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tokugawa.gif諱(いみな)という言葉をご存知だろうか。これは身分の高い者の実名のことで、存命中は実名では呼ばないことが戦国時代以前の礼儀だった。戦国時代後期になるとこの風習もやや廃れ始めてはいたようだが、しかし実際にはまだ高位な者を諱で呼ぶことは憚られていた。

例えば内大臣になっていた徳川家康のことを「家康殿」「家康様」と呼ぶのは失礼に当たり、この頃人々は家康のことを「内府殿」「内府様」と呼んでいた。内府(だいふ)とは内大臣の唐名(中国での呼び方)のことだ。現代では例えば最高経営責任者のことを英語でCEOと呼ぶが、戦国時代では役職を唐名で呼ぶのが一般的だった。

そんな時代背景がある中での慶長19年(1614年)の夏、慶長4年(1599年)から豊臣秀頼が復興作業を続けていた方広寺が完成しようとしていた。復興作業中は流し込んだ銅が漏れたことにより火災が起こってしまったりもしたが、しかしようやく完成というところまでこぎつけた。そして総仕上げとして梵鐘(ぼんしょう)が吊り下げられるわけだが、その梵鐘に刻まれた銘文を目にし、家康が文句を言い出したのである。

梵鐘銘文の一部には「国家安康」「君臣豊楽」と書かれていた。先述の諱の風習からすると、当初家康は将軍職は秀忠に譲っていたとは言え、大御所として幕府の実権を握った実際には武家最高位という立場だった。その大御所のことを諱で呼び、しかもその文字を逆さまにしたことは呪い以外のなにものでもない、との言いがかりだった。

だが銘文を作った文英清韓という臨済宗の僧侶は、単に敬意を込めて家康の名を織り込んだと話している。だが家康は清韓の人物調査を命じているほど、粗探しに躍起になっている。と言うのはこの時、家康はとにかく豊臣の力を少しでも削ぎたかったのだ。必ずしも豊臣を滅ぼすつもりはなかったようだが、極力豊臣の影響力は小さくしておきたいという思いは強かったらしい。

そのような思惑もあり、家康はこの銘文を好機と捉えた。「家康の諱を逆さにし呪詛するばかりか、「君臣豊楽」と豊臣を君主として世を楽しむとまで書いてある」。そう言った家康の言葉は傍目にはまさに言いがかりでしかなかった。

家康はこの出来事を豊臣の幕府への逆心だと宣言し、豊臣秀頼に対し以下のいずれかを選ぶように迫った。
  1. 大阪城を退去し、伊勢もしくは大和への転封
  2. 淀殿を人質として江戸に送る
  3. 秀頼が駿府、もしくは江戸に参勤する
どの要求も決して豊臣を滅ぼすような内容ではなく、むしろ豊臣を臣下に組み込もうとしたと言える。しかし秀頼と淀殿はこの要求をすべて突っぱねてしまった。もしこの要求のどれか一つでも受諾していれば、大名家豊臣が滅亡することもなかった。しかし一度は天下を治めた豊臣が家康の臣下になることなど、到底プライドが許さなかったのである。

この時徳川方と豊臣方の取次役は片桐且元が勤めていたのだが、豊臣方は且元が徳川方に付いていると考え暗殺を企てた。それを察知した且元はすぐに大阪城を逃げ出して助かったわけだが、しかし戦国時代に於いて取次役を殺害するという行為は宣戦布告と見なされていた。

つまり豊臣方は要求を突っぱねるどころか、宣戦布告までしてきたと家康は捉えたのである。これによって引き起こされたのが真田丸でも有名な大坂冬の陣だった。つまり大坂冬の陣とは、悪意なきたった一つの梵鐘に家康が言いがかりをつけたことから始まっていった戦なのである。

家康が梵鐘に正式に言いがかりをつけたのは慶長19年7月26日のことで、大坂冬の陣が始まったのはその僅か4ヵ月後の11月19日だった。