「織田信秀」と一致するもの

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麒麟がくる9回目「信長の失敗」では、若き織田信長が竹千代(のちの徳川家康)の父親である松平広忠を殺害するという物語が展開された。そして明智光秀の出来事としては幼馴染みである煕子と再会し、お互い想いを寄せ合っていきそうな雰囲気になり始めた。さて、この回の史実とフィクションとは?!

うつけの振りではなく、うつけそのもののように見えた織田信長

織田家と松平家は長年に渡り戦を繰り広げてきた。そしてそれは信長と帰蝶の婚儀が行われた頃も変わってはいなかった。松平家としては世継ぎである竹千代を人質に取られていることもあり、織田家に対しては良からぬ感情を持っていたことは確かだった。劇中、そんな中描かれたのが信長の刺客によって松平広忠が討たれるという場面だった。

しかし信長によって広忠が討たれたという資料は恐らくは残されていないと思われるため、これは完全にフィクションだと言える。ちなみに広忠の死因は定かではなく、病死、一揆によって討たれた、織田信秀の策略、織田家の刺客と思われる松平家家臣岩松八弥に討たれた、など諸説ある。岩松八弥によって討たれたという伝承を広義で捉えれば、確かに信長が手を下した可能性を否定することはできないのかもしれない。

しかし信長と竹千代のこの頃の関係は良好だったと伝えられることが多い。とすると果たして信長が弟分である竹千代の父親を殺害するだろうか。この頃の信長は確かに「うつけ(バカ)」と呼ばれていたが、しかしそれはあくまでも信長が見せていた仮の姿であり、実際の信長は決してうつけ者ではなかった。であるならば、果たして信長が本当にこのような政治問題に発展する馬鹿げたことをしただろうか。

それに加え、この件に関して父信秀に叱責された信長は目にうっすらと涙を浮かべ、まるで駄々っ子のような言い訳を劇中では見せていた。これではうつけの振りではなく、うつけそのものになってしまう。今後劇中でこの信長がどう変わっていくのかはわからないが、しかし劇中で見た信長はあまりにも史実とかけ離れているように筆者には感じられた。

妻木煕子の名前は実際には煕子ではなかった?!

さて、話は変わって今回は妻木煕子が初登場した。しかしここで伝えておきたいのは、煕子という名前は史実ではないという点だ。煕子という名前は三浦綾子さんの『細川ガラシャ夫人』という小説によって広く知られるようになり、明智光秀の正室の実際の名前は記録には残されていないようだ。しかし戦国時代の女性の名前が残されていないことは珍しくはない。家系図などを見ても女性は「女」としか書かれていないことがほとんどで、実際の名前が記録に残されていることの方が珍しい。

ちなみに信長の正室だったとされる帰蝶に関しても、本当に帰蝶という名前だったのかは定かではない。資料に残されている記述だけでも帰蝶、歸蝶、奇蝶、胡蝶とある。胡蝶だけはそのまま「こちょう」と読み、その他の発音は「きちょう」であるため、それっぽい発音の名前ではあったのだとは思う。そして帰蝶は濃姫と呼ばれることもあるわけだが、これは「美濃から来た姫」という意味でそう呼ばれていた。これはお市が「小谷の方」、茶々が「淀殿」と呼ばれていたことと同様となる。

怪物を見た又左衛門とは一体誰のことなのか?!

今回の劇中では怪物を恐れる村人を信長が勇気付けに行き、それによって帰蝶との婚礼をすっぽかしたと描かれていた。もちろんこれもフィクションであるわけだが、その中で「又左衛門が実際に怪物を見た」と信長が話していた。この頃信長と一緒に行動をしていた又左衛門とは、恐らくは前田利家のことだと思われる。

前田利家も若い頃は信長に負けず劣らずの歌舞伎者で、いわゆる問題児だった。大河ドラマでは『利家とまつ』の主人公にもなっている。後々の『麒麟がくる』では織田信長と明智光秀の二軸になっていくと思われるため、もしかしたら今後前田利家が登場してくることもあるかもしれない。織田家には欠かせない魅力溢れる人物であるため、個人的にはまた大河ドラマで前田利家を見てみたい、と思った今回の信長の台詞だった。

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『麒麟がくる』第4回放送「尾張潜入指令」では、まさに副題の通り明智十兵衛光秀と望月東庵、菊丸が尾張に潜入していく姿が描かれた。このように間者(かんじゃ:スパイ)が敵国に送られることは多々あった戦国時代ではあるが、しかし光秀のような武士が送られることはさすがに稀ではなかっただろうか。

武士が間者として送られることはあったのだろうか?

