「柴田勝家」と一致するもの

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織田信長という人物は時に、冷酷非道な人物として語れることがある。それはやはり比叡山を焼き討ちにし女子供問わず殺させたり、浅井父子・朝倉義景の髑髏(しゃれこうべ)に金箔を塗って飾らせたり、自らを裏切った荒木村重の一族を皆殺しにしたりと、このような行動を取ってきたことに影響している。だが本当の信長は、実は愛情深い男だったのだ。


織田信長には、正室である濃姫以上に愛していた女性がいた。吉乃(きつの)という人物だ。吉乃は元々は土田御前(信長の母)の甥である土屋弥平次に嫁いでいたが、弥平次が弘治2年(1556年)に戦死し、19歳という若さで未亡人になってしまった。そして吉乃が未亡人になった頃にその存在を知った信長の恋心はどんどん膨らんで行く。ちなみに吉乃という名前は後世の創作で、実名は定かではない。

さて、信長自身は天文18年(1549年)2月24日に斎藤道三の娘、濃姫と結婚している。濃姫に関しては若くして亡くなった説や、本能寺の変で信長と共に戦い死んだという説など、諸説存在している。若くして亡くなったとしても、それでも信長は濃姫の目を盗んでは吉乃に会いに行く日々を続けていた。時期としては桶狭間の戦いが起こる前の数年間だ。

吉乃は馬借(ばしゃく・馬を使った運送業)をしていた生駒家宗の長女だったのだが、弥平次が死んでからは生駒家に戻っていた。そして信長は当時の居城であった清須城から10キロ離れた生駒家まで馬を駆けて通っていたと言う。若き日の信長は毎日馬で山野を駆け巡り地形を頭に叩き込んでいたのだが、そのついでに生駒家に通う日々だったのかもしれない。

吉乃はその後、信長の側室として迎えられた。そして嫡男信忠、信雄、徳姫を産むのだが、吉乃は元来体が弱かった。それもあり出産をするごとに体力を失っていき、病に伏せるようになってしまう。信長は吉乃のために名医を呼び、金に糸目をつけず吉乃のために薬を手に入れた。そして少し元気な日には吉乃の体を支えながら屋敷内を一緒に歩いたと言う。

時には吉乃を支えながら歩き家臣団がいるところまで連れて行き、吉乃を家臣たちに紹介することもあったようだ。普段は激烈な信長の姿ばかりを見ている家臣たちは、その信長の優しい姿を見てさぞや驚いたのではないだろうか。

信長は吉乃のために輿まで用意すると言った。当時輿と言えば、身分の高い女性だけが乗ることを許された乗り物だった。それを馬借の娘であり、側室という身分でしかなかった女性が乗ることなど、普通ではまず考えられることではない。つまり信長はそれほどまでに吉乃に愛情を示していたということなのだ。

だが吉乃の病状が良くなることはなく、永禄9年(1566年)5月13日、29歳という若さで他界してしまう。この頃の信長は戦に明け暮れ、吉乃に会いに行けることも減っていた。時期は信長が稲葉山城を手に入れる直前だ。

この頃の信長は稲葉山城を攻めるため、稲葉山城にほど近い小牧山城に居城を移していたのだが、吉乃はそこから西4キロほど離れた久昌寺で荼毘に付された。

吉乃を弔った久昌寺の僧侶は「信長公は妻女(吉乃)を哀慕し小牧山城の櫓に登り、(吉乃が眠る)遥か西方を望んで涙を流していた」と書き残している。

織田信長は決して冷徹なだけの人物ではなかった。愛した女性に対しては深い愛情を示し、無償の愛を贈ることのできる男だったのだ。信長にこれほど愛され、吉乃はきっと幸せな最期を迎えたのではないだろうか。そして吉乃が最初に産んだ子、織田信忠もまた愛情深い人物に育っていく。詳しくはこちらの巻を参照していただきたい。

吉乃を亡くした数年後、信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井父子・朝倉義景の髑髏を金箔で飾り、荒木村重一族を皆殺しにするわけだが、もしかしたら吉乃を失った深い悲しみを誤魔化すために愛情とは真逆の行動を取り続けたのかもしれない。

