「彌介」と一致するもの

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本能寺の変が起こった原因を、織田信長からキツく当たられた明智光秀の怨恨だと解説している本もある。しかし現実はそうではなかったようだ。織田信長は、明智光秀ほど信頼していた人物はおらず、逆に羽柴秀吉のことはそれほど信用していなかったようだ。

有名な逸話として、本能寺で徳川家康を歓待するためのもてなし役を任されていた明智光秀が、信長が気に入らない準備をしてしまったために役を解任され、さらには人前で足蹴にされたというものがある。しかしこれも噂に尾ひれが付いたものであるようだ。詳しくは明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』に証拠の紹介と共に記されているのだが、決してもてなし方が拙かったから解任されたわけではなかった。

羽柴秀吉はこの頃中国の毛利攻めを担当していたのだが、秀吉は信長の顔を立てるためなのか、本来は必要のない援軍を信長に求めていた。だが秀吉をそれほど信用してはいない信長は、光秀を毛利攻めの陣中に送ることにした。これが解任の本当の理由だ。だがこれは通説のように光秀が秀吉の傘下に付くというものではなく、戦況を見極めるための軍師役として信長が指示したものだった。

秀吉の傘下に入ることを嫌った光秀が、信長のその指示に憤怒して本能寺を攻めたという説もあるが、つまりはこれも誤りということになる。毛利攻めへの軍師役に関しても、実は光秀を本能寺から切り離すための演技だった。信長としては、光秀を本当に毛利攻めに参加させるつもりではなく、光秀もそれは最初からわかっていた。

そして光秀が信長に足蹴にされたという逸話だが、これは光秀が本能寺の変を起こしてまで再興させたかった土岐家と縁のある、長曾我部討伐を思い留まるように光秀が信長にしつこく懇願してのことだったと明智憲三郎氏は歴史捜査によって導き出している。

決して光秀が人前で足蹴にされたり、鉄扇で叩かれたという事実はなく、信長が光秀を足蹴にしたのは密室でのことだったようだ。ではなぜ密室で起こったことが他者の耳に入ったかと言えば、信長の小姓を務めていた彌介(黒人)がそれをそばで目撃し、南蛮寺でのちに話したことが尾ひれを付けて広まったらしい。

信長が光秀を辱しめ光秀の恨みを買った、秀吉は信長に大層気に入られていた、という通説は、どうやらのちに秀吉が演出した作り話であるようだ。特に信長と光秀の不仲に関しては、秀吉が自らの天下取りの宣伝用に書かせた『惟任退治記』によって強調されたものだった。

だが信長は光秀を誰よりも信用し、秀吉のことはそれほど信用してはいなかった、というのが真実であったようだ。だからこそ信長は家康の暗殺を秀吉ではなく、光秀に命じたわけだが、しかし長曾我部討伐が影響し、信長は光秀に裏切られてしまった。そしてどうやら秀吉は本能寺の変が起こるであろうことを前々から知っていたようなのだ。そしてそれを契機に主権を奪い取ろうと企てていた節が秀吉にはある。

史家の最新の研究を拝読していくと、我々歴史好きが誤認している通説が非常に多いということがよくわかる。10年前は常識だった通説も、今ではその事情がすっかり変わってきてしまっているのである。それを踏まえると、書籍によって歴史の真実を見極める我々の目ももっと鍛えていかなければならないのかもしれない。
oda.gif天正10年(1582年)6月2日夜、織田信長は京の本能寺で徳川家康が到着するのを寝所で寛ぎながら待っていた。明智憲三郎氏の研究によれば、この時信長は明智光秀と協力し、本能寺で徳川家康を暗殺するつもりでいたようだ。

そのため家康に勘付かれないように、信長自身身構えないという自作自演が必要だったのだ。だからこそ信長にしては本能寺の警護が異常なまでに手薄だった。そんな状況下で信長は家康の到着を待っていたわけだが、そこに突然夜襲の報せが届く。

森乱丸が「明智謀反」を告げると、信長は「是非に及ばず」と呟いた。この言葉の意味は「そうであろうな」というニュアンスだろうか。謀反人が明智光秀だと聞き、「それ以外考えられないな」というニュアンスで出た言葉だったと思う。

金ヶ崎撤退戦で義弟浅井長政を信じ切ったが故に命を落としそうになった信長だが、ここでまた同じ過ちを繰り返してしまう。明智光秀という腹心を信じすぎたが故に、家康を討つはずの作戦を光秀に乗っ取られ、家康を討つはずだった軍勢により自らを討たせてしまった。

織田信長という人物は時に、意外なほど人を信じ切ってしまうことがある。もし信長がいつも通り決して人を信じ切ることをしていなければ、明智の軍勢とは別働隊として、万が一のため密かにバックアップ要員を立てていたはずだ。だが信長は光秀を信じ切ったことにより、ほとんど丸腰の状態で光秀に大きな隙を与えてしまった。

明智謀反の報せを聞いた信長は口に指を当てると「余は余自ら死を招いたな」と最期の言葉を呟いた。この最期の言葉を伝え聞いたのは、信長に仕えていた黒人小姓の彌介だった。彌介は「すぐに逃げろと二条城の信忠に伝えよ」という言伝を受け、本能寺を脱出し、二条城まで走った。

その一連を伝え聞いたイスパニア(スペイン)商人のアビラ・ヒロンが『日本王国記』に記した。日本国内の文献には一切書かれていないことらしいのだが、イスパニア人が書いた『日本王国記』にだけは信長最期の言葉が記されている。これは本能寺の変後に南蛮寺(教会)に逃げ込んだ彌介、もしくは彌介の言葉を伝え聞いた者から聞き、ヒロンが書き記したことであるようだ。

「余は余自ら死を招いたな」と呟いた信長。もしかしたら「家康の暗殺を企てた天罰か」とも思いながら、自ら招いた死を恨んだのかもしれない。

ちなみに本能寺の焼け跡からは信長の遺体は見つからなかったと言うが、事実は違う。信長は自刃し炎に包まれた。そして多くの味方戦死者たちとともに亡骸は焼かれてしまったのだ。つまり信長の遺体が本能寺で見つからなかった、ということではなく、数多の遺骨が転がる本能寺で信長の遺骨を見分けることはできなかった、というのが事実だ。

以前某も本能寺の信長公の墓を訪ねたことがある。だが京都の街並みにポツンと取り残されたような質素さで、とてもあの織田信長公の墓だとは思えなかった。そしてその目と鼻の先にある息子信忠のいた二条城。現代に残されている本能寺跡は、そこで歴史が動いたとは思えないほどの存在感しか残されてはいなかった。