「三好長慶」と一致するもの

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麒麟がくる第6回「三好長慶襲撃計画」は、ほぼ全編フィクションで話が進められたのではないだろうか。劇中の出来事を追っていくと時系列が明確になっていなかったり、年齢設定が正確ではないように感じることが多くなってきた。例えば劇中は天文十六~十七年(1547~1548年)あたりを描いていると思われるが、この頃の第十三代将軍足利義輝はまだ13~14歳程度でしかない。劇中の将軍はさすがに14歳には見えなかったのではないだろうか。

三好長慶の暗殺が企てられた連歌会

さて、今回は細川晴元が画策した連歌会に三好長慶が招待され、そこで長慶が暗殺されそうになるという場面が描かれていたが、この出来事もフィクションではないだろうか。確かに細川晴元と三好長慶という主従の間にはいざこざが生じていた。だがこのような連歌会で暗殺が企てられたという事実は筆者はまだ読んだことがない。確かに戦国時代にはよくある話のようにも見えるため、「絶対にそんな事実なかった」とは言い切れないが、しかしあくまでもこれはフィクションの枠の中に納まっていくは思う。

足利義輝は天文十六年(1548年)7月19日に細川晴元によって京を追われ近江国坂本に父義晴と共に落ちている。その10日後両者は和睦し、義輝も京に戻ってはいるのだが、劇中に描かれたのはこの直後の出来事ということになるのだろう。この時の義輝は確かに細川晴元に対し良い心象は持っていなかったはずだ。そのため三好長慶・松永久秀という細川晴元にとっての天敵(実際には晴元の家臣)に手を差し伸べたことにも理解は示せる。だが義輝の立場は常に不安定だったと言える。

劇中この時代の足利義輝はまだ子供だった

細川晴元は細川家嫡流の名門中の名門だった。同じ苗字の細川藤孝(細川護熙元総理はこちらの血筋)とは異なる細川家であり、細川晴元の細川家は、まさに将軍直属の重臣(室町幕府の官領職)だった。立場的には足利義輝の下に細川晴元、その下に三好長慶(晴元の家臣)、三淵藤英(幕府奉公衆)、細川藤孝(幕府警護役)という形になる。だがこの頃の力関係は細川晴元の臣下である三好長慶が勢力を増してきており、細川晴元にとっては頭痛の種になっていた。それ故の暗殺未遂という描かれ方だったのだろう。

この頃の足利義輝はまだ若年だったこともあり、書状にされそれほどの効力はなかった。そのため大御所として義輝を支えようとした父第十二代将軍義晴や、母慶寿院の署名で書かれることも多かったという。つまりこの頃の義輝はまだそれほど幼かったはずであり、明智光秀が三淵藤英を説得しようとする熱弁を耳にし、それに心を打たれ威風堂々「あの者(光秀)の後を追え」と即興の判断などできる年齢には至ってはいなかった。しかし劇中では能をも楽しむ姿が描かれていた。ちなみに足利義輝となるのは天文二十三年(1554年)であり、それまでは足利義藤という名前だった。

筆者が今一番気になるのは遊女タケの存在

この暗殺を止めようとする光秀だが、もちろん明智光秀が三好長慶と松永久秀を救ったという史実は存在しない。いや、もしかしたらあったかもしれないが、少なくともそれを示す資料は残されてはいない。また、実際には明智光秀と細川藤孝が出会うのは、光秀が美濃を追われ越前に逃れたあとだと思われる。

さて、筆者はタケという人物が今非常に気になっている。劇中のタケは恐らくは伊平次と一緒にいる遊女だと思われるが、実は史実の光秀は越前の竹という人物に世話になったとされている(光秀は竹を助けた服部七兵衛尉に感謝の書状を認めている)。このタケがその竹なのかはわからないが、しかし史実と名前が被っているだけに筆者は個人的には非常に気になっている。もしかしたらこの遊女は越前の人間であり、光秀が越前に逃れた後、もしかしたら劇中で重要な役どころになってくるのかもしれない。いやしかし、ただ偶然名前が被っただけかもしれない。これもまたドラマを見続ければ見えてくるのだろう。

