「真田昌幸」と一致するもの

真田信之は父弟の赦免を求めて徳川重臣に頭を下げ続けた

真田家に積年の恨みを持ち続けた徳川家康

関ヶ原の戦いで徳川率いる東軍を相手に戦った真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いそのものには参加していなかった。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。

関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は天文13年(1585年)の第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身は昔年の恨みから真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。だが徳川家の家臣たちの多くは関ヶ原の戦い後、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。

だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることはなかった。

父弟は救えなかったが13万石の藩主となった真田信之

父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。

『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかった。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす=殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていた。

信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信は初めから真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。

ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である自分も徳川家家臣とは言え切腹するのが筋、というのが信之の信念だった。

結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまう。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかは今となっては知る由もない。

徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな最低限の葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。

真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまったわけだが、しかし真田信之の奔走もあり、真田の家が取り潰される事態だけは避けることができた。そして真田信之はその後9万5000石の上田藩の祖となった。さらにはその後松代藩に転封し、13万石を得ることになった。

武田勝頼は決して挑むべきではなかった長篠の戦い

織田信長や上杉謙信が恐れた武田勝頼

武田勝頼の最期は実に呆気ないものだった。父信玄の従甥であった小山田信茂の裏切りに遭い、最期は一説によれば100人にも満たない僅かな共の者と逃げ場を失い、天目山で自害したと伝えられている。勝頼のこの自害により、450年続いた甲斐武田氏は信玄亡き後あっという間に滅亡してしまった。だからと言って、武田勝頼は決して愚直な武将だったわけではない。

事実信玄の死後は強過ぎる大将と謳われるほどの戦いを見せていた。だが負け知らずであったがために勝頼のプライドはどんどん高くなってしまったようだ。本来は退くべき戦を退かずに挑んでしまった。勝者の奢りとも言うべきだろうか。重臣たちはしきりに退くことを提言したが、しかしここで退いてはは武田の名が廃るとばかりに、勝頼は無謀な戦いに挑んでしまう。それが長篠の戦いだった。

織田信長は上杉謙信に対し「勝頼は恐るべし武将」と書状を書き、謙信もそれに異論はなかったようだ。長篠の戦いは1万5000の武田勢に対し、織田徳川連合軍は3万8000だった。数の上では織田徳川連合軍が圧倒的に上回っている。しかし信長はそれでも勝利を確信することができなかった。

そのため佐久間信盛に武田に寝返った振りをするように命じた。勝頼はあろうことかこれを信じてしまい、戦いが始まれば織田方の重臣である佐久間信盛が内応することを前提に戦いに挑んでしまった。つまり武田勝頼は長篠では織田方に騙され、天目山では血族である小山田信茂に裏切られたことになる。武田勝頼は織田信長や上杉謙信が恐れる名将ではあったが、生きるか死ぬかの戦国時代に於いては人を信じ過ぎたことが仇となってしまった。

武田信玄は『孫子』を熟知する軍略家だった。しかし勝頼はこの時『孫子』を無視した状態で戦に挑んでしまう。もし勝頼がもっと織田方が整えていた準備を把握できていれば、武田軍に勝ち目がないことは火を見るよりも明らかだった。だが勝頼は最強の武田騎馬軍団を過信してしまい、信長の誘いに乗り沼地の多い設楽原(したらがはら)に陣を敷いてしまった。沼地ではいくら最強と言えど、騎馬軍団の威力半減してしまう。

一方の織田徳川連合軍が沼地の先に用意していたのは馬防柵だった。騎馬隊が侵攻できないように木でフェンスを作り、その隙間から鉄砲を撃てるようにしていた。この戦略により武田騎馬軍団は一網打尽にされてしまう。

天正3年(1575年)5月21日、早朝に始まった死闘は8時間にも及んだという。だが武田軍に勝機はなく、この戦いで土屋昌次、山縣昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・信輝兄弟(ふたりとも真田昌幸の兄)が討ち死にし、撤退時に殿(しんがり)を務めた馬場信春も、勝頼が無事に撤退したことを知ると討ち死にしてしまった。たった一度の戦でこれだけ名のある武将たちが次々命を失った戦も珍しい。

