明智光秀の正室の名は煕子(ひろこ)と伝えられているが、この名前は正確に伝えられてきた名前ではなく、『氷点』などで知られる故三浦綾子さんが書かれた『細川ガラシャ夫人』という1975年に発表された小説以来、煕子という名で周知されていったようだ。それ以前はお牧の方や、伏屋姫と呼ばれていたようだが、これらに関しても正確な名であるという資料は残されていない。ただはっきりしているのは、妻木範煕の娘ということだけで、三浦綾子さんはこの父親の名から煕子と設定されたようだ。
幼馴染みだった明智光秀と煕子
光秀が生まれた当時の明智家は決して大きな力は持ち合わせておらず、美濃の小土豪に過ぎなかった。光秀自身も明智家の居館で生まれることはなかったようで、高木家の居城だった美濃の多羅城で生まれている。そして幼少期は妻木家の庇護を受けながら成長したようだ。だが幼少期の彦太郎ことのちの明智光秀は周囲からの評価は非常に高く、斎藤道三をして「万人の将となる人相」をしていたと言う。
そのようなこともあり彦太郎は妻木家からある程度安定した生活を送れるだけの庇護を受けながら育ち、自然な流れとして、元服した明智十兵衛光秀は幼馴染みでもあった妻木範煕の娘、煕子(便宜上そう呼ぶことにする)を娶った。弘治2年(1556年)に斎藤義龍によって明智城を落とされ越前に落ちた際煕子は身籠っていたというから、二人の婚姻は少なくとも1556年以前ということになるわけだが、正確な日付を知ることのできる資料はまだ発見されてはいないようだ。ただ、弘治2年に光秀はすでに29歳だったと言われていることから、婚姻関係を結んだのは一般的にはその10年以上前のことだと思われる。
黒髪を売って光秀を支えたと伝えられる煕子
光秀が越前の朝倉氏に出仕していた頃、光秀は歌会を催すための資金繰りに悩んでいた。その際に煕子が黒髪を売ってお金の工面をしたというエピソードが伝えられているが、これは後年の創作である可能性が非常に高い。まず妻木氏はこの当時、小土豪だった明智家を保護できるだけの力を持っていた。それだけ力を持った家の娘が仮にお金を工面するために黒髪を売ったとなれば、光秀としては妻木家の面汚しとなってしまう。あくまでも筆者の想像ではあるが、恐らくは黒髪を売ったのではなく、売ろうとしただけではなかっただろうか。そしてそうせざるを得ない窮状を父に相談し、実際には煕子の父親である妻木範煕(広忠と同一人物である可能性もある)が支援したと考える方が自然に感じられる。
通常女性が黒髪を切ったり剃髪するのは出家した時だ。しかし煕子は出家などしていないため、仮に出家していないのに髪を切り法師頭巾などを被っていれば、これは戦国時代では非常に不自然な光景として映ってしまう。そのため煕子の実家がそうなることを決して許さなかったはずだ。もちろん実際に髪を売ってお金を工面したのかもしれないが、しかし時代と、妻木家と光秀の力関係を鑑みるならば、煕子の実家が支援したと考える方が自然ではないだろうか。
光秀に深く愛され続けた煕子
煕子は天正4年(1576年)に病死したと伝えられているが、しかしこれについても真実であるかは確信することはできない。『西教寺塔頭実成坊過去帳』に記されているこの情報の信憑性は低くはないと思うわけだが、一方『川角太閤記』では本能寺の変後、明智秀満が光秀の妻子を介錯した後に自刃とも書かれており、情報が一致しない。ちなみに『川角太閤記』とは川角三郎右衛門が江戸時代初期に、当時を知る武士たちに直接話を聞くことによってまとめた、本能寺の変から関ヶ原の戦いまでの豊臣秀吉、豊臣家の伝記とされている。江戸時代初期という、まだ本能寺の変を知る人物が多く生きる時代に書かれているため、他の軍記物とは異なり信憑性はあるように感じられる。
天正4年に病死したのか、それとも天正10年に秀満により介錯されたのか、どちらが真実なのかは今となってはわからない。しかしただ一つ間違いなく言えることは、煕子は光秀によって深く愛されていたということだ。煕子が病に伏せれば手厚く看病をしたり、吉田兼見に診療を依頼したりした。そして病により顔に痣のようなものが残ってしまっても、光秀はまったく気にすることなく煕子を大切にしたという。その光秀にも側室がいたという言い伝えもあるようだが、一般的には煕子が存命中は側室は持たなかったという説が広く伝えられている。この言い伝えからすると、秀満が介錯した光秀の妻は後妻という可能性もあるわけだが、筆者はまだそこまで調べ切ることができていない。もしこれに関する資料をどこかで読むことができれば、またここで書き伝えたいと思う。