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NHK大河ドラマ『真田丸』でも頻繁に登場している豊臣秀次は、幼い頃より死ぬまで叔父秀吉に翻弄される人生を送り続けた。こうまでも自分の好きなように生きられなかった戦国武将も珍しいのではないだろうか。武芸や習い事にも真面目で非常に有能な武将だったのだが、最後は殺生関白と呼ばれるようになってしまい、その有能さを活かすことをできずに28歳という若さで秀吉に切腹を命じられてしまった。


豊臣秀次という人物は永禄11年(1568年)に三好吉房と秀吉の姉である智(とも)との間に生まれた。生年は詳細に記録されていないようだが、後年に残された書状などから逆算をすると、永禄11年生まれが最も有力であるようだ。

ちなみに父親である三好吉房という人物は何度も改姓をしており、最初は木下弥助、その後長尾を名乗り、三好吉房、三好昌之と名を変え、秀次が秀吉の養子となった後は羽柴を名乗っている。

豊臣秀次は28年の生涯で三度も養子に出されている。最初は宮部家だった。宮部とは、浅井長政の臣下であった宮部継潤のことだ。姉川の戦いに至る前、羽柴秀吉は浅井家臣下の調略に当たっていた。その調略をスムーズに進めるための駒として、秀吉は甥である秀次を宮部継潤の猶子(相続権を持たない養子)とした。

姉川の戦いは元亀元年(1570年)であるため、秀次はまだ2歳ということになる。ちなみに秀次の幼名などは記録に残されておらず、最初に名前が出てくるのは次に養子に出された先での名前、三好孫七郎信吉としてとなる。

宮部継潤と秀次の養子関係は、遅くとも天正9年(1581年)、秀次が13歳の頃には解消されていたようだ。その理由は宮部継潤が秀吉に厚遇されており、養子関係を結ばずとも両者の関係が良好であったためだ。

その後、四国の長曾我部元親と織田信長との関係が悪化してくると、秀吉は四国攻めのための調略に当たるようになる。その時にしっかりと味方に引き入れておきたかった存在が三好康長だった。三好康長とは三好長慶の叔父に当たる人物で、阿波国の有力者だった。長曾我部を攻めるにあたり、阿波国の三好康長をしっかりと懐柔しておきたかったのである。

その調略の道具として、再び秀次は利用された。秀次がまだ13〜14歳の頃になるわけだが、今度は三好家に養子に出され、三好孫七郎信吉と名乗るようになった。一説では天正7年(1579年)の段階で三好家の養子になっていたともされているが、この頃の三好康長はすでに信長に降っており、織田家と長曾我部家の対立もなかったため、秀次を三好家の養子に出す理由がない。そのため近年の史家の研究では、実際に養子となったのは織田家と長曾我部家の対立が鮮明になった天正9年秋頃という見方が有力とされている。

だが両家の対立も、本能寺の変によって回避されることになり、秀次が三好を名乗った期間も短く終わった。そして天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いの後、16歳になると羽柴孫七郎信吉と名乗り、その直後に羽柴孫七郎秀次と名乗るようになっている。こうしてようやく秀次は羽柴一門に戻ってきたのである。

16歳までの秀次はこのように、秀吉の都合によって他家へ養子に出される日々を過ごしていた。こうして見ていくと秀吉は秀次に対しそれほど愛情は持っていなかったのだろう。確かに戦国の世では養子に出されることは珍しいことではないが、しかし28年の生涯で三度も養子になることは珍しい。三度目はもちろん実子を幼くして亡くした秀吉の養子としてだ。

秀吉が甥っ子に対してそれほど愛情を持っていなかったからこそ、戦略上の都合で簡単に養子に出しては戻すということを繰り返したのだろう。そしてだからこそ秀吉は、豊臣秀次に対しあれほど惨い最期を遂げさせた。文禄4年(1595年)7月15日に秀次を自害させると、8月2日には京の三条河原で秀次の妻子を全員処刑してしまった。

この秀次の死が、豊臣家を秀吉一代で衰退させてしまった最大の要因だとされている。もし秀次を自害させていなければ秀吉死後、幼い秀頼が家督を継ぐこともなく、立派な武将に成長していた秀次が豊臣家を継ぐことにより、徳川家康に政権を奪われる隙も与えずに済んだと考えられている。