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天正6年(1578年)、荒木村重は羽柴秀吉の三木城攻めに加わっていた。だがその10月、突如として村重は主君織田信長に反旗を翻し摂津有岡城に籠城してしまう。なぜ村重が信長を裏切ったのかは諸説あるが、ハッキリとした理由はわかっていない。一般的には信長の苛烈な性格に不安を抱き、毛利の後ろ盾てを得たことで謀反を起こしたとされている。

同じ頃、黒田官兵衛は秀吉の与力として播州(播磨)の案内役を買って出ていた。この頃の官兵衛はまだ小寺政職に仕えており、小寺姓を名乗っていた。官兵衛の進言により主君小寺政職は織田への従属を決めていたのだが、この時人質として秀吉のもとに送られたのは官兵衛の子、松寿丸だった。後の黒田長政だ。

村重の謀反を知ると、官兵衛は村重を説得するために有岡城に単身乗り込んだ。だがその官兵衛がいつまで経っても戻って来ない。その間にも村重は毛利と連携を取り、一時は織田側に靡いていた播州の国衆たちが毛利に付くように状況を変えようとしていた。これに怒りを露わにしたのが信長だった。信長はこの時、知将官兵衛が裏切り、荒木村重に知恵を貸していると判断した。だからこそ音沙汰もなく官兵衛が有岡城から戻って来ないのだ、と。

通常であれば使者は役目を果たすとその後すぐに戻るか、切り捨てられるかのどちらかだ。戦国時代に於いて使者を切り捨てるというのは宣戦布告を意味していた。だが官兵衛の場合はそのどちらでもない。だとすれば、一般的に考えれば官兵衛が村重側に付いたと判断することができる。

信長は秀吉に対し、人質であった松寿丸を切り捨てるよう命じた。当然と言えば当然である。人質とはそのための存在であり、官兵衛が裏切ったと判断されたならば、その人質を殺すのが戦国時代の当たり前のやり方だ。だが松寿丸はまだ9歳と幼かった。秀吉は居城である長浜城で正室のおねに松寿丸を預けていた。そして子に恵まれなかったおねは、我が子のように松寿丸を可愛がっていた。

秀吉もおねがどれだけ松寿丸を可愛がっているのかをよく知っていた。だからこそ信長の松寿丸処刑の命令をおねに伝えるのがあまりにも心苦しかった。そしてそんな秀吉の苦悩を、竹中半兵衛がそばで見守っていた。

その半兵衛が自ら松寿丸の処刑を買って出た。松寿丸を長浜城から自らの本拠、美濃菩提山城へと連れて行った。そして信長にはその後すぐ、松寿丸が処刑されたことが伝えられた。秀吉もおねも大層悲しんだことだろう。例え官兵衛が裏切り者だったとしても、特におねには松寿丸をこのまま我が子として育てたい気持ちがあったはずだ。だが主君信長の命に背くわけにはいかない。だからこそ断腸の思いで、半兵衛に松寿丸の処刑を任せるより他なかったのである。

官兵衛が有岡城に入ってからちょうど1年が過ぎた天正7年10月19日、荒木村重が篭る有岡城はついに落城した。しかもその形が酷く、村重が一族や家臣を残して逃亡するというものだった。そのため一族たちは女子供を含め、全員が処刑されるという最悪の結果になってしまう。

有岡城が陥落した際、狭く汚い土牢に一人の男が幽閉されていた。脚は真っ直ぐ伸びなくなっており、顔には痣ができている。この人物こそが小寺官兵衛であり、官兵衛は織田方を裏切ったのではなく、村重に幽閉されていただけだったのだ。村重には自らの味方に付くよう逆に説得されたようだが、官兵衛は決して織田を裏切ることはしなかった。この時官兵衛を土牢から救出したのは官兵衛の側近、栗山善助だった。

官兵衛は無事に救出され姫路に戻ることができた。だが官兵衛の帰りを待っていたのは、松寿丸が信長の命により処刑されたという報らせだった。官兵衛は嘆き悲しみ、まるで生きて戻った心地がしなかった。

だがその時、別の報らせが官兵衛のもとに届けられた。官兵衛が幽閉されている間に結核により他界していた竹中半兵衛の家の者からの報らせだった。官兵衛は当初半兵衛のことを慕っていたわけだが、しかし半兵衛が松寿丸の処刑を買って出たと聞き、さぞ落胆したことだろう。

竹中家からの報らせはきっと、その詫びだと思ったのかもしれない。だが真実はそうではなかった。半兵衛は処刑を買って出て、松寿丸を長浜城から菩提山城へと連れて行った。その後は半兵衛の家臣である不破矢足の屋敷に松寿丸は置かれた。

事実はたったそれだけだった。

半兵衛は、官兵衛が裏切っていないことを確信していたのだった。だからこそ自ら松寿丸を引き取り、処刑をしたと嘘の報告を行っていた。その報告に信長も満足していた。

信長の命は松寿丸を処刑することだった。だが半兵衛はその命に完全に背いた。なぜそんなことができたのか?半兵衛は自らの死期が近いことを良くわかっていた。半兵衛が自ら処刑役を買って出て、その結果信長の命に背いたとしても、もう半兵衛はこの世にはおらず、さすがの信長であっても死者を処分することはできない。半兵衛はそこまで考えて松寿丸を匿ったのだった。

