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真田幸村

年配に多い豊臣秀吉信奉者と、若者に人気の真田幸村

2016年NHK大河ドラマ『真田丸』の主人公としても注目されていた人物、真田信繁こと通称幸村。真田家は大名と呼ぶことはできない土豪出身の一族であり、常に時の有力大名に臣従することにより家を守ってきた。信長、秀吉、家康のように天下を動かしたわけではなく、歴史を動かすような特別大きな武功を挙げたわけでもない。それなのに真田幸村という人物は、今なお歴史ファンから愛された存在で居続けている。

筆者の個人的感想を言わせてもらえるなら、第二次大戦を経験している年代は特に豊臣秀吉が好きな方が多い印象がある。特に中国との戦争を体験していたり、それをよく知る世代の方は秀吉を尊敬しているという方が多い。これには理由があり、かつての大日本帝国軍が中国に侵攻した際、日本政府は豊臣秀吉を英雄として担ぎ上げていた。その理由は戦国時代に秀吉が朝鮮に侵攻していたためだ。当時の日本政府は秀吉を祭り上げ、中国への侵攻を正当化しようとしていたのだ。いわゆるプロバガンダだ。

その影響からか、年配の方に秀吉を尊敬している方が多いように感じられる。だがそれよりも若い世代となると、義に厚く、散り樣が見事だった武将の人気が高まってくる。その中でも一番人気がある人物のひとりが真田幸村だ。

父とは逆に義を貫き散っていった真田幸村

真田幸村の父昌幸は、謀略を得意とする知将だった。謀(はかりごと)が何よりも得意で、真田家を守るためであれば義など二の次だった。事実昌幸は秀吉から「表裏非興の者」と呼ばれ、仕える相手をその時々の都合により目まぐるしく変えていくことを揶揄されている。だが昌幸はそんなことお構いなしとばかりに、真田の家を守ることだけに注力していく。

一方の幸村は義に厚い人物として知られている。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、大坂城で最も守備が弱いとされていた南側の守りを受け持ち、かの有名な真田丸という丸馬出(まるうまだし/城の出入り口外側に作られた半円状をした、守備用の土塁)で徳川勢を大いに苦しめた。

この時の豊臣方は家康に対し疑心も持っていたり、豊臣家にかつて仕えていた浪人が中心で、10万という大軍だったと伝えられているが、しかし団結していたかといえば決してそんなことはなかった。まさに寄せ集め集団で、戦術さえもまともに話し合えないような状況だった。それでも幸村は豊臣への恩顧があったため、浪人の身でありながら豊臣勢として大坂城に駆けつけた。

そして慶長20年の大坂夏の陣では、豊臣方敗色濃厚という状況で豊臣方を見限る武将も多かった中、幸村は最期まで豊臣勢として戦い続けた。3,000の幸村勢は、1万の大軍を率いる伊達政宗の侵攻を防ぐなど奮闘し、さらには家康の本陣に肉薄する猛攻を見せるも、しかし真田軍に続く豊臣方の味方がおらず、最後にはとうとう徳川方の大軍の前に力尽きてしまった。

このように義を貫き通し、最期は桜のように見事な散り樣を見せた幸村の姿が、戦国ファンの心を惹きつけてやまないのであろう。戦国時代記では、これから真田幸村の生き様を深く掘り下げていきたいと思う。

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慶長19年11月(1614年)、大坂冬の陣が勃発した。この直前、真田信繁(幸村)は関ヶ原の戦いで西軍に味方したことにより、徳川家康から九度山(高野山)への蟄居を命じられていた。実に10年以上にも及ぶ九度山生活だったわけだが、しかし家康の本音は、自らを大いに苦しませてくれた真田昌幸・信繁父子の処刑だった。


家康はふたりの処刑を強く望んでいたようだが、関ヶ原の戦いでは昌幸・信繁とは袂を分かち東軍に味方した真田信之(信繁の兄)、そして信之の舅である本多忠勝(徳川四天王)の説得により処刑は考え直し、高野山への配流という形で決着させた。昌幸は九度山からも再起を図ろうと苦心したが、しかし1611年、65年の生涯を九度山で閉じてしまう。

父昌幸を亡くした3年後、信繁の元に大坂城に入って欲しいという要請が届いた。つまり大坂冬の陣が始まるにあたり、豊臣側に味方して欲しいという参陣要請だ。この要請を信繁は快諾し、再び徳川を敵に回し戦う覚悟を固めた。父昌幸の無念を晴らすためにも。

NHK大河ドラマでも描かれる真田丸とは、この大坂冬の陣に登場する防衛線のことなのだが、そもそも信繁はなぜ真田丸を作らなければならなかったのか?そしてなぜ寡兵でその真田丸に篭り戦わなければならなかったのか?

大坂城には10万人にも及ぶ兵が集まったのだが、しかしこれは烏合の衆と呼ばざるを得ないものだった。絶対的な大将がいるわけではなく、豊臣勢を率いたのは21歳と若く経験も浅い豊臣秀頼で、しかも実権を握っていたのは淀殿だったとも言われている。そのため軍勢にはまとまりがまったくなく、戦略に関しても特に真田信繁と大野治長の間で意見が割れていた。

信繁と後藤又兵衛は出撃論を展開していたが、大野治長は籠城して徳川軍を疲弊させてから戦おうと主張した。信繁・又兵衛案には多くの武将が賛同したようだが、結局は淀殿と親しかった治長の主張が通ってしまう。だが信繁は出撃することで勝機が生まれるという確かな勝算を持っており、何とか大阪城の外で戦う道を模索した。

実は真田丸は、最初から信繁が作り上げたものではなかった。信繁が大坂城に入った頃にはすでに形が出来上がっており、入城後に普請を引き継いだ信繁が改良を加え真田丸として完成させたものだった。そして従来は大坂城に隣接する丸馬出しとして認識されていたが、しかし近年の史家の研究によれば、実は大坂城から200メートル以上も離れた場所に作られた独立砦だった可能性が高いらしい。

つまり大坂城への敵兵の侵入を防ぐのではなく、敵兵をすべて引き寄せ大坂城に近づけさせないための役割を真田丸は持っていたと言うのだ。これに関しては『翁物語』にも記されており、幸村の甥である真田信吉が信繁の陣中見舞いをした際「城より遥かに離れ予想だにしない場所に砦を構えたのは、城中に対するお気遣いあってのことなのでしょう」と信吉が信繁に対し語ったとされている。この信吉の言葉を信じるならば、やはり真田丸は大坂城からはかなり離れた場所に作られた砦だったのだろう。

200メートルも離れていては、当然火縄銃や弓などで援護を受けることはできない。信繁はまさに孤立無援状態で真田丸に篭り、徳川勢を撃退したようだ。以前、父昌幸が上田城で家康を苦しめた時のように。

大坂冬の陣、真田丸の前には前田利常(利家の息子)、藤堂高虎、伊達政宗ら、錚々たる武将たちが15軍団以上対陣した。しかし信繁は彼らを一切大坂城に近づけることなく、大坂城唯一の弱点と言われていた南方を最後まで守り抜いた。家康は総勢20万とも言われる兵力で大坂城を攻めたわけだが、その被害は甚大だった。そして徳川方の戦死者の8割は真田丸攻防戦によるものだったと伝えられている。

上田合戦では二度も家康を苦しめ、大坂冬の陣でも信繁は大いに徳川勢を苦しめた。この結果を見るならば関ヶ原の戦い直後、家康が昌幸・信繁父子を処刑したかったという気持ちもよくわかる。ふたりを生かしておけば、また自らを苦しめることになると家康はきっとわかっていたのだろう。