「北政所」と一致するもの

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小野お通という人物は長い間架空の人物だとされていた。戦国時代の才女として名高い女性だったわけだが、お通という人物が実在したことを示す物証が何一つ見つかっていなかったからだ。しかし昭和に入って間もない頃、真田信之がお通が宛てた書状が発見され、初めてその実在が確認された。


実は小野お通という人物はふたり存在している。一人目は真田信之と昵懇の間柄だった初代お通。そしてもう一人は初代お通の娘であり、真田信之の次男信政の側室となった二代目お通だ。今回は一般的に良く知られる、初代お通について書き進めていきたい。なお2016年大河ドラマ『真田丸』では八木亜希子さんがお通を演じるようだ。

お通は1568年生まれという説が有力とされている。真田信之が1566年生まれであるため、ほとんど同世代ということになる。お通と信之が出会ったのは、信之が父昌幸に従い上洛した時だったと言われている。つまり1587年3月あたりだと推測され、この時信之は21歳、お通は19歳だった。

お通という人物は詩歌、書画、管弦、茶道、舞踊などに精通していたと伝えられている。当初信之はそのような文化道の教えを請うため、お通の元に通っていたようだ。だがそこから徐々にふたりの間には他者が入り込めない絆が生まれていく。

様々な文化道に精通していたお通は、淀殿(茶々、秀吉の側室)、北政所(秀吉の正室)に仕えていたという説も伝わる。正確なところは詳細な資料が残されていないため不明ではあるが、真田が上洛し秀吉に謁見した際にふたりが出会ったのだとすれば、淀殿や北政所に仕えていたという説はあながち史実からそう遠くはないのではないだろうか。

お通を信之の側室だと伝える説もあるが、晩年は離れ離れで暮らしたふたりの生活を考えれば、側室という間柄ではなかったのではないだろうか。どちらかと言えば愛人関係に近く、信之にとっては何でも話せる親友がお通だったと考えた方が自然であるように感じられる。

その根拠は、晩年信之がお通に宛てて認めた手紙の内容だ。1622年11月18日、信之はお通宛に手紙を認めている。その内容は世間話に始まり、身の回りの世話をしてくれる器量が良く美しい女性(若い側室)を2〜3人紹介して欲しい、という内容にまで至っている。この時信之は56歳、お通は54歳。

もしお通が信之の側室であったならば、お通は信之の国替え後であっても近くにいただろう。だが上田藩から松代藩へと国替えとなった後、お通が信之に従った形跡は見られず、そもそもお通はずっと上方にいた可能性も高い。そして信之が認めた手紙には「こうけん殿が存命なら」という記述があるが、こうけんという人物がお通の夫だった可能性が高いようだ。となるとやはり、夫がいる女性が側室になるという可能性は消すべきだろう。

思いの丈を素直に書き過ぎたせいだろうか、信之は手紙の最後に「読んだらこの手紙は燃やして欲しい」と書き加え文を締めている。だが信之の孫である真田信就を先祖に持つ家で、この手紙は昭和に入り発見された。ということはお通はこの手紙を燃やさずに大切に保管していたということになる。

戦国時代の女性に関する資料は、よほどの女性でなければほとんど残っていないことが普通だ。お通も同様であり、お通の実在を示すものもこの手紙のみとなる。だが信之が気取ることなく心の内をすべて打ち明けている文面を見る限り、信之とお通がよほど親密な間柄だったことが良くわかるのである。
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関ヶ原の戦いで西軍を裏切った大名の代表格としていつも語られるのは、小早川秀秋だ。だがなぜ小早川秀秋は豊臣秀吉の正室、高台院(寧々、北政所)の甥でありながら西軍豊臣秀頼ではなく、東軍徳川家康に味方したのだろうか?実は秀秋を東軍に寝返らせるための調略を行ったのも、黒田長政だったのである。まさに黒田長政は東軍勝利の大立役者なのだ。


