賤ヶ岳の戦いと言えば、とにかく真っ先に出てくるのは七本槍だ。賎ヶ岳の七本槍とは糟屋武則、片桐且元、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、福島正則、脇坂安治のことで、この戦いで武功を挙げた秀吉の若き近習たちだ。しかし賤ヶ岳で活躍したのは七本槍だけではない。賎ヶ岳の先駆け衆と呼ばれた14人の若者もおり、その中には石田三成、大谷吉継らが含まれていた。
先駆け衆とは一番槍の武功を挙げた者たちのことで、その名の通り本体よりも先駆けて戦場で戦った者たちのことを呼ぶ。石田三成という人物は、いわゆる武断派と呼ばれた加藤清正、福島正則、黒田長政らとは反りが合わず、武断派の面々は三成は槍働きをせずに出世したと思い込んでいた。確かに武功という意味では三成は武断派には敵わない。だが武断派の活躍は三成あってこそのものだったことを、決して見逃してはならない。
柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いに於いて、羽柴軍は5万を超える大軍となっていた。三成はまず、その5万人分の兵糧の調達を秀吉から命じられた。5万人分の兵糧とは、まさに途方もない数字だ。この時三成は大谷吉継に、5万人の軍勢が何日間食べられるだけ兵糧を用意すればいいかと相談していた。それに対し吉継は1ヵ月半と弾き出した。吉継が軍略に富んだ人物であることは三成もよく知っている。三成は吉継の言葉を信じ、5万人が1ヵ月半食べられるだけの兵糧を準備した。事実この戦いは1ヵ月少々期間で勝敗jが決した。
そしてもちろん揃えるのは兵糧だけではない。鉄砲の玉や硝煙などの武器を揃えたのも三成だった。つまり七本槍が心置きなく戦えたのは、三成が兵糧などを抜かりなく準備してくれたお陰なのである。だが武断派たちはそれを持って三成は槍働きをしていない、と不満を募らせる。
さて、この時三成が任されたのは兵站だけではない。賤ヶ岳での決戦に及ぶ前、秀吉は岐阜城の織田信孝を攻めていた。その隙を突いて柴田勢が賤ヶ岳近くの木之本の羽柴陣営に攻め寄せてきた。柴田勢屈指の猛将佐久間盛政だ。だが佐久間盛政は手薄だったはずの木之本を攻撃することができなかった。
秀吉は岐阜城の信孝を攻めているはずだった。しかし木之本には数え切れない程の松明が灯されている。佐久間盛政はそれを見て、秀吉の本陣がもう木之本まで戻って来たと勘違いしたのだった。さすがの佐久間盛政であっても、秀吉の大軍勢を相手に戦うわけにはいかない。そのため盛政はその松明を見ると、すぐに後退していった。
しかしその松明は、羽柴勢本体が木之本まで戻ったものではなかった。三成が先駆けて木之本まで戻り、農民らの手を借りて杭に笠をかぶせ偽装したものだった。つまりは案山子だ。その案山子を羽柴本体だと勘違いして佐久間盛政は撤退していったのである。もしこの時佐久間盛政が攻め入れば、木之本はあっさりと陥落していた。そしてその後の戦いも柴田勢有利に進み、賤ヶ岳の戦いの結果ももしかしたら変わっていたかもしれない。
このような三成の策略があったからこそ、七本槍の若者たちが活躍する機会も生まれた。なお三成の賤ヶ岳での活躍はこれだけではない。早馬や狼煙を活用することにより、情報を限りなく速くやり取りするシステムの構築も行っていた。狼煙の色によって伝達内容をあらかじめ決め、早馬も一里(約4キロ)置きに馬を置き、常に最速の馬の走りで伝達できるように工夫していた。
七本槍の活躍も見事だったわけだが、しかし石田三成ら十四人の先駆け衆の活躍も、この通り見事だったのである。それでも七本槍ばかりが注目されてきたのはやはり、家康の天敵であった三成の情報が江戸時代に入り、恣意的に捻じ曲げられてしまったせいなのだろう。もし三成が関ヶ原で敗れていなければ、賤ヶ岳の先駆け衆ももっと注目されて然るべきだった。