「松姫」と一致するもの

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麒麟がくる第7回目「帰蝶の願い」では、斎藤利政(のちの道三)の娘である帰蝶の織田家への輿入れが決まるまでのことが描かれた。内容としては帰蝶が織田家へ輿入れしていくこと以外のことは、ほぼフィクションとなるのだろう。

戦国の姫に人権はなかった?!

例えば劇中では帰蝶は明智十兵衛光秀に想いを寄せているように描かれている。この設定ももちろんフィクションの域を出ないわけだが、ドラマを盛り上げるためには非常に重要な設定なのだと思う。そして十兵衛に想いを寄せているが故に、帰蝶は十兵衛に「尾張に行くべきではない」と言ってもらいたがっているが、これは戦国の世では実際にはほとんど起こりえないことだと言える。

戦国時代の女性にはほとんど人権はなかった。例えば3月8日は国際女性デーで、世界中で女性の人権やフェミニズムについて語られるわけだが、戦国時代の日本に於いて女性は政略の駒でしかなかった。そして女性に異論を申し立てる権利などなく、主命で輿入れが決まればそれに従う他選択肢はなかった。明智光秀自身後々は、自らの娘たちを臣下に嫁がせることにより、軍団の結束を高めようとしている。もちろん細川ガラシャも同様に。

恋愛結婚がほとんどなかった戦国時代

珍しいケースとして織田信忠と松姫のような純愛も存在していたわけだが、戦国の武家に於いて恋愛結婚が成し遂げられることはほとんど考えられなかったと言える。織田信長にしても最愛の妹であるお市の方を政略結婚によって浅井長政に嫁がせている。

劇中では斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じているが、実際には頭領が決めたことに有無を言うことは許されないため、利政の判断に帰蝶が異論を唱えることは、史実であるならば非常に考えにくい。だがここはドラマであるため、やはり帰蝶が十兵衛に想いを寄せていた、という設定の方が見ていてドラマにのめり込める。ちなみに戦国時代を描いた歴史小説の中には、実際にはありえない恋愛模様が描かれていることも少なくない。例えば同じ美濃の物語で言えば、竹中半兵衛重治とお市の方が実は密かに想いを寄せ合っていた、という設定で描かれた小説もあった。

武家というよりは土豪に近かった道三時代の明智家

さて、もう一点。美濃の国主である斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じるわけだが、史実的にはこの頃の明智家は武家というよりも、土豪に近い存在だった。そのため劇中のように明智光安と十兵衛が頻繁に稲葉山城に赴くことはなかったと思われる。それどころか美濃三人衆(西美濃三人衆)と呼ばれたうちの一人、稲葉一鉄と話す機会さえほとんどなかったのではないだろうか。史実的にこの頃の明智家はそれほど微々たる存在だった。

ちなみに美濃三人衆とは稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の三人のことで、一番力を持っていたのが氏家卜全だったと言われている。そして安藤守就は竹中半兵衛の舅で、稲葉一鉄は「頑固一徹」の言葉の由来になった程の頑固者だったようだ。その頑固さに関しては史実通り描かれていると感じたのは、筆者だけではなかったと思う。

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第一回目では亀之丞が誘拐されるように連れ去られるところで話は終わった。だがこれは誘拐されたのではなく、亀之丞の身を守ろうとした井伊家の者・今村藤七郎と、龍潭寺の和尚の共謀によるものだった。第二話は、その亀之丞をとわが追い見つける場面から始まっていく。

連れ去られた際、亀之丞は大切は笛を落としてしまっていた。この笛は「青葉の笛」と呼ばれており、亀之丞が10年間の隠遁生活ののち、井伊谷に無事戻れるように、そして前途が開けるようにと参拝した寺野八幡社に奉納された笛だ。

青葉の笛を吹く亀之丞の姿を描いた絵画が高森町歴史民俗資料館に残されている。その絵は平成21年に90歳で亡くなった伊藤信次という日展画家による作品となる。ちなみに高森町歴史民俗資料館には青葉の笛の模造品も展示されている。

第一回目ではとわと亀之丞が許嫁になる場面が描かれたが、第二回目ではそれが早くも今川義元により覆され、今度は小野政直の子・鶴松と新たに許嫁になるよう命じられた。だがこれをとわは頑なに拒否する。

史実ではこの頃の井伊家には跡取りとなる男児がおらず、そのため亀之丞が井伊家に婿入りすることになった。だがそれに対し強く反対していたのが小野政直だった。亀之丞の父親である井伊直満(井伊家重臣)を謀反の讒言により謀殺させた張本人だ。小野政直は自らの長子こそが井伊家を継ぐに相応しく、そしてそれにより井伊家を乗っ取ろうと画策していた。つまり亀之丞は、小野政直の魔の手から守るために隠遁させられたのだった。

この時代の恋愛事情は当然現代とはまったく異なる。戦略結婚により婚姻や離縁を繰り返すケースもあるが、それ以上に最初の許嫁との仲を、特に女性側は大切に考えていた。例えば織田信忠と松姫のケースはその好例だ。とわの場合も、鶴松が嫌いで結婚を拒んだわけではなく、あくまでも自分の結婚相手は亀之丞ただ一人という、一途な気持ちあってこそのものだった。