官兵衛は心の底から半兵衛に対し感謝の意を示した。以降黒田家では竹中家の石餅(こくもち)の家紋を用い、半兵衛の子重門が元服した際には烏帽子親を務めている。

竹中半兵衛という人物は知略に長けた名軍師であったわけだが、最期は自分の死まで利用してしまった。そして死の間際には黒田父子を気遣う手紙まで残している。生前は官兵衛に対し時に冷たく、時に厳しく接した半兵衛であったが、その厳しさもすべて官兵衛のことを考えてのことだった。なぜなら自身亡き後、秀吉を支える軍師は官兵衛しかいないと考えていたからだ。

半兵衛と官兵衛の友情は、親の代だけで途切れることはなかった。半兵衛が他界した21年後に起こった関ヶ原の戦いでは、官兵衛の息子長政と、半兵衛の息子重門が隣り合って陣を敷くことになる。恐らく長政自身、半兵衛によって命を救われた恩を生涯忘れることがなかったのだろう。

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三木城の別所長治はなぜ羽柴秀吉を裏切ったのだろうか。この裏切りが『三木の干殺し』に繋がっていくわけだが、その理由は諸説伝えられている。別所氏の名門意識が百姓上がりの秀吉の下に付くことを嫌ったとか、織田軍の上月城攻めのやり方に反感を持ったなど、信長への信頼感の揺らぎが大きな原因だったようにも伝えられている。


原因はどれか一つではなかったのだろう。いくつもの不安要素が折り重なり、羽柴秀吉に対し反旗を翻す結果になったのだと思う。当初は別所長治も毛利ではなく、織田に味方する姿勢を見せていたのだが、まさかの急展開となってしまった。

羽柴勢による三木城の包囲が始まったのは天正6年(1578年)3月29日のことだった。だが三木城は簡単に攻め落とせるような城ではない。まず城の北側には美嚢川(みのうがわ)という天然の水堀があり、そして城自体も丘の上に建てられているため、下手に攻めれば上から鉄砲や矢の雨が降ってくる。さらには東播磨などから集まってきた7500人もの兵が城を固く守っており、力攻めをしたところで返り討ちに遭うばかりとなる。

この時秀吉の下には竹中半兵衛と黒田官兵衛というふたりの軍師がいた。だが三木城攻めが始まって間もなくすると、今度は攝津有岡城主の荒木村重が信長に反旗を翻す。村重を翻意させるために官兵衛が有岡城を尋ねるのだが、しかし官兵衛は捕らえられてしまい、地下牢に閉じ込められてしまう。

一方の竹中半兵衛は結核を患っており、戦場と病床とを行き来する日々を強いられていた。それでも竹中半兵衛は策を巡らせ、三木城を兵糧攻めにしていく。一説によればこの時、「羽柴軍は別所長治に味方したものは兵士だろうが百姓だろうが構わず皆殺しにする」という噂をわざと流し、百姓たちまで三木城内に駆け込ませたと言う。

すると三木城内は兵だけではなく百姓たちも合わさり、兵糧は見る見る減っていく。そして美嚢川を含めた兵糧の補給路は羽柴勢によりすべて封鎖されており、毛利からの兵糧補給も期待することができない。さらに羽柴勢は周辺の米商人から通常よりも高い金額で米を買い占めていた。これにより三木城内からは米が減っていく一方で、逆に補給路は一切が断たれる形となった。

これらの兵糧攻めを主導したのが竹中半兵衛であったようだ。『孫子 』の言うところの「戦わずして勝つ」を地で行くような戦法だ。羽柴勢は兵をまったく失うことなく、三木城内の兵士たちはどんどん弱っていく。米が尽きれば兵馬が食べられ、馬もいなくなればそこらへんに生えている草木をも食べ、そして餓死者の肉を貪ってもいたようだ。まさに壮絶な兵糧攻めであり、また生き地獄でもあった。

10日も何も食べていない者ばかりとなり、兵も戦うどころか立ってもいられない状況が続いていた。竹中半兵衛の策略が見事にはまり、天然の要塞と呼ばれた三木城も、内側から見る見る力を失っていく。そして炊飯の煙がほとんど上がらなくなると、秀吉はいよいよ総攻撃を命じた。

だが実際には城は攻めるまでもなく、場内の兵の命を救うことを条件にし、別所長治一族が切腹することで城攻めは天正8年1月17日に終了した。この戦いは実に22ヶ月にも及び、戦国時代で最も長期に渡った戦となった。

ちなみに有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛は、天正7年10月19日に無事救出されたのだが、盟友である竹中半兵衛はその救出を見ることなく天正7年6月13日、結核により36年という短い生涯を三木陣中にて終えてしまった。秀吉は京での療養を勧めていたようだが、「戦さ場が死に場所」と自らに定めていた半兵衛はそれを聞かず、三木陣中での最期を選んだのだった。

写真:三木市内にある竹中半兵衛の墓

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