この敗戦により武田家は一気に衰退していき、天正10年(1582年)3月11日、天目山の戦いで勝頼が自害したことにより、名家武田氏は歴史からその名を葬られてしまった。

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戦国時代を語るにあたり必ず登場するのが軍師の存在だ。竹中半兵衛、黒田官兵衛、直江兼続、山本勘助、立花道雪ら戦国時代にはその他にも名だたる軍師たちの存在が多く見て取れる。だが戦国時代そのものにはどうやら軍師という役職は存在していなかったようだ。


江戸時代後期や明治時代になると歴史小説が読まれるようになり、それらの小説により軍師という言葉は一般的になった。そしてそれらの小説に軍師という言葉が登場するきっかけとなったのは、江戸時代以降の軍学者たちによる研究結果だった。学者たちは大名に様々な知恵を提供する役割を担った人物のことを軍師と呼ぶようになり、それが小説の世界へと広がって行き、一般的にもよく知られる言葉となっていった。

歴史ドラマではたまに軍師のことを「軍師殿」と呼ぶシーンが描かれているが、どうやら実際にそのように呼ばれることはなかったようだ。例えば直江兼続のように守護職を持っている人物の場合は「山城守(やましろのかみ)」や「山城」と呼ばれていた。一方竹中半兵衛のように役職に関心のない人物は「半兵衛殿」「竹中殿」と呼ばれていた。

ここでは便宜上「軍師」という言葉を使うが、室町時代から戦国時代初期にかけての軍師は、占い師的な要素が強かった。例えば奇門遁甲などを駆使し方角や運勢を読み、運を味方に付け戦に勝つ手助けを行なっていた。いわゆる陰陽師のような存在だ。

そのため特に戦国時代初期の軍師は、実際には陰陽師ではないが、陰陽師をルーツにするような僧侶などの修験者(しゅげんじゃ)が務めることも多かった。例えば今川義元を支えた太原雪斎(たいげんせっさい)や、大友家を支えた角隈石宗(つのくませきそう)のような存在だ。だが戦国時代が中期に突入すると『孫子』などの軍学に精通した人物が軍師として重用されるようになる。羽柴秀吉を支えた竹中半兵衛や黒田官兵衛のような存在だ。

これが戦国時代も末期に差し掛かり戦が減って行くと、軍学を得意とする軍師の役割も減って行く。その代わりに台頭してくるのが吏僚型の軍師だ。石田三成や大谷吉継のような存在だ。彼らは戦のことももちろん学んでいるが、それ以上に兵站(兵糧)の確保や金銭の管理に大きな力を発揮した。特に石田三成は近江商人で有名な土地で生まれ育ったため算術を得意としており、豊臣秀吉が仕掛けた朝鮮出兵などでは後方支援として大きな役割を果たした。

ちなみに日本最初の軍師は吉備真備(きびのまきび)という人物だ。奈良時代(700年代)の学者で、中国の軍学を学ぶことによって戦術面に貢献するようになり、藤原仲麻呂が起こした乱を巧みに鎮圧したことでも知られる人物だ。その後鎌倉時代から南北朝時代に入って行くと、今度は楠木正成という軍師が登場する。楠木正成は、戦国時代で言えば真田昌幸のようなゲリラ戦法を得意とする軍師だった。

強い忠誠心を持っていたことから、戦国時代にはヒーローとして崇められ、例えば竹中半兵衛などは「昔楠木、今竹中」「今楠木」となどと呼ばれ、その高い手腕が賞賛されていた。

軍師とは野球チームで言えばヘッドコーチ、内閣で言えば官房長官のような役割になるのだろう。決してトップになることはないが常にトップの傍らでトップを支え、成り行きを良い方向へと向かわせる役割を果たす。