なお第二回目では、今度はとわが身代金目当ての人質にされる場面が描かれているが、これはフィクションであり、史実として残されている話ではない。しかし初回では亀之丞が、第二回目ではとわがこのような目に遭うという展開は、視聴者に程よい緊張感を与えてくれる流石の脚本だったのではないだろうか。

亀之丞に話を戻すと、実際に隠遁させ亀之丞を守り続けたのは今村藤七郎という、謀殺された井伊直満の家老だった。隠遁生活をしている間はとにかく質素な暮らしが続いたわけだが、それでも元旦くらいは少し正月らしくしようと、藤七郎は吸い物を作り亀之丞の心と体を温めた。

今村藤七郎は本能寺の変があった天正10年(1582年)まで生きたのだが、隠遁生活から戻った後は井伊本家の家臣として召し抱えられた。そして以降、元旦に吸い物を作り亀之丞を守り抜いたことを吉例として語られ、元旦の朝の給仕だけは毎年今村家が務めるようになったと言う。
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慶長5年(1600)年9月15日午前に開戦し、あっという間に東軍勝利に終わった関ヶ原の戦い。真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍に味方し、信繁の兄である信之は東軍に味方した。何と親子が敵味方に分かれて戦う形になったのだが、これはどちらが勝っても負けても真田の家が滅ばないようにと、昌幸があえてこのような状況を選んだとも伝えられている。

真田昌幸は過去、幾度となく東軍大将の徳川家康を苦しめてきた。そのため家康は昌幸のことを目の敵にしている。そして昌幸自身も、家康に煮え湯を飲まされた経験があり積年の鬱憤を晴らしたいと考えていた。そのため昌幸に東軍に味方するという選択肢はほとんどなかった。

しかし信之に関しては事情が異なる。信之は家康に対しそれほど負の感情は持っていなかったとされている。そして徳川四天王である本多忠勝の娘、小松姫を正室に迎えているという事情もあり、信之は家康率いる東軍に味方することになった。この時信之は再三東軍に味方するようにと昌幸を説得したようだが、しかし昌幸が首を縦に振ることは最後までなかった。

だが個人的な恨みだけで敵味方を決める真田昌幸ではない。勝機ありと見たからこそ、昌幸は西軍に味方したのである。それは関ヶ原から遡ること10年、天正18年(1590年)の忍城の戦いで石田三成の器量の良さを目の当たりにし、この人物の用意周到さがあれば必ず家康に勝てると踏んだからこそ、昌幸は西軍に味方していたのだ。

そうでなければ表裏比興の者と秀吉に言わしめた真田昌幸が、個人的な恨みだけで家康の的に回るはずがない。より高い確率で真田の家を守れると考えたからこそ、昌幸は西軍に味方したのだ。そして昌幸の働きは見事だった。父家康の恨みを晴らすべく徳川秀忠が4万近い大軍を率いて上田城に攻めてきたのだが、昌幸は関ヶ原の前哨戦となったこの戦いに見事勝利した。

この戦いが第二次上田合戦と呼ばれる物だが、実は信之も義弟本多忠政と共に上田城攻めに従っていた。そして父昌幸に開城するようにと説得を試みたが、この時もやはり昌幸が首を縦に振ることはなかった。

さて、信之の妻が本多忠勝の娘であれば、信繁の妻は大谷吉継の娘だった。大谷吉継とは、石田三成と共に関ヶ原の戦いを仕掛けた人物であり、三成の盟友でもあった名将だ。大谷吉継が義父である限り、信繁としては西軍に味方するしかなかった。また、真田昌幸の正室山手殿は石田三成の妻とは姉妹だった。

信繁はこの時、上田城の支城である砥石城を守っていた。この砥石城攻めを任されたのが兄信之だったわけだが、信繁は兄が攻めて来たと知るとすぐに砥石城を捨て、上田城に入ってしまった。信繁には、兄が疑われていることがわかっていた。今は東軍に付いているものの、信之はいつ裏切って父昌幸の元に走るかわからないと思われていたのだ。その疑いを晴らすためにも信繁はあえて兄と戦うことは避け、信之が真田攻めをやり切り徳川を裏切らなかったと秀忠らに思わせようとしたようだ。

砥石城はこのようにした落ちたものの、上田城は昌幸・信繁父子の抗戦により最後まで落ちることはなく、第二次上田合戦もまた、第一次同様に真田勝利で終わったのだった。だが本戦となった関ヶ原では西軍石田三成が、東軍徳川家康に敗れてしまう。これによって真田昌幸・信繁父子は賊軍として扱われてしまうのだった。

関ヶ原後、家康は昌幸・信繁父子を処刑しようとした。だが信之や本多忠勝の説得により、九度山(高野山)への流罪で決着した。この時真田昌幸は信之に対し「さてもさても口惜しきかな。内府(だいふ・徳川家康)をこそ、このように(九度山流罪)してやろうと思ったのに」と語ったと『真田御武功記』に残されている。これは関ヶ原の戦いが終わってしばらくしたのち、信之がふと口にしたことを書き残したものであるようだ。