戦国時代にはいわゆる忍びと呼ばれる忍者たちが活躍していた。その忍びや間者、乱波(らっぱ)が敵国に送られるのが普通であり、光秀のような武士が送られることは、絶対になかったとは言い切れないとは思うが、しかしあったとしても非常に稀だったはずだ。理由は単純で、身分が低くかったとしても城に出入りできるような武士の身分であれば、いつ誰に顔を見られているかわからないからだ。

もちろん若き日の光秀はまだ名など知られてはおらず、他国で光秀の顔を知る者もほとんどいなかったはずだ。しかし品格ある教育を受けている人物が薬草売りに扮したところで自然に振舞うことなど難しい。これは農民に武士の振舞いをされるのと同じだ。そのため武士が間者として他国に送られることは、やはり絶対になかったとは言えないわけだが、しかし可能性としては非常に低かったと思う。送るのであればその道のプロである忍びのような者たちに任せることがほとんどだったはずだ。

流行病で亡くなったとも言われている織田信秀

今回の放送では織田信秀(信長の父)が左肩に受けた流れ矢により傷を負い、そこから体に毒が回り始めているという場面が描かれた。織田信秀の死因は実際には病だとされており、流行病だったとも言われている。今回冒頭で描かれたのは天文17年(1548年)の小豆坂の戦いだったと思うのだが、この戦いで今川家に敗れて以来、信秀は徐々に斎藤・今川という両側からの圧力に押され始めていく。

そこで斎藤家と和睦を結ぶために信長と濃姫の政略結婚が画策されていくわけだが、天文19年(1550年)あたりから信秀は体調を崩すことが多くなっていく。だが劇中では小豆坂の戦いの3ヵ月に信秀は東庵を呼んだ設定になっている。すると史実よりもかなり早く体調を崩していくことになっていくのだろうか。ちなみに信秀が病死するのは天文21年(1552年)3月3日の末森城でだった(享年42)。

だが劇中ではまだ古渡城という、天文17年に廃城になった信長が元服した城にいる設定になっている。この後信秀は末森城に移っていくのだが、末森城が天文17年の何月に完成したのかが筆者にはわからない。小豆坂の戦いが天文17年3月で、信秀と東庵が双六をするのが6月頃だと思われる。となるともう間もなく信秀は末森城に移っていくわけだが、果たしてこの辺りも今後どのように描かれていくのだろうか。

菊丸とは本当にただの百姓なのだろうか?

さて、今回非常に気になったのは織田信秀が家臣に、東庵に薬草を売りに来た商人(十兵衛と菊丸)たちを追わせた場面だ。「怪しければ斬れ」と命じたわけだが、斬り合いになったことで当然怪しいと判断されている。その怪しい2人を城に呼び寄せた東庵は、戦国時代であれば首を刎ねられるか拷問を受けてしまうのではないだろうか。この辺りも今後どう描かれていくのか少し興味がある。

そして斬り合いをしている最中に光秀を助ける謎の軍団が登場したのだが、菊丸はもしかしたら忍びか乱波なのだろうか。乱波だとすればその軍団の実は頭領だったりするのだろうか。ことあるごとに映し出される菊丸の表情を見ていると、ただの百姓ではないように感じたのは筆者だけではなかったと思う。

ちなみに三河の大名となる徳川家康の元には服部半蔵という伊賀の者が仕えていた。だが半蔵が生まれたのは天文11年(1542年)であるため、劇中のこの時点ではまだ6歳程度であり、菊丸が半蔵ではないことだけは確かであろう。しかし菊丸が本当にただの百姓なのか、それとも素性を隠している別者なのかは、今後非常に気になる点ではある。ということで『麒麟がくる』は次週も決して見逃せない。

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『麒麟がくる』第2回「道三の罠」では、冒頭から終始斎藤軍と織田軍の合戦シーンが描かれた。斎藤道三と織田信秀(信長の父)の時代には、このような戦いが幾度もあったわけだが、しかし信秀は生涯最期まで稲葉山城を落とすことができなかった。この稲葉山城は難攻不落の城と呼ばれ、織田信長でさえも桶狭間の戦い以降何度も美濃に侵攻したが、実際に美濃を手中に収めたのは永禄10年(1567年)だと言われている。

斎藤義龍は側女の子だった?!