ちなみに軍師は『孫子』などに精通している必要があるが、現代でMBAを取得する際の必須科目にも『孫子』は加えられている。その孫子(孫武)自身も紀元前500年代に活躍した中国の軍師(軍事思想家)だった。
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1600年9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍は、徳川家康率いる東軍に一瞬のうちに敗れてしまった。この戦いで真田昌幸・信繁父子は西軍に味方し、真田信幸は東軍に付いていた。東軍諸将の目に信幸は、父親を裏切ってまで家康に味方した功労者として写っていた。事実徳川家康も父親と袂を分かってまで東軍に味方したことを労っている。


関ヶ原の戦いが終わると論功行賞で信幸は沼田・上田領9万5000石の大名に処せられた。関ヶ原以前は2万7000石だったため、所領は一気に3倍以上に膨らんだことになる。そしてこの頃、真田信幸は諱を信之と改めた。定説としては家康に忠義を誓うために父昌幸の「幸」の字を捨てたと言われている。だが本当にそうだろうか。

確かに松代藩初代藩主信之と、二代目藩主真田信政は「幸」の字を使わなかった。だが三代目藩主からは真田幸道と「幸」の字がすぐに復活しているのである。もし信之が本当に家康への忠義のために「幸」の字を捨てたのであれば、信之系譜の真田家の子孫にも「幸」の字は使わせなかったはずだ。

江戸幕府に於いて徳川家康は神として崇められていた。三代目藩主の代と言えば、まだまだ家康の威光が強く残っていた頃だ。その頃に「幸」の字が復活しているということは、これはもしかしたら家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないのではないだろうか。

逆に、父真田昌幸に対し罪悪感を覚えていたからこそ「幸」の字を使い続けることができなかったのではないだろうか。真田昌幸は豊臣秀吉から表裏比興の者と呼ばれるほど智謀に長けた、まさに戦国時代を象徴するような人物だった。一方真田信之は非常に義理堅く信義に厚い武将として知られている。つまり信之は非常に誠実な人物だったのだ。

信之のその人柄を思うならば、家康に忠義を示したというよりは、昌幸への罪悪感により「幸」の字を自身の諱から消したと考える方がしっくり行くような気がする。戦国時代で最も強い影響力を持っていたのは父親だった。子は父親に逆らうことは決して許されない時代であり、信之は真田家を守るためとは言え、その掟を破ったことになる。

その罪悪感から「幸」の字を捨て、さらには命を賭してまで父昌幸と弟信繁の赦免を大坂の陣が始まるまで求め続けたのではないだろうか。そして父と弟が九度山に幽閉されていた頃も、決して援助を絶やすことはしなかったという。

家康が時に残酷な智謀を用いることは信之もよく知っているはずだった。それでも信之は父と弟と運命を共にすることはせず、真田の家を守るために家康に味方をするという決断を下した。信義に厚い信之の人柄を思うならば、この決断はまさに断腸の思いであったはずだ。父の落胆ぶりにも心を痛めたことだろう。

真実に関しては今となっては知りようもない。だが三代目藩主から早々に「幸」の字が復活している事実を見つめれば、これは決して家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないと思えるようになる。もし本当に家康に対する忠義により「幸」の字を捨てたのであれば、松代藩を預かっている限り真田家で「幸」の字を使うことはなかったはずだ。

しかし大坂の陣を前にし、信之が心を千切る思いで捨てた「幸」の字を信繁が拾った。まる兄信之の心の痛みを背負い預かるかのように信繁最期の戦いとなった大阪の陣、信繁は真田幸村と名乗り徳川家康と戦ったのだった。敵味方となっても、家が二つに分裂しても、最後は心で真田家は一つに戻ったのである。
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関ヶ原の戦いの直前、真田家は二つに分裂することになる。世に言う『犬伏の別れ』となるわけだが、真田昌幸・信繁父子は上杉景勝に味方し、真田信幸は徳川家康に味方することとなった。さて、二つに分裂したと上述したが、しかし実際には分裂してしまったわけではなかった。実は犬伏の別れの前から、真田家は二つに分かれていたのである。


