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明智光秀は長曾我部家を救うために本能寺の変を起こした、という説もあるが、これは違うと思う。本能寺の変の少し前まで明智光秀は、織田家と長曾我部家の取次役を務めていた。この任を与えられた理由は、光秀の重臣である斎藤利三の兄、石谷頼辰(いしがいよりとき)の義理の妹が、長曾我部元親の正室だったためだ。

明智光秀の顔に泥を塗った長曾我部元親

織田家と長曾我部家の両家は友好的だった時期もあったのだが、それが次第に険悪になっていく。信長としては潰そうと思えば潰せてしまう程度の長曾我部家にできるだけ良くしてきたという意識があったようだが、しかし両家の間でなかなか思うように事が進まないことに苛立ち始めていた。その最中、本能寺の変の前年となる天正9年(1581年)8月、長曾我部元親が、織田家との共通の敵であったはずの毛利家と同盟を結ぶという大事件が起こってしまった。

信長は当然これに激怒したはずだ。信長は、元親の嫡男である信親の名に自らの名の一部を与えているほど長曾我部家を買っていた。つまり元親の毛利家への急接近は、信長に対する裏切り行為に他ならない。この行為は取次役を務めていた光秀の顔に泥を塗るも同然の行為だったと言える。ここまで侮辱されてなお、斎藤利三の縁者という理由だけで光秀が長曾我部家のために本能寺の変を起こしたとは考えにくい。

光秀に合流する姿勢を一切見せなかった元親

さて、本能寺の変が起こる時期、織田家と長曾我部家の間には辻褄が合わない出来事が起こっている。本能寺の変の当日、信長の三男である神戸信孝と丹羽長秀隊が長曾我部家討伐のために出陣している。だがそこから遡ること10日、長曾我部元親は信長に対し、一定の条件を提示しながらも、信長が提示した国分案に同意する書状を認めているのだ。元親は信長に対し恭順の意を示していたにも関わらず、信長は四国に派兵しようとしていた。恐らくは、このような事実を踏まえて、光秀が長曾我部家を救おうとしたという説が出されたのではないだろうか。

だが自らの家を守るためならともかく、自分の顔に泥を塗った長曾我部家を救うために、果たして光秀が主君を討つなどありうることだろうか。筆者個人としてはないと思う。更に言うならば本能寺の変後、長宗我部家は明智光秀に合流する姿勢を一切見せていない。仮に光秀が長曾我部家を守るために本能寺の変を起こしたのであれば、それを元親が知らないはずはないし、もしそれを把握していたのであれば、元親は中国大返しをして見せた羽柴秀吉の背後を突いていたはずだ。だが元親は一切そのような素振りは見せていない。

本能寺の変がなければ滅んでいた長曾我部家

仮に本能寺の変が起こっていなければ、長曾我部家は神戸信孝・丹羽長秀隊によってあっという間に殲滅させられていただろう。織田家と長曾我部家にはそれだけの力の差があった。だが結果的には本能寺の変が起こったことにより、元親は命拾いしたのだった。ちなみに本能寺の変が起こる前の時期に、光秀と元親が交わした密書などは一切残されていない。明智家・長曾我部家の両家共に残っていないのだから、ふたりの間に書状のやり取りはなかったのだろう。となるとやはり、光秀が長曾我部家を救うために本能寺の変を起こした、という説には無理が生じてくる。

明智光秀という人物は、自らの源流である土岐家の再興にこだわりを見せていたことで知られる。いつかは土岐家を再興させたい、それが光秀の最たる望みだったようだ。その望みがあるにも関わらず、他家のために自らの家を滅ぼすようなことは決してしないはずだ。するとすればやはり、自らの家を守るためではないだろうか。そう思うからこそ筆者は、光秀は長曾我部家を守るために本能寺の変を起こしたのではないと感じているのである。

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明智光秀という人物にはまだ多くの謎が残されている。その最大の謎はもちろん、なぜ本能寺で主君信長を討たなければならなかったのか、ということだが、それに次いで出自にもまだ多くの謎が残されている。近年専門家の研究によって随分多くのことが判明してきているわけだが、それでも光秀の出自には明確にならない部分もまだ多い。

