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織田家に於いて、前田利家ほど武功により出世した人物はいないのではないだろうか。豊臣家で後に武断派と呼ばれる加藤清正、福島正則、黒田長政らも、前田利家のことをとても尊敬しており、特に加藤清正は利家への尊敬の念が強かったと言う。やはり武断派たちにとって、前田利家という武功によって大出世した人物は憧れの的だったのだろう。


前田利家は尾張荒子城主前田利春の四男として生まれた。四男であれば通常は家督を継ぐことはできず、出世を望むことなどほとんどできない時代だった。だが若き日の信長は家督を継ぐことができない次男以下の有能な人物を集め軍団を形成していた。その1人が前田利家だったというわけだ。

通称又左衛門こと若かりし頃の前田利家は、「槍の又左」と呼ばれたほどの槍の名手だった。6.3メートルもの長槍を悠然と振り回していたらしい。そして時には右目に矢傷を負いながらも槍を振り回し続け、敵将の首を打ち取るという武功も残している。

織田信長は前田利家のことを高く買っていた。だがある日利家は、自らの笄(こうがい・刀の付属品)を盗んだ拾阿弥(じゅあみ)を怒りに任せ惨殺してしまった。拾阿弥は信長の家臣だったため、いくら盗みを働いたとしても惨殺は大きな罪となり、利家は織田家を追放されてしまう。これが永禄2年(1559年)の出来事だった。つまり桶狭間の戦いの前年だ。

この惨殺事件により利家は織田家臣団として桶狭間に参戦することができなくなってしまった。だが利家はそれでも勝手に従軍し、織田軍の一員としていくつもの武功を挙げた。そして桶狭間でのその活躍により、利家は再び織田家に帰参することが許され、信長の赤母衣衆に加えられた。

前田家の家督は当然だが長男の利久が継いでいた。だが利久が病弱で子もいなかったため、永禄12年(1569年)になると信長は、利久に替わり利家に前田家を継ぐようにと命じた。これによって利家は四男だったにも関わらず家督を継ぐことができ、以降は主に北陸方面でその武力を発揮していった。

そして天正9年(1581年)になると信長から能登一国を与えられ、本来は家督さえ継げないはずの四男が国持大名にまで出世してしまった。翌年信長が横死すると、利家は最終的には秀吉に味方をし、豊臣政権では五大老という立場で徳川家康と肩を並べた。

同じ五大老の中でも利家は特に人望の厚い人物だった。そのため何か問題が起こったとしても、利家が説得をすれば事なきを得ることも多かったと言う。豊臣政権内で石田三成を敵対視していた加藤清正、福島正則、黒田長政らは、三成の暗殺を企てていた。だが利家の存在によりそれを思いとどまっていたのだが、しかし利家が亡くなるとその翌日、三成の襲撃を実行してしまう(ただし失敗に終わる)。

織田家に於いては出世頭のひとりであり、豊臣政権に於いては内外ともに調整役としてなくてはならない存在だった。若い頃は傾奇者として鳴らした利家も、晩年はすっかり温厚な宿老となっていた。だがその温厚さの陰には絶対的な強さや信念があり、だからこそ豊臣秀吉も家康への抑えとして利家には全幅の信頼を置くことができたのだ。ちなみに利家と秀吉は若い頃から夫婦同士での付き合いがあり、犬千代、猿だったにも関わらず犬猿の仲ではなく、むしろ強い絆で結ばれていたのだった。