劇中で稲葉山城はただの砦のように描かれているが、実際にはもう少し城っぽい形状だったとされている。しかしさすがに城を再現することは困難なため、城そのものはほとんど描写せず、城下町や砦のみを描く形に留まっているのだろう。だが今後話が展開していき、織田信長が稲葉山城を岐阜城と改めた時に、岐阜城の姿も映し出されるのではないだろうか。

さてその劇中、のちの斎藤義龍である斎藤高政が「自分は側女(そばめ)の子だから父は私の話に耳を貸さない」と語っていた。この台詞は後々重要な意味を持ってくるはずだ。ネタバレになりすぎないようにここではあえて書かないが、ぜひこの台詞は覚えておいてもらいたい。きっと後々の放送で大きな意味を持ってくるはずだ。

『孫子』が頻繁に登場する『麒麟がくる』

斎藤利政(のちの斎藤道三)はこの戦の前、明智光秀と叔父の明智光安に孫子について尋ねている。光安は答えられなかったが、光秀はすらすらと答えていた。『孫子』謀攻編に出てくる「彼を知り己を知らば、百戦して危うからず(危の実際の漢字は、かばねへんに台)」という言葉を引用しているが、これは敵のことも味方のこともしっかり把握し切れていれば、百度戦をしても大敗することはない、という意味になる。

ちなみに劇中で利政は最初は応戦させたがすぐに籠城させ、織田軍に戦う意思がないように思わた。そして織田軍が、斎藤軍に忍ばせていた乱破(らっぱ)の情報からそれを知り兵たちが油断し始めると、利政は猛攻をかけ織田軍を大敗させた。ちなみに劇中では乱破がスパイのように描かれているが、実際の乱破は闇夜に紛れて敵を討つ忍び集団だったと言われている。スパイを表現するのであれば、間者(かんじゃ)や間諜(かんちょう)の方が筆者個人としてはしっくり来る。斎藤利政が仕掛けたこの、能力がない振りをして相手を油断させて討つことを、『孫子』計編で「兵とは詭道(きどう)なり」と言っている。

「兵とは詭道なり」とは、戦とは騙し合いであって、本当は自軍にはその能力があるのに、実際にはないかのように振舞って相手を油断させて敵を撃退するという意味だ。ちなみにこの戦法が最大限活かされたのが、本巻では詳しくは書かないが桶狭間の戦いだった。さて、『孫子』からもう一遍。今回の戦で利政は籠城する意図を誰にも話さなかった。そして籠城を解く時になって初めて諸将にその意図を伝えている。『孫子』ではこれを「能(よ)く士卒の耳目を愚にして」と説いている。これはいわゆる、敵を騙すならまずは味方から、という意味になる。

土岐家と織田家は本当に強い絆で結ばれていたのか?!

最後にもう一点、劇中では美濃守護である土岐家と尾張の織田家には強い絆があると描かれている。この台詞だけだと深いところまで知ることはできないが、実際には決して絆があったわけではない。劇中で伝えられている通り、斎藤利政は美濃守護の土岐頼芸(劇中では「よりのり」と読むが「よりあき」など読み方がいくつか存在している)を武力で追放して美濃を手中に収めたわけだが、尾張の織田信秀は追放された頼芸を美濃守護に戻すという大義名分を得るために、頼芸を利用していただけだった。

仮に信秀が稲葉山城を落とせていたとしても、美濃を土岐家に返還するようなことは決してしなかっただろう。つまり土岐家と織田家の間には絆などなく、織田家が土岐家を利用していただけだった。これは織田信長と足利義昭の関係にもよく似ていて、戦国時代はこのような形で大義名分を作り戦を仕掛けることがよくあった。

以上が『麒麟がくる』第2回「道三の罠」を見た筆者の感想と、解説とまでは言えないが、解説のようなものとなる。ところで、前回放送後の予告編のような部分と、実際の今回の内容がけっこう違っていることに少し驚いたのだが、これは昨年起きた出来事による影響なのだろうか。筆者はてっきり、第2回放送で光秀が妻を娶り、今川義元も登場してくるものだと思ったのだが、そうではないようだ。とは言え、第3回放送も心待ちにしたい。

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いよいよ始まった2020年大河ドラマ『麒麟がくる』。初回放送はまず冒頭で明智荘(あけちのしょう)に野盗が現れ田畑を荒らし、鉄砲の威力を見せつけるというシーンから始まる。そして光秀は鉄砲を持ち帰り、名医を美濃に連れ帰ることを条件に、国主斎藤利政(のちの斎藤道三)に京・堺への旅の許しを請い、ひとり旅立っていく。