関ヶ原の戦い直前の時点で、真田昌幸は上田城、真田信幸は沼田城を居城とし、それぞれ独立した大名としての立ち位置となっていた。沼田城は一時北条家の城となっていたが、小田原征伐により北条が滅ぶと沼田は徳川の城となった。この時の真田家は徳川家の与力とされていたのだが、北条家滅亡後、沼田城は徳川家康によって真田信幸に与えられ、この時から信幸は正式に徳川家付属の大名となったのである。関ヶ原の戦い10年前の出来事だった。

通説では、関ヶ原の戦いで東軍・西軍のどちらが勝利しても真田家が存続するよう、昌幸があえて真田家を東西に振り分けた、と語られているものもある。だがこれは史実とは異なる。関ヶ原の戦い時点で、真田昌幸と真田信幸は父子という間柄ではあるものの、それぞれ独立した別個の大名家だった。つまりこの時の昌幸には、信幸の行動をコントロールする権限はなかったのである。

だが信幸はしきりに父昌幸に、徳川家に味方するようにと説得を繰り返した。この交渉は第二次上田合戦が開戦するまで続けられたが、昌幸の家康嫌いは半端ではなかった。最後の最後まで首を縦に振ることはなく、恩義を感じていた上杉景勝に味方する道を選んだ。元はと言えば上杉景勝の助力がなければ、沼田城はもっと早くに真田の手から離れてしまっていた。沼田を守るために力を貸してくれた景勝に対し、昌幸は味方すると決意していたのだ。

ちなみに縁戚関係が犬伏の別れに繋がったとする説もある。真田昌幸の正室と西軍石田三成の正室は姉妹であり、真田信繁の正室は西軍大谷吉継の娘だった。そして真田信幸の正室は東軍本多忠勝の娘。これにより真田家が東西に別れたとする説もあるが、戦国時代で最も優先されるのは家を守ることであり、婚姻のほとんどは家を強くするための政略結婚だった。

そのためもし婚姻関係が家を守るために足枷となるようであれば、離縁させることも日常茶飯事だった。つまり婚姻関係だけでどちらの味方に付くか判断することは、当時一般的にはなかったことだ。ただし人質を取られている場合は話は別だ。人質を取られていてはそちらに味方するしかなくなってしまう。

真田昌幸からすれば上杉景勝は沼田を守るために力を貸してくれた盟友。家康が上杉討伐に出かけた隙を突き、上杉と共に南北から家康を挟み撃ちにしたいと考えていた。こうして家康を討つことこそが、真田家を守る最善の策だと考えていた。

一方の真田信幸は、家康は沼田城を与えてくれ、自分を独立大名として取り立ててくれた恩義ある大大名だった。しかも秀吉の死後、最も力を持っている人物が家康であり、家康に歯向かえば他家など簡単に潰せてしまうほどだった。上杉家にしても、もし徳川家と単独で戦えば、当時の上杉家には徳川に勝つ力などなかった。だからこそ信幸は家康に味方することによって真田家を守ろうとしたのである。

これが犬伏の別れを生み出してしまった真相だ。通説のように昌幸と信幸が喧嘩別れしたわけでも、婚姻関係に縛られたわけでもない。それぞれ独立する大名となっていた真田昌幸と真田信幸父子が、真田家を守るための最善策をぶつけ合い、結果的に折り合いがつかず真田家は二通りの道を取ることになってしまったのである。
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関ヶ原の戦いで徳川家と戦った真田昌幸と真田信繁は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いには参加していないのである。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。


関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身、真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。一方徳川家の家臣たちの多くは、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。

だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることがなかったようだ。

父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。

『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかったようだ。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす:殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていたようだ。

信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信はもともと真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。

ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である信之も切腹するのが筋、というのが信之の気持ちだった。

結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまった。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかはわからない。

徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。

真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまった。
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戦国時代の軍師の存在、意味とは一体どのようなものだったのか。軍師という言葉は歴史ドラマなどでもよく耳にすることがあるが、実際にはどのような役割を担っていたのか。この巻では軍師の役割について詳しく解説してきたいと思います。