明智姓を隠そうとした光秀の親族

ではなぜ明智光秀の出自には不明瞭な点が多いのか。その理由は主君信長を討ってしまったことにより、永きに渡り逆賊として扱われてきたからだ。光秀の出自を追う資料としては、土岐家の家系図と明智家の家系図が存在している。しかしこの2つの家系図には相違点が散見していて、どちらも光秀の出自を正確に伝えるための資料にはなり切れていない。

その理由は本能寺の変後、光秀の親族が明智の名を隠そうとしたことにある。もし明智光秀同様に逆賊として扱われることになれば、とてもじゃないが普通の暮らしは送れなくなってしまう。そうならないために本能寺の変後、江戸時代も含め、明智姓を捨てた明智一族が多かったようだ。そのために家系図が正確でなくなってしまった、という事情があるらしい。

高木家の居城で誕生した明智光秀

光秀が生まれた頃の明智家は、小さな土豪に過ぎなかった。大きな力も持っておらず、吹けば飛んでしまうような小さな家柄だった。そんな明智家に光秀が誕生したのは享禄元年(1528年)で、生まれたのは美濃の多羅城だった。しかし多羅城は高木氏の所領だったため、生まれは多羅城だが、育ったのは別の場所であるらしい。

明確な資料が残されているわけではないのだが、専門家たちの懸命な研究によれば、どうやら生まれた後は妻木氏の所領で育った可能性が高いようだ。妻木氏とは妻木範煕のことで、当時は明智家よりも大きな力を持っていた。恐らくは妻木範煕の庇護を受けながら光秀は育ち、のちに妻木範煕の娘、煕子を娶ったのだと考えられている。

国主からも嘱望された若き日の明智光秀

若き日の明智光秀を見た美濃の国主斎藤道三は、「彦太郎(光秀)は万人の将になる人相がある」と言ったとされている。光秀は十代の頃よりすでに文武に磨きがかけられていて、国主からも将来を嘱望された若武者だったと伝えられている。だがその道三が息子義龍に討たれてしまうと、状況は一変していく。

当時の住まいだった明智城は義龍軍に落とされ、光秀は一族を連れて脱出するのが精一杯だった。そしてこの後から明智光秀の放浪生活が始まっていく。明智城を落とされたのは弘治2年(1556年)、光秀が29歳の時で、その後越前の朝倉家に500貫で仕官したわけだが、30歳になると光秀は諸国放浪へと旅立ち、越前に戻って来たのはその5年後だった。

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本能寺の変が起こった原因を、織田信長からキツく当たられた明智光秀の怨恨だと解説している本もある。しかし現実はそうではなかったようだ。織田信長は、明智光秀ほど信頼していた人物はおらず、逆に羽柴秀吉のことはそれほど信用していなかったようだ。

有名な逸話として、本能寺で徳川家康を歓待するためのもてなし役を任されていた明智光秀が、信長が気に入らない準備をしてしまったために役を解任され、さらには人前で足蹴にされたというものがある。しかしこれも噂に尾ひれが付いたものであるようだ。詳しくは明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』に証拠の紹介と共に記されているのだが、決してもてなし方が拙かったから解任されたわけではなかった。

羽柴秀吉はこの頃中国の毛利攻めを担当していたのだが、秀吉は信長の顔を立てるためなのか、本来は必要のない援軍を信長に求めていた。だが秀吉をそれほど信用してはいない信長は、光秀を毛利攻めの陣中に送ることにした。これが解任の本当の理由だ。だがこれは通説のように光秀が秀吉の傘下に付くというものではなく、戦況を見極めるための軍師役として信長が指示したものだった。

秀吉の傘下に入ることを嫌った光秀が、信長のその指示に憤怒して本能寺を攻めたという説もあるが、つまりはこれも誤りということになる。毛利攻めへの軍師役に関しても、実は光秀を本能寺から切り離すための演技だった。信長としては、光秀を本当に毛利攻めに参加させるつもりではなく、光秀もそれは最初からわかっていた。

そして光秀が信長に足蹴にされたという逸話だが、これは光秀が本能寺の変を起こしてまで再興させたかった土岐家と縁のある、長曾我部討伐を思い留まるように光秀が信長にしつこく懇願してのことだったと明智憲三郎氏は歴史捜査によって導き出している。

決して光秀が人前で足蹴にされたり、鉄扇で叩かれたという事実はなく、信長が光秀を足蹴にしたのは密室でのことだったようだ。ではなぜ密室で起こったことが他者の耳に入ったかと言えば、信長の小姓を務めていた彌介(黒人)がそれをそばで目撃し、南蛮寺でのちに話したことが尾ひれを付けて広まったらしい。