九度山での生活は侘しいものだった。流罪から10年ほど経つと昌幸は病気がちになり、67歳でその生涯に幕を下ろしてしまう。だが昌幸の意志は信繁が受け継いだ。昌幸の死から3年後に起こった大坂冬の陣で、信繁は真田丸で善戦し、再び徳川勢を大いに苦しめる戦いを見せるのだった。
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永禄12年(1569年)12月、織田信長の嫡子信忠は11歳、武田信玄の六女松姫は7歳だった。ふたりはこの年齢で婚約した。この時代は15歳を過ぎると結婚することが多かったわけだが、ふたりの場合は通常よりもかなり早い年齢で婚約したことになる。

この頃の織田家と武田家は、信長の養女(本来は信長の姪)龍勝院が武田勝頼の正室となっており、同盟関係が結ばれていた。だがその龍勝院が永禄10年に死去してしまう。そこで両家は同盟を強化しようとし、信忠と松姫を婚約させた。

婚約から3年後の元亀3年(1572年)、武田信玄は三河の徳川家康を三方ヶ原で攻めた。だが徳川家と言えば織田家と強い同盟関係で結ばれている大名だ。つまり武田が徳川を攻めるということは、武田が織田を攻めるのと同等の出来事となる。この戦いで徳川から援軍を求められると、信長は三河に救援部隊を差し向けている。

この三方ヶ原の戦いにより、信忠と松姫の婚約は信玄により解消されてしまった。だが戦国時代の婚約という定義は現代の婚約とはまるで意味合いが異なる。この当時は婚約=結婚というように考えられており、婚約した時点で妻は夫に対し心をすべて捧げるのが一般的だった。もちろん松姫も同様であり、7歳でありながら婚約をすると、松姫は心の全てを信忠に捧げた。

その後松姫には何度か縁談の話があったと言うが、松姫は決して首を縦に振ることはせず、敵対関係にあるにも関わらず信忠に対しての愛を貫き、操を守り続けた。

だが婚約解消から10年後の天正10年(1582年)3月、織田家による、衰退した武田家討伐が行われた。しかもこの時武田攻めの総大将を務めたのは他でもない、織田家の家督を継いでいた信忠だった。つまり松姫は愛する者に攻められる身となってしまったのだ。

武田勝頼は天目山の戦いで自刃に追い込まれ、名門武田家はこれにより滅亡してしまう。だがこの時松姫は、兄である仁科盛信により新府城に逃がされており、勝頼と運命を共にはせず、武田家が滅ぶと武蔵国に逃れている。そこへ信忠からの使者が訪れた。

幼い日の婚約者を想っていたのは松姫だけではなかった。信忠もまた松姫のことを気にかけており、松姫が無事であることを知ると武蔵国まで迎えを送った。そして松姫はその迎えと共に信忠の元へと向かうのだが、松姫の悲劇はまだ終わらない。

武蔵国から岐阜城へと向かう道中の天正10年6月2日夜、本能寺の変により信忠が明智光秀によって討たれてしまった。松姫は婚約解消により一度信忠を失い、さらに本能寺の変により今度は永遠に信忠を亡くしてしまった。信忠が松姫を岐阜城に連れ戻そうとした矢先の出来事であり、松姫の悲しみの深さはとても想像できるものではない。しかも松姫はこの直前、武田家の滅亡という悲劇も味わっているのである。

同年秋、松姫は武蔵国の心源院に入り出家し、信松尼(しんしょうに)という尼名をもらい信忠、そして武田一族の菩提を弔った。信忠は享年26、松姫はまだ22歳という若さだった。

戦国時代の結婚は政略としてしか考えられていない場合も多いが、しかし信忠と松姫のようなケースもある。幼い日に婚約をし、婚約解消後もお互いのことを想い続け、織田と武田が敵対関係となってもその絆が切れることはなかった。

信忠の嫡子三法師は一部資料に於いては信忠正室の子ではなく、松姫の子だと記しているものもあると言う。その信憑性については不確かな面も多いわけだが、しかし信忠と松姫が逢瀬を重ねていたとしても決して不思議ではない。現に信忠の居城岐阜と、松姫が暮らす甲斐は目と鼻の先であり、会おうと思えばいつでも会うことのできる距離だった。

なお天目山の戦いで織田軍から逃げた松姫が通ったとされる山梨県大月市と小菅村の間にある峠は、松姫峠と呼ばれている。そしてこの峠を通るトンネルが2014年に完成し、松姫トンネルと名付けられた。

まだ婚約をしていた幼い日々、実はふたりは一度も会ったことがなかった。それでも幾度も手紙のやり取りをし、お互いへの愛情を深めていた。きっとふたりにとってはお互いが初恋の相手だったのだろう。だがその初恋が成就することは最期までなく、戦国時代きっての悲恋として語り継がれることとなってしまった。