まず軍師を英語で言うと「Tactician(タクティシャン)」となり、戦術家という意味になります。つまり軍師を一言で説明するならば、戦術を練る人、ということになります。いわゆる参謀という存在であり、プロ野球チームならば監督が大名ならばヘッドコーチが軍師、総理大臣が大名ならば官房長官が軍師という感じになるでしょうか。

最終的な決断を下すのはもちろん大名や大将の役割です。その大名や大将に対し選択肢を提供するのが軍師の役目でした。例えば城を攻めるならばシンプルな攻城、兵糧攻め、水攻め、火攻めなどなど、どのような戦術を用いれば最も効果的に、かつ効率的に城を落とすことができるのか、それを大名が決断するための情報を提供するのが軍師の役割です。

そのため軍師は圧倒的な情報量を持っている必要がありました。例えば真田信繁(幸村)は情報を集めるために猿飛佐助や霧隠才蔵などの忍者を抱えていたと伝えられています。またその父真田昌幸は、根津のノノウ(歩き巫女)に情報収集をさせていたという説もあります。

軍師は大名や大将から何かを相談されても、その場ですぐに答えられるように圧倒的な情報量と知識が求められていました。知識といえばもちろん『孫子』を始めとする中国の書物への造詣もです。

軍師という存在が目立つようになったのは、戦国時代からだと言います。戦国時代の前期までは軍師は、主に禅僧の役割でした。中国の学問に精通した禅僧が大名の側に控え、知識を提供していたというのが戦国軍師の元々の姿です。その後徐々に自ら勉学に励む竹中半兵衛のような武将が登場し、大名とともに戦う武将型軍師が多くなっていきました。

ちなみに禅僧型軍師として有名なのは織田信長に仕えた沢彦(たくげん、岐阜を名付けた禅僧)などがいます。沢彦などはまさに典型的な禅僧型軍師であり、戦場にまで赴くことはありませんでした。逆に今川義元に仕えた禅僧型軍師である太原雪斎は自ら鎧をまとい戦場にまで赴く勇猛な禅僧でした。

軍師というのはとにかく、大名や大将が欲しいと思った情報を瞬時に提供できる人物だったようです。そしてそれを可能にするためにも情報網を広げ、武芸だけではなく勉学にも勤しむ忙しい毎日を送っていたと言います。竹中半兵衛や黒田官兵衛らは、夜寝る時間を惜しんで本を読んでいたようです。そして『孫子』なども簡単に諳んじられたと言います。

なお戦国時代の武士はだいたい夜8時には寝て、朝4時には起きていたようです。この8時間の睡眠時間を削ってでも勉学や情報収集に努めたのが軍師という存在だったのです。言ってみれば軍師というのは大名にとって、歩く百科事典だったというわけです。

また、戦場での戦術を練るのが得意だった竹中半兵衛や黒田官兵衛などに対し、吏僚型軍師も戦国時代の後期から登場します。それが石田三成や長塚正家ら、算術が得意な人物たちです。そしてその中間的な存在が大谷吉継でした。大谷吉継は戦術にも算術にも長けていたと言われています。

このように戦国時代の軍師には禅僧型、武将型、吏僚型などなど、他にも幾つものタイプがありました。そしてそのタイプは時代と共にニーズが移り変わっていきます。例えば豊臣秀吉の場合、乱世であった頃は竹中半兵衛や黒田官兵衛を重用しましたが、戦が減ってくると黒田官兵衛とは距離を置き、石田三成ら吏僚型軍師を重用するようになりました。

軍師の役割を見直してみると、軍師と呼ばれた人物は非常に忙しい毎日を送っていたようです。なお戦国時代には軍師という言葉はあまり使われていなかったとも言われています。軍師とは江戸時代後期や明治時代から主に使われるようになった言葉であるようで、戦国時代には明確な「軍師」という役職があったわけでは実はないようです。
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天正18年(1590年)の小田原征伐以降、真田家に大きな動きはほとんどなかった。しかし文禄元年(1592年)2月、いよいよ豊臣秀吉の朝鮮出兵を実行に移すため、真田昌幸は徳川家康、上杉景勝と共に肥前名護屋城に赴いている。ちなみに名護屋城とは朝鮮出兵の拠点として、天正19年10月から普請され、短期間で仕上げられた城だった。