信長が光秀を辱しめ光秀の恨みを買った、秀吉は信長に大層気に入られていた、という通説は、どうやらのちに秀吉が演出した作り話であるようだ。特に信長と光秀の不仲に関しては、秀吉が自らの天下取りの宣伝用に書かせた『惟任退治記』によって強調されたものだった。

だが信長は光秀を誰よりも信用し、秀吉のことはそれほど信用してはいなかった、というのが真実であったようだ。だからこそ信長は家康の暗殺を秀吉ではなく、光秀に命じたわけだが、しかし長曾我部討伐が影響し、信長は光秀に裏切られてしまった。そしてどうやら秀吉は本能寺の変が起こるであろうことを前々から知っていたようなのだ。そしてそれを契機に主権を奪い取ろうと企てていた節が秀吉にはある。

史家の最新の研究を拝読していくと、我々歴史好きが誤認している通説が非常に多いということがよくわかる。10年前は常識だった通説も、今ではその事情がすっかり変わってきてしまっているのである。それを踏まえると、書籍によって歴史の真実を見極める我々の目ももっと鍛えていかなければならないのかもしれない。
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天正10年(1582)年6月2日、本能寺の変はなぜ起こってしまったのか?!誰が黒幕だったかということでも様々な論争が行われているが、黒幕がいたようには感じられない。本能寺の変について書いた他の巻でも書いたことではあるが、これは織田信長の将来構想に対する家臣たちの不安の産物だったと考えられる。


筆者はこれまで多数の本能寺の変に関する書物を拝読してきた。その中でも多くのことを証拠を用いてスッキリさせてくれたのが明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実 』という一冊だった。この中で筆者が最も衝撃的だったのが、信長が手勢僅か100人程度で本能寺に滞在していた理由だった。

さて、信長と家康と言えば兄弟同然の間柄として有名だ。信長は家康のことを弟のように可愛がり、家康も信長のことを兄のように慕っていた。これが通説であるわけだが、事実そうだったと思う。本心はさておき、信長と家康の仲を悪く書いた当時の書物はないようだ。

信長が本能寺に滞在していた通説は、本能寺で家康を接待するためだったと言われている。だが明智憲三郎氏の歴史調査によると、事実はそうではなかったようだ。確かに家康を接待するために信長はわざわざ本能寺に家康を呼び寄せた。しかし事実は決して接待するためではなかったと言う。

この時、明智光秀は手勢を控えて本能寺の近くに控えていた。通説のうちにはノイローゼ気味だった光秀が、突発的に本能寺を襲撃したと書かれたものもあるが、これらの考察はすべて推察でしかなく、何の根拠も示されてはいない。だが明智憲三郎氏の著書は違う。証拠をいくつも並べ立てた上で、信長が家康を本能寺に呼び寄せたのは、家康を暗殺するためだと証明して見せている。他の本能寺の関連本とは異なり、証拠が示されているだけにとにかく説得力があるのだ。

信長は、家康に警戒されないように100人程度の手勢だけで本能寺に滞在していた。つまり油断していたわけではなく、家康を警戒させないための芝居だったと言うわけだ。だが信長の誤算は、光秀を信じ過ぎたことだった。これは金ヶ崎撤退戦と同様だ。金ヶ崎撤退戦でも信長は義弟浅井長政を信じ過ぎ、危うく命を落とすところだった。

一度目は何とか命拾いした。だが二度目は浅井長政よりも遥かに智謀に優れ、経験豊富な明智光秀が相手だった。光秀は影で家康と密約を結んでいたと言う。光秀は、本能寺に入った家康一行を暗殺するために本能寺近くで待機していた。だが光秀は家康と手を結ぶことにより、これを家康暗殺ではなく、信長暗殺に計画を仕立て直してしまったのだ。詳しくはぜひ明智憲三郎氏の著書を読んでもらえたらと思う。

つまり本能寺で本来討たれる相手は徳川家康だったのだ。信長は家康のことを高く買っていた。それだけに自身亡き後、家康が子孫たちの脅威になると考えたようだ。その後家康が豊臣家から天下を奪い取ってしまうように。それを未然に防ぐため、信長は早いうちに家康を屠ってしまおうと考えたらしい。

