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明智家

明智光秀はなぜ主君を討たなければならなかったのか?!

明智光秀はあの日なぜ本能寺で謀反を起こしたのだろうか。定説では信長に邪険にされノイローゼ気味だったとか、信長を恨んでいたとか、天下への野望を持っていたとか、様々なことが伝えられている。しかし筆者が支持したいのは明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』にて証拠をもって結論づけている、土岐氏再興への思いだ。

明智家は元来「土岐明智」とも称する土岐一族で、光秀が家紋として用いた桔梗の紋も、土岐桔梗紋と呼ばれる土岐氏の家紋だ。土岐氏とは室町時代に美濃を中心にし隆盛を誇った名家で、土岐氏最後の守護職となった頼芸(よりのり)は、斎藤道三の下克上によって美濃から追放され、これにより200年続いた土岐氏による美濃守護は終焉を迎えてしまう。そして大名としての土岐氏も事実上滅んだことになり、土岐一族は美濃から散り散り追われる形になってしまった。そのひとりが明智光秀だったというわけだ。

長曾我部元親が突然信長に対し強硬姿勢に出た理由

本能寺の変の直前、長曾我部元親はそれまでは友好的だった織田信長に対し、所領問題で抗戦的な態度を見せ始めていた。しかし両家が戦えば長曾我部の軍勢など、織田の軍勢の前では子ども同然だ。それは元親自身分かっていたはずだ。それでも元親が信長に敵対したのは、光秀の存在があったからこそだった。光秀であれば何とか信長を説得してくれるはずだと踏んでいたのだ。だがその目論見は外れ、信長は遂に長曾我部征伐軍を四国へと送ってしまう。

ではなぜ元親は光秀の存在を当てにしたのか?長曾我部と織田を結んだのは元々光秀の功績だったわけだが、ここにもやはり土岐氏が絡んでくるのだ。元親の正室は石谷光政の娘で、石谷氏(いしがい)もやはり美濃の土岐一族なのだ。そして元親の正室の兄が石谷頼辰という明智光秀の家臣であり、頼辰は斎藤家から石谷家に婿養子となった人物で、斎藤利三は実の弟に当たる。

石谷頼辰=斎藤利賢の実子であり後に石谷光政の養子になる。長曾我部元親の正妻の義理の兄に当たり、明智家の重臣である斎藤利三の実の兄。

つまり光秀は家臣頼辰と元親の関係から長曾我部家と懇意になり、長曾我部と織田のパイプ役となっていたのだ。そして光秀自身も、長曾我部と連携を図ることは明智家にとって大きなメリットがあると考えていたようだ。近畿を治める明智と四国を治める長曾我部が連携すれば、光秀の織田家での立場をより強固なものにできる。外様大名として肩身の狭い思いをしていた光秀にとり、長曾我部家と連携するメリットは非常に大きかった。

このような関係があったからこそ、元親は光秀の後ろ盾を当てにし、信長に対し強硬姿勢を取ってしまったのだった。だが光秀の懸命な説得も虚しく、信長は長曾我部征伐軍を四国に送り込んでしまった。これに慌てたのは光秀と元親だった。ふたりとも、まさか信長が本気で長曾我部を攻めるとは考えていなかったのだ。

土岐家縁戚の長曾我部滅亡を黙ってみてはいられなかった明智光秀

明智光秀の夢は土岐家の再興だ。そのためには長曾我部家の協力が不可欠となる。元親の正室が土岐氏の娘である以上、元親自身も土岐家の縁戚ということになる。いずれは両家が協力し、土岐家を再興させるつもりだったのだ。だが信長はその長曾我部を滅ぼすつもりで征伐軍を四国に送ってしまった。

もしここで長曾我部が滅亡してしまっては、光秀の土岐家再興の夢も潰えてしまう。そもそも土岐家の縁戚である長曾我部が攻められ、土岐明智である光秀が黙って見ていることなどできようはずもない。光秀は何とかしようと信長に取り入るわけだが、しかし信長はそんな光秀を相手にしようとさえしなかった。

さて、信長が徳川家康の接待役である光秀のやり方が気に入らず、役を解任し足蹴にしたという話はあまりにも有名だ。だがこのエピソードも明智憲三郎氏の歴史捜査によれば実際はそうではなく、光秀がしつこく長曾我部への恩赦を求めたため、信長が激昂し足蹴にしたらしいのだ。つまり光秀はそれほどまでに土岐家再興のためにも長曾我部を守りたかったのだ。

だが何をどうしても信長の長曾我部征伐軍を止めることはできなかった。あとはもう信長を討ってでも止めるしか術はない。光秀がそんな思いに駆られていたタイミングで、信長は本能寺にて家康を持て成すことになった。家康を待つ間、信長は僅かな護衛のみで本能寺で過ごしていた。この一瞬とも言える信長の隙を狙い、光秀は信長を討ったのだった。すべては長曾我部を守り、土岐家を再興させるために。

敵は本能寺にあり!