名護屋城には7万3千もの兵が集結した。その中から実際に渡海して行く部隊人数が細かに定められたわけだが、真田父子は700人の兵を持ち、渡海する際は500人連れて行くようにと定められた。だが実際に真田父子が渡海することはなく、上述の通り家康、景勝と共に名護屋城で秀吉の身辺警護を行い、最後まで渡海命令が下されることはなかった。

この時徳川家康、上杉景勝と近い扱いをされるということは、秀吉の中で真田昌幸の存在はかなり大きかったのだろう。そして戦術家としても、小田原征伐以来、秀吉は昌幸を高く評価していたようだ。大名としての格から、さすがにその後大老になるようなことはなかったが、しかし一連の処遇を見ていくと、秀吉が昌幸のことを高く買っていたことが良くわかる。

同じ戦術家として豊臣家には黒田孝高という存在もまだあったわけだが、しかし秀吉に対し耳の痛いこと言う軍師であるためか、この頃の黒田孝高は秀吉からは遠く離されてしまっていた。その黒田孝高の代わりとして、新たな豊臣恩顧の小大名であり、知略にも優れた真田昌幸を置いておきたかったという気持ちが秀吉の中にはもしかしたらあったのかもしれない。

さて、文禄の役では渡海は命じられなかった真田父子だったが、文禄の役が終わると、その替わりとなる役割が待っていた。それは伏見城の普請役だった。伏見城は秀吉が隠居後に暮らすつもりの城で、大坂と京のほぼ中間に作られたものだった。この城の普請を一部担ったわけだが、真田家は木材の提供と1680人(知行高の1/5)の労働者の提供を求められた。

だが文禄の役で実際に渡海させられるよりは遥かにましと言える勤めだった。しかも伏見城の普請、そして名護屋城への出向の恩賞として、家督を継いでいた真田信幸には下従五位伊豆守と豊臣姓が与えられた。真田信繁(幸村)にも下従五位左衛門尉と豊臣姓が与えられたと伝えられてはいるが、しかし信繁の場合はそれを証明する書状は残されてはいない。

その後文禄4年には秀吉が草津温泉への湯治に出かけるということで、真田家はその饗応役を任ぜられたのだが、実際に秀吉が草津に赴くことはなかったようだ。秀吉はこの3年後に病死してしまうわけだが、もしかしたら伏見から草津へ出かけられないほど、この時の秀吉は体が弱っていたのかもしれない。もしくは慶長の役に向けての準備が忙しかったのだろうか。

このように、小田原征伐以降は真田家にはそれほど目立った動きはない。文禄の役では実際に出陣には至らず、文禄の役後は伏見城の普請を担当した程度だった。真田家は最初から最後まで徳川家や北条家などに振り回されていたわけだが、その北条家が滅亡した小田原征伐から少しの間だけは、因縁の沼田領も安堵されていたこともあり、真田家にとってはつかの間の平穏の時だったのかもしれない。
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慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍のあっけない勝利で終わってしまった。そして関ヶ原の戦いの前哨戦となった第二次上田合戦に於いては、西軍に属した真田昌幸・信繁(幸村)父子は勝利したにもかかわらず、その直後に西軍が敗れてしまったために家康からの処分を受ける羽目になってしまった。当初は処刑されるはずだったが、真田信之と本多忠勝の説得もあり、九度山への流罪で収まった。


九度山とは高野山の表玄関に当たる場所となる。九度山への流罪ということは、言い換えれば事実上は出家の有無は問わず、高野山で出家したのと同等となる。出家した身となれば、特別な赦しを得て還俗しなければ武士に戻ることはできない。つまり真田父子は高野山に入れられたことにより、事実上武士ではなくなったということなのだ。