当時の比叡山の僧侶は土倉と呼ばれる高利貸しだった

光秀は美濃から琵琶湖までは馬で行き、琵琶湖を商船のような船で横断していく。この時代、琵琶湖は西と東を結ぶ交通の要衝であり、琵琶湖を制す者が京を制すとも言われていた。その理由は単純で、歩けば険しい山道を何日もかけて行かなければならないが、船なら大荷物であってもあっという間に京まで移動できるからだった。そのため後年の織田信長は琵琶湖周辺に安土城、坂本城、長浜城、大溝城という4つの城を築き琵琶湖を死守に努めた。

そして光秀は比叡山を経て堺に向かうのだが、比叡山では僧兵たちが通行料として15文(もん)徴収していた。そしてそれを払えなければ暴力をふるうというシーンが描かれている。これは史実だと言える。当時の比叡山は一部の僧侶を除き堕落し切っていた。比叡山の僧侶が営む土倉(どそう)と呼ばれる高利貸しは利息50%にもなり、返済が滞ると僧兵が暴力的に取り立てたり、娘を奴隷業者に売るためにさらっていくこともあったと言う。

ちなみに15文というのは現代の金額では1,000~1,500円程度である。信長が焼き討ちにするまでの比叡山はまさに腐り切っており、禁忌とされている魚肉や酒を口にしたり、女人禁制であるにも関わらず、色欲に溺れる僧侶ばかりだった。今でいう悪徳金融業者同様となるわけだが、しかし現代の悪徳業者以上に悪徳だったようだ。

比叡山延暦寺を焼き討ちにした信長が魔王のように描かれることも多いが、しかし実際には比叡山は元亀元年(1570年)だけではなく、1435年と1499年にも焼かれている。とにかくこの時代の比叡山延暦寺は聖職者とは程遠く、どちらかと言えばヤクザのような振る舞いをしていた。そのため今回劇中で描かれている比叡山の僧兵の横暴過ぎる振る舞いは、史実にかなり近いと言えよう。

まだ高額で1挺手に入れることさえ難しかった火縄銃

この初回放送が、一体何年の設定になっているのか筆者にはわからない。だが光秀がまだ若かった頃は、劇中の松永久秀の言葉通り鉄砲は非常に高価な品で、1挺手に入れることさえもまだ難しかった。そして安全性もまだ確かではなく、暴発して大火傷を負ってしまうことも珍しくはなかった。劇中では三淵藤英(みつぶちふじひで)が試し打ちをしているが、これだけ高い身分の人物が試し打ちをしているということは、安全性が完全に確かめられた1挺であるか、それとも火縄銃の危険性をまったく知らない無知であるかのどちらかだろう。

火縄銃はまず筒に弾と火薬を入れて棒でしっかりと押し込み、撃鉄の部分にも火薬を置き、火縄に付けた火を用いることで火薬を爆発させて発射させていた。そのためどんなに頑張っても30秒に1発しか撃つことはできなかったという。劇中で三淵藤英は「戦では使い物にならない」と語っているがまさにその通りで、1挺だけ持っていても戦で活用することは難しい代物だった。

だが後年、遊学によって鉄砲に関する知識を学んだ光秀は、織田軍団の一員として二段撃ち、三段撃ちという戦法を編み出し、戦で鉄砲を最大限活用することに成功している。長篠の戦いなどはまさにその顕著な例だと言える。

崩壊寸前だった足利幕府と京の都

京に着くと、光秀はその荒廃した様に驚く。とても都と呼べるような有様ではなく、この惨状は織田信長が上洛するまで続くことになる。上洛を果たすと、信長は惜しみなく京の復興に金銭を費やしていく。そしてそれにより朝廷の信頼を得ていく。だが光秀が若かりし頃の京は、まさに劇中のような惨状に近いものだったと推測されている。

足利幕府も崩壊寸前で、幕府に力がなくなったことにより各国の守護大名たちも力を失い、美濃においては守護大名だった土岐氏がのちの斎藤道三である斎藤利政に追放されている。そして隣国尾張の織田信秀(信長の父)は、守護代を追放した斎藤氏を悪と評し、成敗の名目で幾度となく美濃に攻め込んでいく。

とにかくこの時代の京は、足利家と三好家の対立が激しく、頻繁に町が破壊されてしまうという状況だった。直しても直しても切りがなく、町人にとっては諦めて何とかそこで生きるか、京を捨てるかの二択だった。とても都と呼べるような、現代の京都と結びつくような美しい町並みなど存在せず、まさに廃墟に近い状況だったとされている。