「敵は本能寺にあり!」、この言葉は光秀が突発的に口にしたものではない。幾重もの手回しをし、状況をしっかり整えた上で言い放った言葉だった。光秀はノイローゼでもうつ病でもなかった。夢実現のため、周到な準備をした上で謀反を企てたのだ。だが残念ながらその準備のいくつかが信長を討った後に上手く機能せず、謀反そのものは成功するも、信長を討った僅か11日後に光秀も山崎の戦いで討たれてしまった。

光秀は決して信長への恨みを晴らすために謀反を起こしたわけでも、ノイローゼで錯乱した状態で本能寺に攻め込んだわけでも、天下を横取りするためにクーデターを起こしたわけでもなかった。純粋に土岐家の再興と盟友である長曾我部元親を守るそのため、泣く泣く主信長を討ったのだった。

もしこの時光秀が信長を討たなければ、光秀は土岐縁戚である長曾我部を見捨てることになっていた。つまり信長を討とうと討つまいと、光秀はどちらにせよ自らの裏切りに苛まれたことになる。土岐縁戚である長曾我部を守るならば信長を討つしかなく、主に従うならば土岐家縁戚である長曾我部の滅亡を黙って見ているしかない。果たして誰がこの光秀の苦しい立場を責めることができよう。

明智光秀という人物は、決して主を討った極悪人ではないのだ。そして自らの野望のために主を討った謀反人でもない。確かに謀反を起こしはしたが、それは決して利己的な目的によるものではなかった。

明智光秀という人物の真実を知るためにも、ぜひ『本能寺の変 431年目の真実 』をお手に取ってもらいたい。一般的な歴史書のような堅苦しく読みにくい文章ではなく、まるで推理小説を読むような面白さとスピード感がある一冊となっている。筆者もこの本との出会いがなければ、この先もずっと織田信長や明智光秀を勘違いし続けていたかもしれない。たくさんの証拠を示しながら本能寺の変を紐解いている良書です。

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斎藤利三(としみつ)と言えば、明智家に於いては重臣中の重臣とも呼べる臣下だった。春日局の父親としても知られる利三だが、同じ美濃国の斎藤姓でも斎藤道三とは血縁関係にはない。元々の美濃守護代であった斎藤家の血筋で、父親は斎藤利賢(としかた)、母親は蜷川氏の娘、光秀の叔母、光秀の妹もしくは姉と諸説ある。今回はこの斎藤利三という人物の人柄に迫っていきたい。

頑固者の稲葉一鉄と何らかの衝突があった斎藤利三

斎藤利三という人物は、少々問題児だったようだ。元々は稲葉一鉄の与力だったようだが、その一鉄とは何らかの理由で衝突があったようだ。そして『当代記』という『信長公記』を元に編纂された資料には、信長から勘当されているとも記されている。それぞれどのような問題があったのかは詳しく記されてはいないが、しかし何らかのいざこざがあったことは確かなようだ。

ちなみに稲葉一鉄という人物は美濃三人衆(安藤守就、氏家卜全)の一人で、美濃国内では非常に有力な人物だった。そして「頑固一徹」という言葉はこの稲葉一鉄が由来となっている。恐らくは利三は、その頑固者の一鉄の考え方に同調できなかったのだろう。だが問題はこれだけでは済まなかった。

斎藤利三が原因で何度も信長に殴られた光秀

稲葉一鉄の元を去り、明智光秀に与した斎藤利三だったが、この状況を一鉄は気に入らなかった。確かに利三は一鉄の娘を娶っていたのだから、一鉄が怒りを感じたことも理解はできる。『明智軍記』や『稲葉家譜』の記述からは、光秀に有能な家臣を奪われたと一鉄は感じていたようだと読み取ることができる。そしてさらに、那波直治が利三を追うように光秀の傘下に加わろうとした。再び光秀に家臣を奪われたと感じた一鉄は信長にこれを報告し、信長は光秀を呼びつけ、直治だけは一鉄の元に返すように命じたようだ。

この時に信長が人前で光秀を叱り飛ばし、さらには2〜3回殴ったことで辱めを受け、それを逆恨みして光秀が本能寺の変を起こしたと主張する歴史学者もいるが、筆者はそうは思わない。本能寺の変当時、天下統一を目前にした信長と光秀は現代で言えば総理大臣と副総理のような立場にあった。それだけの立場にあった光秀が、果たしてそんなことを理由に主君を討つだろうか。そもそも信長が光秀を何度も殴ったという話は、どうやら後世の創作である可能性も高い。

本能寺の変は斎藤利三がけしかけた事件だった?!