なお高野山という場所は女人禁制であるのだが、九度山であれば妻子を伴って入山することができる。九度山とは、空海の母が息子を訪ねたものの高野山には女人は入れずに滞在した場所で、空海が月に九度、母親を訪ねるために山を下りたことから名付けられたという。そのために九度山は妻子を連れて入ることができ、女人高野とも呼ばれるようになった。

信繁は妻である竹林院と子を伴って入山したのだが、しかし昌幸は山手殿を連れて行くことはなかった。山手殿は信之の元に留まらせた。どうやら昌幸は状況が変われば、つまり家康が少しでも失脚するようなことがあれば、すぐにでも下山して再び家康と一戦交えるつもりであったらしい。

だが九度山への流罪になったことで、そう簡単に家康に刃向かうことはできなくなってしまう。その理由は単純に経済的問題だ。九度山に入るということは武士としての収入を失うということになり、九度山での真田父子の生活はかなり困窮していたようだ。

「借金が多く暮らしが立ち行かないため、残りの20両を早く送って欲しい」という昌幸の国元への手紙や、「恥ずかしながらこの壺に焼酎を目一杯詰めて目張りして送って欲しい」という信繁の手紙が現存しており、その手紙はまさに九度山での生活の困窮ぶりを如実に表している。

そして九度山での生活を支えたのは「真田紐 」の存在だ。この紐は九度山で真田父子が発明したとも言われているが、その真意は定かではない。とにかくこの真田紐を竹林院ら女性たちが作り、そして家臣の男手たちが大坂や京の都で売り歩き、なんとか生計を立てていた。このように九度山での真田父子の経済力はほとんど地に落ちており、とてもじゃないが家康に刃向かう力など残ってはいなかった。

なお真田父子には監視役もつけられたのだが、それは紀州藩(のちの和歌山藩)の藩主である浅野幸長(よしなが)が担った。だが幸長は真田父子に敬意を示したのか、多少のことには目を瞑り、また屋敷を立てる際などには資金援助なども行った。もし監視役が浅野幸長でなければ、真田父子はもっと苦しい生活を強いられていたかもしれない。

九度山に蟄居させられている際、昌幸は日々軍略を考え続け、信繁は新しい兵器の開発に勤しんでいた。大筒の模型を作る信繁を見て、また戦場に戻るつもりなのだと竹林院は泣いて過ごしていたと伝えられている。だがそんな生活が10年近く続くと、昌幸の体にも異変が起こってきた。

昌幸は信之(この頃はまだ信幸)に対し、気弱なことを書く手紙を送るようになる。病が昌幸の体を蝕み始めていたのだ。信繁は日々弱っていく父の姿を目の当たりにし、父を勇気付けるためにも自分だけは戦意を失わずに居続けようと気丈になる。その気丈さが上述の竹林院の涙に繋がるわけだが、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65年の生涯を閉じてしまう。

だがその3年後、真田信繁にようやく再起するための好機が訪れる。大坂冬の陣だ。豊臣秀頼に九度山を下りて大坂城に参陣して欲しいと要望されたわけだが、しかし未だ家康存命のため簡単に下山することはできない。だが蟄居中に信繁が良くしていた山の住人たちが、信繁一行の下山に力を貸してくれた。そのため浅野幸長の監視も掻い潜ることができた。

なお山の住人たちの多くは信繁に心を寄せており、共に戦うために一緒に大坂城に入った者も多かったと言う。昌幸もあと少し長く生きていられればもう一度戦うことができたのだが、再起の好機を待ち切ることができず先立ってしまった。その昌幸の無念を晴らすためにも、信繁は意を決して大坂城に入ったのであった。
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慶長5年(1600)年9月15日午前に開戦し、あっという間に東軍勝利に終わった関ヶ原の戦い。真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍に味方し、信繁の兄である信之は東軍に味方した。何と親子が敵味方に分かれて戦う形になったのだが、これはどちらが勝っても負けても真田の家が滅ばないようにと、昌幸があえてこのような状況を選んだとも伝えられている。