なぜそう思うかと言えば、吉乃が存命していた頃の信長は寛大な対応を見せることも多かったからだ。相続争いの際には柴田勝家らを許した。後には稲葉山城を奪取していた竹中半兵衛に信長は再三好条件での開城を要求したのだが、半兵衛はそれを断り続けた。その半兵衛を数年後、半兵衛の思うような形で織田の寄人になることを許している。

だが吉乃を失ったあとはこのような寛大な対応が減り、黒田官兵衛に裏切りの疑惑がかけられると人質松寿丸の処刑をかんたんに命じてしまうような姿も見せている。今となっては信長の心境などわかるはずもないが、しかし吉乃を失った悲しみはとても一言で言い表せるものではなかったのだろう。もしかしたら吉乃の死が信長を魔王に変えてしまったのかもしれない。
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賤ヶ岳の戦いと言えば、とにかく真っ先に出てくるのは七本槍だ。賎ヶ岳の七本槍とは糟屋武則、片桐且元、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、福島正則、脇坂安治のことで、この戦いで武功を挙げた秀吉の若き近習たちだ。しかし賤ヶ岳で活躍したのは七本槍だけではない。賎ヶ岳の先駆け衆と呼ばれた14人の若者もおり、その中には石田三成、大谷吉継らが含まれていた。


先駆け衆とは一番槍の武功を挙げた者たちのことで、その名の通り本体よりも先駆けて戦場で戦った者たちのことを呼ぶ。石田三成という人物は、いわゆる武断派と呼ばれた加藤清正、福島正則、黒田長政らとは反りが合わず、武断派の面々は三成は槍働きをせずに出世したと思い込んでいた。確かに武功という意味では三成は武断派には敵わない。だが武断派の活躍は三成あってこそのものだったことを、決して見逃してはならない。

柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いに於いて、羽柴軍は5万を超える大軍となっていた。三成はまず、その5万人分の兵糧の調達を秀吉から命じられた。5万人分の兵糧とは、まさに途方もない数字だ。この時三成は大谷吉継に、5万人の軍勢が何日間食べられるだけ兵糧を用意すればいいかと相談していた。それに対し吉継は1ヵ月半と弾き出した。吉継が軍略に富んだ人物であることは三成もよく知っている。三成は吉継の言葉を信じ、5万人が1ヵ月半食べられるだけの兵糧を準備した。事実この戦いは1ヵ月少々期間で勝敗jが決した。

そしてもちろん揃えるのは兵糧だけではない。鉄砲の玉や硝煙などの武器を揃えたのも三成だった。つまり七本槍が心置きなく戦えたのは、三成が兵糧などを抜かりなく準備してくれたお陰なのである。だが武断派たちはそれを持って三成は槍働きをしていない、と不満を募らせる。

さて、この時三成が任されたのは兵站だけではない。賤ヶ岳での決戦に及ぶ前、秀吉は岐阜城の織田信孝を攻めていた。その隙を突いて柴田勢が賤ヶ岳近くの木之本の羽柴陣営に攻め寄せてきた。柴田勢屈指の猛将佐久間盛政だ。だが佐久間盛政は手薄だったはずの木之本を攻撃することができなかった。

秀吉は岐阜城の信孝を攻めているはずだった。しかし木之本には数え切れない程の松明が灯されている。佐久間盛政はそれを見て、秀吉の本陣がもう木之本まで戻って来たと勘違いしたのだった。さすがの佐久間盛政であっても、秀吉の大軍勢を相手に戦うわけにはいかない。そのため盛政はその松明を見ると、すぐに後退していった。

しかしその松明は、羽柴勢本体が木之本まで戻ったものではなかった。三成が先駆けて木之本まで戻り、農民らの手を借りて杭に笠をかぶせ偽装したものだった。つまりは案山子だ。その案山子を羽柴本体だと勘違いして佐久間盛政は撤退していったのである。もしこの時佐久間盛政が攻め入れば、木之本はあっさりと陥落していた。そしてその後の戦いも柴田勢有利に進み、賤ヶ岳の戦いの結果ももしかしたら変わっていたかもしれない。