さて、斎藤利三には頼辰(よりとき)という兄がいた。しかしこの兄は石谷家の養子となり、石谷頼辰と名を改めている。この頼辰の妻の妹が長曾我部元親の正室となっており、その繋がりがあったために明智光秀は、織田家と長曾我部家の取次として交渉役を任されていた。しかし実際に交渉に当たっていたのは光秀ではなく、斎藤利三だったようだ。

そしてこの繋がりがあったために、縁戚となっていた長曾我部家を滅ぼそうとしていた信長を止めるため、斎藤利三が光秀に対して本能寺の変を嗾けたという説もまことしやかに語られている。だがこの説も説得力には乏しいように感じられる。織田家と長曾我部家の問題は、信長の家臣の家臣が物を言っていいような次元の話題ではない。もちろん交渉役を務めていたのは利三であったわけだが、しかし交渉役と言っても実際には信長の意思を元親に伝え、元親の意思を信長に伝えるというのが主な役目であり、利三が個人的に意見を言えるような状況ではなかったはずだ。

確かに利三の感情論としては、利三と元親は義理の兄弟であったため、信長の長曾我部討伐を聞いた際は利三も心苦しかったはずだ。だが元々の元凶は元親にもあった。本能寺の変が起こる前年、長宗我部元親は織田家と交渉をしながらも、織田家の宿敵である毛利と同盟を結んでいたのだ。これはつまり元親の織田家に対する裏切り行為であり、これが元凶となって信長が長曾我部討伐を企てたとしても、利三には納得できたことのはずだった。このような理由から、筆者は利三が本能寺の変を嗾けたという説には信憑性がないと感じている。

光秀はまず、利三ら5人だけに本能寺への討ち入りを打ち明けた

斎藤利三は、明智光秀にとってはまさに忠臣だ。明智秀満と共に、光秀が最も信頼を寄せたのが斎藤利三だった。であれば、当然光秀の明智家を守りたいという強い意思や、土岐家再興に対する情熱も知っていたはずだ。それを知った上でもし利三が本当に本能寺の変を嗾けていたのだとすれば、利三を忠臣と呼ぶことなどできなくなる。なぜなら本能寺の変を起こせば土岐家再興どころか、明智家がそのまま滅ぶ恐れもあったからだ。そして実際に明智家は滅んでしまった。忠臣であれば、そのような進言は絶対にしなかったはずだ。

さて、本能寺の変の直前、光秀は5人の信頼できる家臣だけを集めて本能寺への討ち入り計画を最初に打ち明けたようだ。その5人とは斎藤利三、明智秀満、溝尾庄兵衛尉、藤田伝五、明智光忠のようだ。しかしここで疑問が浮かんでくる。光秀も含めこの5人はすべて本能寺の変で戦死、もしくは処刑されている。なのに何故後世に書かれた軍記物などで、光秀がこの5人だけに打ち明けたということがハッキリと書かれているのだろうか。とてもこの5人が死ぬ間際にそれを誰かに打ち明けたとも思えない。

本能寺の変は利三が嗾けたという説を上述したが、しかし『備前老人物語』は、それが真実であるのかはわからないが、利三と秀満は最後まで討ち入りには反対していたと伝えている。これらのことを色々と考えると、結局は真実を伝えているものはほとんど皆無に等しく、書かれている多くのことは後世の創作であったり、噂話をそのまま真実として記しただけであることがよくわかる。特に軍記物は今でいう歴史小説と同じ類もので、ベストセラーを狙って面白おかしく書かれている物であり、その記述を資料として信頼することはできない。

利三処刑後も途絶えなかった斎藤利三の血脈

さて、本能寺の変で信長を討った後、斎藤利三は山崎の戦いで先鋒として羽柴軍と戦った。しかし傷を負い、その傷が原因で病にも侵されかけ力を失った利三は、ついには堅田で捕縛されてしまう。ちなみにこの時利三を捕縛し秀吉に差し出したのは明智半左衛門という味方のはずだった人物だった。明智半左衛門は光秀を裏切ったが、しかし半左衛門の父親である猪飼昇貞(いかいのぶさだ)は最後まで光秀に忠義を尽くし、本能寺の変で戦死している。