話をまとめるとこうだ。信長は、家康を暗殺するために本能寺に呼び寄せ、光秀に暗殺を命じていた。だが光秀は家康と手を結んでしまい、家康ではなく主君信長を討ち果たしてしまったというわけだ。

戦国時代に武将たちが最も重視していたのは、いかにして家を守るかということだった。家を守るためなら身内であっても討ち果たすことなど日常茶飯事だった。信長が家康の暗殺を企てたのも織田家を守るためなら、光秀が信長を討ったのも明智家(土岐家)を守るためだった。そして家康が光秀の企てに力を貸したのもやはり、徳川家を守るためには光秀と手を結んだ方が上策だと考えたからだった。

明智憲三郎氏の著書を拝読しながら改めて本能寺の変を考えていくと、これは決して偶発的に起こったクーデターなどではなく、起こるべくして起こった出来事だったということがよくわかるのである。
oda.gif本能寺の変が起こる少し以前、一説では2〜3年前とも言われているが、織田家臣団の心は信長から少しずつ離れていこうとしていた。怒涛の1570年代は指揮官としての信長に誰もが付いて行こうとしていたが、信長があることを口にし出すと、家臣団の心配はどんどん膨らんでいったようだ。

そのあることとは「唐入り(からいり)」だ。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが記した『1582年日本年報追加』と『日本史』に「日本六十六ヵ国を平定した暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、その領土を子息や家臣たちに分け与える」と信長が明言したと書かれている。つまり秀吉が実行に移した唐入りは、実は信長が考えていたことだったというわけだ。

だが家臣団にとって唐入りは不安要素でしかなかった。例え広大な領地を与えられたとしても言葉が通じず、食べ物などの文化もまるでわからない地に移封されれば、それは異国に死にに行くのと同然だった。戦国時代には現代では普通に使われているインターナショナルという言葉など存在していない。そもそも外国がどれくらい存在しているのかも当時の日本人はまるで知らなかったのだ。

『孫子』などを読んでいたため、唐(明)のことはよく知っていた。その当時も唐から渡って来た文化の数多くが日本に根付いていたし、中国や朝鮮から渡って来た茶器も多かったという。そういう意味で唐は親しみのある外国ではあったが、それでも言葉が通じないということは誰しもが知っていることだった。

唐入りに参加したとしても、唐に移封されることだけは避けたい、それが家臣団の正直なところだった。そして『本能寺の変 431年目の真実 』を書いた明智憲三郎氏は、これこそが明智光秀が本能寺の変を起こした真の動機だったと言い切る。

政権が長期に渡る場合、将来的には移封されることが一つの前提として考えられていた。例えば本能寺の変を起こす直前、明智光秀は丹波に地盤を築き上げていた。そして明智家をこの地にて磐石なものとしていき、いつかは土岐氏の再興を、と考えていた。だが信長からすれば謀反を防ぐためにも家臣に力を与え過ぎるわけにはいかない。そのため地盤を固める前に移封させ、また地盤を新たに固め直させることを繰り返させ、家臣が必要以上の力を蓄えられない状況を作らなければならなかった。

家臣からすればそれも日本国内なら何とかなる。だが異国となれば話は別だ。言葉が通じなければ善政も何もなく、年貢を納めさせることもままならなくなる。そんな地に行っても家を繁栄させられるどころか、逆に潰してしまう危険性の方が高かった。だからこそ織田家臣団は信長の唐入りに戦々恐々としていたのだ。

そしてその唐入りを阻止しようと実際に行動を起こした人物がいた。明智光秀だ。光秀は信長の腹心だけあり、信長がこのまま日本を平定してしまえば唐入りが避けられない状況になることをよく理解していた。そうなれば織田家で最も力を持っている家臣のひとりである光秀には、真っ先に移封を命じられる危険性があった。

つまり本能寺の変とは唐への移封を阻止し、家を守るため、そして力を蓄えいつかは土岐氏の再興を実現させるため、明智家にとっては必要なことだったのだ。少なくとも明智家を守るためにはそれが最善であると光秀は考えその機会を窺っていたわけだが、そんな折に信長自身が本能寺でほとんど護衛も付けずに滞在するという隙を与えてくれた。

信長は唐入りを目指したことにより光秀に討たれ、実際に唐入りした秀吉は政権を家康に奪われてしまった。そう考えると下手な欲は出さず、とにかく日本という国を平和にすることのみ考えていれば、信長も秀吉ももしかしたら家を滅ぼすことはなかったのかもしれない。