毎日を送っていたと言います。竹中半兵衛や黒田官兵衛らは、夜寝る時間を惜しんで本を読んでいたようです。そして『孫子』なども簡単に諳んじられたと言います。

なお戦国時代の武士はだいたい夜8時には寝て、朝4時には起きていたようです。この8時間の睡眠時間を削ってでも勉学や情報収集に努めたのが軍師という存在だったのです。言ってみれば軍師というのは大名にとって、歩く百科事典だったというわけです。

また、戦場での戦術を練るのが得意だった竹中半兵衛や黒田官兵衛などに対し、吏僚型軍師も戦国時代の後期から登場します。それが石田三成や長塚正家ら、算術が得意な人物たちです。そしてその中間的な存在が大谷吉継でした。大谷吉継は戦術にも算術にも長けていたと言われています。

このように戦国時代の軍師には禅僧型、武将型、吏僚型などなど、他にも幾つものタイプがありました。そしてそのタイプは時代と共にニーズが移り変わっていきます。例えば豊臣秀吉の場合、乱世であった頃は竹中半兵衛や黒田官兵衛を重用しましたが、戦が減ってくると黒田官兵衛とは距離を置き、石田三成ら吏僚型軍師を重用するようになりました。

軍師の役割を見直してみると、軍師と呼ばれた人物は非常に忙しい毎日を送っていたようです。なお戦国時代には軍師という言葉はあまり使われていなかったとも言われています。軍師とは江戸時代後期や明治時代から主に使われるようになった言葉であるようで、戦国時代には明確な「軍師」という役職があったわけでは実はないようです。
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石田三成という人物は本当に誤解されやすい人だ。その理由の一つとして実直すぎるという点を挙げられる。そして実直すぎる故に融通が利かなく、あまり他人を信用しないという性格だったようだ。そしてその性格による対応のせいで、慶長の役では豊臣恩顧の武断派との溝がさらに広まってしまった。


慶長の役とは慶長2年(1597年)に始まった秀吉二度目の唐入りのことで、この朝鮮との戦は慶長3年に豊臣秀吉が死去したことにより終結した。その際、石田三成は国内に留まり、自らが信頼を寄せる軍目付(いくさめつけ)7人を朝鮮に派遣し、戦況や戦功の状況を調査させた。

その7人とは太田一吉(三成家臣)、垣見一直(三成家臣)、熊谷直盛(三成の娘婿)、竹中重利(竹中半兵衛の義弟)、早川長政、福原長堯(ながたか、三成の妹婿)、毛利高政という人選だった。このように三成は軍目付として、自らが信用している人物だけを選んだ。だがこの人選が武断派の不興を買ってしまう。

加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興らは、軍目付として三成の臣下以外からも選ぶようにと迫ったが、三成はそれを受け入れなかった。その理由は武断派の息がかかった者を選べば、事実を誇張して報告される恐れがあったためだ。それを防ぎ、事実を正確に把握するために三成は自らが信頼している人物のみを軍目付として選んだ。

この7人の報告を受け、最終報告するのは三成の役目だったわけだが、武断派たちはそこで三成が讒言し、自らの武功を過小評価されたのではないかと猜疑したようだ。だが三成は過小評価して報告をしたわけでも、讒言したわけでもなかった。ただ事実をありのままに秀吉の報告したに過ぎなかったのである。決して私情を交えて報告するようなことはしなかった。

武断派たちは三成の思いなどまったく理解しようとはしなかった。文禄の役などでは特に、日本軍は海路を確保することができなかった。そのため兵糧を日本から朝鮮に送ることもできず、送ったとしても輸送船はあっという間に沈められてしまった。それにより朝鮮の日本軍は食糧危機に陥った。それでも武断派は戦いを続けようとしたのだが、三成は兵を無駄に死なせることを嫌い、退却を強く進言したのだった。

慶長の役では慶長3年8月18日に秀吉が死去し、朝鮮攻めが頓挫すると、三成は帰国してきた武将たちを博多で出迎えた。そして「伏見で秀頼公に御目通りされたら一度国に戻り休み、来年また上洛あれ。その折には茶の湯でも楽しもうではないか」と心からの労いの言葉をかけたようだが、加藤清正は「治部少は茶を振舞われるがよかろう。我らは異国で7年も戦い、米一粒、茶も酒もないため稗粥(ひえがゆ)ででも持て成そう」と怒鳴りつけたと伝えられている。

しかし振り返り見れば、兵糧が尽きかけようとしても戦を続けたのは清正ら武断派であり、兵を守るため撤退させようと苦心したのが三成だった。武断派たちはそんなことは決して理解しようとはせず、理不尽にも三成に当たり散らしたのだった。

