永禄12年(1569年)12月、織田信長の嫡子信忠は11歳、武田信玄の六女松姫は7歳だった。ふたりはこの年齢で婚約した。この時代は15歳を過ぎると結婚することが多かったわけだが、ふたりの場合は通常よりもかなり早い年齢で婚約したことになる。
この頃の織田家と武田家は、信長の養女(本来は信長の姪)龍勝院が武田勝頼の正室となっており、同盟関係が結ばれていた。だがその龍勝院が永禄10年に死去してしまう。そこで両家は同盟を強化しようとし、信忠と松姫を婚約させた。
婚約から3年後の元亀3年(1572年)、武田信玄は三河の徳川家康を三方ヶ原で攻めた。だが徳川家と言えば織田家と強い同盟関係で結ばれている大名だ。つまり武田が徳川を攻めるということは、武田が織田を攻めるのと同等の出来事となる。この戦いで徳川から援軍を求められると、信長は三河に救援部隊を差し向けている。
この三方ヶ原の戦いにより、信忠と松姫の婚約は信玄により解消されてしまった。だが戦国時代の婚約という定義は現代の婚約とはまるで意味合いが異なる。この当時は婚約=結婚というように考えられており、婚約した時点で妻は夫に対し心をすべて捧げるのが一般的だった。もちろん松姫も同様であり、7歳でありながら婚約をすると、松姫は心の全てを信忠に捧げた。
その後松姫には何度か縁談の話があったと言うが、松姫は決して首を縦に振ることはせず、敵対関係にあるにも関わらず信忠に対しての愛を貫き、操を守り続けた。
だが婚約解消から10年後の天正10年(1582年)3月、織田家による、衰退した武田家討伐が行われた。しかもこの時武田攻めの総大将を務めたのは他でもない、織田家の家督を継いでいた信忠だった。つまり松姫は愛する者に攻められる身となってしまったのだ。
武田勝頼は天目山の戦いで自刃に追い込まれ、名門武田家はこれにより滅亡してしまう。だがこの時松姫は、兄である仁科盛信により新府城に逃がされており、勝頼と運命を共にはせず、武田家が滅ぶと武蔵国に逃れている。そこへ信忠からの使者が訪れた。
幼い日の婚約者を想っていたのは松姫だけではなかった。信忠もまた松姫のことを気にかけており、松姫が無事であることを知ると武蔵国まで迎えを送った。そして松姫はその迎えと共に信忠の元へと向かうのだが、松姫の悲劇はまだ終わらない。
武蔵国から岐阜城へと向かう道中の天正10年6月2日夜、本能寺の変により信忠が明智光秀によって討たれてしまった。松姫は婚約解消により一度信忠を失い、さらに本能寺の変により今度は永遠に信忠を亡くしてしまった。信忠が松姫を岐阜城に連れ戻そうとした矢先の出来事であり、松姫の悲しみの深さはとても想像できるものではない。しかも松姫はこの直前、武田家の滅亡という悲劇も味わっているのである。
同年秋、松姫は武蔵国の心源院に入り出家し、信松尼(しんしょうに)という尼名をもらい信忠、そして武田一族の菩提を弔った。信忠は享年26、松姫はまだ22歳という若さだった。
戦国時代の結婚は政略としてしか考えられていない場合も多いが、しかし信忠と松姫のようなケースもある。幼い日に婚約をし、婚約解消後もお互いのことを想い続け、織田と武田が敵対関係となってもその絆が切れることはなかった。
信忠の嫡子三法師は一部資料に於いては信忠正室の子ではなく、松姫の子だと記しているものもあると言う。その信憑性については不確かな面も多いわけだが、しかし信忠と松姫が逢瀬を重ねていたとしても決して不思議ではない。現に信忠の居城岐阜と、松姫が暮らす甲斐は目と鼻の先であり、会おうと思えばいつでも会うことのできる距離だった。
なお天目山の戦いで織田軍から逃げた松姫が通ったとされる山梨県大月市と小菅村の間にある峠は、松姫峠と呼ばれている。そしてこの峠を通るトンネルが2014年に完成し、松姫トンネルと名付けられた。
まだ婚約をしていた幼い日々、実はふたりは一度も会ったことがなかった。それでも幾度も手紙のやり取りをし、お互いへの愛情を深めていた。きっとふたりにとってはお互いが初恋の相手だったのだろう。だがその初恋が成就することは最期までなく、戦国時代きっての悲恋として語り継がれることとなってしまった。