「光秀、西へ」のまとめ

ドラマであるため、今後フィクションだと思われるストーリーも多く絡んでくるのだろうが、初回放送に関して言えば、フィクションだと思われるのは堺で明智光秀、松永久秀、三淵藤英が一堂に出会ったり、望月東庵(もちづきとうあん)医師や菊丸ら架空の人物が登場してきたことくらいではないだろうか。

次回「道三の罠」では織田家と斎藤家が激突したり、海道一の弓取り(東海道一の国持大名という意味)と呼ばれた今川義元の姿も登場してくるようだ。名のある戦国大名が続々登場してくるようなので、来週の放送も心待ちにしたい。

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これはあくまでも筆者個人が立てた明智光秀に関する仮説に過ぎず、実際のところどうだったのかということなど、今となっては誰も知ることはできない。しかし筆者は思うのである。明智光秀は、もしかしたら織田家に仕官した頃から本能寺の変を企てていたのではないだろうかと。

お家騒動が繰り返されていた美濃国

明智光秀という人物は、土岐家の再興に情熱を燃やしていた人物だとされている。ではそもそも光秀の時代、土岐家はどういう状況になっていたのか?簡単に説明をすると、土岐頼芸(よりあき、よりのり、よりよし、よりなり、など読み方多数)の頃、土岐家は家督相続にて内紛状態にあった。最終的には頼芸が家督を継ぐわけだが、しかし凋落しかけていた土岐家はこの内紛によって更に力を失っていた。そこを家臣であった斎藤道三に突かれて美濃を強奪され、頼芸は尾張に追われてしまった。いわゆる下剋上に遭ったというわけだ。

すると今度は土岐家を乗っ取った斎藤家にもお家騒動が勃発し、父道三と子の義龍が戦い、道三は長良川の戦いで戦死してしまう。そしてこの時道三側に与していた明智家は義龍によって明智城を落とされ、光秀は命からがら美濃を脱出するという憂き目に遭ってしまう。だが義龍の子、龍興の代になるとまもなく、斎藤家は織田信長によって滅ぼされてしまった。

仇討ちをしたくてもできる状況ではなかった当時の光秀

土岐家を滅亡に追いやった斎藤家のお家騒動により、光秀は多くの血縁者を失った。しかし仇を討つにももう斎藤家は存在しない。残ったのは道三の娘帰蝶を娶っていた織田信長だけだった。道三は土岐家にとっては憎んでも憎み切れない仇敵だったわけだが、土岐家や親族の仇を討とうにももう斎藤家は存在していない。ちなみに道三は頼芸を美濃から追放するだけではなく、尾張に亡命していた頼芸を織田信秀(信長の父)と結託することにより、今度は尾張からも追放してしまった。これではもう土岐家の怒りも収まろうはずはない。

つまり斎藤家だけではなく、土岐家にとっては織田家も同様に仇敵と呼べる存在だったのだ。だがこの頃の光秀には土岐家や親族の仇討ちをできるような力はまったくなかった。美濃を追われた後は越前朝倉氏に仕官したものの、その後5年は放浪の旅に出ており、妻の実家である妻木家からの経済援助を受けているような状態だった。とてもじゃないが美濃・尾張の二国を有する織田信長を討つことなど不可能だ。

仇敵のもとで力を蓄え続けた明智光秀

その後光秀は足利義昭の臣下として土岐家の仇敵である織田信長に近付いていく。そして信長と義昭が不仲になると、光秀は義昭ではなく、信長の臣下として知行を得るようになった。だがこの頃すでに、光秀の頭の中には土岐家の恨みを晴らすための考えが渦巻いていたのではないだろうか。もちろんこれを証明することは不可能であるわけだが、心理面を想像すると、決してありえない話ではないと思う。

光秀は有力大名となっていた信長から禄を得ながら力を蓄えた。それこそ身を粉にして働き、誰もが反対した比叡山の焼き討ちが行われた際も、光秀は率先して刀を振ったと言われている。その功績により光秀は、比叡山の僧侶が所有していた土地の多くを信長から与えられている。そしてその後も光秀は、信長からひっきりになしに命を受け続け、織田家の誰よりも信長に尽くし、流浪の身から織田家の実質ナンバー2になるほどの大出世を遂げていた。