秀吉の死は、三成にとっては心が千切れるような出来事だったに違いない。自分を武将に仕立ててくれた恩人であり、三成は秀吉の構想を実現させるべき身を粉にして働いてきた。三成にとっては秀吉こそが正義だったのである。慶長の役は8月以降、撤退は12月まで及んだのだが、三成は兵たちが無事帰国できるように、その間も奉行として涙を見せず働き続けた。

石田三成という人物は、自らにかかる疑念に対し弁明することはほとんどしなかった。そのため誤解が解かれることもなく、誤解がさらなる誤解を生んでしまうことも多々あった。そして江戸時代になると徳川家康の敵として、さらに有る事無い事酷く書かれることになってしまう。

秀吉の生前は秀吉のミスをカバーし続け、そのミスも自らが罪を被り、秀吉のカリスマ性が失われないように対応し続けた。そのような事実も武断派たちは決して知らなかったはずだし、知ろうともしなったのだろう。現代の歴史ドラマでも石田三成は未だ悪役として描かれることが多い。だが実際の石田三成は信じた正義を貫き通した、豊臣家最大の義将だったのである。
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石田三成と加藤清正は本当に仲が悪かったのかと言えば、それは確かであるようだ。そしてその仲を決定的に悪くしたのは文禄の役での一連のやりとりでだった。文禄の役とは天正20年(1592年)4月に始まった唐入りのことだ。ちなみにこの年の12月8日に文禄と改元されたために、この唐入りは文禄の役と呼ばれている。


実は石田三成は唐入りには反対の意を持っていた。だが千利休や豊臣秀次とは違いそれを態度で示すことはなかった。しかし検分のため自らも実際に朝鮮に渡り、兵糧が尽きかけていると知るや否や、三成はすぐに戦線を縮小させようとした。それに異を唱えたのが加藤清正ら、いわゆる豊臣恩顧の武断派武将だちだったわけだ。

唐入り直後は、日本軍は破竹の勢いで朝鮮を攻め立てていた。だが明国が朝鮮の援軍として駆けつけてきた後は日本軍の勢いは少しずつ失われていく。そして見知らぬ土地で食べ物を調達することもできず、病死する者も多数出るようになった。これ以上戦況を悪くしないためにも、三成は戦線の縮小を大将宇喜多秀家に進言したのだった。

しかしこの時点では、槍働きをしている武将たちの手柄はほとんどないに等しかった。つまりこのタイミングで戦が終わってしまうと、兵を消耗しただけで何の得もない状態で帰国させられることになる。それだけは避けたいと躍起になったのが加藤清正だった。

さらに石田三成は軍目付(いくさめつけ)として、加藤清正を讒言(ざんげん)したと伝えられている。讒言とは事実を捻じ曲げて他人を陥れようとする行為のことだが、石田三成は決してそのようなことはしなかった。ただ、事実だけを秀吉に伝えたのである。

どのような事実かと言えば、実はこの戦いで加藤清正は、朝鮮の王子ふたりを捕虜としていた。戦いは少しずつ日本軍が劣勢に傾き始めており、そこへ明国の勅使から清正はある提言を受けた。それは朝鮮の王子をふたりとも無事に返せば、日本軍もこのまま無事に日本に返してくれる、というものだった。

だが清正はこの提案を勝手に蹴ってしまった。しかもあろうことか「豊臣朝臣(あそん)清正」と署名して。しかしこの時の加藤清正は豊臣姓は賜っていない。つまり清正は勝手に秀吉の姓を用い、勝手に交渉を蹴ってしまったというわけだ。三成はこの事実をありのまま秀吉に報告したに過ぎなかった。

さらに清正は明国とのやり取りの中で、小西行長のことを商人扱いし侮辱し、清正の家臣に至っては現地で狼藉を働いてもいた。このような事実が秀吉の怒りを買い、清正はその後帰国と伏見への蟄居を命じられている。ちなみに清正の勝手な越権行為が交渉決裂を招いてしまい、慶長の役へと繋がってしまった。

このように事実は、石田三成は讒言などしてはおらず、事実を報告されたことを加藤清正が讒言されたと歪曲理解してしまっただけの話なのだ。石田三成は、決して加藤清正を陥れようとなどしてはいないのである。だが日頃の不仲が積もり積もったことにより、このような事態になってしまったことは確かだろう。

この出来事により、石田三成と武断派たちとの間には決して埋め切れない大きな溝が生まれてしまった。そしてこの溝を巧みに利用して豊臣家から政権を横奪したのが徳川家康なのである。