半左衛門によって捕縛された利三は六条河原で打ち首にされた。『言経卿記』によれば、斎藤利三は当初から本能寺の変を起こした主要人物として見られていたようだ。さて、このようにして斎藤利三はその生涯を閉じたわけだが、しかし利三の血脈はここで途切れることはなかった。結果的には斎藤利三と稲葉一鉄は喧嘩別れのような形になっていたが、しかしその後利三の娘福が稲葉一鉄の孫(養子)に当たる稲葉正成の後妻となり、その後は江戸幕府第三代将軍家光の乳母となり、さらには江姫(浅井長政と市姫の三女)のもとで大奥を取り仕切るようになっていく。もちろん彼女こそがかの春日局だ。同じ本能寺の変の当事者の子孫であったにも関わらず、明智光秀の子孫に対する扱いとは雲泥の差があったようだ。

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明智光秀は長曾我部家を救うために本能寺の変を起こした、という説もあるが、これは違うと思う。本能寺の変の少し前まで明智光秀は、織田家と長曾我部家の取次役を務めていた。この任を与えられた理由は、光秀の重臣である斎藤利三の兄、石谷頼辰(いしがいよりとき)の義理の妹が、長曾我部元親の正室だったためだ。

明智光秀の顔に泥を塗った長曾我部元親

織田家と長曾我部家の両家は友好的だった時期もあったのだが、それが次第に険悪になっていく。信長としては潰そうと思えば潰せてしまう程度の長曾我部家にできるだけ良くしてきたという意識があったようだが、しかし両家の間でなかなか思うように事が進まないことに苛立ち始めていた。その最中、本能寺の変の前年となる天正9年(1581年)8月、長曾我部元親が、織田家との共通の敵であったはずの毛利家と同盟を結ぶという大事件が起こってしまった。

信長は当然これに激怒したはずだ。信長は、元親の嫡男である信親の名に自らの名の一部を与えているほど長曾我部家を買っていた。つまり元親の毛利家への急接近は、信長に対する裏切り行為に他ならない。この行為は取次役を務めていた光秀の顔に泥を塗るも同然の行為だったと言える。ここまで侮辱されてなお、斎藤利三の縁者という理由だけで光秀が長曾我部家のために本能寺の変を起こしたとは考えにくい。

光秀に合流する姿勢を一切見せなかった元親

さて、本能寺の変が起こる時期、織田家と長曾我部家の間には辻褄が合わない出来事が起こっている。本能寺の変の当日、信長の三男である神戸信孝と丹羽長秀隊が長曾我部家討伐のために出陣している。だがそこから遡ること10日、長曾我部元親は信長に対し、一定の条件を提示しながらも、信長が提示した国分案に同意する書状を認めているのだ。元親は信長に対し恭順の意を示していたにも関わらず、信長は四国に派兵しようとしていた。恐らくは、このような事実を踏まえて、光秀が長曾我部家を救おうとしたという説が出されたのではないだろうか。

だが自らの家を守るためならともかく、自分の顔に泥を塗った長曾我部家を救うために、果たして光秀が主君を討つなどありうることだろうか。筆者個人としてはないと思う。更に言うならば本能寺の変後、長宗我部家は明智光秀に合流する姿勢を一切見せていない。仮に光秀が長曾我部家を守るために本能寺の変を起こしたのであれば、それを元親が知らないはずはないし、もしそれを把握していたのであれば、元親は中国大返しをして見せた羽柴秀吉の背後を突いていたはずだ。だが元親は一切そのような素振りは見せていない。

本能寺の変がなければ滅んでいた長曾我部家

仮に本能寺の変が起こっていなければ、長曾我部家は神戸信孝・丹羽長秀隊によってあっという間に殲滅させられていただろう。織田家と長曾我部家にはそれだけの力の差があった。だが結果的には本能寺の変が起こったことにより、元親は命拾いしたのだった。ちなみに本能寺の変が起こる前の時期に、光秀と元親が交わした密書などは一切残されていない。明智家・長曾我部家の両家共に残っていないのだから、ふたりの間に書状のやり取りはなかったのだろう。となるとやはり、光秀が長曾我部家を救うために本能寺の変を起こした、という説には無理が生じてくる。

明智光秀という人物は、自らの源流である土岐家の再興にこだわりを見せていたことで知られる。いつかは土岐家を再興させたい、それが光秀の最たる望みだったようだ。その望みがあるにも関わらず、他家のために自らの家を滅ぼすようなことは決してしないはずだ。するとすればやはり、自らの家を守るためではないだろうか。そう思うからこそ筆者は、光秀は長曾我部家を守るために本能寺の変を起こしたのではないと感じているのである。