天下人となる目前だった織田信長を討った光秀

斎藤家が滅んでしまった今、斎藤家に対し仇討ちを仕掛けることはできない。だが斎藤家同様に土岐家の仇敵となっていた織田家は全盛期を迎えていた。本能寺の変が起こる頃の信長は、天下布武の旗印のもと天下統一を目前に控えていた。その織田を討てば土岐家だけではなく、斎藤家によって殺されていった多くの親族たちも浮かばれる、光秀がそう考えていたとしても不思議ではないのではないだろうか。

もしかしたら光秀は信長の臣下になって以来、虎視眈々と仇討ちの機会を狙っていたのかもしれない。そしてそれを可能にするためには、とにかく信長から疑いをかけられるようなことの一切を避けなければならない。だからこそ光秀は、どんな無理難題を信長から突きつけられても平静を装い続けたのではないだろうか。さらには光秀は家臣全員に対し「織田家の宿老や馬廻衆とすれ違う際は脇によって必ず道を譲るように」という触れも出すほど、織田家との関係維持に神経質になっていた。流石の織田家臣団も、ここまで徹底する者は他にはいなかったようだ。

「是非に及ばず」という言葉の裏を読む

そして天正10年(1582年)6月2日、ついにその機会が光秀のもとに巡ってきた。信長は京の本能寺に宿泊し、護衛もほとんど付けていない状態だった。そして光秀の本拠地である坂本城は京の目と鼻の先にある。信長としては、万が一の事態が起こっても明智隊がすぐに救援に駆けつけられるという安心感もあったのだろう。だがこの本能寺が襲われた時に見えたのは桔梗紋だった。

もしかしたら信長は心のどこかで、織田・斎藤両家は土岐家の仇敵であり、それは光秀も当然忘れてはいないであろうことを理解していたのかもしれない。もちろんそんな話が二人の間でなされたことはないだろうが、しかし桔梗紋を見れば光秀が土岐氏源流の家柄にあることは一目でわかることだ。だからこそ信長は本能寺で桔梗紋を目の当たりにした際も、「是非に及ばず」という、まるで光秀のこれまでの異常なまでの忠臣振りがようやく腑に落ちたとでも言うような最期の言葉を残したのかもしれない。

計画性がまったくなかった本能寺の変

本能寺の変はほとんど思いつきのような討ち入りだった。計画性がまったくない討ち入りであり、その証拠に光秀が信長を討った後、光秀の盟友であるはずの細川藤孝、筒井順慶がまったく光秀に味方しようとはしていない。光秀に大きな借りができたはずの長宗我部元親でさえも、光秀の救援に向かう素振りは一切見せてはいない。このような状況証拠からも、光秀は天下が欲しかったのではなく、あくまでも土岐家と親族の仇討ちを果たすべくこの機会を利用したのではないかと筆者には感じられる。

仮に光秀が天下を欲しがったのならば、光秀の緻密な性格からすればもっと下準備をしていたはずだ。例えば長宗我部家と手を組み、さらには細川家と筒井家のどちからでも光秀に与してくれていれば、光秀が秀吉に討たれることもなかったはずだ。単純に長宗我部元親が少しでも牽制姿勢を見せていれば、秀吉は四国に背を向けることなどできなくなり、とても中国大返しを実行できるような状況でもなくなる。だが誰一人、光秀の味方をする大名は現れなかった。さらに言えば光秀がもし天下を狙っているのだとすれば、織田家の宿敵である毛利家とも手を結ぶことができたはずだ。だがこれに関してもそのような交渉が行われた形跡は一切残っていない。

一族の誉れのためにとった光秀の行動が一転逆賊のそれに

こうして考えていくとやはり、光秀の目的は天下ではなく仇討ちだったのではないだろうか、という印象の方が強くなっていく。ちなみに光秀は悪人ではない。斎藤道三や松永久秀のように、平気な顔で闇を歩けるような人柄ではなかった。民からも臣下からも慕われた大名で、その証拠に民が光秀を祀った首塚がいたるところに残されている。仮に慕われていなければ、誰が光秀の魂を各所で祀ろうなどと考えるだろうか。

今回の巻はあくまでも筆者個人の心理的推察に過ぎないわけだが、しかしまったくあり得ない話でもないと思う。だが皮肉なことに一族の誉れのために取った光秀の行動は逆賊のそれだと判断されてしまい、後世の明智一族はまったく別の姓を名乗ったり、明田(あけた)という姓を名乗ることによって、逆賊としての汚名から逃れようとした。だが仮に成功していたとしたら、明智光秀は主家の再興を成し遂げた英雄として語り継がれていたのだろう。