真田昌幸は過去、幾度となく東軍大将の徳川家康を苦しめてきた。そのため家康は昌幸のことを目の敵にしている。そして昌幸自身も、家康に煮え湯を飲まされた経験があり積年の鬱憤を晴らしたいと考えていた。そのため昌幸に東軍に味方するという選択肢はほとんどなかった。

しかし信之に関しては事情が異なる。信之は家康に対しそれほど負の感情は持っていなかったとされている。そして徳川四天王である本多忠勝の娘、小松姫を正室に迎えているという事情もあり、信之は家康率いる東軍に味方することになった。この時信之は再三東軍に味方するようにと昌幸を説得したようだが、しかし昌幸が首を縦に振ることは最後までなかった。

だが個人的な恨みだけで敵味方を決める真田昌幸ではない。勝機ありと見たからこそ、昌幸は西軍に味方したのである。それは関ヶ原から遡ること10年、天正18年(1590年)の忍城の戦いで石田三成の器量の良さを目の当たりにし、この人物の用意周到さがあれば必ず家康に勝てると踏んだからこそ、昌幸は西軍に味方していたのだ。

そうでなければ表裏比興の者と秀吉に言わしめた真田昌幸が、個人的な恨みだけで家康の的に回るはずがない。より高い確率で真田の家を守れると考えたからこそ、昌幸は西軍に味方したのだ。そして昌幸の働きは見事だった。父家康の恨みを晴らすべく徳川秀忠が4万近い大軍を率いて上田城に攻めてきたのだが、昌幸は関ヶ原の前哨戦となったこの戦いに見事勝利した。

この戦いが第二次上田合戦と呼ばれる物だが、実は信之も義弟本多忠政と共に上田城攻めに従っていた。そして父昌幸に開城するようにと説得を試みたが、この時もやはり昌幸が首を縦に振ることはなかった。

さて、信之の妻が本多忠勝の娘であれば、信繁の妻は大谷吉継の娘だった。大谷吉継とは、石田三成と共に関ヶ原の戦いを仕掛けた人物であり、三成の盟友でもあった名将だ。大谷吉継が義父である限り、信繁としては西軍に味方するしかなかった。また、真田昌幸の正室山手殿は石田三成の妻とは姉妹だった。

信繁はこの時、上田城の支城である砥石城を守っていた。この砥石城攻めを任されたのが兄信之だったわけだが、信繁は兄が攻めて来たと知るとすぐに砥石城を捨て、上田城に入ってしまった。信繁には、兄が疑われていることがわかっていた。今は東軍に付いているものの、信之はいつ裏切って父昌幸の元に走るかわからないと思われていたのだ。その疑いを晴らすためにも信繁はあえて兄と戦うことは避け、信之が真田攻めをやり切り徳川を裏切らなかったと秀忠らに思わせようとしたようだ。

砥石城はこのようにした落ちたものの、上田城は昌幸・信繁父子の抗戦により最後まで落ちることはなく、第二次上田合戦もまた、第一次同様に真田勝利で終わったのだった。だが本戦となった関ヶ原では西軍石田三成が、東軍徳川家康に敗れてしまう。これによって真田昌幸・信繁父子は賊軍として扱われてしまうのだった。

関ヶ原後、家康は昌幸・信繁父子を処刑しようとした。だが信之や本多忠勝の説得により、九度山(高野山)への流罪で決着した。この時真田昌幸は信之に対し「さてもさても口惜しきかな。内府(だいふ・徳川家康)をこそ、このように(九度山流罪)してやろうと思ったのに」と語ったと『真田御武功記』に残されている。これは関ヶ原の戦いが終わってしばらくしたのち、信之がふと口にしたことを書き残したものであるようだ。

九度山での生活は侘しいものだった。流罪から10年ほど経つと昌幸は病気がちになり、67歳でその生涯に幕を下ろしてしまう。だが昌幸の意志は信繁が受け継いだ。昌幸の死から3年後に起こった大坂冬の陣で、信繁は真田丸で善戦し、再び徳川勢を大いに苦しめる戦いを見せるのだった。