小早川秀秋は最後の最後まで悩み続けたと言う。西軍に味方すべきか、それとも東軍に寝返るか。当初は黒田長政に対し、東軍に味方するようなことを話していた。だがそれをなかなか実行に移そうとしない。それどころか関ヶ原の前哨戦として行われた伏見城の戦いでは、西軍の副将として東軍伏見城攻めに参戦している。

黒田長政は解せなかった。東軍に味方をするようなことを言っておきながら、小早川秀秋は未だ西軍として東軍に攻撃を仕掛けている。本当に家康に味方するつもりがあるのか、長政は秀秋を問い質そうとした。だが秀秋はなかなか態度をはっきりさせなかった。本来であれば豊臣恩顧の大名として西軍で戦うのが筋だ。しかし東軍に味方する大きな理由もあったのである。

その前に秀秋は、唐入り(慶長の役)では戦目付の報告により秀吉の怒りを買い減俸させれていた。その戦目付が三成派であり、秀秋は三成に対してはそれほど良い感情は持っていなかったと伝えられている。しかしそれでも一時は西軍として戦っているのだから、黒田長政や福島正則、加藤清正らに比べればそれほど三成のことを嫌ってはいなかったのかもしれない。

秀秋は迷いに迷った。ただ、東軍に味方すると言いながら西軍に付かなければならない事情もあった。関ヶ原の戦いを前にして大坂城は西軍の大軍で溢れており、仮に秀秋が早い段階で東軍に寝返ったとしたら、あっという間に西軍に討たれてしまう危険があったのだ。そのために最後の最後まで態度をはっきりさせられなかった、と考えることもできる。

だが黒田長政は悠長に待っていることなどできなかった。関ヶ原の戦いが開戦される半月ほど前の8月28日、黒田長政は浅野幸長(よしなが)と連名で小早川秀秋に書状を送っている。その内容は、浅野幸長の母親が北政所の妹であるため、秀秋にも東軍に味方して欲しい、と求めるものだった。ではなぜ長政はこのような書状を送ったのか?

実は小早川秀秋は豊臣秀吉の養子であり、幼い頃は北政所に育てられていた。つまり北政所は秀秋にとって養母であり、母親同然の存在だったのだ。黒田長政は秀秋よりも14歳上なのだが、実は長政にとっても北政所は母親同然なのである。

幼少期にまだ松寿丸と名乗っていた頃、長政は人質として織田家に送られていた。そしてその人質の面倒を見ていたのが羽柴秀吉の妻寧々、つまり若き日の北政所だったのである。子を産めなかった北政所は、長政のことを我が子同然に可愛がった。人質として扱うことなど決してなく、父官兵衛の裏切りが疑われた際に長政の処刑が信長から命じられると、最も悲しんだのが北政所だった。そして竹中半兵衛により長政の命が救われ最も喜んだのも北政所だった。

その北政所は淀殿(茶々)と反りが合わず、秀吉死後は自然と家康側に傾倒していた。長政は、秀秋にとっても母同然である北政所が東軍にいるのだから、秀秋も当然東軍に味方すべきであると、と説得を繰り返したのだった。この長政の説得もあり、秀秋は関ヶ原の戦い当日になりようやく西軍を離脱することになる。

福島正則の西軍への寝返りを阻止したのも、西軍総大将毛利輝元に出撃させなかったのも、小早川秀秋を東軍に寝返らせたのも、すべては黒田長政の調略によってのものだった。黒田長政は歴史上、父黒田官兵衛ほど目立つ存在ではない。実際黒田官兵衛を特集した書籍、雑誌ならいくらでもあるが、黒田長政を特集したものはほとんど存在しない。

だが関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いたというこの功績は、父官兵衛のかつての活躍を凌ぐ働きだったとも言える。なお幼馴染である竹中半兵衛の子、重門とは関ヶ原の戦いでは隣り合って布陣したと伝えられている。