このような三成の策略があったからこそ、七本槍の若者たちが活躍する機会も生まれた。なお三成の賤ヶ岳での活躍はこれだけではない。早馬や狼煙を活用することにより、情報を限りなく速くやり取りするシステムの構築も行っていた。狼煙の色によって伝達内容をあらかじめ決め、早馬も一里(約4キロ)置きに馬を置き、常に最速の馬の走りで伝達できるように工夫していた。

七本槍の活躍も見事だったわけだが、しかし石田三成ら十四人の先駆け衆の活躍も、この通り見事だったのである。それでも七本槍ばかりが注目されてきたのはやはり、家康の天敵であった三成の情報が江戸時代に入り、恣意的に捻じ曲げられてしまったせいなのだろう。もし三成が関ヶ原で敗れていなければ、賤ヶ岳の先駆け衆ももっと注目されて然るべきだった。

oda.gif世に言う清須会議とは一体どのような会議だったのだろうか。そして誰が参加していたのか。天正10年(1582年)6月2日に織田信長と嫡男信忠は明智光秀に討たれ、その明智光秀も同6月13日に討たれている。平たく言えば清須会議とは信長の後継者を決めるための会議だったのだ。

参列したのは柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、そして羽柴秀吉という重臣4人だった。本来であればここで滝川一益も加わっていなければならないわけだが、しかし信濃路で足止めを食い会議が開かれた6月27日までに清須城に入ることができなかった。

織田家の家督は天正3年(1575年)にすでに信忠に譲られていた。だがその信忠も本能寺の変で討たれてしまったため、家督継承者の席が空席になってしまったのだ。通常であれば信忠の子が織田家を継ぐべきだが、しかしこの時三法師(織田秀信)はまだ3歳だった。そのため信忠の弟である信長の次男信雄、三男信孝も候補に挙げられていた。

だが歴史学者の研究によれば、後継者は最初から三法師で決まっていた可能性が高いようだ。つまり清須会議とは実は信長・信忠の後継者を選ぶための会議ではなく、信長・信忠・明智光秀の旧領を分配するための会議であったようだ。

戦国時代までは、嫡男が家督を相続するという決まりごとはなかった。例えば嫡男よりも次男の方が器量が良かった場合、次男が家督を継ぐというケースも多かった。なぜなら戦国時代に於いて何よりも重要なのは、家を守ることだからだ。器量の悪い嫡男に継がせて家を滅ぼすようなら、迷わず器量のいい次男に家を継がせていたのである。信長と弟信勝(信行)が後継者争いを繰り広げたのも、このような理由からだと言われている。

本能寺の変後、三法師は清須城に避難をしていた。そして後継者は最初から三法師と決められていたからこそ、清須会議は清須城で行われたことになる。つまり後継者がいる城に、重臣たちが集結したという形だ。この会議で所領の分配が行われたわけだが、それは以下の通りとなる。

柴田勝家
本領越前+伊香・浅井・坂田の北近江3郡

羽柴秀吉
山城・丹波

丹羽長秀
本領若狭+近江の高島・志賀2郡

池田恒興
摂津一国

北畠信雄
本領南伊勢+尾張

神戸信孝
本領北伊勢+美濃

三法師に関しては本来安土城に入るはずだったが消失してしまったことにより、岐阜城に入り叔父信孝の後見を受けている。もしここに滝川一益が間に合っていれば、この分配ももう少し違う形になっていたかもしれない。

一益は本能寺の変を知ると信濃の城を旧城主に無条件で返還し清須への道を急いだ。そのため清須会議後は旧領の現状維持という形になってしまった。一益は人柄の良さでも知られる人物であるが、その人柄ゆえに信長亡き後の出世レースで遅れを取ってしまったのかもしれない。

また、もし本能寺の変が起こるのがもう少し遅く、一益が旧武田領の仕置きを終えた後であれば、一益も旧武田領を失うことなく清須会議にも間に合い、旧武田領に於いて勢力を伸ばせていたかもしれない。そして一益をよく助けた真田昌幸と協力することで、滝川一益は織田家でもっと大きな力を得ていたかもしれない。

だが結果的には賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に味方したことにより敗れ、本領であった伊勢の所領まで没収されてしまった。もしかしたら本能寺の変により最も損をさせられたのは滝川一益だったのかもしれない。